「空...青い...。行きたくないなぁ...」
職場に向かう道中、横断歩道で信号待ちをしながら、今年25歳を迎える立花葵(たちばな あおい)は、ぽそっと呟いた。本当に小さな、蚊のなくような声で。
同じく信号待ちで隣に並んでいた、ピカピカのランドセルを背負う女の子が、ピクッと肩を震わせ、自分の目線よりも上にある葵の顔をのぞき込む。少し首を傾げて。
可愛らしい視線に気づき、顔をそちらに向けた彼女だが、少女の無言の問いには知らぬフリをして、ただ困ったように微笑んだ。
何でもないのよ、とでも言う風に。
その瞬間、柔らかな風が吹き、咲いたばかりの薄紅色の桜の花びらが数枚、ふわふわと舞い上がる。二人のまわりをダンスするみたいに、飛んで踊った。
そのうちの一枚が、葵の手のひらにゆっくりと落ちてくる。
葵は、思わず両手を合わせ受け止める。
自分の手の上で腰を落ち着けた花びらが、なんだか可愛くて、さっきまでの憂鬱な気分が少しだけ上向いた。
そう、ちょっとだけ。ちょっと顔を出したら、それでいいんだから。きっと大丈夫よね。
心の中で、そんな風に自分を励ますと、いつの間にか青に変わっていた信号を隣に並んでいた少女が小走りに渡っていくのが視界に入る。
友達と合流したらしい彼女の嬉しそうな横顔を見ながら、葵も急いで信号を渡った。
いいな...。あんなに楽しそうにお喋りできて。きっと彼女は、素敵な子なのね。友達に好かれる人柄に、容姿に。それに...声も。
遠くなっていく真新しい二つのランドセルを見つめて、小さく息を吐く。
そして、間違っても気を抜いて声が漏れないよう、葵はきつく唇を噛んだ。
自分の、人を不快にさせるらしい声を、誰にも聞かせないためにーーー。
***
「おはようございまーす!」
「おはよー。昨日の案件、どうなった?」
「おー!お前、昨日どうだった?」
「うぇー、だりぃ。俺、今日寝不足なんだけど...はぁ、やる気でねー」
様々な声が、飛び交う。
先ほどの横断歩道を渡り、ずっとまっすぐ。数分歩いた先に、大きなビルがあった。
数十階建ての、名だたる企業が軒を連ねるそのビルのワンフロアが、葵の勤める会社だ。
朝からパリッとスーツを着こなした人たちが、颯爽とビルのドアをくぐっていく。
葵は少し離れたところで、ゆっくり息を整え、心の中で気合いを入れてから、両拳を握る。
ベージュの低めのヒールを、遠慮がちにコツコツ鳴らして、ビルのエントランスを通る。
地味な色合いのパンツスーツ、肩下まで伸びた少しくせのある黒髪を紺色のシュシュで一つに纏め、今どき誰も選びたがらない黒縁の古いデザインのメガネをかけて、俯きがちに歩く。
誰もが暗めの印象を抱くその見た目で、なるべく人の視界に入らないために、出来うる限りの早歩きで自身の職場に向かう。
始業まで、まだ1時間近く残されていたが、葵は席に着くと素早く準備を整え、昨日残していた仕事を始めた。
葵は、仕事が好きだ。人と関わるのは、昔のある出来事から苦手だが、仕事自体は好きだった。
数字や文字を打ち込み、計算したり資料を作ったり。これまた、人によっては敬遠するような地味な仕事だったが、一人で頭で考えながら仕事をこなしていく時間はホッとする。
黙々とパソコンに向かって、作業していると、ある声が耳に入ってきた。
「お!小坂ー!お前、また会社に泊まったの?」
今、出勤してきたのであろう先輩が、オフィスの奥のソファから背伸びしながら立ち上がった男に向かって声をかける。
「...うーす、井上。ふぁ〜。...仕事終わんなくて。というか、なんか降りてきそうでさ。こう、いいもんが」
ボリボリと眠そうに頭を掻いて、あくびをするその男は、小坂蒼斗(こさか あおと)。
葵の5つ上の先輩で、声をかけた井上先輩の同期にあたるらしく、仲がいい。
よくお互いの仕事の話をしたり、関係のない話で笑い合ったりしている。
二人は、葵とは違う部署だ。
葵の会社は、いくつかの部署に分かれている。ワンフロアだが十分広いので、部署ごとにデスクをまとめて、区切られている。
壁で仕切っているわけではないので、近い部署だと、会話が聞こえたり、様子が見えたりする。
葵の所属する部署は、主に事務作業を担当しているが、蒼斗のいる部署は、商品開発を担当している。
特に、蒼斗は入社した時から他の社員とは異質で、次々と人気商品を開発しているらしいが、正直詳しくは葵にはわからない。
直接誰かと話して情報を得たわけではなく、普段業務中に見える彼らの部署での様子や、聞く気がなくても耳に入る女子社員たちがヒソヒソ噂する声からの情報だからだ。
蒼斗は、独身で、見た目もかっこいい。
あらゆることに疎く、地味に生きている葵でさえも、ハッとする容姿をしている。
身長は、おそらく180センチ近くあり、ほどよく筋肉もついた男性的な体つき。
短く切り揃えられた清潔感のある黒髪に、少し日焼けした綺麗な肌、キリッとした落ち着いた目、筋の通った鼻、形のいい唇。
ハッキリ言って、モテる顔をしている、と思う。
何やら、頭の中が蒼斗のことでいっぱいになり、手が止まっていたことに気づき、葵は小さくかぶりを振った。
何してるのかしら。集中しなきゃ...。
カタカタと、再びパソコンと向かい合う。
と、まもなく。
カサッ。
紙が擦れる音と共に、葵のシンプルにまとまったデスクに可愛いピンクの紙に包まれた小さなお菓子が置かれる。
それを見て、葵はさっき自分の気分を少し上げてくれた可愛らしい桜の花びらを思い浮かべた。
可愛い...。キャンディ?...チョコレートかな?
癒される丸いフォルムを、思わずぼーっと眺めているとーーー。
「おはよう、立花さん。今日も早くから、偉いね。これ、美味しいんだ。甘いの好きだよね?良かったら食べてみて」
「...........」
.........タチバナサン...って私...よね...。
今、すぐ近くでした声が、そう呼んだ気がして作業に戻ったばかりの葵は、再び仕事を中断した。
キョロキョロまわりを見回して、すぐに気づいた。
たった50センチ。自分から50センチ離れた場所に、その人は立っていた。
爽やかに、笑って。
優しく目を細めて。
おそらく、普通の女子社員なら、頬を染めて、可愛く照れるか、あたふたするか。
きっと女子らしい反応を見せるであろう、その王子様然とした顔を見て、地味め女子の葵は固まった。歳だけでいえば、まだ若い女の子であるはずなのに、なるべく人と関わりたくない葵には普通の可愛い反応など、見せられるはずもない。
しばらく固まって...そして、今自分に挨拶してくれたその男、先ほどまで頭いっぱいに考えていた小坂蒼斗に、小さく頭を下げた。
声も出さずに。ただ、ペコリと。
挨拶...というには、少々感じの悪い挨拶を、気を悪くした様子も見せずに、蒼斗はニコニコと受け止めた。
優しく。まるで特別な女の子に向ける雰囲気をまとって。
何度も言うが、葵は仕事が好きだ。
大学を卒業して、新卒でこの会社に入って、はや三年。
仕事を覚えてからは、毎日ただ黙々とパソコンと向き合ってきた。
上司や先輩、後輩、同期の人たちとやりとりする時も、声を出さず、ただ頷いたり首を振ったり、頭を下げたり、そっと説明のメモを添えて作り終えた資料を相手のデスクに置いたり。
そんな方法で、何とか仕事に支障をきたすことなく、黙々と作業してきた。
業務中に、他のことに気をとられることなどほぼ皆無。というかそんなこと、あり得なかった。
だから、さっきだって、作業を無意識に中断しているほど頭の中が誰かでいっぱいになっていることなど初めてで、最近の葵はなんだか調子が出ない。
葵なりに原因を探って、行きついたのは、まさにこれだ。
他部署で、話したことも全くないはずの葵に、最近何故か、蒼斗が構ってくるようになった。
突然。本当に。何の前触れもなく、だ。
構われるようになって、どれほど経っただろうか。
おそらく一ヶ月ほど経つかもしれない。
一ヶ月ほど前、いつも通り出勤し、いつも通り早めに仕事に就いた葵のデスクに、コツコツと革靴のなるいい音が近づいてきた。
普段、仕事以外で人が関わってくることがないので、何か仕事かと顔を上げると、顔を知っている程度の、名前もよくわからない男性に「おはよう」と挨拶された。
それが、蒼斗と初めて会話した。いや、一方的に話しかけられた、記憶である。
それから毎日のように、蒼斗は話しかけてくる。
どこから得た情報なのか、葵が甘いものが好きだと知られてからは、まぁまぁの頻度で、色々なお菓子を持って。
その度に、頭を下げて、挨拶もお礼も合わせてしているが、本当はお菓子も挨拶も遠慮したい。
だって、今この瞬間も、他の人からの視線が痛いのだ。
特に。蒼斗を狙う若い女子社員たちの視線が。
なんであんな子に構うのか、と如実に物語るその視線に、地味に...ただひたすら人の目を避けて地味に生活したい葵は耐えられない。
今日も何だか胃が痛い。
これも、ここ一ヶ月の変化だ。
蒼斗が、話しかけてくると、決まって胃のあたりが痛む。
キリキリするわけでも、吐き気を催すわけでもないが、何となく胸が苦しいのだ。
息をするのもままならないような、今まで感じたことのない感覚で、葵はこれを胃痛だと結論づけた。
だって、そうだろう。
今まで、人の目をうまく避けられていたはずで。安定した会社に入って、仕事も覚えた。声を出さずに、他の社員とやりとりして仕事をこなす術も身につけて。
他人から見たらつまらない人生かもしれないが、葵なりに満足いく人生を歩んでいたのだ。
それなのに、突然本人の意思とは関係なく、他の人の視線が集中するできごとがここ毎日繰り返されているのだ。
そりゃ、胃も痛くなるってものだ。
葵は、心の中で自分を慰めた。
「...今日、立花さんも来るの?」
思考が一段落したところで、タイミングよく蒼斗がまた話しかけてきた。
葵は、一瞬何のことかわからず、蒼斗を見上げ首を傾げる。
じっと、蒼斗の目を見つめ考えていると、蒼斗が補足してくれた。
「...あ〜、その...歓迎会なんだけど」
なるほど、そのことか。
自分の気分を下げていた元凶。
そう、歓迎会だ。今日の終業後に、会社近くのお店で新入社員たちの歓迎会が開かれる。
桜のこの時期の恒例行事。
数年前は、歓迎される側として参加したその行事に、また今年も歓迎する側として参加する。
比較的ホワイトな社風で、働きやすいこの会社だが、歓迎会だけは、なるべく全社員参加するよう働きかけられる。
新しく入った社員たちと、円滑にコミュニケーションを図り、仕事をうまくこなしていけるように、という配慮なのだろうが、葵はこれが本当に憂鬱で仕方がなかった。
人と関わるのも、声を出すのも苦手な葵は、ただひたすらにご飯を食べ、お酒を飲んで、終わる。仕事中はひとりでも気にならないが、そこらじゅうで仲良く交流を深める声を聞きながら、ひとりぼっちで過ごすのは、さすがの葵も居心地の悪さを感じるのだ。
朝からそのことを思い出し、思わず横断歩道で心の声が漏れた、というのが今朝の出来事だ。
....コクリ。
小さくひとつ頷くと、パァっとさらに表情を明るくして、蒼斗が笑った。
どうして、そんなに嬉しそうに笑うのだろう。
この人にとって、私が歓迎会に行こうが行くまいが、関係ないと思うのだが。
そう頭が疑問符でいっぱいになって、また首を傾げてしまった。
すると、蒼斗がハッとしたように、コホンと咳払いをした。
「ごめんね、仕事中に。あ、これ、本当に美味しくて。俺、大好きなんだ。チョコレートだから。疲れた時に効果絶大だよ。....じゃ、またあとでね」
そう言って、踵を返す。
蒼斗の背中を見送って、葵はまたそのピンクの包みのお菓子を見た。
....チョコレートか....あとで頂こう。人の視線は痛いけど、小坂先輩のくれるお菓子って、全部美味しいんだよね....好みど真ん中のお菓子ばっかりで。食の好みが合うのかな...?
....食、だけではないか....。『全部』の....かな....。
ちょっと不思議に思いながら、この一ヶ月全くハズレなしの小坂の差し入れを、甘んじて受ける葵は、誰にも見えないほどの小さな笑みを浮かべた。
どうしてか、少しだけ心が浮き立って。
実は、蒼斗が葵に差し入れるのは、お菓子だけではない。
ある時は、手のひらサイズのクマの小さなぬいぐるみ。それも、葵がずっと大切にしている、ボールペンに描かれているキャラクター、『セイクマ』の。
このクマは、あまり人気が出なかったため、ずっと昔に姿を消したレアキャラで、グッズを探すのも困難なほどのものだ。
葵は、『セイクマ』が好きだった。くったり疲れた顔で、眉を下げて笑っているこのキャラが、どうしてか可愛くて可愛くて、守ってあげたくなるのだ。
だから、グッズを集めようとしたが、そこはレアキャラ。本当にグッズ自体がほとんど作られていなくて、唯一手に入れたボールペンを大切に使っていた。
それなのに...そのレアキャラぬいぐるみが、朝出勤すると、葵のデスクの真ん中にちょこんと座っていたのだ。可愛らしい小さな手のひらに、これまた葵の大好きな駅前のお店の美味しいクッキーをのせて。
葵は瞬間、固まり、見る間にぷるぷる体を震わせ始めた。
普段見せない葵の態度に、すでにちらほら出勤してきていた他の社員たちは、ぎょっと目をむいたほどだ。
ちなみに、『セイクマ』ぬいぐるのあまりの可愛さに悶えていただけなのだが。
そして、葵のいつも使っている『テイラー』のレアハンカチ。
葵は、そのブランドのハンカチが好きで、毎月発売される新作を必ず買っている。
デザインもさることながら、使っている素材も質が良く、肌触りが抜群で、触っていると幸せな気持ちになる。
地味に目立たず、をモットー(?)に生きる葵だが、意外にも可愛らしいものは好きだ。
先ほど挙げた『セイクマ』も、『テイラー』のハンカチも、やはり一番は可愛さで葵を虜にしてしまった。
雑貨やハンカチなら、多少可愛さを発揮しても、そこまで目立たないだろう。
そう思えるのも、葵の購買意欲を高めた要因だ。
だから、毎日こっそり、たくさんあるハンカチから持っていくものを選ぶ楽しみを味わっている。
もちろん、こっそりだ。
葵以外、誰もこの事実を知らない、はずなのに....。
複雑かつ新しい技術を取り入れ編まれた布を使ってデザインされた、ハンカチ。
発売枚数も限定され、争奪戦となったいつかの『テイラー』の、新作ハンカチ。
オンラインで購入しようと頑張って粘ったものの、結局争奪戦に負け手に入れられなかったそれが。
あったのだ...。またまたある時、葵のいつものシンプルにまとめられたデスクの上に。
今度は、ホワイトチョコレートをまとったドライストロベリーのお菓子と共に(もちろん、このお菓子も葵の大好きなもの)。
これも、会社という、より目立ちたくないはずの場所で、葵をかつてないほど興奮させた『差し入れ』だった。
極めつけは、花。たった一輪だが、とても繊細で素敵な愛らしい薄桃色の花が、白いふわふわリボンに飾られてデスクに置かれていた。
花がしおれない配慮か、残業を終えてそろそろ会社を出ようとお手洗いに行って帰ってきたらあったのだ。帰ってすぐ花を生けてあげられるタイミングで、神様かと思った。
ガーベラや薔薇の様な有名なものではない。
その花は、知っている者も少なく、この辺でも取り扱っているお店は限られている珍しい花、『トアネス』だ。
花言葉は、『自由な心』。
昔からその花が、葵は好きだった。
きゅっと心臓を鷲掴みされる可愛さに惹かれ、花言葉は葵をそっと元気づけてくれた。
他の人にどう思われていても、心は自分だけのもの。心は、自分の自由。
そう思えたのだ。
だから、人を不快にさせないため声を出さず、地味に、決して目立たぬよう息をひそめていても。
不審がられて、人から避けられても。
葵は、強く居られた。自分には、好きなキャラクターも、好きなハンカチも、好きな花もある。
心は自由だ。自分はここにいる、と。
もちろんこの花の『差し入れ』も、葵は内心すごく嬉しかった。
帰って、早速小さなお気に入りの花瓶に生けて、部屋に飾った。
枯れてしまうのが寂しくて、しばらく花を楽しんでから、枯れる前に押し花にしたくらいに。
と、まぁ、本当にこの一か月で、何故か葵の好みど真ん中の『差し入れ』たちが、葵を喜ばせてくれているのだ。
.....今度、お礼しようかな。....もらってばっかりじゃ悪いし....ただのお礼だから....迷惑にはならない、よね....?
言い訳をしながら、葵はこの時、初めて自分から蒼斗に関わることを想像した。
ただ蒼斗にお返ししたい、という気持ちだったのだが、人との交流を避け続けていた葵の人生が.....少しずつ、本当に少しずつ.....変化しようとしていたのだ。
***
その子は、突然現れた。
仕事に熱中して、ここ数年ずっと家と職場の往復ばかりしていた俺の人生に。
その子のまわりだけキラキラ星が輝いているのでは、と幻をみるほど、その子は鮮烈に俺の人生に彩りを与えた。
もう出会う前には、戻れない。
俺は、小坂蒼斗。
大学卒業後、新卒で入った会社でデザインや研究、商品開発を学んで、今の部署でそこそこ人気商品を生み出しつつ、人生を楽しんでいた。
仕事が好きで、正直、仕事以外は何かと面倒くさがる性格だ。
仕事のことになると、頭がいっぱいになって、他のことを考えられるなくなる。
その時開発中の商品のことで、アイデアが浮かびそうで、あともう一歩ってところで、何か掴めそうで。
それで、会社に泊まり込みで仕事をしたことなど数えきれないほどだ。
付き合っている彼女とのデートを何度もすっぽかして仕事に熱中して、その結果、フラれる。
その繰り返し。恋愛なんて面倒で、自分には仕事さえあればいい、なんて本気で考えていた。
それなのに。
あの女の子と出会って、俺は変わった。
今までの自分ではないようで、戸惑うこともある。
だが、あの子の気を引きたくて。
あの子の笑った顔が見てみたくて。
あの子の.....声が聞きたくて。
行動せずには、居られないのだ。
あの日、俺はいつも通り仕事に熱中していた。
翌日に、新商品のプレゼンを控えていて、ギリギリまで案をねっておきたかったのだ。
それで、テンプレートのように残業し、煮詰まった空気をなんとかリフレッシュしようと、外の空気を吸いに行った。
30分ほどして、気持ちが落ち着いたので、またやる気を出しオフィスに戻るとーーーー。
聞こえてきたのだ。
素敵な歌声が。
透き通っていて。脳に直接響いて。溶けて。
身体に染み込むような....一度聞いたら耳から離れない、すごく、すごく、愛らしい声が。
もう、俺は放心した。
耳や脳は、その音を聞き漏らさんと、フル回転していて、でも身体はその癒しの声に妙にリラックスして。
心臓は、興奮でドクドクと忙しなく動いて。
心と身体のパーツが、それぞれの動きを無視して、好き勝手動いている感覚になった。
この声の主を、知りたくて、知りたくて。
たまらなくなったのだ。
そしてこっそりと、のぞいた。
中の人物には気づかれないよう、細心の注意を払って。
目的の人物はそこにいた。
いつもわざと目立たないようにしている、でも逆にその行動が、彼女を目立たせていることにも気づいていないであろう、女の子。
声を聞いたことなど、一度もなく、他の社員とのやりとりを目にしたことはあったが、その時も喋っているところを見たことがなかった。
彼女自身は、気づいているかわからないが、彼女は美人だ。
眼鏡をかけて、髪の毛も一つに纏めるだけで、服装もシンプル一択。
だが、髪の毛は傷み一つない艶やかさがあり、眼鏡から時折のぞく目は澄んでいて、まつ毛も長い。くりくりの垂れ目で、左目尻に小さな泣きぼくろ。肌は真っ白で、ニキビひとつなく、手触りがよさそうで、鼻も唇も輪郭も、とても整っている。
さりげなく出ている身体のラインは、とてもスタイルが良く映る。
正直、もったいないなぁ、と考えたことがあった。
本人がそうしたいからしているのはわかるが、きっと服や髪の毛を変えたら、モテるだろうに。と、他人事で考えたことがあったからだ。
すでに、誰もオフィスには残っておらず、その子だけの空間で、どれほど眺めていただろうか。
ハッと我に返って、俺は悩んだ。
おそらく、あの子は、声を聞かれたくないのだろう。
会社でも頑なに声を出さずに乗り切っているということは、そういうことだ。
今、紡いでいるメロディーも、きっと誰もいなくなったオフィスで安心しきって歌い出したものだ。
さて、どうする?
このまま、オフィスに入ってしまうと、あの子は固まるかもしれない。
聞かれたかもしれない、と俺を変に意識して、避けられるかもしれない。
まぁ、避ける云々の前に、もとから接点などなかったのだが。
それでも。
俺は今、猛烈にあの子に、心惹かれている。
できることならあの子と、仲良くなりたい。
話してみたい。
ということは、これからアクションをおこして、少しずつ距離をつめていかなければならないのだ。
はじめから、失敗するわけにはいかない。
しかし、ここで入っていかなければ仕事ができない。
それは、困る。明日のプレゼンが、うまく遂行できなくなる。
さて、困った。
そうあれこれ考え込んでいるうちに、ガタッと何かの音がした。
見ると、残業を終えたのか、女の子が机から立ち上がるところだった。
俺は急いで隠れて、その子がオフィスから出ていくのを待って、自分のデスクに戻った。
プレゼンはうまくいった。
あの子の可愛い歌声のおかげか、のりにのって、猛スピードで案を練り上げ、プレゼンにのぞめたからだ。
そして、現在ーーー。
俺にとっては鮮烈な出会い、の翌日から早速アプローチを開始した俺は、思う様に距離が縮まらないことに焦れつつも、毎日あの子へのプレゼントを考えて楽しく過ごしていた。
できたら、彼女に喜んでほしくて、俺は彼女を観察した。
ただひたすら、俺の全身全霊をかけて、観察した。
はたから見たら気持ち悪いほどに、彼女の行動ひとつひとつ、あまり変化がないがたまに少しだけ動く表情、大切にしている持ち物など、それはもう細かく情報収集し、彼女の喜ぶプレゼントを常にリサーチ。
手に入りにくいものは、人脈、時間、金、俺の持つ全てをかけて、手に入れた。
それでも、手に入らないもの、そう。それ自体作りがないものは、俺自身の手で縫って、作り出した。
例えば、彼女の好きなキャラクター『セイクマ』の手のりぬいぐるみ。
彼女は、知らないが、あれは俺の手作りだ。
昔から手先は器用だった。
やる気や目的さえあれば、まぁまぁいいものを作れる。
妹が、昔大切にしていたぬいぐるみやワンピースが破れたりほつれたりした時には、妹のために裁縫道具で綺麗に縫い合わせてあげたりもしていた。
だから、なんてことない。
彼女のためなら、夜な夜な作業して、彼女の喜びそうなぬいぐるみを仕上げることくらい。
ただ、俺にとってそれは彼女への愛でも、他人から見れば気持ち悪いらしい。
同期の井上とは長い付き合いだが、かなり引かれた。ドン引きだ。
話しやすく信頼のおける井上とは、以前から仕事やプライベートに関してよく話していた。
だが、俺がここまで誰かに執着して、一歩間違えばストーカーと呼ばれる行動をとるほど恋にのめりこむ姿に驚いたのだろう。「お前、そんなに人を好きになれたんだな....。お前はずっと結婚はおろか、恋愛もできないだろうと思ってたよ....。なんか、すまん.....」と謎の謝罪を受けたほどに。
全く。失礼なやつだ。
そして、その日々の尽力が功を奏したのか(?)あまり動かない彼女の表情筋を、何度も動かしたのだ。
彼女は、間違いなく喜んでくれていた。
まだ一か月ほどの短い期間だが、何故かわかる。
これは決して、自分に都合よく思い込んでいるわけではない、と思う。
俺には、三つ下に妹がいる。
正直、可愛くて仕方なく、溺愛していた。
今はもう嫁いで、子供もいるが。
それでだろうか。
今まで、女の子に興味はわかなかったが、妹のおかげで、女の子の機微には聡いのだ。
なんとなく、何をしてほしいのか。
何をしてあげたら喜ぶのか。
今は喜んでいるのか、悲しいのか。
それが、わかるのだ。
特に、好きな子だからなのか、彼女が実はわかりやすいのか、立花さんの機微は読み取りやすい。
だから、きっと喜んでくれていると感じていたのだ。
だが、どうも彼女は鈍感な様子で、俺の想いに気づいていない。
もしかしたら、俺にとってはアプローチのプレゼントのつもりでも、彼女にとってはただの『差し入れ』と勘違いされている可能性まである。
あながち、外れてないだろう。
それでも....それでもいい。
俺は、あの子がいい。
あの子じゃないとダメだ。
どれだけ、スルーされても、伝わらなくても、時間がかかっても.....絶対手に入れてみせる。
こんなに一人の女の子に心惹かれて、頭から離れないなんて今までなかった。
自分で言うのもなんだが、それなりに俺はモテる、と思う。
女の子と付き合ったことも、一応ある。
でも、なんだかしっくりこなくて、好きになれないのだ。
仕事の方が楽しくて、恋愛はどこか他人事で面倒くさかった。
それで、放置して、すぐにフラれる。
向こうからアプローチしてくるくせに、俺を知ると、がっかりされて。
恥ずかしい話だが、俺はまだ経験がない。
いい歳して、おかしいとはわかっている。
だが、今までどんな女の子でもその気になれなかったのだ。
身体の生理的な欲求を発散するために、仕方なく処理するが、正直それさえも面倒くさかった。
俺は欠陥品なんだ、と思ったことがある。
妹には、惜しみなく愛情を注いだが、それだけ。
女性を好きになることはできない、どこか欠けている男。
女は、恋愛は、面倒だ。
だが、違った。
ただ、出会ってなかっただけ。
あの日から、そう思えた。
仕事は、今でも大好きだ。
でも仕事をしていても、寝て覚めても、休日出かけていても。
どこでも、彼女が頭の中にいる。
なんなら、隅なんて言わず、彼女がドーンと頭いっぱいに陣取っている。
もし彼女と付き合えたら。
俺のものにできたら。
きっと何年経っても俺は、彼女に夢中だろう。
仕事に熱中して、彼女のことを忘れてデートをすっぽかす、なんてきっとあり得ないだろうなと確信するほどに。
****
立花 葵さん。俺よりも5つ年下。
いつか、立花さんと付き合えることを夢見て。
俺は、今日の夜.....年に一度の歓迎会にのぞむ。
いつもなら、面倒くさい行事だが、この日だけは神の救いだ。
彼女との関係を進展させられない俺にとっての、一大イベントと化している。
さぁ、いざ。出陣だ。
頑張れ、俺ーーー。
職場に向かう道中、横断歩道で信号待ちをしながら、今年25歳を迎える立花葵(たちばな あおい)は、ぽそっと呟いた。本当に小さな、蚊のなくような声で。
同じく信号待ちで隣に並んでいた、ピカピカのランドセルを背負う女の子が、ピクッと肩を震わせ、自分の目線よりも上にある葵の顔をのぞき込む。少し首を傾げて。
可愛らしい視線に気づき、顔をそちらに向けた彼女だが、少女の無言の問いには知らぬフリをして、ただ困ったように微笑んだ。
何でもないのよ、とでも言う風に。
その瞬間、柔らかな風が吹き、咲いたばかりの薄紅色の桜の花びらが数枚、ふわふわと舞い上がる。二人のまわりをダンスするみたいに、飛んで踊った。
そのうちの一枚が、葵の手のひらにゆっくりと落ちてくる。
葵は、思わず両手を合わせ受け止める。
自分の手の上で腰を落ち着けた花びらが、なんだか可愛くて、さっきまでの憂鬱な気分が少しだけ上向いた。
そう、ちょっとだけ。ちょっと顔を出したら、それでいいんだから。きっと大丈夫よね。
心の中で、そんな風に自分を励ますと、いつの間にか青に変わっていた信号を隣に並んでいた少女が小走りに渡っていくのが視界に入る。
友達と合流したらしい彼女の嬉しそうな横顔を見ながら、葵も急いで信号を渡った。
いいな...。あんなに楽しそうにお喋りできて。きっと彼女は、素敵な子なのね。友達に好かれる人柄に、容姿に。それに...声も。
遠くなっていく真新しい二つのランドセルを見つめて、小さく息を吐く。
そして、間違っても気を抜いて声が漏れないよう、葵はきつく唇を噛んだ。
自分の、人を不快にさせるらしい声を、誰にも聞かせないためにーーー。
***
「おはようございまーす!」
「おはよー。昨日の案件、どうなった?」
「おー!お前、昨日どうだった?」
「うぇー、だりぃ。俺、今日寝不足なんだけど...はぁ、やる気でねー」
様々な声が、飛び交う。
先ほどの横断歩道を渡り、ずっとまっすぐ。数分歩いた先に、大きなビルがあった。
数十階建ての、名だたる企業が軒を連ねるそのビルのワンフロアが、葵の勤める会社だ。
朝からパリッとスーツを着こなした人たちが、颯爽とビルのドアをくぐっていく。
葵は少し離れたところで、ゆっくり息を整え、心の中で気合いを入れてから、両拳を握る。
ベージュの低めのヒールを、遠慮がちにコツコツ鳴らして、ビルのエントランスを通る。
地味な色合いのパンツスーツ、肩下まで伸びた少しくせのある黒髪を紺色のシュシュで一つに纏め、今どき誰も選びたがらない黒縁の古いデザインのメガネをかけて、俯きがちに歩く。
誰もが暗めの印象を抱くその見た目で、なるべく人の視界に入らないために、出来うる限りの早歩きで自身の職場に向かう。
始業まで、まだ1時間近く残されていたが、葵は席に着くと素早く準備を整え、昨日残していた仕事を始めた。
葵は、仕事が好きだ。人と関わるのは、昔のある出来事から苦手だが、仕事自体は好きだった。
数字や文字を打ち込み、計算したり資料を作ったり。これまた、人によっては敬遠するような地味な仕事だったが、一人で頭で考えながら仕事をこなしていく時間はホッとする。
黙々とパソコンに向かって、作業していると、ある声が耳に入ってきた。
「お!小坂ー!お前、また会社に泊まったの?」
今、出勤してきたのであろう先輩が、オフィスの奥のソファから背伸びしながら立ち上がった男に向かって声をかける。
「...うーす、井上。ふぁ〜。...仕事終わんなくて。というか、なんか降りてきそうでさ。こう、いいもんが」
ボリボリと眠そうに頭を掻いて、あくびをするその男は、小坂蒼斗(こさか あおと)。
葵の5つ上の先輩で、声をかけた井上先輩の同期にあたるらしく、仲がいい。
よくお互いの仕事の話をしたり、関係のない話で笑い合ったりしている。
二人は、葵とは違う部署だ。
葵の会社は、いくつかの部署に分かれている。ワンフロアだが十分広いので、部署ごとにデスクをまとめて、区切られている。
壁で仕切っているわけではないので、近い部署だと、会話が聞こえたり、様子が見えたりする。
葵の所属する部署は、主に事務作業を担当しているが、蒼斗のいる部署は、商品開発を担当している。
特に、蒼斗は入社した時から他の社員とは異質で、次々と人気商品を開発しているらしいが、正直詳しくは葵にはわからない。
直接誰かと話して情報を得たわけではなく、普段業務中に見える彼らの部署での様子や、聞く気がなくても耳に入る女子社員たちがヒソヒソ噂する声からの情報だからだ。
蒼斗は、独身で、見た目もかっこいい。
あらゆることに疎く、地味に生きている葵でさえも、ハッとする容姿をしている。
身長は、おそらく180センチ近くあり、ほどよく筋肉もついた男性的な体つき。
短く切り揃えられた清潔感のある黒髪に、少し日焼けした綺麗な肌、キリッとした落ち着いた目、筋の通った鼻、形のいい唇。
ハッキリ言って、モテる顔をしている、と思う。
何やら、頭の中が蒼斗のことでいっぱいになり、手が止まっていたことに気づき、葵は小さくかぶりを振った。
何してるのかしら。集中しなきゃ...。
カタカタと、再びパソコンと向かい合う。
と、まもなく。
カサッ。
紙が擦れる音と共に、葵のシンプルにまとまったデスクに可愛いピンクの紙に包まれた小さなお菓子が置かれる。
それを見て、葵はさっき自分の気分を少し上げてくれた可愛らしい桜の花びらを思い浮かべた。
可愛い...。キャンディ?...チョコレートかな?
癒される丸いフォルムを、思わずぼーっと眺めているとーーー。
「おはよう、立花さん。今日も早くから、偉いね。これ、美味しいんだ。甘いの好きだよね?良かったら食べてみて」
「...........」
.........タチバナサン...って私...よね...。
今、すぐ近くでした声が、そう呼んだ気がして作業に戻ったばかりの葵は、再び仕事を中断した。
キョロキョロまわりを見回して、すぐに気づいた。
たった50センチ。自分から50センチ離れた場所に、その人は立っていた。
爽やかに、笑って。
優しく目を細めて。
おそらく、普通の女子社員なら、頬を染めて、可愛く照れるか、あたふたするか。
きっと女子らしい反応を見せるであろう、その王子様然とした顔を見て、地味め女子の葵は固まった。歳だけでいえば、まだ若い女の子であるはずなのに、なるべく人と関わりたくない葵には普通の可愛い反応など、見せられるはずもない。
しばらく固まって...そして、今自分に挨拶してくれたその男、先ほどまで頭いっぱいに考えていた小坂蒼斗に、小さく頭を下げた。
声も出さずに。ただ、ペコリと。
挨拶...というには、少々感じの悪い挨拶を、気を悪くした様子も見せずに、蒼斗はニコニコと受け止めた。
優しく。まるで特別な女の子に向ける雰囲気をまとって。
何度も言うが、葵は仕事が好きだ。
大学を卒業して、新卒でこの会社に入って、はや三年。
仕事を覚えてからは、毎日ただ黙々とパソコンと向き合ってきた。
上司や先輩、後輩、同期の人たちとやりとりする時も、声を出さず、ただ頷いたり首を振ったり、頭を下げたり、そっと説明のメモを添えて作り終えた資料を相手のデスクに置いたり。
そんな方法で、何とか仕事に支障をきたすことなく、黙々と作業してきた。
業務中に、他のことに気をとられることなどほぼ皆無。というかそんなこと、あり得なかった。
だから、さっきだって、作業を無意識に中断しているほど頭の中が誰かでいっぱいになっていることなど初めてで、最近の葵はなんだか調子が出ない。
葵なりに原因を探って、行きついたのは、まさにこれだ。
他部署で、話したことも全くないはずの葵に、最近何故か、蒼斗が構ってくるようになった。
突然。本当に。何の前触れもなく、だ。
構われるようになって、どれほど経っただろうか。
おそらく一ヶ月ほど経つかもしれない。
一ヶ月ほど前、いつも通り出勤し、いつも通り早めに仕事に就いた葵のデスクに、コツコツと革靴のなるいい音が近づいてきた。
普段、仕事以外で人が関わってくることがないので、何か仕事かと顔を上げると、顔を知っている程度の、名前もよくわからない男性に「おはよう」と挨拶された。
それが、蒼斗と初めて会話した。いや、一方的に話しかけられた、記憶である。
それから毎日のように、蒼斗は話しかけてくる。
どこから得た情報なのか、葵が甘いものが好きだと知られてからは、まぁまぁの頻度で、色々なお菓子を持って。
その度に、頭を下げて、挨拶もお礼も合わせてしているが、本当はお菓子も挨拶も遠慮したい。
だって、今この瞬間も、他の人からの視線が痛いのだ。
特に。蒼斗を狙う若い女子社員たちの視線が。
なんであんな子に構うのか、と如実に物語るその視線に、地味に...ただひたすら人の目を避けて地味に生活したい葵は耐えられない。
今日も何だか胃が痛い。
これも、ここ一ヶ月の変化だ。
蒼斗が、話しかけてくると、決まって胃のあたりが痛む。
キリキリするわけでも、吐き気を催すわけでもないが、何となく胸が苦しいのだ。
息をするのもままならないような、今まで感じたことのない感覚で、葵はこれを胃痛だと結論づけた。
だって、そうだろう。
今まで、人の目をうまく避けられていたはずで。安定した会社に入って、仕事も覚えた。声を出さずに、他の社員とやりとりして仕事をこなす術も身につけて。
他人から見たらつまらない人生かもしれないが、葵なりに満足いく人生を歩んでいたのだ。
それなのに、突然本人の意思とは関係なく、他の人の視線が集中するできごとがここ毎日繰り返されているのだ。
そりゃ、胃も痛くなるってものだ。
葵は、心の中で自分を慰めた。
「...今日、立花さんも来るの?」
思考が一段落したところで、タイミングよく蒼斗がまた話しかけてきた。
葵は、一瞬何のことかわからず、蒼斗を見上げ首を傾げる。
じっと、蒼斗の目を見つめ考えていると、蒼斗が補足してくれた。
「...あ〜、その...歓迎会なんだけど」
なるほど、そのことか。
自分の気分を下げていた元凶。
そう、歓迎会だ。今日の終業後に、会社近くのお店で新入社員たちの歓迎会が開かれる。
桜のこの時期の恒例行事。
数年前は、歓迎される側として参加したその行事に、また今年も歓迎する側として参加する。
比較的ホワイトな社風で、働きやすいこの会社だが、歓迎会だけは、なるべく全社員参加するよう働きかけられる。
新しく入った社員たちと、円滑にコミュニケーションを図り、仕事をうまくこなしていけるように、という配慮なのだろうが、葵はこれが本当に憂鬱で仕方がなかった。
人と関わるのも、声を出すのも苦手な葵は、ただひたすらにご飯を食べ、お酒を飲んで、終わる。仕事中はひとりでも気にならないが、そこらじゅうで仲良く交流を深める声を聞きながら、ひとりぼっちで過ごすのは、さすがの葵も居心地の悪さを感じるのだ。
朝からそのことを思い出し、思わず横断歩道で心の声が漏れた、というのが今朝の出来事だ。
....コクリ。
小さくひとつ頷くと、パァっとさらに表情を明るくして、蒼斗が笑った。
どうして、そんなに嬉しそうに笑うのだろう。
この人にとって、私が歓迎会に行こうが行くまいが、関係ないと思うのだが。
そう頭が疑問符でいっぱいになって、また首を傾げてしまった。
すると、蒼斗がハッとしたように、コホンと咳払いをした。
「ごめんね、仕事中に。あ、これ、本当に美味しくて。俺、大好きなんだ。チョコレートだから。疲れた時に効果絶大だよ。....じゃ、またあとでね」
そう言って、踵を返す。
蒼斗の背中を見送って、葵はまたそのピンクの包みのお菓子を見た。
....チョコレートか....あとで頂こう。人の視線は痛いけど、小坂先輩のくれるお菓子って、全部美味しいんだよね....好みど真ん中のお菓子ばっかりで。食の好みが合うのかな...?
....食、だけではないか....。『全部』の....かな....。
ちょっと不思議に思いながら、この一ヶ月全くハズレなしの小坂の差し入れを、甘んじて受ける葵は、誰にも見えないほどの小さな笑みを浮かべた。
どうしてか、少しだけ心が浮き立って。
実は、蒼斗が葵に差し入れるのは、お菓子だけではない。
ある時は、手のひらサイズのクマの小さなぬいぐるみ。それも、葵がずっと大切にしている、ボールペンに描かれているキャラクター、『セイクマ』の。
このクマは、あまり人気が出なかったため、ずっと昔に姿を消したレアキャラで、グッズを探すのも困難なほどのものだ。
葵は、『セイクマ』が好きだった。くったり疲れた顔で、眉を下げて笑っているこのキャラが、どうしてか可愛くて可愛くて、守ってあげたくなるのだ。
だから、グッズを集めようとしたが、そこはレアキャラ。本当にグッズ自体がほとんど作られていなくて、唯一手に入れたボールペンを大切に使っていた。
それなのに...そのレアキャラぬいぐるみが、朝出勤すると、葵のデスクの真ん中にちょこんと座っていたのだ。可愛らしい小さな手のひらに、これまた葵の大好きな駅前のお店の美味しいクッキーをのせて。
葵は瞬間、固まり、見る間にぷるぷる体を震わせ始めた。
普段見せない葵の態度に、すでにちらほら出勤してきていた他の社員たちは、ぎょっと目をむいたほどだ。
ちなみに、『セイクマ』ぬいぐるのあまりの可愛さに悶えていただけなのだが。
そして、葵のいつも使っている『テイラー』のレアハンカチ。
葵は、そのブランドのハンカチが好きで、毎月発売される新作を必ず買っている。
デザインもさることながら、使っている素材も質が良く、肌触りが抜群で、触っていると幸せな気持ちになる。
地味に目立たず、をモットー(?)に生きる葵だが、意外にも可愛らしいものは好きだ。
先ほど挙げた『セイクマ』も、『テイラー』のハンカチも、やはり一番は可愛さで葵を虜にしてしまった。
雑貨やハンカチなら、多少可愛さを発揮しても、そこまで目立たないだろう。
そう思えるのも、葵の購買意欲を高めた要因だ。
だから、毎日こっそり、たくさんあるハンカチから持っていくものを選ぶ楽しみを味わっている。
もちろん、こっそりだ。
葵以外、誰もこの事実を知らない、はずなのに....。
複雑かつ新しい技術を取り入れ編まれた布を使ってデザインされた、ハンカチ。
発売枚数も限定され、争奪戦となったいつかの『テイラー』の、新作ハンカチ。
オンラインで購入しようと頑張って粘ったものの、結局争奪戦に負け手に入れられなかったそれが。
あったのだ...。またまたある時、葵のいつものシンプルにまとめられたデスクの上に。
今度は、ホワイトチョコレートをまとったドライストロベリーのお菓子と共に(もちろん、このお菓子も葵の大好きなもの)。
これも、会社という、より目立ちたくないはずの場所で、葵をかつてないほど興奮させた『差し入れ』だった。
極めつけは、花。たった一輪だが、とても繊細で素敵な愛らしい薄桃色の花が、白いふわふわリボンに飾られてデスクに置かれていた。
花がしおれない配慮か、残業を終えてそろそろ会社を出ようとお手洗いに行って帰ってきたらあったのだ。帰ってすぐ花を生けてあげられるタイミングで、神様かと思った。
ガーベラや薔薇の様な有名なものではない。
その花は、知っている者も少なく、この辺でも取り扱っているお店は限られている珍しい花、『トアネス』だ。
花言葉は、『自由な心』。
昔からその花が、葵は好きだった。
きゅっと心臓を鷲掴みされる可愛さに惹かれ、花言葉は葵をそっと元気づけてくれた。
他の人にどう思われていても、心は自分だけのもの。心は、自分の自由。
そう思えたのだ。
だから、人を不快にさせないため声を出さず、地味に、決して目立たぬよう息をひそめていても。
不審がられて、人から避けられても。
葵は、強く居られた。自分には、好きなキャラクターも、好きなハンカチも、好きな花もある。
心は自由だ。自分はここにいる、と。
もちろんこの花の『差し入れ』も、葵は内心すごく嬉しかった。
帰って、早速小さなお気に入りの花瓶に生けて、部屋に飾った。
枯れてしまうのが寂しくて、しばらく花を楽しんでから、枯れる前に押し花にしたくらいに。
と、まぁ、本当にこの一か月で、何故か葵の好みど真ん中の『差し入れ』たちが、葵を喜ばせてくれているのだ。
.....今度、お礼しようかな。....もらってばっかりじゃ悪いし....ただのお礼だから....迷惑にはならない、よね....?
言い訳をしながら、葵はこの時、初めて自分から蒼斗に関わることを想像した。
ただ蒼斗にお返ししたい、という気持ちだったのだが、人との交流を避け続けていた葵の人生が.....少しずつ、本当に少しずつ.....変化しようとしていたのだ。
***
その子は、突然現れた。
仕事に熱中して、ここ数年ずっと家と職場の往復ばかりしていた俺の人生に。
その子のまわりだけキラキラ星が輝いているのでは、と幻をみるほど、その子は鮮烈に俺の人生に彩りを与えた。
もう出会う前には、戻れない。
俺は、小坂蒼斗。
大学卒業後、新卒で入った会社でデザインや研究、商品開発を学んで、今の部署でそこそこ人気商品を生み出しつつ、人生を楽しんでいた。
仕事が好きで、正直、仕事以外は何かと面倒くさがる性格だ。
仕事のことになると、頭がいっぱいになって、他のことを考えられるなくなる。
その時開発中の商品のことで、アイデアが浮かびそうで、あともう一歩ってところで、何か掴めそうで。
それで、会社に泊まり込みで仕事をしたことなど数えきれないほどだ。
付き合っている彼女とのデートを何度もすっぽかして仕事に熱中して、その結果、フラれる。
その繰り返し。恋愛なんて面倒で、自分には仕事さえあればいい、なんて本気で考えていた。
それなのに。
あの女の子と出会って、俺は変わった。
今までの自分ではないようで、戸惑うこともある。
だが、あの子の気を引きたくて。
あの子の笑った顔が見てみたくて。
あの子の.....声が聞きたくて。
行動せずには、居られないのだ。
あの日、俺はいつも通り仕事に熱中していた。
翌日に、新商品のプレゼンを控えていて、ギリギリまで案をねっておきたかったのだ。
それで、テンプレートのように残業し、煮詰まった空気をなんとかリフレッシュしようと、外の空気を吸いに行った。
30分ほどして、気持ちが落ち着いたので、またやる気を出しオフィスに戻るとーーーー。
聞こえてきたのだ。
素敵な歌声が。
透き通っていて。脳に直接響いて。溶けて。
身体に染み込むような....一度聞いたら耳から離れない、すごく、すごく、愛らしい声が。
もう、俺は放心した。
耳や脳は、その音を聞き漏らさんと、フル回転していて、でも身体はその癒しの声に妙にリラックスして。
心臓は、興奮でドクドクと忙しなく動いて。
心と身体のパーツが、それぞれの動きを無視して、好き勝手動いている感覚になった。
この声の主を、知りたくて、知りたくて。
たまらなくなったのだ。
そしてこっそりと、のぞいた。
中の人物には気づかれないよう、細心の注意を払って。
目的の人物はそこにいた。
いつもわざと目立たないようにしている、でも逆にその行動が、彼女を目立たせていることにも気づいていないであろう、女の子。
声を聞いたことなど、一度もなく、他の社員とのやりとりを目にしたことはあったが、その時も喋っているところを見たことがなかった。
彼女自身は、気づいているかわからないが、彼女は美人だ。
眼鏡をかけて、髪の毛も一つに纏めるだけで、服装もシンプル一択。
だが、髪の毛は傷み一つない艶やかさがあり、眼鏡から時折のぞく目は澄んでいて、まつ毛も長い。くりくりの垂れ目で、左目尻に小さな泣きぼくろ。肌は真っ白で、ニキビひとつなく、手触りがよさそうで、鼻も唇も輪郭も、とても整っている。
さりげなく出ている身体のラインは、とてもスタイルが良く映る。
正直、もったいないなぁ、と考えたことがあった。
本人がそうしたいからしているのはわかるが、きっと服や髪の毛を変えたら、モテるだろうに。と、他人事で考えたことがあったからだ。
すでに、誰もオフィスには残っておらず、その子だけの空間で、どれほど眺めていただろうか。
ハッと我に返って、俺は悩んだ。
おそらく、あの子は、声を聞かれたくないのだろう。
会社でも頑なに声を出さずに乗り切っているということは、そういうことだ。
今、紡いでいるメロディーも、きっと誰もいなくなったオフィスで安心しきって歌い出したものだ。
さて、どうする?
このまま、オフィスに入ってしまうと、あの子は固まるかもしれない。
聞かれたかもしれない、と俺を変に意識して、避けられるかもしれない。
まぁ、避ける云々の前に、もとから接点などなかったのだが。
それでも。
俺は今、猛烈にあの子に、心惹かれている。
できることならあの子と、仲良くなりたい。
話してみたい。
ということは、これからアクションをおこして、少しずつ距離をつめていかなければならないのだ。
はじめから、失敗するわけにはいかない。
しかし、ここで入っていかなければ仕事ができない。
それは、困る。明日のプレゼンが、うまく遂行できなくなる。
さて、困った。
そうあれこれ考え込んでいるうちに、ガタッと何かの音がした。
見ると、残業を終えたのか、女の子が机から立ち上がるところだった。
俺は急いで隠れて、その子がオフィスから出ていくのを待って、自分のデスクに戻った。
プレゼンはうまくいった。
あの子の可愛い歌声のおかげか、のりにのって、猛スピードで案を練り上げ、プレゼンにのぞめたからだ。
そして、現在ーーー。
俺にとっては鮮烈な出会い、の翌日から早速アプローチを開始した俺は、思う様に距離が縮まらないことに焦れつつも、毎日あの子へのプレゼントを考えて楽しく過ごしていた。
できたら、彼女に喜んでほしくて、俺は彼女を観察した。
ただひたすら、俺の全身全霊をかけて、観察した。
はたから見たら気持ち悪いほどに、彼女の行動ひとつひとつ、あまり変化がないがたまに少しだけ動く表情、大切にしている持ち物など、それはもう細かく情報収集し、彼女の喜ぶプレゼントを常にリサーチ。
手に入りにくいものは、人脈、時間、金、俺の持つ全てをかけて、手に入れた。
それでも、手に入らないもの、そう。それ自体作りがないものは、俺自身の手で縫って、作り出した。
例えば、彼女の好きなキャラクター『セイクマ』の手のりぬいぐるみ。
彼女は、知らないが、あれは俺の手作りだ。
昔から手先は器用だった。
やる気や目的さえあれば、まぁまぁいいものを作れる。
妹が、昔大切にしていたぬいぐるみやワンピースが破れたりほつれたりした時には、妹のために裁縫道具で綺麗に縫い合わせてあげたりもしていた。
だから、なんてことない。
彼女のためなら、夜な夜な作業して、彼女の喜びそうなぬいぐるみを仕上げることくらい。
ただ、俺にとってそれは彼女への愛でも、他人から見れば気持ち悪いらしい。
同期の井上とは長い付き合いだが、かなり引かれた。ドン引きだ。
話しやすく信頼のおける井上とは、以前から仕事やプライベートに関してよく話していた。
だが、俺がここまで誰かに執着して、一歩間違えばストーカーと呼ばれる行動をとるほど恋にのめりこむ姿に驚いたのだろう。「お前、そんなに人を好きになれたんだな....。お前はずっと結婚はおろか、恋愛もできないだろうと思ってたよ....。なんか、すまん.....」と謎の謝罪を受けたほどに。
全く。失礼なやつだ。
そして、その日々の尽力が功を奏したのか(?)あまり動かない彼女の表情筋を、何度も動かしたのだ。
彼女は、間違いなく喜んでくれていた。
まだ一か月ほどの短い期間だが、何故かわかる。
これは決して、自分に都合よく思い込んでいるわけではない、と思う。
俺には、三つ下に妹がいる。
正直、可愛くて仕方なく、溺愛していた。
今はもう嫁いで、子供もいるが。
それでだろうか。
今まで、女の子に興味はわかなかったが、妹のおかげで、女の子の機微には聡いのだ。
なんとなく、何をしてほしいのか。
何をしてあげたら喜ぶのか。
今は喜んでいるのか、悲しいのか。
それが、わかるのだ。
特に、好きな子だからなのか、彼女が実はわかりやすいのか、立花さんの機微は読み取りやすい。
だから、きっと喜んでくれていると感じていたのだ。
だが、どうも彼女は鈍感な様子で、俺の想いに気づいていない。
もしかしたら、俺にとってはアプローチのプレゼントのつもりでも、彼女にとってはただの『差し入れ』と勘違いされている可能性まである。
あながち、外れてないだろう。
それでも....それでもいい。
俺は、あの子がいい。
あの子じゃないとダメだ。
どれだけ、スルーされても、伝わらなくても、時間がかかっても.....絶対手に入れてみせる。
こんなに一人の女の子に心惹かれて、頭から離れないなんて今までなかった。
自分で言うのもなんだが、それなりに俺はモテる、と思う。
女の子と付き合ったことも、一応ある。
でも、なんだかしっくりこなくて、好きになれないのだ。
仕事の方が楽しくて、恋愛はどこか他人事で面倒くさかった。
それで、放置して、すぐにフラれる。
向こうからアプローチしてくるくせに、俺を知ると、がっかりされて。
恥ずかしい話だが、俺はまだ経験がない。
いい歳して、おかしいとはわかっている。
だが、今までどんな女の子でもその気になれなかったのだ。
身体の生理的な欲求を発散するために、仕方なく処理するが、正直それさえも面倒くさかった。
俺は欠陥品なんだ、と思ったことがある。
妹には、惜しみなく愛情を注いだが、それだけ。
女性を好きになることはできない、どこか欠けている男。
女は、恋愛は、面倒だ。
だが、違った。
ただ、出会ってなかっただけ。
あの日から、そう思えた。
仕事は、今でも大好きだ。
でも仕事をしていても、寝て覚めても、休日出かけていても。
どこでも、彼女が頭の中にいる。
なんなら、隅なんて言わず、彼女がドーンと頭いっぱいに陣取っている。
もし彼女と付き合えたら。
俺のものにできたら。
きっと何年経っても俺は、彼女に夢中だろう。
仕事に熱中して、彼女のことを忘れてデートをすっぽかす、なんてきっとあり得ないだろうなと確信するほどに。
****
立花 葵さん。俺よりも5つ年下。
いつか、立花さんと付き合えることを夢見て。
俺は、今日の夜.....年に一度の歓迎会にのぞむ。
いつもなら、面倒くさい行事だが、この日だけは神の救いだ。
彼女との関係を進展させられない俺にとっての、一大イベントと化している。
さぁ、いざ。出陣だ。
頑張れ、俺ーーー。
