柴山先輩に初めて会ったとき、小学校の友達が飼っていた豆柴を思い出した。俺にも、クラスメイトにも、ただの通行人にも尻尾を振るような犬で、まさに誰にでも献身的にサポートする先輩は、誰かれかまわず尻尾を振るあの犬みたいだなって思った。
奉仕の精神がすごいな、って感心もしたけれど、俺とは考え方が違う、って感想の方が、的を得ていた気がする。どんなに尽くしても変わらないものがあるって、俺は知ってるから。
夏休みの宿題に、明日の天気。高くなるコンビニ飯の値段と……過去の行いと、他人の気持ち。それらはどんなに尽くしても変わることはない。
だからこそ、今は先輩のことが好きだなって思う。先輩が俺に目を向けて、はちみつレモンを差し入れてくれた事実はこの先も絶対に変わらないから。
「狼谷! ファイト!」
ベンチからマルオ先輩の掛け声が聞こえた。二学期最初の練習試合、俺は打席に立って相手ピッチャーを観察する。
目が合った瞬間、ピッチャーの視線が泳いだ。ちょっとビビった顔だ。
別に無愛想にしてるつもりはないけど、わざわざ愛想よくもしてないから、俺と目が合った人は怯むか、逆に「なんだこいつ」って睨み返してくることが多い。
今日の相手は気が弱いタイプかもしれない。投球にブレが出るだろうか。
ふと視線を感じて顔を前にやると、柴山先輩と目が合った。
豆柴を彷彿させる明るい茶髪に、感情が読み取りやすい大きな目。すぐに赤くなる頬は、俺と目が合って少しだけ色味が増した気がする……自惚れかもしれないけど。なんにせよ、とっても可愛い。
あの花火大会で本音を伝えた日から一週間。未だに柴山先輩と付き合ってる実感が湧かない。でも、ああいうわかりやすい反応を見ると、少しだけ「ああ、先輩って俺の恋人なんだな」って思えて嬉しくなる。
俺は気合いを入れ直して、バットを構えた。
先輩が見てると思うと、体の奥からしゃきっと力が湧いてくる。これが「好きな人の前では、かっこつけたい」なんて心理からくるものだっていうのは、最近知った。
先輩の視線を全身で受けながら、俺は大きくバットを振った。
「いやぁ、今日も狼谷の活躍はすごかったねぇ」
同じ一年生の西山が、道具の片付けをしながら感心したように褒めてくれる。けれど今日の練習試合は、相手校のバッティングが上手くて、俺のホームランで一点返したものの、あっさり三点取られて負けた。
悔しさよりも「あー、やっぱり強いなぁ」で終わるのが、ゆるい部活あるあるだ。
グラウンドを横切って倉庫に道具をしまった帰り、水道の方から「肩、大丈夫?」と心配する声が聞こえた。
俺は足を止めて声のした方に視線を向ける。柴山先輩がピッチャーのホソヤン先輩に保冷剤を渡しているところだった。
先輩はあの大きな目で本当に色々見ている。ピッチャーの肩の具合はもちろん、一ノ瀬先輩の守備から、東野のバッティングフォーム。俺の捕球姿勢や三瓶先輩のご機嫌まで、ありとあらゆる方向から部員の変化に気づいて、ちゃんとサポートしてあげる。
俺も多少気づくことはあるけれど、先輩の観察眼には遠く及ばないし、気づいたとしても、声をかけたり手助けしたりはしない。めんどくさいなって思うし、見返りを求めたくなってしまう。先輩の無償の奉仕? みたいなのは、本当に尊敬する一面だ。
——そういえば、家でもあんな感じって言ってたな。
ふと、先々週先輩の家にお邪魔したとき、先輩のお母さんが「あの子はお家でも世話焼き長男なのよねぇ……」と遠い目で言っていたのを思い出した。あれは確か、先輩がお風呂に入っているとき、俺がダイニングで「先輩にはたくさんサポートしてもらって、すごく助かってます」みたいなことを言ったら、そんな返事が返ってきたのだ。
先輩のお父さんは小さい頃から単身赴任が多く、何かと男手が必要なときは先輩が率先して手伝ってくれるらしい。もちろん手伝ってくれたら親としては褒めるわけで、それを繰り返すうちに、今の世話焼きな先輩になったのだとか。
「そんなに頑張らなくてもいいよって言ってるんだけどね……私が褒めすぎちゃったかしら」
そう言って苦笑するお母さんの心配も、ごもっともだなって思った。先輩は自分を犠牲にしてまで、人に尽くしてしまう節がある。
「…………」
「狼谷、どうした?」
俺は西山の声にハッとして、ピッチャーのケアをする柴山先輩から視線を外した。が、西山は先輩の姿が気になったようだ。
「あ、柴山先輩だ。まじであの人すごいよなぁ〜俺この前左足首の不調当てられて、マジでビビったもん」
「へぇ……」
「前に白山先輩と黒海先輩が言ってたんだけど、超絶ゆるかった軟式野球部のモチベーションが高くなったのは、柴山先輩のおかげだって。確かにあんなに一生懸命サポートしてくれたら、少しは試合で頑張ろうってみんな思うよなぁー」
「…………」
その話は俺も聞いたことがあった。「確かにな」って返せばいいものを、妙に心が刺々して返事ができなくなる。
今年の四月の末、俺は確かに先輩の優しさに救われた。あの頃は毎晩両親が親権のことで揉めていて、さすがに心が抉られる日々だった。
俺がどんなに頑張っても、結局両親の離婚の意思は変わらなかったし、どちらも俺を必要とはしていないのが痛いほど理解できて、さすがに傷ついた。
前々から察してはいたけど……辛いものは辛い。
そんなとき、先輩が声をかけてくれた。強がって表情に出さないようにしてたのに、先輩だけはちゃんと俺のことを見てくれていて、すごく安心したのを覚えている。俺、ここにいていいんだって、救われたような気持ちになった。
——でも、先輩にとっては当たり前の行為だもんな。
俺にとっては特別でも、先輩にとっては違う。頭ではわかっているのに、胸のもやもやが止まらない。先輩が誰に手を差し伸べようと、俺が口を出せる事柄ではないのに。付き合って一週間ほどの短い期間では、解消できるような問題ではなかった。
そのとき、マルオ先輩が校舎の方からやってきて、柴山先輩とホソヤン先輩に何か話しかけたあと、柴山先輩と肩を組んだ。それも一気に俺のもやもやを加速させて、自然と眉間に力が入ってしまう。
「俺、先部室行くわ」
西山を置いて、俺は勝手に歩き出す。誰かを好きになるって、大変だ。もう先輩とは付き合ってるはずなのに、なんでバットを操るみたいに、感情はうまくコントロールできないんだろう。
俺は深呼吸をして心を落ち着かせながら、部室の方へと足を向けた。
「ごめん、お待たせ。鍵返しに行ったら先生に捕まっちゃって」
校門の前で待っていると、先輩が息を弾ませてやってきた。日の光はだいぶ西に傾いており、他の部員はみんな先に帰ってしまった。
「全然大丈夫ですよ」
俺は先輩の隣りを歩きながら平然と答える。今日は学校まで歩いてきた。先輩と帰るのがわかっていたから、自転車が邪魔になると思ってわざと家に置いてきたのだ。
「そう言えば、やっと家のゴタゴタが落ち着きました。だから前みたいに先輩の家にお世話になることはないと思います」
俺はことさらゆっくり歩きながら、先輩に報告する。気をつけないとあっという間に駅についてしまうのは、付き合った後の最初の帰り道で学んだことだ。
「そっか、よかった。でもまた困ったらいつでもおいでよ。凛も母さんもすごい狼谷のこと気に入ってるから」
先輩は前から俺の家庭事情を気にしてたようで、安心したように目元を緩める。まるで自分のことのように考えてくれてる先輩の表情が愛おしく、俺はつい指先を先輩の手に忍ばせた。
やっぱり自転車は置いてきて正解だった。ハンドルを押してたら、スマートに手も繋げない。
先輩はびっくりしたようにこっちを見るけど、嫌がらずされるがままだった。そういうところもちょっとだけ不安になる。先輩は優しいから、俺じゃない誰かが迫ってきても、あっさり受け入れてしまいそうな危うさがある。
「あ、あのさ。今日のことなんだけど……」
俺はまたもや黒い靄みたいなものが心を覆いかけ、はっとして、先輩の言葉に耳を傾ける。
「もし、誰かに肩触られるの嫌だったら言えよ……完全には無理でも、避けられるよう頑張るから」
「えっ」
「あ、別に、嫌じゃないならいいんだけどっ! ほら今日の練習試合の後、狼谷が嫌そう? みたいに見えたから。そういうので不安になるなら、俺頑張って断るよ」
俺はびっくりして足を止める。ちょうど小川にかかる橋のところだった。
今日の出来事を先輩に見られてるのも気づいてなかったけど……それより、あの優しくて誰よりも寛容な先輩が、「断る」だって?
「なんだよ、そんなに驚いて」
先輩も足を止めてこちらを見上げる。明るい茶色の髪が、夕日に照らされて輝いた。
「あ、いや、先輩がちゃんと断れるのかなって……疑問に思って」
「何を!? 俺だって断ろうと思えばできるよ!」
「でも……」
先輩は優しいし、めったに怒らない。頼まれごとも、よっぽどのことじゃなきゃ断らない。
自分を後回しにしてでも人に尽くそうとする節があるから、そういう行動になるんだろうけど……でもそれって、やめろって言われてやめられるもんじゃないよな? きっと、先輩の中に根っこみたいに染みついてるものだ。
俺が半信半疑で先輩を見ると、先輩は一瞬だけムッとしたみたいに目を釣り上げて……でも、すぐにふっと視線を落とした。
「俺、もう誰彼かまわず世話するのはやめたから。あ、もちろん軟式野球部のみんなはサポートするけど……ちゃんとその、狼谷とは分けるよ、接しかた」
俺はびっくりして目を見開く。思わず繋いでいた手を離して、先輩の両頬を手で挟んでしまった。
「先輩どうしたんですかっ!? 何か悪いものでも食べましたかっ!?」
「そんなん食べてないわ!」
柔らかい頬をを膨らませ、先輩が抗議する。
「この前楓丘高校との練習試合で思ったんだよ! 俺、なんで岩崎みたいなやつのために一生懸命マネージャーしてたんだろうって……それならちゃんと、狼谷みたいに俺を大事にしてくれる人を大事にしたいというか……好きな人が嫌がることはしたくないというか……」
もにょもにょと語尾をあやふやにする先輩は、頬を赤くさせてる。俺は驚きで言葉を失った。
どんなに尽くしても変わらないもの。それは、夏休みの宿題と、明日の天気。高くなるコンビニ飯の値段と……過去の行いと、他人の気持ち。
だから、先輩が俺以外に優しくしようが、誰にでも手を差し伸べようが、俺にはどうしようもできないことだと思ってた。だって、先輩の気持ちは変えられないから。他人の考えにまで、俺は影響を及ぼせないから。
——でも、変わった。
別に、先輩の考えを変えようとして尽くしたわけじゃない。けど、先輩は俺の気持ちを汲み取って、考えを変えてくれた。
その事実にまず驚きで息が詰まる。心臓がぎゅうっと絞られるように痛んで、少し遅れてから、嬉しさと愛おしさが押し寄せてきた。
……もしかして、俺ってこの人にとってちゃんと特別なのかも。影響を与えられるくらいには、好かれてるんだ。
気づいたら俺は、先輩の小柄な体をぎゅっと抱きしめていた。
「なっ! きゅ、急にどうした?!」
「先輩が俺のために考え方を変えてくれたのが、嬉しいんです。確かにちょっと嫉妬もしましたけど……でも、頑張らなくていいです。その気持ちだけで十分嬉しいんで」
鼻先に柔らかな髪が触れ、自然と先輩の首に顔を埋める。胸の鼓動が肌を通して伝わり、お腹の奥まで熱くなった。
俺がそのまま動けずにいると、先輩も戸惑ったように背中に手を回して抱きしめ返してくれた。その体温の重なりが、俺の心を甘い蜜のように満たす。
「でも、好きな人のためには頑張りたいじゃん……?」
ああ、そう思ってたのは俺だけじゃないんだ。胸が弾けそうなほど喜びでいっぱいになり、思わず先輩の耳元に唇を寄せた。
「先輩、今すぐキスしたいです」
腕の中の先輩はびっくりしたように肩を跳ねさせる。でも断りはしなくて、少しきょろきょろ見渡したあと、声もなく頷いた。
俺は体を少し離して、先輩の顔を覗き込む。伏せられたまつ毛は髪と同じ薄い茶色で、緊張で震えているのがたまらなく愛おしい。
今すぐ先輩の薄い桃色の唇を奪いたい気持ちを抑え、代わりに赤い頬をゆっくり撫でた。ぴくりと体が跳ねるたび、こんなに敏感で大丈夫だろうか? と心配になる。けれど、いつか、もっと先輩を愛でたい気持ちは、止められない。
そっと先輩の丸い耳を撫で、頭の後ろに手を回して軽く抱き寄せる。顔を近づけ、唇を重ねた。
「……んっ」
触れるだけのキスを繰り返すたび、もっと欲しくなり、つい先輩の唇を軽く噛んでしまう。この先を求めたい気持ちでいっぱいだけど、腕の中で息を止めている先輩の限界が近そうだった。
早く、キスをしながらでも呼吸できる方法を教えてあげたい。そしたらずっと、甘い口付けを交わせられるのに。
顔を離すと、熟れた林檎みたいに真っ赤な先輩が視界に映る。途端に胸のあたりでしゅわしゅわと炭酸が弾けるように愛おしさが溢れ、俺はもう一度先輩にキスをした。
この手の中にいる限り、俺はめいっぱい先輩に尽くしたい。
健気で努力家な恋人を腕に抱きながら、俺は自然と目元を細めた。
完
奉仕の精神がすごいな、って感心もしたけれど、俺とは考え方が違う、って感想の方が、的を得ていた気がする。どんなに尽くしても変わらないものがあるって、俺は知ってるから。
夏休みの宿題に、明日の天気。高くなるコンビニ飯の値段と……過去の行いと、他人の気持ち。それらはどんなに尽くしても変わることはない。
だからこそ、今は先輩のことが好きだなって思う。先輩が俺に目を向けて、はちみつレモンを差し入れてくれた事実はこの先も絶対に変わらないから。
「狼谷! ファイト!」
ベンチからマルオ先輩の掛け声が聞こえた。二学期最初の練習試合、俺は打席に立って相手ピッチャーを観察する。
目が合った瞬間、ピッチャーの視線が泳いだ。ちょっとビビった顔だ。
別に無愛想にしてるつもりはないけど、わざわざ愛想よくもしてないから、俺と目が合った人は怯むか、逆に「なんだこいつ」って睨み返してくることが多い。
今日の相手は気が弱いタイプかもしれない。投球にブレが出るだろうか。
ふと視線を感じて顔を前にやると、柴山先輩と目が合った。
豆柴を彷彿させる明るい茶髪に、感情が読み取りやすい大きな目。すぐに赤くなる頬は、俺と目が合って少しだけ色味が増した気がする……自惚れかもしれないけど。なんにせよ、とっても可愛い。
あの花火大会で本音を伝えた日から一週間。未だに柴山先輩と付き合ってる実感が湧かない。でも、ああいうわかりやすい反応を見ると、少しだけ「ああ、先輩って俺の恋人なんだな」って思えて嬉しくなる。
俺は気合いを入れ直して、バットを構えた。
先輩が見てると思うと、体の奥からしゃきっと力が湧いてくる。これが「好きな人の前では、かっこつけたい」なんて心理からくるものだっていうのは、最近知った。
先輩の視線を全身で受けながら、俺は大きくバットを振った。
「いやぁ、今日も狼谷の活躍はすごかったねぇ」
同じ一年生の西山が、道具の片付けをしながら感心したように褒めてくれる。けれど今日の練習試合は、相手校のバッティングが上手くて、俺のホームランで一点返したものの、あっさり三点取られて負けた。
悔しさよりも「あー、やっぱり強いなぁ」で終わるのが、ゆるい部活あるあるだ。
グラウンドを横切って倉庫に道具をしまった帰り、水道の方から「肩、大丈夫?」と心配する声が聞こえた。
俺は足を止めて声のした方に視線を向ける。柴山先輩がピッチャーのホソヤン先輩に保冷剤を渡しているところだった。
先輩はあの大きな目で本当に色々見ている。ピッチャーの肩の具合はもちろん、一ノ瀬先輩の守備から、東野のバッティングフォーム。俺の捕球姿勢や三瓶先輩のご機嫌まで、ありとあらゆる方向から部員の変化に気づいて、ちゃんとサポートしてあげる。
俺も多少気づくことはあるけれど、先輩の観察眼には遠く及ばないし、気づいたとしても、声をかけたり手助けしたりはしない。めんどくさいなって思うし、見返りを求めたくなってしまう。先輩の無償の奉仕? みたいなのは、本当に尊敬する一面だ。
——そういえば、家でもあんな感じって言ってたな。
ふと、先々週先輩の家にお邪魔したとき、先輩のお母さんが「あの子はお家でも世話焼き長男なのよねぇ……」と遠い目で言っていたのを思い出した。あれは確か、先輩がお風呂に入っているとき、俺がダイニングで「先輩にはたくさんサポートしてもらって、すごく助かってます」みたいなことを言ったら、そんな返事が返ってきたのだ。
先輩のお父さんは小さい頃から単身赴任が多く、何かと男手が必要なときは先輩が率先して手伝ってくれるらしい。もちろん手伝ってくれたら親としては褒めるわけで、それを繰り返すうちに、今の世話焼きな先輩になったのだとか。
「そんなに頑張らなくてもいいよって言ってるんだけどね……私が褒めすぎちゃったかしら」
そう言って苦笑するお母さんの心配も、ごもっともだなって思った。先輩は自分を犠牲にしてまで、人に尽くしてしまう節がある。
「…………」
「狼谷、どうした?」
俺は西山の声にハッとして、ピッチャーのケアをする柴山先輩から視線を外した。が、西山は先輩の姿が気になったようだ。
「あ、柴山先輩だ。まじであの人すごいよなぁ〜俺この前左足首の不調当てられて、マジでビビったもん」
「へぇ……」
「前に白山先輩と黒海先輩が言ってたんだけど、超絶ゆるかった軟式野球部のモチベーションが高くなったのは、柴山先輩のおかげだって。確かにあんなに一生懸命サポートしてくれたら、少しは試合で頑張ろうってみんな思うよなぁー」
「…………」
その話は俺も聞いたことがあった。「確かにな」って返せばいいものを、妙に心が刺々して返事ができなくなる。
今年の四月の末、俺は確かに先輩の優しさに救われた。あの頃は毎晩両親が親権のことで揉めていて、さすがに心が抉られる日々だった。
俺がどんなに頑張っても、結局両親の離婚の意思は変わらなかったし、どちらも俺を必要とはしていないのが痛いほど理解できて、さすがに傷ついた。
前々から察してはいたけど……辛いものは辛い。
そんなとき、先輩が声をかけてくれた。強がって表情に出さないようにしてたのに、先輩だけはちゃんと俺のことを見てくれていて、すごく安心したのを覚えている。俺、ここにいていいんだって、救われたような気持ちになった。
——でも、先輩にとっては当たり前の行為だもんな。
俺にとっては特別でも、先輩にとっては違う。頭ではわかっているのに、胸のもやもやが止まらない。先輩が誰に手を差し伸べようと、俺が口を出せる事柄ではないのに。付き合って一週間ほどの短い期間では、解消できるような問題ではなかった。
そのとき、マルオ先輩が校舎の方からやってきて、柴山先輩とホソヤン先輩に何か話しかけたあと、柴山先輩と肩を組んだ。それも一気に俺のもやもやを加速させて、自然と眉間に力が入ってしまう。
「俺、先部室行くわ」
西山を置いて、俺は勝手に歩き出す。誰かを好きになるって、大変だ。もう先輩とは付き合ってるはずなのに、なんでバットを操るみたいに、感情はうまくコントロールできないんだろう。
俺は深呼吸をして心を落ち着かせながら、部室の方へと足を向けた。
「ごめん、お待たせ。鍵返しに行ったら先生に捕まっちゃって」
校門の前で待っていると、先輩が息を弾ませてやってきた。日の光はだいぶ西に傾いており、他の部員はみんな先に帰ってしまった。
「全然大丈夫ですよ」
俺は先輩の隣りを歩きながら平然と答える。今日は学校まで歩いてきた。先輩と帰るのがわかっていたから、自転車が邪魔になると思ってわざと家に置いてきたのだ。
「そう言えば、やっと家のゴタゴタが落ち着きました。だから前みたいに先輩の家にお世話になることはないと思います」
俺はことさらゆっくり歩きながら、先輩に報告する。気をつけないとあっという間に駅についてしまうのは、付き合った後の最初の帰り道で学んだことだ。
「そっか、よかった。でもまた困ったらいつでもおいでよ。凛も母さんもすごい狼谷のこと気に入ってるから」
先輩は前から俺の家庭事情を気にしてたようで、安心したように目元を緩める。まるで自分のことのように考えてくれてる先輩の表情が愛おしく、俺はつい指先を先輩の手に忍ばせた。
やっぱり自転車は置いてきて正解だった。ハンドルを押してたら、スマートに手も繋げない。
先輩はびっくりしたようにこっちを見るけど、嫌がらずされるがままだった。そういうところもちょっとだけ不安になる。先輩は優しいから、俺じゃない誰かが迫ってきても、あっさり受け入れてしまいそうな危うさがある。
「あ、あのさ。今日のことなんだけど……」
俺はまたもや黒い靄みたいなものが心を覆いかけ、はっとして、先輩の言葉に耳を傾ける。
「もし、誰かに肩触られるの嫌だったら言えよ……完全には無理でも、避けられるよう頑張るから」
「えっ」
「あ、別に、嫌じゃないならいいんだけどっ! ほら今日の練習試合の後、狼谷が嫌そう? みたいに見えたから。そういうので不安になるなら、俺頑張って断るよ」
俺はびっくりして足を止める。ちょうど小川にかかる橋のところだった。
今日の出来事を先輩に見られてるのも気づいてなかったけど……それより、あの優しくて誰よりも寛容な先輩が、「断る」だって?
「なんだよ、そんなに驚いて」
先輩も足を止めてこちらを見上げる。明るい茶色の髪が、夕日に照らされて輝いた。
「あ、いや、先輩がちゃんと断れるのかなって……疑問に思って」
「何を!? 俺だって断ろうと思えばできるよ!」
「でも……」
先輩は優しいし、めったに怒らない。頼まれごとも、よっぽどのことじゃなきゃ断らない。
自分を後回しにしてでも人に尽くそうとする節があるから、そういう行動になるんだろうけど……でもそれって、やめろって言われてやめられるもんじゃないよな? きっと、先輩の中に根っこみたいに染みついてるものだ。
俺が半信半疑で先輩を見ると、先輩は一瞬だけムッとしたみたいに目を釣り上げて……でも、すぐにふっと視線を落とした。
「俺、もう誰彼かまわず世話するのはやめたから。あ、もちろん軟式野球部のみんなはサポートするけど……ちゃんとその、狼谷とは分けるよ、接しかた」
俺はびっくりして目を見開く。思わず繋いでいた手を離して、先輩の両頬を手で挟んでしまった。
「先輩どうしたんですかっ!? 何か悪いものでも食べましたかっ!?」
「そんなん食べてないわ!」
柔らかい頬をを膨らませ、先輩が抗議する。
「この前楓丘高校との練習試合で思ったんだよ! 俺、なんで岩崎みたいなやつのために一生懸命マネージャーしてたんだろうって……それならちゃんと、狼谷みたいに俺を大事にしてくれる人を大事にしたいというか……好きな人が嫌がることはしたくないというか……」
もにょもにょと語尾をあやふやにする先輩は、頬を赤くさせてる。俺は驚きで言葉を失った。
どんなに尽くしても変わらないもの。それは、夏休みの宿題と、明日の天気。高くなるコンビニ飯の値段と……過去の行いと、他人の気持ち。
だから、先輩が俺以外に優しくしようが、誰にでも手を差し伸べようが、俺にはどうしようもできないことだと思ってた。だって、先輩の気持ちは変えられないから。他人の考えにまで、俺は影響を及ぼせないから。
——でも、変わった。
別に、先輩の考えを変えようとして尽くしたわけじゃない。けど、先輩は俺の気持ちを汲み取って、考えを変えてくれた。
その事実にまず驚きで息が詰まる。心臓がぎゅうっと絞られるように痛んで、少し遅れてから、嬉しさと愛おしさが押し寄せてきた。
……もしかして、俺ってこの人にとってちゃんと特別なのかも。影響を与えられるくらいには、好かれてるんだ。
気づいたら俺は、先輩の小柄な体をぎゅっと抱きしめていた。
「なっ! きゅ、急にどうした?!」
「先輩が俺のために考え方を変えてくれたのが、嬉しいんです。確かにちょっと嫉妬もしましたけど……でも、頑張らなくていいです。その気持ちだけで十分嬉しいんで」
鼻先に柔らかな髪が触れ、自然と先輩の首に顔を埋める。胸の鼓動が肌を通して伝わり、お腹の奥まで熱くなった。
俺がそのまま動けずにいると、先輩も戸惑ったように背中に手を回して抱きしめ返してくれた。その体温の重なりが、俺の心を甘い蜜のように満たす。
「でも、好きな人のためには頑張りたいじゃん……?」
ああ、そう思ってたのは俺だけじゃないんだ。胸が弾けそうなほど喜びでいっぱいになり、思わず先輩の耳元に唇を寄せた。
「先輩、今すぐキスしたいです」
腕の中の先輩はびっくりしたように肩を跳ねさせる。でも断りはしなくて、少しきょろきょろ見渡したあと、声もなく頷いた。
俺は体を少し離して、先輩の顔を覗き込む。伏せられたまつ毛は髪と同じ薄い茶色で、緊張で震えているのがたまらなく愛おしい。
今すぐ先輩の薄い桃色の唇を奪いたい気持ちを抑え、代わりに赤い頬をゆっくり撫でた。ぴくりと体が跳ねるたび、こんなに敏感で大丈夫だろうか? と心配になる。けれど、いつか、もっと先輩を愛でたい気持ちは、止められない。
そっと先輩の丸い耳を撫で、頭の後ろに手を回して軽く抱き寄せる。顔を近づけ、唇を重ねた。
「……んっ」
触れるだけのキスを繰り返すたび、もっと欲しくなり、つい先輩の唇を軽く噛んでしまう。この先を求めたい気持ちでいっぱいだけど、腕の中で息を止めている先輩の限界が近そうだった。
早く、キスをしながらでも呼吸できる方法を教えてあげたい。そしたらずっと、甘い口付けを交わせられるのに。
顔を離すと、熟れた林檎みたいに真っ赤な先輩が視界に映る。途端に胸のあたりでしゅわしゅわと炭酸が弾けるように愛おしさが溢れ、俺はもう一度先輩にキスをした。
この手の中にいる限り、俺はめいっぱい先輩に尽くしたい。
健気で努力家な恋人を腕に抱きながら、俺は自然と目元を細めた。
完
