蝉の鳴き声がグラウンドに響く。夏休みの最終週に入った金曜日、いつものごとく部室に行くと、狼谷がいた。
「よっ……」
俺は平常通りの挨拶を心がけたが、狼谷は「あっ、お、俺部室の鍵もらってきます!」と着替え途中の中途半端な格好で俺の脇を駆け抜けて行った。
「あっ、ちょっと!!」
と去り行く背中に声をかけたものの、狼谷は振り返らない。
「くそっ、なんなんだあいつ……」
「およ? 狼谷どうしたん?」
俺に続いて狼谷とすれ違った三瓶が、頭の後ろに手を組んでやってきた。三瓶の隣には四谷もいて、俺はつい「知らん」とぶっきらぼうに答えてしまう。
「柴山氏と狼谷氏は喧嘩でもしたようですな?」
四谷が四角いメガネを上げて、聞いてくる。俺はよくわからなくて「どうなのかな……」と答えた。
楓丘高校の練習試合から今日でちょうど一週間が経った。狼谷はあれから俺を避けている。
最初はえっ、とショックを受けいていたものの、今はなぜ? という疑問の方が強い。
キスが嫌だったのだろうか……でもキスして欲しいって言ってきたのは向こうだし……じゃあ、なんで避けられているのだろう?
話しをしたくとも部活では避けられるし、チャットも返信が返ってこない。悶々と過ごすうちに、一週間も時間が経ってしまった。
——もうそろそろどうにかしたいな……
俺は部活動中にあれこれと考えたけれど、良い案は浮かばず、あっという間に時間が流れて行く。
気づいたら練習の時間も終わりを迎え、道具の片付けに入ってしまった。
俺は水道でジャグを洗いつつ、今日無理矢理にでも狼谷と話す時間を作ろうか……なんて考えていたら、ホソヤンとマルオがやってきた。
「あっ、柴山氏。ここにいた」
「日曜日にみんなで桜川の花火大会に行こうって話しをしてたんだけど、柴山は予定どう? 暇?」
桜川の花火大会は、ここら辺じゃ一番の大きな祭りだ。河川敷には色とりどりの屋台が並んで、人の波とソースが焦げる香りでむせ返るほど賑やかになる。
そういえば去年も、みんなで出かけたっけ。夜空を彩る花火に歓声を上げながら、焼きそばを食べた記憶が残っている。
「もうそんな季節かぁ……うん、空いてる空いてる」
「よっしゃー! じゃあ、これで全員揃うな。あとで集合時間決めようぜ」
マルオの言葉に、俺はえっと目を瞠る。
「全員ってことは……狼谷も行くの?」
「さっき聞いたら、行くって言ってたよ」
ホソヤンの答えに、俺は「そ、そっか……」と答える。
もしかして、二人だけで話せるかな……いや、十人で行くから無理か。
そうわかっていながらも、俺は明日の花火大会に少しだけ期待してしまうのだった。
日曜日の午後の五時半、花火大会の最寄駅にみんなで集まった。俺は白いTシャツにジーパン。肩にトートバッグを引っ提げて行ったが、マルオは柄シャツ、ホソヤンはポロシャツ、西山と東野は甚平……などなど、みんな私服に個性があって新鮮に感じた。ちなみに狼谷は、黒のTシャツに黒いズボン。黒いボディバッグで、全身真っ黒だった。
総勢十名のグループでお祭り会場の河川敷まで向かう。狼谷は俺のいる場所からほど遠く、前方を歩いていた。背も高く真っ黒なので、いる場所がわかりやすい。
「にしてもすごい人だねぇ……」
俺の隣で一ノ瀬が呟く。多分お育ちが良いであろう一ノ瀬は、きっちり浴衣を着ていた。
「これは場所取りと食べ物調達で人を分けたほうがいいか?」
前を歩いていた二階堂が後ろを振り返る。二階堂は半袖シャツを羽織っていて、まさかの手ぶらで来ていた。
「そうだね。次の赤信号で一旦止まって作戦会議をしよう」
交差点の前で一ノ瀬が「ちょっと集まって〜」と号令をかけたとき、俺は一つの妙案が浮かんだ。
「場所取りと食べ物調達で人を分けようって話が出たんだけど……てか、誰かレジャーシート持ってきた?」
一ノ瀬の問いかけに、バケハを被った三瓶と謎の英字プリントTシャツを着た四谷が真っ先に「持ってきてない」と口を揃えて言う。他のみんなも同じようだったので、俺は小さく手を挙げた。
「俺レジャーシート持ってきたから、狼谷と二人で場所取っておくわ」
「えっ」
少し離れた場所にいた狼谷が、驚いたように目を丸くする。
「さすが柴ママ! じゃ、俺焼きそば担当〜! 焼きそば食べたい人、プチョヘンザ〜!」
マルオの第一声を皮切りに、「じゃあ俺らはかき氷担当」「たこ焼き食いたいやついる?」などと言って、各々担当が決まっていく。
「だからママじゃないって! たく……じゃ、場所取れたら写真送るから。電波繋がらない人は電話して」
俺はそう言って、屋台の並びがある方へ行くみんなを見送った。
「あの、えっと……」
狼谷はわかりやすく戸惑っているので、俺は狼谷の服の裾を掴んで、「さっ、俺らも行こう」と言って歩きだした。
階段を登り、河川敷を見下ろすと、幸いにもまだ場所は空いていた。十人分となるとかなり広い面積が必要なので、早々に場所を決めて陣取る。
スマホで写真を撮ってみんなに送ると、一ノ瀬から『屋台がどこもすごい人で、かなり時間がかかりそう』と返信があった。追加でマルオからも『俺花火の打ち上げ開始に間に合わないかも(涙の絵文字)』とメッセージが送られてくる。他のみんなも同じ状況みたいだ。
「みんな、時間かかりそうだって」
「そうですか……」
広いブルーシートの真ん中で、俺と狼谷は体育座りになり、膝を抱える。
俺は軽く周りを見渡して、知り合いがいないのを確認してから口を開いた。
「あ、あのさ……最近俺のこと避けてるけど、なんで?」
「…………」
狼谷は顔を俯かせ、視線をブルーシートの上で左右に泳がせるだけで、何も言わない。
俺はため息混じりに、仕方なく一方的に話すしかなかった。
「……なんで避けられてるのかもわかんないし、理由だけでも教えてよ」
返事はやっぱりない。
これでも狼谷の気持ちを表情から読み取れるつもりでいたけど……今の狼谷は、何を考えてるのかさっぱりわからなかった。
「狼谷は……」
俺は痺れを切らして、今まで胸の奥にしまって言わないようにしていたことを口にした。
「……俺のことを好きって言ってくれたけど……やっぱりあれは……違かったってこと?」
あの日俺にキスされて、もしかしたら狼谷は気づいたのかもしれない。俺への「好き」って感情が、本当は恋愛的な意味じゃなくて、先輩への尊敬や憧れからくる感情の横滑りだったって……
それなら、避けられる理由も理解できる。だって、好きって言った手前、「やっぱり違いました」なんて簡単に言えるわけないもん。
——じゃあ、俺の気持ちはどうなるの……?
話している途中から声が震え、慌てて鼻をすすったとき、狼谷が勢いよく「違います!」と叫んだ。
「違う……?」
「あ、いや、違うっていうのは……俺の先輩への気持ちは変わらず、好きってことです。それは絶対に揺るぎません」
やっと俺の顔を見た狼谷は、言葉を詰まらせながらも確信に満ちた目を向けてくる。
「じゃあ、なんで最近俺を避けてるんだよっ! 普通に傷つくだろうが!」
俺は出そうになった涙を袖で拭って、狼谷の肩に軽くグーパンチを繰り出した。
「す、すみません、それは本当に……」
「謝るぐらいなら、理由を話せよ」
狼谷は一瞬ためらう。深呼吸をして、目を伏せたまま呟いた。
「……じゃあ、俺の話をしても、先輩、引かないって約束してくれますか……?」
そんなの、わかるわけないじゃん、聞いてないんだから。そう思ったけれど、俺は黙って頷く。じゃないと狼谷が話してくれなさそうだったから。
狼谷は俺の反応を見てもなかなか決心がつかないのか、視線をうろつかせるだけでなかなか話さない。俺は黙ったまま狼谷が喋ってくれるのを、静かに待った。
夕暮れの光が狼谷の顔を照らす。長いまつ毛が細かく震えていたが、あるときを境にぴたりと止まった。
「……俺、不安なんです。先輩のことが好きすぎて」
「……不安?」
「はい」
狼谷はまたもやブルーシートを見つめて話す。
「先輩って誰にでも優しいじゃないですか……俺がキスしてくださいって言ったらキスしてくれるし、誰彼かまわず手を差し伸べるし。そんなところが好きなんですけど、でも同時に嫌になるんです。できれば先輩には……俺だけを見てほしいなって思ってしまって……」
俺はびっくりして目を見開いた。誰彼かまわず手を差し伸べているつもりなんてなかったけど……狼谷の目にはそう映ってたってこと?
「あと、俺、想像しちゃったんです。先輩にキスしてもらって、もし万が一、本当に幸運なことに、先輩と付き合えたらどうなるんだろうって……そしたら俺、すごい不安になっちゃいました。先輩に言いましたっけ? 俺の両親、お互いに不倫して離婚するんです。それはもう別に良いんですけど……でも先輩がうちの両親みたいに浮気したらどうしようって。そんなの絶対に嫌だって。離れてほしくないって……それで俺、気づいたんです」
それまで下を見ていた狼谷が、まっすぐ俺に顔を向けた。
「俺はとんでもなく危ない束縛野郎だと」
「えっ」
「先輩が俺以外に優しくするのも嫌、心変わりして浮気するのも嫌、こんな危険な奴……先輩の近くにいてはいけません! だからこの気持ちは封印することにしました。なので俺の告白はなかったことにしてください!」
最後の最後に、狼谷は謝るように頭を下げる。黒い髪のつむじがよく見えた。
「お、お前……」
狼谷が一人でそんなことを考えていたなんて、想像もしていなかった。
もちろんご両親が不倫して離婚したことも知らなかったし、俺の態度が不安にさせていたことも全然気づけなかった。
——でも、そっか……だから狼谷は、独占欲が強いのかな。
ふと、今までの狼谷の行動を振り返って、点と点が繋がった気がした。
「俺だけを見て」と言うのも、現実的じゃないお願いをしてきたのも、全部、ただのわがままじゃなくて、不安の裏返しだったんだ。
好きな人が離れていく。
自分の居場所がなくなっていく。
それはきっと、俺が思っている以上に怖いことだ。
全く同じではないけれど、俺も好きな野球が自分の手元から離れていくような感覚を知っている。自分の居場所がなくなるような経験も。
だからこそ、好きなものに執着してしまう狼谷の気持ちも、なんとなく理解できる気がした。
「……わかった。一つ言わせてくれ」
俺の重苦しい声音に、狼谷がゆっくり顔を上げる。俺はその隙を狙って、
「俺を……お前の両親と一緒にするな! バカッ!!」
と叫んで、狼谷の胸元あたりに頭突きをかました。
「痛っ! せ、先輩何なんですか急に!?」
「何なんですか? はこっちのセリフだ!ボケ! 勝手に告白をなかったことにしやがって! 俺の気持ちはガン無視かよっ! しかも勝手に浮気するとか思われてるし! ふざけんなっ!」
はぁはぁ、と息切れしながらも、思ったことを全部言う。しかし負けず劣らず、狼谷も声を張り上げた。
「で、でもっ! 本当に俺はやばい奴なんです! 先輩が誰かにお願いされてキスしてたら、発狂します!」
「俺をなんだと思ってんだ! さすがにキ、キスは、好きなやつにしかしないだろっ!!」
狼谷がぽかんと口を開けた。俺は恥ずかしさを押し殺して、本音をぶちまける。
「俺は……俺は楓丘高校の練習試合のとき、俺のために一生懸命頑張ってくれるお前が好きだなって、思ったんだよ。何考えてるかわかんないときもあるけど、意外と単純だなって可愛く思ったり、見ていないようで俺の顔色見てたり、なんか、そういうの全部、いいなって……思って、キスしたのに、なんなんだよ、誰彼かまわずキスなんかできないって、俺」
あのときの緊張感と言ったら、もう一生やれないかも、と思うほど恥ずかしかった。狼谷のご両親は不倫してるって言ってたけど……俺には全然やれそうにない。狼谷を好きになるので精一杯なのに、同時進行ってどうやるの?
「あと、浮気が嫌なのはフツーだろっ。好きならなおさら、心変わりが嫌なのは当たり前じゃん! 別にそれで束縛だなんて思わないしっ!」
どんな常識で生きてきたのかわからないけど、恋人がいるのに別の恋人を作ったら誰でも嫌だろ。それとも俺が知らない間に日本って一夫多妻制にでもなった?
俺の怒涛の発言に目を丸くしていた狼谷は、ややあってから謝るように俯いた。
「……すみません……俺、一人で勝手に突っ走ってたみたいです……先輩のこと、全然わかってませんでした」
「そ、そうだぞ……あと、勝手に告白をなかったことにするな。俺の気持ちはもう決まっちゃったし……」
恥ずかしくてまごついちゃったけど、ちゃんと意味は通じたみたいだ。
狼谷は改めて俺の目を見る。言葉にできない気持ちが、その黒い瞳の奥で渦を巻いているように、俺には見えた。
「……でもやっぱり俺は不安です。先輩、誰にでも優しいから」
「じゃあ、どうやったら安心できるんだよ」
狼谷は迷うように視線を泳がせていたが、意を決したように口を開いた。
「……先輩の特別なものを一つ、俺にくれませんか? 他の人にはしないけど、俺にだけはしてくれること」
とんでもなく悩んでいるように見えたのに、意外と可愛らしいお願いをしてきて、俺はふっと笑みが溢れる。
「一つとは言わず、いくつでも……あ、俺ができることに限るからな!」
これで「俺だけを見てください」とか「俺以外に笑わないでくさい」とか言われても難しい。
慌てて条件を付け加えると、狼谷は「先輩、心広すぎます」と言って、とろけるほど甘く目を細めた。
「じゃあ、キスとハグと……手を繋ぐの。それは俺にだけしてくれませんか?」
「……それだけでいいの?」
今まで散々無理難題を言われてきたので、少しばかり肩透かしをくらう。とんでもない束縛野郎、なんて自分で言うもんだから、「チャットアプリの連絡先を全部消してください」ぐらいのお願いはされるかと思ってたけど……キスもハグも手を繋ぐのも、そんなの恋人以外にしないじゃん。
けれど狼谷は「先輩、まじすか……」と呻くように言うと、考えた末にもう一つ追加してきた。
「……じゃあ、俺が打席に立ったときは、俺だけを見てください」
狼谷の眉を寄せる表情が、ひどく不安そうで、胸が詰まる。もしかしたらこれが、一番のお願いなのかもしれない。誰かに見てほしかったと言っていた、狼谷の切実さが滲んでいる気がする。
俺は自然と口元を緩めて、狼谷の不安を吹き飛ばすように笑った。
「わかった。四六時中ずっとお前だけを見ることはできないけど、打席に立ったときはできるよ」
途端に狼谷の瞳が、ぱっと明るくなった。切れ長の目尻が、これまで見たことのないほど柔らかく弧を描く。
「先輩って本当に沼です……今の笑顔も、ほんとずるい」
俺は思わず笑って、「まじかよ」と返す。
「じゃあ、今の笑顔は何点?」
「そんなの一億点ですよ」
そう言って狼谷は、ブルーシートに置いた俺の手にそっと触れてくる。ほんの一瞬の接触なのに、火傷みたいに熱くて、俺はびくりと肩を揺らした。
「……っ」
声が零れそうになり、慌てて唇を引き結ぶ。でも狼谷は気づいていて、ほんの少し意地悪そうに、でも優しく指を絡めてくる。
その動作が、ゆっくりすぎて、余計に息苦しい。最初は小指と小指が触れるだけ。次に薬指が重なり、やがて掌と掌が吸い寄せられるみたいに重なった。
「ちょっ……」
思わず引きたくなったけど、狼谷の指が逃がさない。逆に、俺の震えを確かめるように、ぎゅっと力を込められた。
俺は顔が熱くなって下を向く。すると耳元で、狼谷の低い声が響いた。
「先輩、好きです。俺と付き合ってくれませんか」
近すぎる距離で囁かれ、吐息が頬にかかる。心臓が喉元までせり上がって、まともに息ができない。
「……こ、こちらこそ……よろしくお願いします」
言葉尻が震えて、喉の奥から掠れた声しか出なかった。顔の熱さに耐えきれなくて、唇を噛む。恥ずかしすぎて、告白なんて一生に一度でいいと本気で思った。
ちょうどそのとき、夕闇に染まりつつある空にひゅぅ〜っと光の球が上り、大輪の花火が咲いた。ぱぁん、と弾ける音に続いて「わぁ!」と歓声が広がる。
狼谷が耳元から顔を離して、俺の顔を覗き込んでくる。俺なんかより花火を見ればいいものを、あろうことか「キスしたいです」と囁いてきた。
「先輩の特別、今ほしいです。だめですか?」
そうやって、最後の選択肢を譲るのはずるい。ずるいけど、その優しさに胸を打たれて、俺は熱を持った顔で頷いた。
「みんな花火見てるから……いいよ」
狼谷の手が、俺の頬にそっと触れる。親指が耳の下をなぞって、びくりと身体が震えた。緊張で肌が粟立ち、俺は慌てて目を瞑る。
「先輩、可愛いです」
視界が遮られると、他の感覚が鋭くなる。狼谷ってこんなに甘い声で話す人だったっけ?
そんな小さな気づきも、唇が触れた途端にどうでもよくなった。やわらかく、甘く、息が止まりそうなほど優しい口づけ。
あんなにうるさかったはずの周りの喧騒も、もう聞こえない。俺の五感も意識も、全て狼谷が持って行く。
今きっと俺の心臓は、美しく打ち上がった花火よりも、高く大きく鳴り響いていた。
「よっ……」
俺は平常通りの挨拶を心がけたが、狼谷は「あっ、お、俺部室の鍵もらってきます!」と着替え途中の中途半端な格好で俺の脇を駆け抜けて行った。
「あっ、ちょっと!!」
と去り行く背中に声をかけたものの、狼谷は振り返らない。
「くそっ、なんなんだあいつ……」
「およ? 狼谷どうしたん?」
俺に続いて狼谷とすれ違った三瓶が、頭の後ろに手を組んでやってきた。三瓶の隣には四谷もいて、俺はつい「知らん」とぶっきらぼうに答えてしまう。
「柴山氏と狼谷氏は喧嘩でもしたようですな?」
四谷が四角いメガネを上げて、聞いてくる。俺はよくわからなくて「どうなのかな……」と答えた。
楓丘高校の練習試合から今日でちょうど一週間が経った。狼谷はあれから俺を避けている。
最初はえっ、とショックを受けいていたものの、今はなぜ? という疑問の方が強い。
キスが嫌だったのだろうか……でもキスして欲しいって言ってきたのは向こうだし……じゃあ、なんで避けられているのだろう?
話しをしたくとも部活では避けられるし、チャットも返信が返ってこない。悶々と過ごすうちに、一週間も時間が経ってしまった。
——もうそろそろどうにかしたいな……
俺は部活動中にあれこれと考えたけれど、良い案は浮かばず、あっという間に時間が流れて行く。
気づいたら練習の時間も終わりを迎え、道具の片付けに入ってしまった。
俺は水道でジャグを洗いつつ、今日無理矢理にでも狼谷と話す時間を作ろうか……なんて考えていたら、ホソヤンとマルオがやってきた。
「あっ、柴山氏。ここにいた」
「日曜日にみんなで桜川の花火大会に行こうって話しをしてたんだけど、柴山は予定どう? 暇?」
桜川の花火大会は、ここら辺じゃ一番の大きな祭りだ。河川敷には色とりどりの屋台が並んで、人の波とソースが焦げる香りでむせ返るほど賑やかになる。
そういえば去年も、みんなで出かけたっけ。夜空を彩る花火に歓声を上げながら、焼きそばを食べた記憶が残っている。
「もうそんな季節かぁ……うん、空いてる空いてる」
「よっしゃー! じゃあ、これで全員揃うな。あとで集合時間決めようぜ」
マルオの言葉に、俺はえっと目を瞠る。
「全員ってことは……狼谷も行くの?」
「さっき聞いたら、行くって言ってたよ」
ホソヤンの答えに、俺は「そ、そっか……」と答える。
もしかして、二人だけで話せるかな……いや、十人で行くから無理か。
そうわかっていながらも、俺は明日の花火大会に少しだけ期待してしまうのだった。
日曜日の午後の五時半、花火大会の最寄駅にみんなで集まった。俺は白いTシャツにジーパン。肩にトートバッグを引っ提げて行ったが、マルオは柄シャツ、ホソヤンはポロシャツ、西山と東野は甚平……などなど、みんな私服に個性があって新鮮に感じた。ちなみに狼谷は、黒のTシャツに黒いズボン。黒いボディバッグで、全身真っ黒だった。
総勢十名のグループでお祭り会場の河川敷まで向かう。狼谷は俺のいる場所からほど遠く、前方を歩いていた。背も高く真っ黒なので、いる場所がわかりやすい。
「にしてもすごい人だねぇ……」
俺の隣で一ノ瀬が呟く。多分お育ちが良いであろう一ノ瀬は、きっちり浴衣を着ていた。
「これは場所取りと食べ物調達で人を分けたほうがいいか?」
前を歩いていた二階堂が後ろを振り返る。二階堂は半袖シャツを羽織っていて、まさかの手ぶらで来ていた。
「そうだね。次の赤信号で一旦止まって作戦会議をしよう」
交差点の前で一ノ瀬が「ちょっと集まって〜」と号令をかけたとき、俺は一つの妙案が浮かんだ。
「場所取りと食べ物調達で人を分けようって話が出たんだけど……てか、誰かレジャーシート持ってきた?」
一ノ瀬の問いかけに、バケハを被った三瓶と謎の英字プリントTシャツを着た四谷が真っ先に「持ってきてない」と口を揃えて言う。他のみんなも同じようだったので、俺は小さく手を挙げた。
「俺レジャーシート持ってきたから、狼谷と二人で場所取っておくわ」
「えっ」
少し離れた場所にいた狼谷が、驚いたように目を丸くする。
「さすが柴ママ! じゃ、俺焼きそば担当〜! 焼きそば食べたい人、プチョヘンザ〜!」
マルオの第一声を皮切りに、「じゃあ俺らはかき氷担当」「たこ焼き食いたいやついる?」などと言って、各々担当が決まっていく。
「だからママじゃないって! たく……じゃ、場所取れたら写真送るから。電波繋がらない人は電話して」
俺はそう言って、屋台の並びがある方へ行くみんなを見送った。
「あの、えっと……」
狼谷はわかりやすく戸惑っているので、俺は狼谷の服の裾を掴んで、「さっ、俺らも行こう」と言って歩きだした。
階段を登り、河川敷を見下ろすと、幸いにもまだ場所は空いていた。十人分となるとかなり広い面積が必要なので、早々に場所を決めて陣取る。
スマホで写真を撮ってみんなに送ると、一ノ瀬から『屋台がどこもすごい人で、かなり時間がかかりそう』と返信があった。追加でマルオからも『俺花火の打ち上げ開始に間に合わないかも(涙の絵文字)』とメッセージが送られてくる。他のみんなも同じ状況みたいだ。
「みんな、時間かかりそうだって」
「そうですか……」
広いブルーシートの真ん中で、俺と狼谷は体育座りになり、膝を抱える。
俺は軽く周りを見渡して、知り合いがいないのを確認してから口を開いた。
「あ、あのさ……最近俺のこと避けてるけど、なんで?」
「…………」
狼谷は顔を俯かせ、視線をブルーシートの上で左右に泳がせるだけで、何も言わない。
俺はため息混じりに、仕方なく一方的に話すしかなかった。
「……なんで避けられてるのかもわかんないし、理由だけでも教えてよ」
返事はやっぱりない。
これでも狼谷の気持ちを表情から読み取れるつもりでいたけど……今の狼谷は、何を考えてるのかさっぱりわからなかった。
「狼谷は……」
俺は痺れを切らして、今まで胸の奥にしまって言わないようにしていたことを口にした。
「……俺のことを好きって言ってくれたけど……やっぱりあれは……違かったってこと?」
あの日俺にキスされて、もしかしたら狼谷は気づいたのかもしれない。俺への「好き」って感情が、本当は恋愛的な意味じゃなくて、先輩への尊敬や憧れからくる感情の横滑りだったって……
それなら、避けられる理由も理解できる。だって、好きって言った手前、「やっぱり違いました」なんて簡単に言えるわけないもん。
——じゃあ、俺の気持ちはどうなるの……?
話している途中から声が震え、慌てて鼻をすすったとき、狼谷が勢いよく「違います!」と叫んだ。
「違う……?」
「あ、いや、違うっていうのは……俺の先輩への気持ちは変わらず、好きってことです。それは絶対に揺るぎません」
やっと俺の顔を見た狼谷は、言葉を詰まらせながらも確信に満ちた目を向けてくる。
「じゃあ、なんで最近俺を避けてるんだよっ! 普通に傷つくだろうが!」
俺は出そうになった涙を袖で拭って、狼谷の肩に軽くグーパンチを繰り出した。
「す、すみません、それは本当に……」
「謝るぐらいなら、理由を話せよ」
狼谷は一瞬ためらう。深呼吸をして、目を伏せたまま呟いた。
「……じゃあ、俺の話をしても、先輩、引かないって約束してくれますか……?」
そんなの、わかるわけないじゃん、聞いてないんだから。そう思ったけれど、俺は黙って頷く。じゃないと狼谷が話してくれなさそうだったから。
狼谷は俺の反応を見てもなかなか決心がつかないのか、視線をうろつかせるだけでなかなか話さない。俺は黙ったまま狼谷が喋ってくれるのを、静かに待った。
夕暮れの光が狼谷の顔を照らす。長いまつ毛が細かく震えていたが、あるときを境にぴたりと止まった。
「……俺、不安なんです。先輩のことが好きすぎて」
「……不安?」
「はい」
狼谷はまたもやブルーシートを見つめて話す。
「先輩って誰にでも優しいじゃないですか……俺がキスしてくださいって言ったらキスしてくれるし、誰彼かまわず手を差し伸べるし。そんなところが好きなんですけど、でも同時に嫌になるんです。できれば先輩には……俺だけを見てほしいなって思ってしまって……」
俺はびっくりして目を見開いた。誰彼かまわず手を差し伸べているつもりなんてなかったけど……狼谷の目にはそう映ってたってこと?
「あと、俺、想像しちゃったんです。先輩にキスしてもらって、もし万が一、本当に幸運なことに、先輩と付き合えたらどうなるんだろうって……そしたら俺、すごい不安になっちゃいました。先輩に言いましたっけ? 俺の両親、お互いに不倫して離婚するんです。それはもう別に良いんですけど……でも先輩がうちの両親みたいに浮気したらどうしようって。そんなの絶対に嫌だって。離れてほしくないって……それで俺、気づいたんです」
それまで下を見ていた狼谷が、まっすぐ俺に顔を向けた。
「俺はとんでもなく危ない束縛野郎だと」
「えっ」
「先輩が俺以外に優しくするのも嫌、心変わりして浮気するのも嫌、こんな危険な奴……先輩の近くにいてはいけません! だからこの気持ちは封印することにしました。なので俺の告白はなかったことにしてください!」
最後の最後に、狼谷は謝るように頭を下げる。黒い髪のつむじがよく見えた。
「お、お前……」
狼谷が一人でそんなことを考えていたなんて、想像もしていなかった。
もちろんご両親が不倫して離婚したことも知らなかったし、俺の態度が不安にさせていたことも全然気づけなかった。
——でも、そっか……だから狼谷は、独占欲が強いのかな。
ふと、今までの狼谷の行動を振り返って、点と点が繋がった気がした。
「俺だけを見て」と言うのも、現実的じゃないお願いをしてきたのも、全部、ただのわがままじゃなくて、不安の裏返しだったんだ。
好きな人が離れていく。
自分の居場所がなくなっていく。
それはきっと、俺が思っている以上に怖いことだ。
全く同じではないけれど、俺も好きな野球が自分の手元から離れていくような感覚を知っている。自分の居場所がなくなるような経験も。
だからこそ、好きなものに執着してしまう狼谷の気持ちも、なんとなく理解できる気がした。
「……わかった。一つ言わせてくれ」
俺の重苦しい声音に、狼谷がゆっくり顔を上げる。俺はその隙を狙って、
「俺を……お前の両親と一緒にするな! バカッ!!」
と叫んで、狼谷の胸元あたりに頭突きをかました。
「痛っ! せ、先輩何なんですか急に!?」
「何なんですか? はこっちのセリフだ!ボケ! 勝手に告白をなかったことにしやがって! 俺の気持ちはガン無視かよっ! しかも勝手に浮気するとか思われてるし! ふざけんなっ!」
はぁはぁ、と息切れしながらも、思ったことを全部言う。しかし負けず劣らず、狼谷も声を張り上げた。
「で、でもっ! 本当に俺はやばい奴なんです! 先輩が誰かにお願いされてキスしてたら、発狂します!」
「俺をなんだと思ってんだ! さすがにキ、キスは、好きなやつにしかしないだろっ!!」
狼谷がぽかんと口を開けた。俺は恥ずかしさを押し殺して、本音をぶちまける。
「俺は……俺は楓丘高校の練習試合のとき、俺のために一生懸命頑張ってくれるお前が好きだなって、思ったんだよ。何考えてるかわかんないときもあるけど、意外と単純だなって可愛く思ったり、見ていないようで俺の顔色見てたり、なんか、そういうの全部、いいなって……思って、キスしたのに、なんなんだよ、誰彼かまわずキスなんかできないって、俺」
あのときの緊張感と言ったら、もう一生やれないかも、と思うほど恥ずかしかった。狼谷のご両親は不倫してるって言ってたけど……俺には全然やれそうにない。狼谷を好きになるので精一杯なのに、同時進行ってどうやるの?
「あと、浮気が嫌なのはフツーだろっ。好きならなおさら、心変わりが嫌なのは当たり前じゃん! 別にそれで束縛だなんて思わないしっ!」
どんな常識で生きてきたのかわからないけど、恋人がいるのに別の恋人を作ったら誰でも嫌だろ。それとも俺が知らない間に日本って一夫多妻制にでもなった?
俺の怒涛の発言に目を丸くしていた狼谷は、ややあってから謝るように俯いた。
「……すみません……俺、一人で勝手に突っ走ってたみたいです……先輩のこと、全然わかってませんでした」
「そ、そうだぞ……あと、勝手に告白をなかったことにするな。俺の気持ちはもう決まっちゃったし……」
恥ずかしくてまごついちゃったけど、ちゃんと意味は通じたみたいだ。
狼谷は改めて俺の目を見る。言葉にできない気持ちが、その黒い瞳の奥で渦を巻いているように、俺には見えた。
「……でもやっぱり俺は不安です。先輩、誰にでも優しいから」
「じゃあ、どうやったら安心できるんだよ」
狼谷は迷うように視線を泳がせていたが、意を決したように口を開いた。
「……先輩の特別なものを一つ、俺にくれませんか? 他の人にはしないけど、俺にだけはしてくれること」
とんでもなく悩んでいるように見えたのに、意外と可愛らしいお願いをしてきて、俺はふっと笑みが溢れる。
「一つとは言わず、いくつでも……あ、俺ができることに限るからな!」
これで「俺だけを見てください」とか「俺以外に笑わないでくさい」とか言われても難しい。
慌てて条件を付け加えると、狼谷は「先輩、心広すぎます」と言って、とろけるほど甘く目を細めた。
「じゃあ、キスとハグと……手を繋ぐの。それは俺にだけしてくれませんか?」
「……それだけでいいの?」
今まで散々無理難題を言われてきたので、少しばかり肩透かしをくらう。とんでもない束縛野郎、なんて自分で言うもんだから、「チャットアプリの連絡先を全部消してください」ぐらいのお願いはされるかと思ってたけど……キスもハグも手を繋ぐのも、そんなの恋人以外にしないじゃん。
けれど狼谷は「先輩、まじすか……」と呻くように言うと、考えた末にもう一つ追加してきた。
「……じゃあ、俺が打席に立ったときは、俺だけを見てください」
狼谷の眉を寄せる表情が、ひどく不安そうで、胸が詰まる。もしかしたらこれが、一番のお願いなのかもしれない。誰かに見てほしかったと言っていた、狼谷の切実さが滲んでいる気がする。
俺は自然と口元を緩めて、狼谷の不安を吹き飛ばすように笑った。
「わかった。四六時中ずっとお前だけを見ることはできないけど、打席に立ったときはできるよ」
途端に狼谷の瞳が、ぱっと明るくなった。切れ長の目尻が、これまで見たことのないほど柔らかく弧を描く。
「先輩って本当に沼です……今の笑顔も、ほんとずるい」
俺は思わず笑って、「まじかよ」と返す。
「じゃあ、今の笑顔は何点?」
「そんなの一億点ですよ」
そう言って狼谷は、ブルーシートに置いた俺の手にそっと触れてくる。ほんの一瞬の接触なのに、火傷みたいに熱くて、俺はびくりと肩を揺らした。
「……っ」
声が零れそうになり、慌てて唇を引き結ぶ。でも狼谷は気づいていて、ほんの少し意地悪そうに、でも優しく指を絡めてくる。
その動作が、ゆっくりすぎて、余計に息苦しい。最初は小指と小指が触れるだけ。次に薬指が重なり、やがて掌と掌が吸い寄せられるみたいに重なった。
「ちょっ……」
思わず引きたくなったけど、狼谷の指が逃がさない。逆に、俺の震えを確かめるように、ぎゅっと力を込められた。
俺は顔が熱くなって下を向く。すると耳元で、狼谷の低い声が響いた。
「先輩、好きです。俺と付き合ってくれませんか」
近すぎる距離で囁かれ、吐息が頬にかかる。心臓が喉元までせり上がって、まともに息ができない。
「……こ、こちらこそ……よろしくお願いします」
言葉尻が震えて、喉の奥から掠れた声しか出なかった。顔の熱さに耐えきれなくて、唇を噛む。恥ずかしすぎて、告白なんて一生に一度でいいと本気で思った。
ちょうどそのとき、夕闇に染まりつつある空にひゅぅ〜っと光の球が上り、大輪の花火が咲いた。ぱぁん、と弾ける音に続いて「わぁ!」と歓声が広がる。
狼谷が耳元から顔を離して、俺の顔を覗き込んでくる。俺なんかより花火を見ればいいものを、あろうことか「キスしたいです」と囁いてきた。
「先輩の特別、今ほしいです。だめですか?」
そうやって、最後の選択肢を譲るのはずるい。ずるいけど、その優しさに胸を打たれて、俺は熱を持った顔で頷いた。
「みんな花火見てるから……いいよ」
狼谷の手が、俺の頬にそっと触れる。親指が耳の下をなぞって、びくりと身体が震えた。緊張で肌が粟立ち、俺は慌てて目を瞑る。
「先輩、可愛いです」
視界が遮られると、他の感覚が鋭くなる。狼谷ってこんなに甘い声で話す人だったっけ?
そんな小さな気づきも、唇が触れた途端にどうでもよくなった。やわらかく、甘く、息が止まりそうなほど優しい口づけ。
あんなにうるさかったはずの周りの喧騒も、もう聞こえない。俺の五感も意識も、全て狼谷が持って行く。
今きっと俺の心臓は、美しく打ち上がった花火よりも、高く大きく鳴り響いていた。
