朝、鳥の鳴き声が聞こえて、意識が浮上する。
「あれ、俺いつの間に……」
隣を見ると、誰もいない。昨日の出来事は夢か……と思っていたら、扉が開いて狼谷が現れた。狼谷はもう私服に着替えていて、身なりもきっちり整えている。
「先輩、おはようございます。朝ごはんできてるって、お母さんが」
「お、おぉ……」
目をこすりながら、俺は曖昧に返事をした。……あの感じだと、狼谷は昨日のことを覚えてないっぽい。
「まじか……」
もう一度話すのか? それは恥ずかしすぎて無理!!
俺はもやもやした気分のまま着替えと身支度を済ませ、ダイニングで朝食をとる。母さんに「ちゃんと一輝くんをバス停までお見送りしなさいよ」と言われたから、悶々としながら狼谷と一緒に最寄りのバス停まで歩いた。
時刻はまだ八時前だというのに、外は汗をかくほど暑い。
俺は狼谷と並んで歩きながら、昨日の話を切り出そうかどうかで迷った。もうこのままうやむやで帰ってもらおうかな……なんて迷っている間にバス停に着いてしまい、二人で並んで座る。
「そういえば、先輩」
「ん? なに?」
「どうしたら、先輩は俺のこと好きになってくれますか?」
一瞬、頭が真っ白になった。言葉の意味を理解した途端、顔が一気に熱くなる。
「お、おまっ、昨日の夜の!」
「さすがにご家族がいる前で聞くのはどうかと思いまして……で、どうですか? 俺は先輩の恋愛対象に入りますか?」
狼谷が、ぐいっと距離を詰めて問いかけてくる。
あ、昨日のことを忘れてたんじゃなくて、気を遣ってくれてたのか……と悟ったのと同時に、俺が色々悩んで言えなかったことを、狼谷はあっさり聞いてきて、「すごいなっ!?」と感心する。いやでももうちょっと、心の準備ができる間がほしかったけど!!
「そ、そもそも! 本当に俺のこと好きなの……? そこから疑ってるんだけど……」
昨日の狼谷はほとんど寝かけてたし、もしかしたら俺の早とちり? 勘違い? 的なこともあるだろうと思って聞いたのに、なぜか狼谷は得意気に胸を張った。
「俺、自分でも先輩に対するこの気持ちがなんなのかよく分かってなかったんですけど……先輩に『好きなの?』って聞かれて、すとんって腑に落ちたんです。先輩の目線を独占したいし、俺にだけ笑ってほしいし……それに、笑顔が可愛いって思うの、先輩だけなんです。これってやっぱり、好きってことですよね?」
稀に見るきらきらの目で聞かれ、俺はぷしゅーっと顔から蒸気が出るかと思った。
な、なんなのこいつ!? よくそんな恥ずかしいこと言えるね!? というか好きかどうかって、本人に聞くことなのか!?
俺がわなわな震えて何も言えずにいると、先に狼谷が口を開いた。
「で、どうですか? 先輩は同性相手だと難しいですか?」
「そ、それは……」
今まで部活漬けでまともに恋愛なんてしてこなかったし、女子ともろくに話したことがない。でもなんとなく友達の大半がそうだったから、自分も女の子が好きなんだろうって思ってた。
——でも、俺も狼谷の笑顔は可愛いと思う……
同性相手にこんな気持ちになるのは初めてだ。だから狼谷の問いかけを、完全に否定することができない。
「わ、わかんないっ!! い、今まで誰かを好きになったことないし……」
正直に本音を言うと、狼谷は馬鹿にすることなく、優しく微笑んだ。
「わかりました。じゃあ、俺が先輩にアプローチしたら、嫌ですか?」
「ア、アプローチ……?」
「俺が先輩のことが好きって、言葉とか行動で伝えることです」
俺は恥ずかしさで頬が熱くなる。頭の中で、どうにか狼谷が俺にアプローチしてくる姿を想像しようとしたけど……全然うまく描けない。でも、狼谷に「好きです」って言われて嫌な気持ちにはならなかった。そりゃ、恥ずかしいとは思うけど……狼谷に特別な思いを向けられて、嫌悪感はまるで感じなかった。
「べ、別に嫌じゃないけど……狼谷の気持ちに答えられるかはわかんないよ」
あれだけアプローチしたのに! なんて怒られても困る。そういう意味でちゃんと予防線を張ると、狼谷はほっとしたように頷いた。
「大丈夫です。無理だなって思ったら、すぐに言ってください」
そう言うと、狼谷は指先で俺の指に、ちょんと触れてきた。
前までは何ともなかったのに、急にそういう目で見られていると思うと、まるで指先に火がついたみたいに熱さでばっと手を引きたくなる。
でも、嫌ではない。ただ、恥ずかしいだけだ。
これが狼谷の言ってたアプローチってやつ……? と思いながら、俺は引っこめたい衝動をぐっと抑えて我慢した。
すると、狼谷はいよいよ大胆になり、指を絡ませようとしてくる。
「ちょ、ちょと、狼谷っ」
家の近所で手を繋ぐなんて、俺には恥ずかしすぎて無理だって!
でもちょうど運良くバスがやってきて、狼谷の指が離れる。ほっとしたのも一瞬で、狼谷は「先輩、次会えるの楽しみにしてます」と、甘い笑顔を向けてきた。
俺は「う、うん」と頷くことしかできず、バスに乗り込む狼谷を呆然と見送る。
「狼谷のあんな笑顔、初めて見た……」
これがアプローチってやつなのか? だとしたら、嫌ではないけど……恥ずかしすぎて俺の心臓が持たないかもしれない!
狼谷の告白から数日後、俺は緊張しながら高校の最寄り駅のホームに降りた。改札の外に出ると、狼谷が自転車を止めて待っている。
「先輩、おはようございます。荷物、カゴに入れますか?」
「お、おはよう……あ、ありがとう」
どぎまぎしながら、俺は狼谷の自転車の前カゴに保冷バッグを入れた。中にははちみつレモンが入っている。
告白された日のあと、すぐに狼谷から『次の部活ではちみつレモンが食べたいです』とメッセージが来た。いつもなら『了解』とスタンプを返して終わるけど、今回は『先輩今何してますか?』と返事があってびっくりした。しかも、一日に三往復ほどのやりとりが、今の今まで続いているのだ。
そして今日、あの告白以来初めて会うけれど……狼谷の態度に大きな変化はない。学校までの道すがら、さりげなく歩道側を俺に譲ってくれたくらいだ。
突然大きな変化があってもついていける自信がなかったので、拍子抜けすると同時に、ちょっと安心した。これなら俺の心臓も無事に持ちそうだ。
学校に着いてからも、狼谷の些細な気遣いは続いた。
俺が体育教官室にタッパーを持って行こうとすると、「俺がやっときますよ」とさらりと保冷バッグを持って行ってくれたり、アップの準備を率先して手伝ってくれたり……しかもホソヤンや一ノ瀬の持っている道具には見向きもせず、俺のところに一直線にやってきて、道具を持っていってくれるのだ。
途中でマルオが「狼谷ぃ〜俺のも持ってくれよぉ〜」と言っていたけど、狼谷は「先輩は一人で頑張ってください」と返していて、俺だけ特別扱いなんだなと、心臓が妙にざわざわした。
——む、むずがゆい……。
大きな変化はなくても、小さな変化の積み重ねで、狼谷の好意が伝わってくる。これが狼谷の言ってたアプローチってやつか、と実感するとともに、なんとも恥ずかしくて、無性にドキドキした。
嫌じゃない。むしろ……嬉しい。不思議な優越感さえ感じる。
普段誰にでも無愛想な狼谷が、自分にだけは優しくて、胸のあたりがずっとざわめいていた。
「はぁ……狼谷のせいでずっと顔が熱い気がするなぁ……」
俺はぶつぶつ呟きつつ、狼谷のおかげでやることがなくなったので、日陰に折りたたみ式テーブルを運び、はちみつレモンやジャグの準備を進めた。
今日は、急遽決まった楓丘高校との練習試合だ。初めて対戦する相手なので、後で飲み物を取りに行って、試合を見逃すなんてことは避けたい。
せっせと準備していると、アップを終えた部員たちが集まってきた。
「やった! はちみつレモンじゃん〜!」
二階堂が、ぱっちり二重の目をことさら大きくして言う。
「最近はちみつレモンの登場が多いね」
隣で一ノ瀬がきりっと一重を細めて首を傾げた。俺はぎくりとしたが、「ま、まあぁ、いいじゃん」と笑って誤魔化す。
俺はタッパーを開け、取り分け用の箸とスプーンを置いた。みんな律儀に「あざす」とか「いただきます」と一礼してはちみつレモンを取っていく。その姿を微笑ましく見ていたとき——
「あっ! 柴山じゃん!」
グラウンドの入り口から、誰かの叫び声が響いた。
俺はその瞬間、狼谷のアプローチだとか、部員にはちみつレモンが喜ばれた嬉しさだとかで浮ついていた気持ちが、一気に冷たく沈んだ。
錆びついたゼンマイみたいにぎこちなく後ろを振り返ると、グラウンドの入り口から相手校のメンバーが入ってくるのが見えた。
その中で一人、駆け足でこちらに近づいてくる背の高い選手がいる。
細く釣った目尻に、鋭い顎。見なくても声で鮮明に思い出してしまった。同じ柊中学校の同期、岩崎健太だ。
「岩崎……」
みんなが「柴山の知り合い?」とか「めっちゃ背高けぇな」とか囁いている中で、俺は体が固まって動けない。
なんで忘れていたんだろう。岩崎が楓丘高校に進学したことを。浮かれていたから? 急遽決まった練習試合で、相手校の分析ができなかったから? いや、今さら後悔しても遅い。
心の中で「来ないでくれ」と願ったけれど、岩崎はまっすぐ俺の前に来た。
「よっ! 久しぶり! やっぱいると思ったんだよね〜」
「あ、ひ、久しぶり……」
唇の端が引き攣らないように気をつけながら答える。
近くにいたマルオが「え、俺らには挨拶なし?」と眉を顰めたが、岩崎は気にしない。
気にしないというか、気にならないというか……こういうやつだったな、と思い出す。
「あっ! 柴山のはちみつレモンじゃん! 懐かしぃ〜! これがあると、なんか試合頑張れるんだよねぇ〜!」
岩崎は俺の後ろのテーブルに置いてあるタッパーを見つけるやいなや、素手でひょいと取って食べる。しかも二つ、三つとどんどん食べるので、桜庭高校軟式野球部のみんなが、「うわっ」と引いた気配がした。
そうだった……桜庭高校の緩くて優しい雰囲気に慣れて忘れかけていたけど、柊中学校の同期はみんな、競争心が高くて自分中心的な奴が多かった。
俺が呆れを通り越して懐かしさを覚えていると、狼谷が恐ろしい形相ではちみつレモンのタッパーを奪い取った。
「あなた、なんなんですか。先輩が作ったはちみつレモンをそんな雑に食べて……あと、取り分け用の箸とスプーンが見えないんですか? あなたの手は綺麗なんですか?」
桜庭高校野球部のみんなもそう思ったのか、何人かが頷いてる。一方岩崎は「なに、こいつ」と不機嫌を露わにし、俺に説明を求めた。
「えっと、俺の後輩で、名前は狼谷一輝……。こっちは岩崎健太。俺と一緒の中学校で同じ野球部だったんだ」
俺はピリピリした空気に緊張しながら、交互に狼谷と岩崎を紹介する。狼谷は「柴山先輩と同じ中学……」と、訝しむように岩崎を見つめた。
「そっ、俺柊中でピッチャーやってたんだよね」
急に岩崎に肩を組まれ、びっくりする。こんな馴れ馴れしい関係じゃなかった気がするんだけど……?
「柊中って、野球強いほうだよね?」
中学校でも野球部だったホソヤンが、同じく中学で野球をしていた一ノ瀬に聞いてる。桜庭高校軟式野球部は高校から野球を始める部員が多いので、みんなあまりピンと来てないみたいだったが、柊中学校はまあまあ野球に力を入れている学校だ。
「まぁ、でも柴山は柊中で全然野球してないけどな。だって、バッドもまともに振れないし、ボールも捕れない。あんまりにも下手すぎて、こいつマネージャーに格下げになったんだぜ? まじ笑えるっしょ!!」
俺は自然と視線が下に向くのがわかった。耳の奥でかつての同級生の笑い声がする。バットにボールが当たらなくて愕然とする俺。それを笑う柊中野球部のみんな。
今思えば、父親に影響されて軽い気持ちで野球部に入ったのが間違いだった。周りのみんなは小学校から地元の少年野球クラブに入っていて、すでに経験者しかいなかったのだ。
そんな中で、自分ができることなんてほとんどなくて……唯一できたのが球拾い。それが徐々に定着していって、俺は選手というよりマネージャーみたいな雑務処理でしか必要とされなくなった。
——あのときは自分の居場所を作るのに必死だったな……
途中で部活を辞めたら親も心配するし、内申も悪くなる。それに、ちょっと我慢すれば続けられないこともなかった。
でも後で振り返ると、結構辛かったよなって思う。だから卒業と同時にみんなとは距離を取った。たまに柊中野球部のチャットグループが動くときがあるけど、どうしても返信する気にはならない。
——でも、高校のみんなには知られたくなかったな。
俺が野球が下手なこと、それでマネージャーに格下げになったこと。それらはもちろん、積極的に広めたい話じゃない。だけど岩崎的には面白い話の一つとして、取り上げたかったのだろう。俺って中学ではそういう扱いだったし。
——ああ、また。中学のときと同じように、桜庭高校のみんなにも馬鹿にされちゃうのかな。
何にもできない俺は、野球部には必要ないって。何にもできないお前は、野球部に居場所なんてないって。
そう言われそうで……まぁ実際間違ってないから、心が死ぬんだけど。
「……なんなんですか、それ」
暗い渦のような思考に飲み込まれそうになったとき、恐ろしく冷たい声が聞こえて、俺は顔を上げる。
視界に映った狼谷は、はっきりと嫌悪の表情で岩崎を睨んでいた。
「なにって、柴山がマネージャーに格下げに……」
「格下げって、なんですか」
聞いたこともない狼谷の冷たい声音に、俺は心臓が縮み上がる。岩崎も同じだったようで、顔が一瞬怯んだように見えた。
「なんでマネージャーが下なんですか? 選手とマネージャーの関係に、上とか下とかないですよね?」
しかし狼谷は岩崎の反応など気にせず、一歩こちらに迫る。今気づいたけれど、背丈は狼谷の方が高かった。岩崎は自然と狼谷を見上げる形になる。
「いやだから、柴山は野球が下手で……」
「野球が下手だからなんですか? じゃあ野球が上手い人は上なんですか? バッドにボールを当てるだけなのに? 球を早く投げられるだけなのに?」
「それは……」
「人には適材適所、得意不得意があると思います。俺はバッドにボールを当てるのは得意だけど、先輩みたいに人の顔色を敏感に察して、サポートすることは到底できません。あなたも、普通の人より少しだけ球を早く投げられるのを自慢する前に、先輩のサポート力を見習ってはどうですか?」
俺はびっくりして、まじまじと狼谷を見つめた。
……そんな風に思ってくれてたんだ。
胸の奥に、じんわり熱いものが広がる。自分の中には一切ない発想で、目から鱗が落ちる思いがした。
「なっ! でもこいつは試合に何にも貢献してないだろっ!」
岩崎が俺の肩から手を離し、狼谷に食ってかかる。が、狼谷は馬鹿にするように鼻で笑っただけだった。
「さっき自分で言ったことも忘れたんですか。『これがあると、なんか試合頑張れるんだよねぇ』……試合、頑張れてるじゃないですか。先輩のサポートが、試合に貢献してるじゃないですか。サポートっていうのはそういうことを指すんですよ。スマホで検索してみます?」
近くにいたマルオが「ブハッ!」と吹き出した。岩崎はぎろりとマルオを睨んで、「なんなのお前ら」と舌打ちする。
「後で覚えとけよ。試合でボロカスにしてやるから」
岩崎はそう言い捨てると、自陣に戻っていた。東野と西山が「後で覚えとけよって言う人初めて見た……」「俺も……」と囁き合う。
俺が緊張で強張っていた体を解いたとき、マルオが大きな声で「よくやった、狼谷!」と叫んで、狼谷の背中を叩いた。
「柴山氏も、中学時代はあんな馬鹿の相手をしていたとは……およよ、可哀想に……」
今度はホソヤンが同情するように俺の背中をさすってくれる。
三瓶と四谷も口を揃えて、
「てかなんなんだよアイツ、勝手に俺らのはちみつレモン食べやがって!」
「しかもマネージャーが格下げとは……やっぱり食べ物素手直取り勢の言葉は格が違いますな〜」
と岩崎をディスりまくる。
俺はまさか「柴山って野球できないんだ〜」と笑われるることはあっても、慰められるとは思っていなくて、ぽかーんと口が開いてしまった。何も言えない俺を置いておいて、狼谷が俺の肩を抱き寄せる。
「ここは柴山先輩のためにも、試合で相手をボコボコにしてやりましょう」
すると部員のみんなが「そうだそうだ!」「俺らの柴山を雑に扱いやがって!」と声を張り上げる。誰からともなく円陣の形になって、俺はふいに目の奥が熱くなった。
「そんな、俺のためにいいって……」
「よくないっしょ。同じ野球部の仲間が馬鹿にされて、黙ってられるか!」
斜め前にいるマルオが声を張り上げ、俺の隣で肩を組むホソヤンが頷く。一ノ瀬も「さっきは狼谷一人に任せちゃったから、俺らも試合で頑張ろう!」と全員に呼びかけた。
「じゃあ、打倒、岩崎健太ですね」
狼谷の言葉に、みんなが頷く。
いつもならここで一ノ瀬が円陣の掛け声をするのだが、今回だけは狼谷に任された。
狼谷が息を吸う。淡々とした声が、夏の熱い空気を切り裂いた。
「桜庭の誇りを胸に!」
全員が口を開く。
「咲かせろ、勝利の桜!!」
ダンッ! とみんなで足を地面に踏みつける。土埃が舞う中、各々がグラウンドへ駆けて行った。
俺は選手たちの背中を見送りながら、胸が熱いもので満たされ、今すぐ涙となってこぼれそうになる。
ああ、今この瞬間を切り取って、中学生の俺に見せてやりたい。
バットにボールが当たらなくて絶望した日。
お情けで出させてもらった練習試合で大エラーをかました日。
影でみんなに「使えないやつ」と言われ、一人悔し涙を流した日——
俺はずっと、大好きな野球に自分の居場所がほしかった。
ただそれだけのために、辛くても、大変でも、部員のサポートに明け暮れていたんだ。
——でも、俺の居場所はここにある。
ふと、前に狼谷が言ってくれた言葉を思い出した。
『先輩が自分を犠牲にしなくたって、先輩の居場所は桜庭高校軟式野球部にあります』
そうなのかも、本当に。
今日、狼谷が俺のために怒ってくれて、部員のみんなも怒ってくれて……今初めて、あのときの言葉を心から信じられる気がした。
「先輩」
グラウンドに行こうとしていた狼谷が、立ち止まって振り返る。
「俺、絶対あの人の球を打ちます」
絶対なんて、現実にはありえないはずなのに、狼谷の真剣な眼差しは、まるで確定した未来を描いているかのようだった。
「だから俺が打席立っているときは、俺だけを見てくれませんか?」
六月も、俺の家に来たときも、狼谷は同じことを俺に言った。
『俺だけを見てください』——あれは、面倒を見てください、なんて意味ではなく、ストレートな狼谷の欲求だったんだ。
俺の眼差しが、狼谷を支える力になる。その事実に、俺の胸はぎゅうっと締めつけられた。
「……うん。わかった。狼谷が打席に立ってるときは、絶対に目を離さない」
俺は頷くだけじゃなくて、はっきり声に出す。六月のあのときには気づかなかったけど、今なら狼谷の思いが痛いほどわかった。
ちゃんと見てるよ。
狼谷は一人じゃない。
野球部の中に俺が居ていい場所があったように、狼谷にも居場所がある。この桜庭高校軟式野球部の中に、俺の眼差しの中に……そう、伝わるように狼谷を見つめる。
「……ありがとうございます」
狼谷は満足そうに頷き、目を細めてグラウンドに走って行った。
「よろしくおねがいしますっ!」
グラウンドの中心に選手が並んで、お互いに挨拶をする。先攻は向こう、楓丘高校だ。桜庭高校のみんなは走って守備位置についた。
「なぁ、柴山」
「なんですか」
ベンチの後ろに立っていた俺は、左隣にいたスーちゃんに小声で話しかけられる。俺の右側にはターちゃんが立ち、日差しが照りつけるグラウンドを三人で凝視していた。
「なんでみんな今日はあんなにやる気がみなぎってるんだ? 目つきが違いすぎないか?」
スーちゃんは眩しそうに部員を見ている。俺はなんて答えればいいのかわからなくて、「なんでですかね……」と返した。
でも、スーちゃんの言うとおり、今日はみんなの醸し出す空気が違う。いつもより声が出てるし、試合に集中しているのか、顔が険しい。
おかげで一回表は無事に守り切り、すぐに攻守が入れ替わる。
マウンドに立つのは、やっぱり岩崎だ。背丈があるから立っているだけで威圧感がある。
一方桜庭高校の一番打者は東野。なにかと肝が座ってるのと、足が速いので、出塁を期待したいところだが……
「……東野が手も足も出ない」
ベンチに座った二階堂が呟く。東野も打率は悪くないはずだけれど、岩崎のピッチングの方が上だった。
「楓丘高校はあのピッチャー頼りなところあるからな……それで今年は二回戦も突破してるし」
俺の隣で、今日の練習試合を組んでくれたターちゃんが言う。練習試合とは大抵自分と同じか、それよりちょっと上の相手と組むのが普通だ。楓丘高校はそう言う点ではうちより少し上。全く勝てないわけじゃないけど、勝率は決して高くはない。
結局三者凡退でまたもやすぐに攻守が入れ替わり、岩崎はドヤ顔をこちらに向けてきた。マルオが「なんなんあいつ、ムカつくわ〜」と言ってキャッチャーヘルメットを被る。
「まあ、でもうちも守備はうまくなったからなぁ」
二回の表、スーちゃんが呟く。ちょうどセカンドの一ノ瀬が、出塁になりそうなボールをキャッチし、相手選手を一塁でアウトにしたところだった。
確かにスーちゃんの言うとおり、うちは打撃も守備も弱々だったのが、どうにか守備だけは形になってきた。おかげで今年は一回戦突破ができたわけだし。
ヒットは出てしまうものの、どうにか失点は免れて二回の裏。バッターは狼谷だ。
「どうにか打ってくれ、狼谷……!」
同じ一年生の西山が両手を合わせて小さく呟く。俺も祈るような気持ちで、打席に立つ狼谷を見守った。
狼谷は右打ち。俺のいる位置からだと、狼谷の表情も体の動きも全部余すところなく見える。
……やっぱり、狼谷の横顔って綺麗だ。
俺はじっとバットを構える狼谷の姿を眺めながら、改めて思う。なだらかな鼻筋に、引き締まった唇。岩崎を見つめる目は静かで冷たいけど、痺れるほどにかっこいい。
その姿を見てるだけで、俺はお腹の奥がぎゅーっと熱くなる。手のひらがちょっと汗ばんで、狼谷の一挙手一投足に、目が離せなかった。
「さすがの狼谷でも難しいか……」
しかし一発目の投球が終わり、微動だにしない狼谷に、ターちゃんが残念そうに囁く。確かに狼谷は岩崎の球に手も足も出ていないように見えた。
一方俺は、内心で「どうだろう?」と首を捻る。
狼谷の表情に焦りはなく、かえって、獲物を静かに見定める狼のようだ。いつどこで捉えるか、隙を探しているのでは? と思う。
でもさすがの狼谷でも一回では見定められなかったのか、弱い当たりがあっただけで、一塁アウトになった。
その後も一進一退の攻防が続き、互いに惜しいところまではいくけど、点にはならず、五回の表が終わった。
ここまでで桜庭高校は出塁なし。岩崎のピッチングの上手さと、こっちのバッティングの下手さが如実に出た結果だ。
「でもなんか、向こう焦ってるくない?」
ベンチに戻ってきた三瓶が遠くを眺めて言う。みんなは気づいてなかったみたいだけど、楓丘高校の顧問の先生の顔が徐々に険しくなっていた。
「楓丘高校は守備頼りで、打撃はあまり強くない。それでもうちには勝てると思ってたみたいだが……みんな守備が上手くなったから、なかなか点が取れなくて焦ってるみたいだな」
ターちゃんの言葉に、俺は記入したスコアブックを見ながら「そうみたいですね」と賛同した。
本当にみんな上手くなった。向こうの方がヒットは多いけど、ちゃんとカバーして失点を防いでいる。一年前と比べたら、奇跡みたいな成績だ。
そしてここで満を持して——狼谷の登場の番がくる。
「さっきは全然ダメそうだったけど、大丈夫かな……」
東野が不安気に呟く。俺はスコアブックから顔を上げて、狼谷を見つめた。
ヘルメットから覗く狼谷の眼差しは、冷静そのものだ。方や岩崎は焦っている。本人は隠しているつもりだろうけど、何度も帽子を触る癖は、焦ったときにしか出ない。
「向こうは経験者だしね……わからないな」
東野の呟きに、一ノ瀬が返す。俺も全く同意見だった。
狼谷のバッティングセンスはすごいと思ってるけど、客観的に見たら勝敗は五分五分だ。
だからこそ、打ってくれると信じて見守る。今はそれしかできない。
狼谷がバッターボックスに立つ。一瞬、狼谷が俺を見た。ちゃんと見てるよ、って伝えたくて、小さく頷く。
狼谷が気づいたのかはわからないけど、薄い唇の口角がちょっとだけ上がった気がした。
迎えた一球目。狼谷が大きくバットを振る。俺は思わず息を呑み、心臓の鼓動が耳まで響くように感じた。
「あっ!」
——バコーン!!
高く抜けた初球。ゴムボールの芯にバットが当たった音がした。白い球は遠く遠くへ飛んでいき……
「ホームランだっ!!」
マルオの叫びに、ベンチが沸き立った。でも、俺は飛んでいく球じゃなく、狼谷の顔をずっと見ていた。
眩しそうに目を細め、ほんの少し不安そうだった瞳が、ホームランを確信した瞬間、安心したように緩む。
すぐに、狼谷と目が合った。とびきりの弾けるような笑顔を向けられ、俺の胸の中で何かが大きく脈打つ。
……誰だよ、狼谷を宇宙人って思ってたやつ。あんなにもわかりやすいじゃん。
俺のことが好きだから、俺のために怒ってくれて、それでホームランも打っちゃう。当たったら真っ先に俺を見て、嬉しそうに満面の笑顔なんて浮かべちゃってさ。
全部、俺のために。好きな人のために一生懸命な狼谷の姿。
——狼谷って、本当に、なんでも全力だ。
俺はじんわりと頬が熱を持つのを自覚しながら、息を吐く。
こんなにも真っ直ぐで、熱い想いをぶつけられるのは、初めてだ。
「そんなの……好きにならない方が、難しいって……」
俺の弱々しい囁きは、ベンチで喜ぶ部員たちの声にかき消された。
その後の試合展開は、結果で言うと1ー0で俺らの勝ちだった。狼谷が取った得点を死守しようと守りに力が入り、守備の連携が凄まじかった。おかげで岩崎の悔しがる顔も拝むことができ、みんな満足そうだった。
帰りは大会後でもないのに部員全員で勝利のお好み焼きを食べに行った。店を出る頃には日がどっぷり暮れていて、各々別方向に解散する中、狼谷は俺と違う方面なのに、わざわざついてきてくれる。夜道は危ないから、駅まで送ってくれるそうだ。
そんなのいらないけどなぁ……と思いつつ、狼谷と少し話したかったので、俺は何も言わなかった。
駅までの道を二人で歩く。街灯の明かりはあるが、人通りは少ない狭い道だった。
「本当に、今日はありがとう」
俺は隣で自転車を押す狼谷に軽く頭を下げる。二人きりになるタイミングがなくて、お礼を言うのが遅くなってしまった。
「いえ、俺の意地でやってたので……」
「でも狼谷が岩崎に反発してくれたのも嬉しかったし、俺、結構みんなに愛されてるんだなぁ〜って実感できて、感激した」
野球が下手で試合に貢献できないことに、ずっと後ろめたさを感じていた。そのせいで無理して頑張ってる節もあったけど、今日、狼谷が岩崎に怒ってくれて、俺もマネージャーとしてちゃんと居場所があるんだなってやっと信じられた。
確かに狼谷の言う通り、選手とマネージャーに上も下もない。各々得意不得意があるんだから、俺は自分の得意なサポート力に誇りを持とうと思う。
……あとは桜庭高校のみんなを疑って悪かったなって、ちょっと反省してる。
みんな俺のことを馬鹿にしたりしないってわかってたのに、信じきれてない自分がいた。これからは俺を大事にしてくれる桜庭高校のみんなを、俺も信頼して大事にしていきたい。
そう気づくことができたのは、俺の中でとても大きな出来事だ。
「あのときも言いましたけど、俺は先輩の気が遣えるところも、さりげないサポートができるところも尊敬してますし……好きです。岩崎さんはそうじゃないみたいですけど」
狼谷から唐突な「好き」が発せられ、俺は顔がほんのり熱を持つ。
「ま、まあ……それは、マネージャーだし」
照れくさくなってぼそぼそ言うと、狼谷は「……そうですよね」と呟いた。
「先輩はマネージャーだから、みんなに優しいんですもんね」
狼谷は少し硬い表情で言ったあと、黙ってしまう。俺は気まづさを感じて、「俺は……狼谷のバッティング、すごいと思ってるよ」と言った。
「俺にはできないからさ。バットにボールを当てるの。マジですごいなって、尊敬してる。今日のホームランだって……か、かっこよかったし。岩崎の悔しがる顔見れて、本当に感謝してる」
途中、恥ずかしくて言葉がつまってしまう。それもなんだか意識してるみたいで余計に恥ずかしかったけど、狼谷は気にならなかったようで、何も指摘せずに足を止めた。
「じゃあ……何かご褒美がほしいです」
「え、ご褒美?」
「はい。俺、今日頑張ったので……先輩から何かご褒美がもらえたら、すごく嬉しいです」
俺も足を止めて、「ご褒美か……」と考える。狼谷が喜ぶものって何だろう? はちみつレモンとか?
ちょうど、小川にかかる橋の上で立ち止まったので、風が気持ちよく頬を撫でる。しばらく考えても思いつかず、「うーん……たとえば?」と聞いてみた。
狼谷は黙ってこちらを見つめる。木々のざわめきに紛れて、囁くように言葉を漏らした。
「キス……とか」
「……へっ!? キ、キス!?」
俺は聞き間違いかと思って、もう一度尋ね返す。
でも狼谷は、いたって真剣な眼差しで頷いた。
キス……キスって、それって、もう恋人同士がするやつじゃん!?
顔が一気に熱くなって、言葉が出てこない。胸の奥がドクドク鳴ってて、呼吸まで速くなってきた。
「あ、えっと、その……」
狼谷のことが好きかって聞かれたら……まだ答えられない。感情がふわふわしてて、形が定まらないのに、「好き」って言葉にがっちり当てはめるのは早すぎる気がする。
だって、ついさっきの試合で「好き……かも?」って思ったばかりだ。そんなの、誰だってもう少し時間がほしいって思うでしょ!?
でも、俺を思って岩崎に怒ってくれた狼谷の姿を思い出すと、胸が熱くて、ちょっと涙ぐみそうになる。最初に野球部に俺の居場所があるって教えてくれたのも狼谷だ。狼谷の隣なら、俺も無理をせず一緒に居られる気がする。
あと狼谷って、普段は真剣で少し無愛想だけど、意外と素直で可愛いところもあるし……
——これってやっぱり好きってこと……!?
俺があたふたしている間に、狼谷が突然「やっぱりなしで」とぽつりと言った。
「えっ」
「こういうの、よくないですね。先輩が誰にでも優しいから、先輩の特別な何かがほしいなって思ったんですけど……ちゃんとその気になってくれるまで、待ちます」
狼谷は何事もなかったかのように顔をそらして、自転車を押し始める。
そのとき、あっ、と思った。これを逃したら終わりだって。
バットにボールを当てる瞬間みたいに、今、この気持ちを「好き」に振り切らなければ、大事な何かを逃してしまう気がした。
俺はごちゃごちゃ考えるのを止めて、狼谷の制服の襟を掴む。
狼谷が少し傾いた拍子に、俺は踵を上げて——狼谷の頬に唇をつけた。
「な、なかったことにするな!」
唇を離し、必死に文句を言う。俺だって、俺だって狼谷のことが——
「す、すみません…!!」
しかし、狼谷は顔を真っ青にして、弾かれたみたいに俺の体を押しのける。
「えっ」
「ごめんなさいっ、俺、その……すみませんっ!!」
狼谷は謎の謝罪を繰り返すと、自転車に跨って夜道へ駆け出す。街灯の淡い光が狼谷の背中を縁取り——角を曲がって姿が消えた。
「えっ、ええ!?」
俺は狼谷を追いかけることもできず、ただ呆然と見送ることしかできなかった。
「あれ、俺いつの間に……」
隣を見ると、誰もいない。昨日の出来事は夢か……と思っていたら、扉が開いて狼谷が現れた。狼谷はもう私服に着替えていて、身なりもきっちり整えている。
「先輩、おはようございます。朝ごはんできてるって、お母さんが」
「お、おぉ……」
目をこすりながら、俺は曖昧に返事をした。……あの感じだと、狼谷は昨日のことを覚えてないっぽい。
「まじか……」
もう一度話すのか? それは恥ずかしすぎて無理!!
俺はもやもやした気分のまま着替えと身支度を済ませ、ダイニングで朝食をとる。母さんに「ちゃんと一輝くんをバス停までお見送りしなさいよ」と言われたから、悶々としながら狼谷と一緒に最寄りのバス停まで歩いた。
時刻はまだ八時前だというのに、外は汗をかくほど暑い。
俺は狼谷と並んで歩きながら、昨日の話を切り出そうかどうかで迷った。もうこのままうやむやで帰ってもらおうかな……なんて迷っている間にバス停に着いてしまい、二人で並んで座る。
「そういえば、先輩」
「ん? なに?」
「どうしたら、先輩は俺のこと好きになってくれますか?」
一瞬、頭が真っ白になった。言葉の意味を理解した途端、顔が一気に熱くなる。
「お、おまっ、昨日の夜の!」
「さすがにご家族がいる前で聞くのはどうかと思いまして……で、どうですか? 俺は先輩の恋愛対象に入りますか?」
狼谷が、ぐいっと距離を詰めて問いかけてくる。
あ、昨日のことを忘れてたんじゃなくて、気を遣ってくれてたのか……と悟ったのと同時に、俺が色々悩んで言えなかったことを、狼谷はあっさり聞いてきて、「すごいなっ!?」と感心する。いやでももうちょっと、心の準備ができる間がほしかったけど!!
「そ、そもそも! 本当に俺のこと好きなの……? そこから疑ってるんだけど……」
昨日の狼谷はほとんど寝かけてたし、もしかしたら俺の早とちり? 勘違い? 的なこともあるだろうと思って聞いたのに、なぜか狼谷は得意気に胸を張った。
「俺、自分でも先輩に対するこの気持ちがなんなのかよく分かってなかったんですけど……先輩に『好きなの?』って聞かれて、すとんって腑に落ちたんです。先輩の目線を独占したいし、俺にだけ笑ってほしいし……それに、笑顔が可愛いって思うの、先輩だけなんです。これってやっぱり、好きってことですよね?」
稀に見るきらきらの目で聞かれ、俺はぷしゅーっと顔から蒸気が出るかと思った。
な、なんなのこいつ!? よくそんな恥ずかしいこと言えるね!? というか好きかどうかって、本人に聞くことなのか!?
俺がわなわな震えて何も言えずにいると、先に狼谷が口を開いた。
「で、どうですか? 先輩は同性相手だと難しいですか?」
「そ、それは……」
今まで部活漬けでまともに恋愛なんてしてこなかったし、女子ともろくに話したことがない。でもなんとなく友達の大半がそうだったから、自分も女の子が好きなんだろうって思ってた。
——でも、俺も狼谷の笑顔は可愛いと思う……
同性相手にこんな気持ちになるのは初めてだ。だから狼谷の問いかけを、完全に否定することができない。
「わ、わかんないっ!! い、今まで誰かを好きになったことないし……」
正直に本音を言うと、狼谷は馬鹿にすることなく、優しく微笑んだ。
「わかりました。じゃあ、俺が先輩にアプローチしたら、嫌ですか?」
「ア、アプローチ……?」
「俺が先輩のことが好きって、言葉とか行動で伝えることです」
俺は恥ずかしさで頬が熱くなる。頭の中で、どうにか狼谷が俺にアプローチしてくる姿を想像しようとしたけど……全然うまく描けない。でも、狼谷に「好きです」って言われて嫌な気持ちにはならなかった。そりゃ、恥ずかしいとは思うけど……狼谷に特別な思いを向けられて、嫌悪感はまるで感じなかった。
「べ、別に嫌じゃないけど……狼谷の気持ちに答えられるかはわかんないよ」
あれだけアプローチしたのに! なんて怒られても困る。そういう意味でちゃんと予防線を張ると、狼谷はほっとしたように頷いた。
「大丈夫です。無理だなって思ったら、すぐに言ってください」
そう言うと、狼谷は指先で俺の指に、ちょんと触れてきた。
前までは何ともなかったのに、急にそういう目で見られていると思うと、まるで指先に火がついたみたいに熱さでばっと手を引きたくなる。
でも、嫌ではない。ただ、恥ずかしいだけだ。
これが狼谷の言ってたアプローチってやつ……? と思いながら、俺は引っこめたい衝動をぐっと抑えて我慢した。
すると、狼谷はいよいよ大胆になり、指を絡ませようとしてくる。
「ちょ、ちょと、狼谷っ」
家の近所で手を繋ぐなんて、俺には恥ずかしすぎて無理だって!
でもちょうど運良くバスがやってきて、狼谷の指が離れる。ほっとしたのも一瞬で、狼谷は「先輩、次会えるの楽しみにしてます」と、甘い笑顔を向けてきた。
俺は「う、うん」と頷くことしかできず、バスに乗り込む狼谷を呆然と見送る。
「狼谷のあんな笑顔、初めて見た……」
これがアプローチってやつなのか? だとしたら、嫌ではないけど……恥ずかしすぎて俺の心臓が持たないかもしれない!
狼谷の告白から数日後、俺は緊張しながら高校の最寄り駅のホームに降りた。改札の外に出ると、狼谷が自転車を止めて待っている。
「先輩、おはようございます。荷物、カゴに入れますか?」
「お、おはよう……あ、ありがとう」
どぎまぎしながら、俺は狼谷の自転車の前カゴに保冷バッグを入れた。中にははちみつレモンが入っている。
告白された日のあと、すぐに狼谷から『次の部活ではちみつレモンが食べたいです』とメッセージが来た。いつもなら『了解』とスタンプを返して終わるけど、今回は『先輩今何してますか?』と返事があってびっくりした。しかも、一日に三往復ほどのやりとりが、今の今まで続いているのだ。
そして今日、あの告白以来初めて会うけれど……狼谷の態度に大きな変化はない。学校までの道すがら、さりげなく歩道側を俺に譲ってくれたくらいだ。
突然大きな変化があってもついていける自信がなかったので、拍子抜けすると同時に、ちょっと安心した。これなら俺の心臓も無事に持ちそうだ。
学校に着いてからも、狼谷の些細な気遣いは続いた。
俺が体育教官室にタッパーを持って行こうとすると、「俺がやっときますよ」とさらりと保冷バッグを持って行ってくれたり、アップの準備を率先して手伝ってくれたり……しかもホソヤンや一ノ瀬の持っている道具には見向きもせず、俺のところに一直線にやってきて、道具を持っていってくれるのだ。
途中でマルオが「狼谷ぃ〜俺のも持ってくれよぉ〜」と言っていたけど、狼谷は「先輩は一人で頑張ってください」と返していて、俺だけ特別扱いなんだなと、心臓が妙にざわざわした。
——む、むずがゆい……。
大きな変化はなくても、小さな変化の積み重ねで、狼谷の好意が伝わってくる。これが狼谷の言ってたアプローチってやつか、と実感するとともに、なんとも恥ずかしくて、無性にドキドキした。
嫌じゃない。むしろ……嬉しい。不思議な優越感さえ感じる。
普段誰にでも無愛想な狼谷が、自分にだけは優しくて、胸のあたりがずっとざわめいていた。
「はぁ……狼谷のせいでずっと顔が熱い気がするなぁ……」
俺はぶつぶつ呟きつつ、狼谷のおかげでやることがなくなったので、日陰に折りたたみ式テーブルを運び、はちみつレモンやジャグの準備を進めた。
今日は、急遽決まった楓丘高校との練習試合だ。初めて対戦する相手なので、後で飲み物を取りに行って、試合を見逃すなんてことは避けたい。
せっせと準備していると、アップを終えた部員たちが集まってきた。
「やった! はちみつレモンじゃん〜!」
二階堂が、ぱっちり二重の目をことさら大きくして言う。
「最近はちみつレモンの登場が多いね」
隣で一ノ瀬がきりっと一重を細めて首を傾げた。俺はぎくりとしたが、「ま、まあぁ、いいじゃん」と笑って誤魔化す。
俺はタッパーを開け、取り分け用の箸とスプーンを置いた。みんな律儀に「あざす」とか「いただきます」と一礼してはちみつレモンを取っていく。その姿を微笑ましく見ていたとき——
「あっ! 柴山じゃん!」
グラウンドの入り口から、誰かの叫び声が響いた。
俺はその瞬間、狼谷のアプローチだとか、部員にはちみつレモンが喜ばれた嬉しさだとかで浮ついていた気持ちが、一気に冷たく沈んだ。
錆びついたゼンマイみたいにぎこちなく後ろを振り返ると、グラウンドの入り口から相手校のメンバーが入ってくるのが見えた。
その中で一人、駆け足でこちらに近づいてくる背の高い選手がいる。
細く釣った目尻に、鋭い顎。見なくても声で鮮明に思い出してしまった。同じ柊中学校の同期、岩崎健太だ。
「岩崎……」
みんなが「柴山の知り合い?」とか「めっちゃ背高けぇな」とか囁いている中で、俺は体が固まって動けない。
なんで忘れていたんだろう。岩崎が楓丘高校に進学したことを。浮かれていたから? 急遽決まった練習試合で、相手校の分析ができなかったから? いや、今さら後悔しても遅い。
心の中で「来ないでくれ」と願ったけれど、岩崎はまっすぐ俺の前に来た。
「よっ! 久しぶり! やっぱいると思ったんだよね〜」
「あ、ひ、久しぶり……」
唇の端が引き攣らないように気をつけながら答える。
近くにいたマルオが「え、俺らには挨拶なし?」と眉を顰めたが、岩崎は気にしない。
気にしないというか、気にならないというか……こういうやつだったな、と思い出す。
「あっ! 柴山のはちみつレモンじゃん! 懐かしぃ〜! これがあると、なんか試合頑張れるんだよねぇ〜!」
岩崎は俺の後ろのテーブルに置いてあるタッパーを見つけるやいなや、素手でひょいと取って食べる。しかも二つ、三つとどんどん食べるので、桜庭高校軟式野球部のみんなが、「うわっ」と引いた気配がした。
そうだった……桜庭高校の緩くて優しい雰囲気に慣れて忘れかけていたけど、柊中学校の同期はみんな、競争心が高くて自分中心的な奴が多かった。
俺が呆れを通り越して懐かしさを覚えていると、狼谷が恐ろしい形相ではちみつレモンのタッパーを奪い取った。
「あなた、なんなんですか。先輩が作ったはちみつレモンをそんな雑に食べて……あと、取り分け用の箸とスプーンが見えないんですか? あなたの手は綺麗なんですか?」
桜庭高校野球部のみんなもそう思ったのか、何人かが頷いてる。一方岩崎は「なに、こいつ」と不機嫌を露わにし、俺に説明を求めた。
「えっと、俺の後輩で、名前は狼谷一輝……。こっちは岩崎健太。俺と一緒の中学校で同じ野球部だったんだ」
俺はピリピリした空気に緊張しながら、交互に狼谷と岩崎を紹介する。狼谷は「柴山先輩と同じ中学……」と、訝しむように岩崎を見つめた。
「そっ、俺柊中でピッチャーやってたんだよね」
急に岩崎に肩を組まれ、びっくりする。こんな馴れ馴れしい関係じゃなかった気がするんだけど……?
「柊中って、野球強いほうだよね?」
中学校でも野球部だったホソヤンが、同じく中学で野球をしていた一ノ瀬に聞いてる。桜庭高校軟式野球部は高校から野球を始める部員が多いので、みんなあまりピンと来てないみたいだったが、柊中学校はまあまあ野球に力を入れている学校だ。
「まぁ、でも柴山は柊中で全然野球してないけどな。だって、バッドもまともに振れないし、ボールも捕れない。あんまりにも下手すぎて、こいつマネージャーに格下げになったんだぜ? まじ笑えるっしょ!!」
俺は自然と視線が下に向くのがわかった。耳の奥でかつての同級生の笑い声がする。バットにボールが当たらなくて愕然とする俺。それを笑う柊中野球部のみんな。
今思えば、父親に影響されて軽い気持ちで野球部に入ったのが間違いだった。周りのみんなは小学校から地元の少年野球クラブに入っていて、すでに経験者しかいなかったのだ。
そんな中で、自分ができることなんてほとんどなくて……唯一できたのが球拾い。それが徐々に定着していって、俺は選手というよりマネージャーみたいな雑務処理でしか必要とされなくなった。
——あのときは自分の居場所を作るのに必死だったな……
途中で部活を辞めたら親も心配するし、内申も悪くなる。それに、ちょっと我慢すれば続けられないこともなかった。
でも後で振り返ると、結構辛かったよなって思う。だから卒業と同時にみんなとは距離を取った。たまに柊中野球部のチャットグループが動くときがあるけど、どうしても返信する気にはならない。
——でも、高校のみんなには知られたくなかったな。
俺が野球が下手なこと、それでマネージャーに格下げになったこと。それらはもちろん、積極的に広めたい話じゃない。だけど岩崎的には面白い話の一つとして、取り上げたかったのだろう。俺って中学ではそういう扱いだったし。
——ああ、また。中学のときと同じように、桜庭高校のみんなにも馬鹿にされちゃうのかな。
何にもできない俺は、野球部には必要ないって。何にもできないお前は、野球部に居場所なんてないって。
そう言われそうで……まぁ実際間違ってないから、心が死ぬんだけど。
「……なんなんですか、それ」
暗い渦のような思考に飲み込まれそうになったとき、恐ろしく冷たい声が聞こえて、俺は顔を上げる。
視界に映った狼谷は、はっきりと嫌悪の表情で岩崎を睨んでいた。
「なにって、柴山がマネージャーに格下げに……」
「格下げって、なんですか」
聞いたこともない狼谷の冷たい声音に、俺は心臓が縮み上がる。岩崎も同じだったようで、顔が一瞬怯んだように見えた。
「なんでマネージャーが下なんですか? 選手とマネージャーの関係に、上とか下とかないですよね?」
しかし狼谷は岩崎の反応など気にせず、一歩こちらに迫る。今気づいたけれど、背丈は狼谷の方が高かった。岩崎は自然と狼谷を見上げる形になる。
「いやだから、柴山は野球が下手で……」
「野球が下手だからなんですか? じゃあ野球が上手い人は上なんですか? バッドにボールを当てるだけなのに? 球を早く投げられるだけなのに?」
「それは……」
「人には適材適所、得意不得意があると思います。俺はバッドにボールを当てるのは得意だけど、先輩みたいに人の顔色を敏感に察して、サポートすることは到底できません。あなたも、普通の人より少しだけ球を早く投げられるのを自慢する前に、先輩のサポート力を見習ってはどうですか?」
俺はびっくりして、まじまじと狼谷を見つめた。
……そんな風に思ってくれてたんだ。
胸の奥に、じんわり熱いものが広がる。自分の中には一切ない発想で、目から鱗が落ちる思いがした。
「なっ! でもこいつは試合に何にも貢献してないだろっ!」
岩崎が俺の肩から手を離し、狼谷に食ってかかる。が、狼谷は馬鹿にするように鼻で笑っただけだった。
「さっき自分で言ったことも忘れたんですか。『これがあると、なんか試合頑張れるんだよねぇ』……試合、頑張れてるじゃないですか。先輩のサポートが、試合に貢献してるじゃないですか。サポートっていうのはそういうことを指すんですよ。スマホで検索してみます?」
近くにいたマルオが「ブハッ!」と吹き出した。岩崎はぎろりとマルオを睨んで、「なんなのお前ら」と舌打ちする。
「後で覚えとけよ。試合でボロカスにしてやるから」
岩崎はそう言い捨てると、自陣に戻っていた。東野と西山が「後で覚えとけよって言う人初めて見た……」「俺も……」と囁き合う。
俺が緊張で強張っていた体を解いたとき、マルオが大きな声で「よくやった、狼谷!」と叫んで、狼谷の背中を叩いた。
「柴山氏も、中学時代はあんな馬鹿の相手をしていたとは……およよ、可哀想に……」
今度はホソヤンが同情するように俺の背中をさすってくれる。
三瓶と四谷も口を揃えて、
「てかなんなんだよアイツ、勝手に俺らのはちみつレモン食べやがって!」
「しかもマネージャーが格下げとは……やっぱり食べ物素手直取り勢の言葉は格が違いますな〜」
と岩崎をディスりまくる。
俺はまさか「柴山って野球できないんだ〜」と笑われるることはあっても、慰められるとは思っていなくて、ぽかーんと口が開いてしまった。何も言えない俺を置いておいて、狼谷が俺の肩を抱き寄せる。
「ここは柴山先輩のためにも、試合で相手をボコボコにしてやりましょう」
すると部員のみんなが「そうだそうだ!」「俺らの柴山を雑に扱いやがって!」と声を張り上げる。誰からともなく円陣の形になって、俺はふいに目の奥が熱くなった。
「そんな、俺のためにいいって……」
「よくないっしょ。同じ野球部の仲間が馬鹿にされて、黙ってられるか!」
斜め前にいるマルオが声を張り上げ、俺の隣で肩を組むホソヤンが頷く。一ノ瀬も「さっきは狼谷一人に任せちゃったから、俺らも試合で頑張ろう!」と全員に呼びかけた。
「じゃあ、打倒、岩崎健太ですね」
狼谷の言葉に、みんなが頷く。
いつもならここで一ノ瀬が円陣の掛け声をするのだが、今回だけは狼谷に任された。
狼谷が息を吸う。淡々とした声が、夏の熱い空気を切り裂いた。
「桜庭の誇りを胸に!」
全員が口を開く。
「咲かせろ、勝利の桜!!」
ダンッ! とみんなで足を地面に踏みつける。土埃が舞う中、各々がグラウンドへ駆けて行った。
俺は選手たちの背中を見送りながら、胸が熱いもので満たされ、今すぐ涙となってこぼれそうになる。
ああ、今この瞬間を切り取って、中学生の俺に見せてやりたい。
バットにボールが当たらなくて絶望した日。
お情けで出させてもらった練習試合で大エラーをかました日。
影でみんなに「使えないやつ」と言われ、一人悔し涙を流した日——
俺はずっと、大好きな野球に自分の居場所がほしかった。
ただそれだけのために、辛くても、大変でも、部員のサポートに明け暮れていたんだ。
——でも、俺の居場所はここにある。
ふと、前に狼谷が言ってくれた言葉を思い出した。
『先輩が自分を犠牲にしなくたって、先輩の居場所は桜庭高校軟式野球部にあります』
そうなのかも、本当に。
今日、狼谷が俺のために怒ってくれて、部員のみんなも怒ってくれて……今初めて、あのときの言葉を心から信じられる気がした。
「先輩」
グラウンドに行こうとしていた狼谷が、立ち止まって振り返る。
「俺、絶対あの人の球を打ちます」
絶対なんて、現実にはありえないはずなのに、狼谷の真剣な眼差しは、まるで確定した未来を描いているかのようだった。
「だから俺が打席立っているときは、俺だけを見てくれませんか?」
六月も、俺の家に来たときも、狼谷は同じことを俺に言った。
『俺だけを見てください』——あれは、面倒を見てください、なんて意味ではなく、ストレートな狼谷の欲求だったんだ。
俺の眼差しが、狼谷を支える力になる。その事実に、俺の胸はぎゅうっと締めつけられた。
「……うん。わかった。狼谷が打席に立ってるときは、絶対に目を離さない」
俺は頷くだけじゃなくて、はっきり声に出す。六月のあのときには気づかなかったけど、今なら狼谷の思いが痛いほどわかった。
ちゃんと見てるよ。
狼谷は一人じゃない。
野球部の中に俺が居ていい場所があったように、狼谷にも居場所がある。この桜庭高校軟式野球部の中に、俺の眼差しの中に……そう、伝わるように狼谷を見つめる。
「……ありがとうございます」
狼谷は満足そうに頷き、目を細めてグラウンドに走って行った。
「よろしくおねがいしますっ!」
グラウンドの中心に選手が並んで、お互いに挨拶をする。先攻は向こう、楓丘高校だ。桜庭高校のみんなは走って守備位置についた。
「なぁ、柴山」
「なんですか」
ベンチの後ろに立っていた俺は、左隣にいたスーちゃんに小声で話しかけられる。俺の右側にはターちゃんが立ち、日差しが照りつけるグラウンドを三人で凝視していた。
「なんでみんな今日はあんなにやる気がみなぎってるんだ? 目つきが違いすぎないか?」
スーちゃんは眩しそうに部員を見ている。俺はなんて答えればいいのかわからなくて、「なんでですかね……」と返した。
でも、スーちゃんの言うとおり、今日はみんなの醸し出す空気が違う。いつもより声が出てるし、試合に集中しているのか、顔が険しい。
おかげで一回表は無事に守り切り、すぐに攻守が入れ替わる。
マウンドに立つのは、やっぱり岩崎だ。背丈があるから立っているだけで威圧感がある。
一方桜庭高校の一番打者は東野。なにかと肝が座ってるのと、足が速いので、出塁を期待したいところだが……
「……東野が手も足も出ない」
ベンチに座った二階堂が呟く。東野も打率は悪くないはずだけれど、岩崎のピッチングの方が上だった。
「楓丘高校はあのピッチャー頼りなところあるからな……それで今年は二回戦も突破してるし」
俺の隣で、今日の練習試合を組んでくれたターちゃんが言う。練習試合とは大抵自分と同じか、それよりちょっと上の相手と組むのが普通だ。楓丘高校はそう言う点ではうちより少し上。全く勝てないわけじゃないけど、勝率は決して高くはない。
結局三者凡退でまたもやすぐに攻守が入れ替わり、岩崎はドヤ顔をこちらに向けてきた。マルオが「なんなんあいつ、ムカつくわ〜」と言ってキャッチャーヘルメットを被る。
「まあ、でもうちも守備はうまくなったからなぁ」
二回の表、スーちゃんが呟く。ちょうどセカンドの一ノ瀬が、出塁になりそうなボールをキャッチし、相手選手を一塁でアウトにしたところだった。
確かにスーちゃんの言うとおり、うちは打撃も守備も弱々だったのが、どうにか守備だけは形になってきた。おかげで今年は一回戦突破ができたわけだし。
ヒットは出てしまうものの、どうにか失点は免れて二回の裏。バッターは狼谷だ。
「どうにか打ってくれ、狼谷……!」
同じ一年生の西山が両手を合わせて小さく呟く。俺も祈るような気持ちで、打席に立つ狼谷を見守った。
狼谷は右打ち。俺のいる位置からだと、狼谷の表情も体の動きも全部余すところなく見える。
……やっぱり、狼谷の横顔って綺麗だ。
俺はじっとバットを構える狼谷の姿を眺めながら、改めて思う。なだらかな鼻筋に、引き締まった唇。岩崎を見つめる目は静かで冷たいけど、痺れるほどにかっこいい。
その姿を見てるだけで、俺はお腹の奥がぎゅーっと熱くなる。手のひらがちょっと汗ばんで、狼谷の一挙手一投足に、目が離せなかった。
「さすがの狼谷でも難しいか……」
しかし一発目の投球が終わり、微動だにしない狼谷に、ターちゃんが残念そうに囁く。確かに狼谷は岩崎の球に手も足も出ていないように見えた。
一方俺は、内心で「どうだろう?」と首を捻る。
狼谷の表情に焦りはなく、かえって、獲物を静かに見定める狼のようだ。いつどこで捉えるか、隙を探しているのでは? と思う。
でもさすがの狼谷でも一回では見定められなかったのか、弱い当たりがあっただけで、一塁アウトになった。
その後も一進一退の攻防が続き、互いに惜しいところまではいくけど、点にはならず、五回の表が終わった。
ここまでで桜庭高校は出塁なし。岩崎のピッチングの上手さと、こっちのバッティングの下手さが如実に出た結果だ。
「でもなんか、向こう焦ってるくない?」
ベンチに戻ってきた三瓶が遠くを眺めて言う。みんなは気づいてなかったみたいだけど、楓丘高校の顧問の先生の顔が徐々に険しくなっていた。
「楓丘高校は守備頼りで、打撃はあまり強くない。それでもうちには勝てると思ってたみたいだが……みんな守備が上手くなったから、なかなか点が取れなくて焦ってるみたいだな」
ターちゃんの言葉に、俺は記入したスコアブックを見ながら「そうみたいですね」と賛同した。
本当にみんな上手くなった。向こうの方がヒットは多いけど、ちゃんとカバーして失点を防いでいる。一年前と比べたら、奇跡みたいな成績だ。
そしてここで満を持して——狼谷の登場の番がくる。
「さっきは全然ダメそうだったけど、大丈夫かな……」
東野が不安気に呟く。俺はスコアブックから顔を上げて、狼谷を見つめた。
ヘルメットから覗く狼谷の眼差しは、冷静そのものだ。方や岩崎は焦っている。本人は隠しているつもりだろうけど、何度も帽子を触る癖は、焦ったときにしか出ない。
「向こうは経験者だしね……わからないな」
東野の呟きに、一ノ瀬が返す。俺も全く同意見だった。
狼谷のバッティングセンスはすごいと思ってるけど、客観的に見たら勝敗は五分五分だ。
だからこそ、打ってくれると信じて見守る。今はそれしかできない。
狼谷がバッターボックスに立つ。一瞬、狼谷が俺を見た。ちゃんと見てるよ、って伝えたくて、小さく頷く。
狼谷が気づいたのかはわからないけど、薄い唇の口角がちょっとだけ上がった気がした。
迎えた一球目。狼谷が大きくバットを振る。俺は思わず息を呑み、心臓の鼓動が耳まで響くように感じた。
「あっ!」
——バコーン!!
高く抜けた初球。ゴムボールの芯にバットが当たった音がした。白い球は遠く遠くへ飛んでいき……
「ホームランだっ!!」
マルオの叫びに、ベンチが沸き立った。でも、俺は飛んでいく球じゃなく、狼谷の顔をずっと見ていた。
眩しそうに目を細め、ほんの少し不安そうだった瞳が、ホームランを確信した瞬間、安心したように緩む。
すぐに、狼谷と目が合った。とびきりの弾けるような笑顔を向けられ、俺の胸の中で何かが大きく脈打つ。
……誰だよ、狼谷を宇宙人って思ってたやつ。あんなにもわかりやすいじゃん。
俺のことが好きだから、俺のために怒ってくれて、それでホームランも打っちゃう。当たったら真っ先に俺を見て、嬉しそうに満面の笑顔なんて浮かべちゃってさ。
全部、俺のために。好きな人のために一生懸命な狼谷の姿。
——狼谷って、本当に、なんでも全力だ。
俺はじんわりと頬が熱を持つのを自覚しながら、息を吐く。
こんなにも真っ直ぐで、熱い想いをぶつけられるのは、初めてだ。
「そんなの……好きにならない方が、難しいって……」
俺の弱々しい囁きは、ベンチで喜ぶ部員たちの声にかき消された。
その後の試合展開は、結果で言うと1ー0で俺らの勝ちだった。狼谷が取った得点を死守しようと守りに力が入り、守備の連携が凄まじかった。おかげで岩崎の悔しがる顔も拝むことができ、みんな満足そうだった。
帰りは大会後でもないのに部員全員で勝利のお好み焼きを食べに行った。店を出る頃には日がどっぷり暮れていて、各々別方向に解散する中、狼谷は俺と違う方面なのに、わざわざついてきてくれる。夜道は危ないから、駅まで送ってくれるそうだ。
そんなのいらないけどなぁ……と思いつつ、狼谷と少し話したかったので、俺は何も言わなかった。
駅までの道を二人で歩く。街灯の明かりはあるが、人通りは少ない狭い道だった。
「本当に、今日はありがとう」
俺は隣で自転車を押す狼谷に軽く頭を下げる。二人きりになるタイミングがなくて、お礼を言うのが遅くなってしまった。
「いえ、俺の意地でやってたので……」
「でも狼谷が岩崎に反発してくれたのも嬉しかったし、俺、結構みんなに愛されてるんだなぁ〜って実感できて、感激した」
野球が下手で試合に貢献できないことに、ずっと後ろめたさを感じていた。そのせいで無理して頑張ってる節もあったけど、今日、狼谷が岩崎に怒ってくれて、俺もマネージャーとしてちゃんと居場所があるんだなってやっと信じられた。
確かに狼谷の言う通り、選手とマネージャーに上も下もない。各々得意不得意があるんだから、俺は自分の得意なサポート力に誇りを持とうと思う。
……あとは桜庭高校のみんなを疑って悪かったなって、ちょっと反省してる。
みんな俺のことを馬鹿にしたりしないってわかってたのに、信じきれてない自分がいた。これからは俺を大事にしてくれる桜庭高校のみんなを、俺も信頼して大事にしていきたい。
そう気づくことができたのは、俺の中でとても大きな出来事だ。
「あのときも言いましたけど、俺は先輩の気が遣えるところも、さりげないサポートができるところも尊敬してますし……好きです。岩崎さんはそうじゃないみたいですけど」
狼谷から唐突な「好き」が発せられ、俺は顔がほんのり熱を持つ。
「ま、まあ……それは、マネージャーだし」
照れくさくなってぼそぼそ言うと、狼谷は「……そうですよね」と呟いた。
「先輩はマネージャーだから、みんなに優しいんですもんね」
狼谷は少し硬い表情で言ったあと、黙ってしまう。俺は気まづさを感じて、「俺は……狼谷のバッティング、すごいと思ってるよ」と言った。
「俺にはできないからさ。バットにボールを当てるの。マジですごいなって、尊敬してる。今日のホームランだって……か、かっこよかったし。岩崎の悔しがる顔見れて、本当に感謝してる」
途中、恥ずかしくて言葉がつまってしまう。それもなんだか意識してるみたいで余計に恥ずかしかったけど、狼谷は気にならなかったようで、何も指摘せずに足を止めた。
「じゃあ……何かご褒美がほしいです」
「え、ご褒美?」
「はい。俺、今日頑張ったので……先輩から何かご褒美がもらえたら、すごく嬉しいです」
俺も足を止めて、「ご褒美か……」と考える。狼谷が喜ぶものって何だろう? はちみつレモンとか?
ちょうど、小川にかかる橋の上で立ち止まったので、風が気持ちよく頬を撫でる。しばらく考えても思いつかず、「うーん……たとえば?」と聞いてみた。
狼谷は黙ってこちらを見つめる。木々のざわめきに紛れて、囁くように言葉を漏らした。
「キス……とか」
「……へっ!? キ、キス!?」
俺は聞き間違いかと思って、もう一度尋ね返す。
でも狼谷は、いたって真剣な眼差しで頷いた。
キス……キスって、それって、もう恋人同士がするやつじゃん!?
顔が一気に熱くなって、言葉が出てこない。胸の奥がドクドク鳴ってて、呼吸まで速くなってきた。
「あ、えっと、その……」
狼谷のことが好きかって聞かれたら……まだ答えられない。感情がふわふわしてて、形が定まらないのに、「好き」って言葉にがっちり当てはめるのは早すぎる気がする。
だって、ついさっきの試合で「好き……かも?」って思ったばかりだ。そんなの、誰だってもう少し時間がほしいって思うでしょ!?
でも、俺を思って岩崎に怒ってくれた狼谷の姿を思い出すと、胸が熱くて、ちょっと涙ぐみそうになる。最初に野球部に俺の居場所があるって教えてくれたのも狼谷だ。狼谷の隣なら、俺も無理をせず一緒に居られる気がする。
あと狼谷って、普段は真剣で少し無愛想だけど、意外と素直で可愛いところもあるし……
——これってやっぱり好きってこと……!?
俺があたふたしている間に、狼谷が突然「やっぱりなしで」とぽつりと言った。
「えっ」
「こういうの、よくないですね。先輩が誰にでも優しいから、先輩の特別な何かがほしいなって思ったんですけど……ちゃんとその気になってくれるまで、待ちます」
狼谷は何事もなかったかのように顔をそらして、自転車を押し始める。
そのとき、あっ、と思った。これを逃したら終わりだって。
バットにボールを当てる瞬間みたいに、今、この気持ちを「好き」に振り切らなければ、大事な何かを逃してしまう気がした。
俺はごちゃごちゃ考えるのを止めて、狼谷の制服の襟を掴む。
狼谷が少し傾いた拍子に、俺は踵を上げて——狼谷の頬に唇をつけた。
「な、なかったことにするな!」
唇を離し、必死に文句を言う。俺だって、俺だって狼谷のことが——
「す、すみません…!!」
しかし、狼谷は顔を真っ青にして、弾かれたみたいに俺の体を押しのける。
「えっ」
「ごめんなさいっ、俺、その……すみませんっ!!」
狼谷は謎の謝罪を繰り返すと、自転車に跨って夜道へ駆け出す。街灯の淡い光が狼谷の背中を縁取り——角を曲がって姿が消えた。
「えっ、ええ!?」
俺は狼谷を追いかけることもできず、ただ呆然と見送ることしかできなかった。
