「やっぱりただの先輩に可愛いって、変だよなぁ……」
 俺は家のソファの上でだらりとしながら、これまでの狼谷の発言が気になって、スマホで調べてみた。『後輩 先輩に 可愛い 言う なぜ』と検索画面に打ってみたけど、納得するようなアンサーは出てこず、ため息を吐いて、画面を閉じる。
 壁にかかったカレンダーは気付かぬうちに八月のページになっていた。今日から三日間は部活がオフの日なので、日付のところに赤丸がついている。
 大会はつい先週終わり、結果は一回戦突破、二回戦敗退。俺たちの目標は無事に達成され、白山先輩と黒海先輩の送別会も盛大に行われた。
 「おにい、ちょっと邪魔。右に寄って」
 「はい、はい」
 楽しかったな、送別会。先輩ちょっと泣いてたし……と感傷に浸っていたのも束の間、凛がやってきて、勝手にテレビをつける。柴山家のカーストは母がトップ、二位に凛、三、四位同率で俺と父親なので、まず男性陣に文句を言うという文化がない。
 俺は右端に寄り、膝を抱える。凛はサブスクで契約している配信番組をテレビに映し出すと、最近はまっている恋愛ドラマを選択した。
 「えっ、これ見るの?」
 恋愛系は見てるこっちが恥ずかしくなるから、できればバラエティかスポーツがいいなぁ……なんて思ったけど、「いやなら上いけば〜」と凛に一蹴されてしまう。
 ぐぬぬっ、昼から夕方になる今の時間までソファでゆったりしていたのに、今更起き上がって二階の自分の部屋まで行く気力はない。
 俺は大人しく文句を呑み込んで、ドラマを一緒に見ることに決めた。凛が選択したドラマは女性俳優の後ろから男性俳優が抱きついているところから始まり、俺は「ひっ」と小さな悲鳴を上げる。
 「わっ、わぁ……最初から距離が近いっ」
 「それがいいんじゃーん! 見て、今の表情かっこよくなーいっ!!?」
 きゃっきゃっと盛り上がる凛の横で、俺は顔に両手を当て、指の隙間から覗き見る。
 ドラマはずーっと甘い雰囲気のままストーリーが進んでいって、本当に恥ずかしい。見てはいけないものを見ている気分になる。
 『そんな奴より、俺だけを見てくれ』
 そのとき、ドラマの中で男性の俳優さんが、どこかで聞いたことのあるセリフを言った。隣で凛が「きゃー!」と悲鳴を上げる。
 「最高の愛の告白じゃーん!!」
 「え、待って、今のは愛の告白なのっ!?」
 「絶対そうでしょー! だって『俺だけを見てくれ』だよ!? そんなの愛しい人の視線を独占したい、恋心満載ゆえの発言じゃん!」
 「はっ、へ、へぇ……」
 興奮したように鼻息荒く語る凛には申し訳ないけれど、俺はどこかで聞いたことのあるセリフ——過去の狼谷の言葉を思い返すので精一杯だった。
 あれ……? じゃああの発言って……いや、でも俺の考えすぎ……かもしれないけど、笑顔が可愛いって言うのはなぜ? これって、あれ?
 「え、じゃ、じゃあさ、……『俺だけに笑ってほしい』だったらどういう意味?」
 俺は混乱を極めて、凛に尋ねる。凛は得意顔で「それも完全に愛の告白だね」と言う。
 「は、はぁっ!? じゃあ、『俺の前では無理しないでください』は!?」
 「相手を気遣う、愛の告白だね」
 「えっええっ!?」
 「ええっ!? お父さん帰ってこれないの!?」
 俺の叫びと同時に、ダイニングで電話してる母さんの叫びが綺麗にハモった。俺と凛は顔を見合わせ、母さんの方に首を向ける。
 「ちょっとー! 今日帰ってくるって言ってたから、お肉解凍しちゃったじゃない! え? 無理よ、もう一度冷凍したら美味しくないし。うん、うん、わかったから……もう、先に食べてますからね」
 「……お父さん今日帰ってこないみたいだね」
 凛がひそひそと耳打ちしてくる。今日は早めのお盆休みを取って、単身赴任している父さんが帰ってくる予定だったけど、仕事か何かで延期になってしまったようだ。
 俺はひとまず狼谷の件は頭の隅に置いておいて、「そうだね」と答える。
 母さんは電話をぶちっと切ると、小さくため息を吐き「順、凛〜今日お父さん帰ってこれないみたいだから、さきご飯食べちゃいましょ!」とさばさば言う。電話口では口調がキレていたが、すぱっと機嫌を変えられるのが母さんのすごいところだ。
 「はーい」
 凛がテレビを止めて、立ち上がる。俺も立ち上がると、母さんが冷蔵庫を開けて「あっ」と呟いた。
 「ポン酢がない……誰か買いに行かないと」
 「おにい、行ってきて」
 「なんで俺っ!?」
 柴山家で使うポン酢は謎にこだわりがあって『スーパーみらくる』というここから自転車で二十分ほど離れた場所まで行かないと買えない。
 「ここは平等にじゃんけんにしましょ」
 母さんのひと声で、三人でじゃんけんをする。凛がパー、母さんもパー、俺がグーだったので、「順よろしくね」と俺が出かける羽目になった。


 「くっそ〜めんどくせぇ〜!」
 夕方六時。まだ日が出ていて、蒸し暑い。俺は自転車を走らせながら、己の運のなさを嘆いた。
 『スーパーみらくる』は俺の家からだと坂道を降り、右に曲がり、大通りをずーっとまっすぐ行くと見えてくる。信号が赤になったので自転車を止めると、左手のコンビニに見覚えのある人物がいた気がして、俺はつい二度見した。
 「あっ」
 ドアの前に座り込んでいる人。艶やかな黒髪に、黒いTシャツ。切れ長の瞳は……絶対に狼谷だ。
 そんなに大きな声を出したつもりはなかったが、向こうも気づいて顔を上げる。狼谷のいつもの無表情が崩れ、わずかに目が丸くなった。
 「狼谷、ここで何してんの」
 俺は自転車を降りて狼谷の前で止める。狼谷の周りには自転車が一つもない。歩いてここまで来たのだとしたら、家からはかなり遠いんじゃないか?
 「俺は……タナカでバッティングしてました」
 「え、でもタナカってもう営業終わってるよね……?」
 バッティングセンター・タナカの営業時間は十七時までだ。今は十八時過ぎなので、一時間以上は経っているはず。
 「……その、今家に帰りにくくて。ここで涼んでから、親に迎えに来てもらおうかなって」
 気まずそうに顔を曇らせる狼谷に、俺はハッとする。
 狼谷の両親は離婚予定と聞いていた。いつ離婚が確定するかわからないけれど、何か家に帰りにくい事情でもあるのだろうか。
 よく見ると、狼谷の顔は疲れている。家族のことで疲れているのか、それとも暑い中一日外にいたせいだろうか。多分どっちもあるだろうな、と俺は思った。
 「……なら、うちくる?」
 狼谷らしくないやつれ具合が不安になって、俺は軽い気持ちで誘ってみる。すると狼谷は、こっちが一瞬たじろぐほど勢いよく顔を上げた。
 「あ、いや、俺の家父さんが単身赴任してるんだけど、今日帰ってくる予定がなくなっちゃってさ。ご飯が余ってるんだよね。だから、夕飯だけでもどうかなって……」
 予想以上に食いつきのいい反応を見せる狼谷に、俺は戸惑いつつ事情を話す。狼谷は「いいんですか……?」と縋るような目を向けてきて、俺は捨て犬を拾ったような気持ちになった。
 「あ、でもやっぱり申し訳ないです。急にお邪魔しては迷惑だと思いますし、手土産とか持ってきてないし……」
 「ははっ、そんなのいいって。食材余るほうが母さんブチギレるから。狼谷きてくれたら助かると思う」
 それはわりとマジな理由だ。あの電話口でのキレ口調は、父さんの不在というより、せっかく高い肉を買ったのに無駄になるのが嫌だからだ。きっと食べ盛りの男子高校生が来たら、母さんは絶対に喜ぶ。
 「で、でも……」
 「俺の家は本当に大丈夫だから、狼谷が決めなよ」
 急に誘われても困るだろうし、狼谷に最終判断を委ねたら、「……やっぱりご迷惑に」と口では断ってきたのに、腹の方から「ぐぅ〜」と音が鳴った。
 「…………」
 狼谷がほんのり恥ずかしそうに頬を赤くして、俺は「ははっ」と声を立てて笑う。狼谷にも恥ずかしいって感情はあるらしい。
 「じゃ、いこっか。俺の家に」
 こくりと頷く狼谷を連れて、俺はひとまず『スーパーみらくる』へ自転車を押して歩いて行った。


 母親に連絡すると『全然大丈夫よ〜! 逆に助かるわ』と返事があった。狼谷も両親から許可をもらえたらしい。
 ポン酢を買って家に着くと母さんと凛がダイニングで夕飯の準備をしていた。
 「こちら、俺の後輩の狼谷一輝くんです」
 「突然お邪魔してすみません、狼谷一輝です」
 俺がわざとらしく丁寧に後輩を紹介すると、律儀な狼谷は頭を下げる。
 「こちらこそ突然ごめんなさいね〜柴山順の母です」
 「妹の凛です。いつもおにいがお世話になってます」
 母さんと凛も挨拶を返して、みんなで食卓につく。俺の隣に狼谷、狼谷の前に母さん、母さんの隣に凛が座り、真ん中に置いてある鍋と桜色のおいしそうな豚肉をみんなで囲んだ。
 「……夏にしゃぶしゃぶなんですね」
 「まあね。父さんが好きなんだよ」
 狼谷が小さな声で呟いたので、俺も小声で返事をする。夏にしゃぶしゃぶが季節外れもいいところなのは、俺も同感だからだ。
 「一輝くん、アレルギーとか食べれないものあるかしら?」
 「いえ、なんでも食べます」
 「そう、よかったわ。じゃあさっそく始めましょうか」
 母さんが微笑んだあと、みんなで手を合わせて「いただきます」と声を揃えた。
 「にしてもおにいがお友達連れてくるの珍しいね」
 凛が肉を三枚まとめてしゃぶしゃぶさせながら、狼谷を興味津々の目で見る。凛は顔がいい人全般好きなので、すぐに狼谷のことを気に入ったようだった。
 隣で狼谷が「そうなんですか?」と俺に聞いてくる。
 「まあ、俺の家高校から遠いからさ……」
 軟式野球部の面々は自転車通学が多いし、ゲームとか試験勉強するってなったら、高校から近い部員の家にお邪魔することがほとんどだ。
 「そうね〜高校のお友達を連れてきたのは、一輝くんが初めてじゃない?」
 母さんの言葉に、なぜか狼谷が少しだけ嬉しそうに口角を上げた。
 「俺が、初めてなんですね……」
 狼谷がしみじみ呟くように言いながら、肉をしゃぶしゃぶする。なんでそんなに嬉しそうなの? と聞く前に、話題が別の方向へと移ってしまった。


 「いやぁ、食った食った〜」
 俺はお腹をさすりながら、箸をテーブルに置く。狼谷はまだしゃぶしゃぶを口に運びながら、「あの、本当にいただいて大丈夫なんでしょうか……?」と申し訳なさそうに母さんに尋ねた。
 母さんは満面の笑みを浮かべて、「あら、全く気にしないで! 全部食べちゃって!」と朗らかに答える。
 俺も凛もあまり食べる方じゃないから、母さん的には狼谷の食べっぷりが嬉しいのだろう。こっちが呆気にとられるほど早く狼谷は母さんに好かれていて、食後にはちょっとお高いアイスまで出てきた。
 「ふぁあ〜……」
 ちょうどアイスも食べ終わった頃、凛が大きなあくびをしたので、母さんが「凛、もう眠いなら上行けば?」と提案する。凛はまだ狼谷と話したかったみたいだが、さすがに限界だと悟ったのか「ごめんなさい。先にしつれいします……」と言ってリビングを出て行った。
 「じゃあ、俺もそろそろお暇します」
 狼谷はそう言って携帯を開き、親へ連絡しようとしたみたいだが……顔がわずかに曇る。
 「家、もう大丈夫なの……?」
 俺が恐る恐る尋ねると、狼谷は「あ、いや……はい」と、絶対に大丈夫そうとは言えない声音が返ってきた。
 何が起こっているのか俺にはわからないけれど、どうやら狼谷はまだ家に帰りたくないらしい。
 ——このまま家を出たら、狼谷は今晩、どこで一夜を明かすのだろう?
 落ち着かない家に帰るのか、それともさっきみたいにコンビニで時間を潰すのか。でも外だと補導されてしまうだろうし……
 俺は気づいたら母さんを見ていた。母さんは俺の思いを察したのか、静かに小さく微笑んでくれる。
 「……狼谷さえ良ければ、うちに泊まってく?」
 俺はコンビニで声をかけた時のように、軽い調子を意識して狼谷に提案した。
 「えっ」
 「だってほら、しゃぶしゃぶで汗かいたじゃん。うちで風呂入って帰るぐらいなら……もういっそのこと泊まっても同じでしょ」
 「でもそれは……」
 「うちは平気よ。一輝くんさえ良ければだけど」
 母さんがニコニコ笑顔で迎え入れる。狼谷はしばらく考えていたけれど、もう一度携帯が鳴った。俺にはどんなメッセージが来たのかわからないけど、狼谷が深刻そうな顔で「いいんですか……?」と言う。
 「もちろん! あ、新品のタオルあったかしら」
 母さんは椅子から立ち上がり、お風呂場の方へ確認しに行く。狼谷は親にメッセージを送ったあと、「ありがとうございます」と言って少し表情を和らげた。


 狼谷の両親からはすぐに了承の返事があったらしい。
 柴山家の家訓として『お客様第一』があるので、狼谷が先に風呂に入り、俺が後に入った。風呂から出た狼谷は俺の部屋着を着て現れたけど、足首も手首も出ていて、地味に屈辱を味わう。
 俺は若干渋い顔をしつつも、狼谷を自分の部屋に招き入れた。俺の部屋に入った狼谷の一言目は、「先輩、野球好きなんですね」だった。
 「俺より父さんの方が好きだけどね」
 俺の部屋は奥に窓があり、窓に接するようにベッドがある。右手に机、左手にクローゼット。健全な男子高校生らしくちょっとだけ散らかっているが、壁にかけられた好きな選手のユニフォームだけは綺麗にしていた。
 「意外と綺麗で、びっくりしました」
 「意外ってなんだ、意外って」
 俺は狼谷に突っ込みつつ、クローゼットを開けて寝袋を出す。俺がそこに足を入れようとしたら、狼谷が「待ってください、俺がそっちで寝ます」と遮った。
 「いや、いいって。お前はお客様なんだし」
 柴山家では来客には最高のおもてなしをするのがルールだ。狼谷が寝袋で寝た、なんて明日母親にバレたら、絶対に怒られる。
 「でも泊まらせてもらってるのに、俺が先輩のベッドで寝るのは申し訳ないです」
 しかし、狼谷は頑なに譲らない。俺の腕を引っ張り、ぐいぐいベッドへ押す。
 「ま、待てって! 本当に申し訳ないとか思う必要ないしっ!」
 俺と狼谷が小競り合いをしていると、隣の部屋からゴンっと何かぶつかる音がした。あっちには凛の部屋がある。眠いときの凛は気性が荒いので、『静かにしろ』という意味だろう。
 「……じゃあ、先輩、一緒にベッドで寝ましょう」
 小声でヒソヒソ言う狼谷に対して、俺は「はっ、はぁ!?」とバカでかい声を出してしまった。また壁からゴンっと音がする。
 「それは、狭いと言うか、お前はいいのかよっ!?」
 「いいですよ。全然。全く問題ないです」
 本当に? いや、何か問題あるでしょ!
 俺はついさっきまで忘れてたのに、夕方に見たドラマも思い出してしまって、顔がどんどん熱くなる。同じベッドで寝るって、あのドラマと同じ距離感だよな!?
 けれど狼谷は俺の背中をぐいぐい押し、一緒にベッドに入る。俺はうるさく騒ぎ立てることもできないまま窓際に追いやられ、仕方なく一緒のベッドに入った。
 「……やっぱり、狭くね?」
 「狭くないです」
 嘘つけ。狼谷の足が触れて、俺の心臓が飛び跳ねる。
 「このリモコンで電気消えますか?」
 「あ、うん」
 狼谷はベッドの頭の上に置いてあるリモコンを手に取ると、ピッと電気を消した。視界は暗くなったが、外の街灯の光がカーテン越しに差し込み、暗闇に目が慣れると、ぼんやりと狼谷の顔が見えた。
 「……先輩、今日は本当にありがとうございます」
 まだ狼谷は眠くないのか、コソコソっと話す。息づかいが感じられるほど近いところに狼谷の顔があって、俺はどこに視線を向ければいいのかわからないまま、「別に……気にしないでよ、俺が勝手にしたことだから」と答えた。すると狼谷が、くすりと笑う。
 「先輩、あのときと同じこと言ってますね。俺に初めてはちみつレモンくれたときと」
 「え? そうだっけ?」
 「そうですよ。俺がありがとうございます、って言ったら、『気にしないで、俺が勝手に用意しただけだから』って言ってました」
 「……よく覚えてるね」
 そんな一言一句覚えてるなんて、狼谷は記憶力もいいらしい。俺が感心したように言うと、狼谷は少しだけ寂しそうに目を伏せた。眠いのだろうか? と思ったとき、狼谷が唐突に「また、先輩に助けられちゃいました」と呟く。
 「また?」
 「ほら、四月末のとき。先輩が俺に声をかけてくれたじゃないですか。『大丈夫か?』って」
 ああ、はちみつレモンを渡したときのこと……と頭の中で記憶を手繰り寄せる。
 「あのときちょうど両親が離婚で揉めてて……俺、本当に何もかも嫌になってたんです。俺のことなんて誰も見てないし、いなくてもいい存在なんだなって思ってて……でも、そのとき、先輩だけが俺を気にかけてくれたんです。俺、びっくりしましたよ。実の両親でさえ気づかないぐらい顔に出さないようにしてたのに、先輩にだけはバレたから」
 初めて聞く事実に、俺は声を失う。
 あの表情は四番を任されるプレッシャーではなく、両親の離婚のことで悩んでいたのか。しかも、『いなくていい存在』って思うほど追い詰められたなんて……
 狼谷がそう思い込んでしまうまでの過程を想像し、心臓がぎゅっと苦しくなった。
 「……でも正直、先輩に気づいてもらえて嬉しかったです。『狼谷には野球の才能があるから、できれば辞めて欲しくない』って先輩が言ったの、覚えてますか? あれで俺、自分にも居場所があるんだって思えたんです。ここにいていいんだなって……俺のために用意してくれたはちみつレモン、本当に救われた気持ちになりました」
 そのときの情景を思い出したのか、狼谷が口元を緩める。
 俺は、自分のした何気ない行動が狼谷の居場所を作っていたなんて夢にも思わず、驚きで呼吸が一瞬止まった。
 ——ああ、だからあのときも『救われた』って言ってたのか……?
 ふと六月に、はちみつレモンごときで狼谷がおかしな行動をしていたのを思い出す。あの子どもじみた行動の裏に、こんな切実な思いが隠れていたなんて……もし知っていたら、俺は絶対に笑っていなかったと思う。
 俺は無意識に、狼谷の頬へ手を伸ばしかけた。途中で、触れたところでどうにかなるものではないと気づき、布団から出す前に手を引っ込める。けれど、狼谷の受けた心の傷を想像するのは止められなくて、胸が強く引き絞られた。
 狼谷はどれだけの孤独に耐えてきたんだろう。
 俺には到底計り知れないけれど——居場所を失う怖さなら、少しだけわかる。ほんの少しだけだけど。
 言葉をなくした俺の前で、狼谷はゆるやかに瞬きをした。もしかしたら眠くなってきたのかもしれない。
 「狼谷、もう寝るか……?」
 「柴山先輩は……どうしたら俺だけを見てくれますか?」
 突然夕方のドラマと似たセリフを言われ、俺は心臓が飛び出しそうなほど跳ねた。
 しかし俺の動揺など気づかず、狼谷は一方的に話し続ける。
 「俺、先輩の大きな目で見つめられると、なぜかどきっとするんですよね……でも、見られてる安心感もあるというか、先輩のためにかっこいいところ見せたいなって……思うんです……」
 話し方がだんだん舌っ足らずになっていく。俺はこのまま寝かせて、「さあ?」と流せばよかったものの……頭の中で凛の言葉が再生されていて、ついうっかり口を滑らせてしまった。
 「お前、俺だけ俺だけってよく言うけど……その独占欲はどこからくんの?」
 「どくせん……よく……?」
 狼谷の瞼が、ゆっくりと閉じていく。あ、寝ちゃう。その前に聞かなきゃ。となぜか気持ちが早まった。
 「その、お、俺のこと……す、好きとか?」
 閉じかけていた狼谷の瞼が途中で止まり、舞台の緞帳が上がるように徐々に開く。感情の読めない眼差し。今は暗くて、よりわかりづらい。
 「好き……? ああ、なるほど」
 何かを確かめるように狼谷は独り言を呟くと、ふいに柔らかく目を細めた。
 「そっか。はい……好きです……これは好きなんですね……」
 とろりと溶けそうなほどうっとり話す狼谷は、そのまま手のひらを俺の頬に添えて——目を閉じた。
 「えっ」
 俺は狼谷の手を振り解くこともできず、ひとりベッドで身を捩る。「おい、狼谷?」と声をかけたが、すー、と健やかな寝息が聞こえてきただけだった。
 ——か、完全に寝てる……!!
 俺は肩を揺らして起こそうとして、起こしてどうすると気づいて手が止まった。
 「ちょ、お、俺は寝れないんだけど!?」
 小声の叫びは誰の耳にも届くことなく、夜の闇へと消えていった。