期末考査も終わり、夏休みまであともう少し。
 俺は日曜日の朝、ダイニングテーブルで、はちみつレモンが入ったタッパーを保冷バッグに入れた。テーブルに置いたスマホが震え、画面を覗き込むと狼のキャラクターアイコンがシュッと現れる。
 『九時に駅に着きます』
 絵文字がないのが狼谷らしくて、「ふっ」と小さく笑った。
 「おにい、何にやにやしてんの〜? きもーい」
 ダイニングと繋がっているリビングでテレビを見ていた二歳年下の妹の凛が、ソファに座ったまま顔だけこちらに向ける。俺と同じ大きな瞳に、明るい茶色の髪は長い。俺と似ていないのは性格だけだ。凛は最強に気が強い。
 「キモいは言いすぎだろ……あ、もう時間だから俺先出るね!」
 肩に保冷バッグを背負ったとき、テレビから「可愛いね」と言う男の人の声が聞こえてきて、体がその場に縫い止められた。振り返ると、凛が最近ハマっている恋愛ドラマが流れている。
 「ん? どうしたの? 時間やばいんじゃないの?」
 「あ、うん、そうだった」
 変に顔が熱くなったのを自覚しつつ、廊下へ出る。
 ——やっぱり、ただの先輩に可愛いって変だよな……?
 ついこの間の狼谷に言われたことを思い出し、どういう意味だろう……と考えながら靴を履いていたら、ポケットに入れたスマホが震えた。
 狼谷かと思い画面を開くと、『(ひいらぎ)中学校五十六期野球部』と出てきて、熱かった頬が、急に冷水を掛けられたように冷たくなる。既読を付けないように慎重にトーク画面を開くと、『久しぶりに集まらね?』と誰かがメッセージを送ってきていた。
 「…………」
 俺は静かに指を横にスライドして通知を消す。返信は今のところするつもりはない。多分、これからも。


 家から駅まで徒歩十分、そこから電車に一駅乗って乗り換え、また一駅乗って降りると桜庭高校の最寄駅に到着する。
 俺がICカードをかざして改札を出ると、すでに自転車を止めた狼谷がいた。
 「ごめん、朝早くにつき合わせて」
 「いえ、俺が食べたいって言ったんで」
 部活が始まるのは十時から。駅から高校までは徒歩十五分ぐらいなので、集合には少し早い。でも狼谷は嫌な顔をせず、俺が持ってきた保冷バッグを丁寧に前カゴに入れると、自転車を押して隣を歩く。
 駅から高校までは住宅街を抜け、途中で春になると桜が咲く小川の橋を渡る。橋まで来たら、高校まではもうすぐだ。
 俺らは汗をだらだら掻きながら橋を渡る。最近は本当に暑すぎて、まるで肌がゆっくり溶けていくみたいだ。
 「……先輩、最近ちゃんと寝てますか?」
 ふいに、橋の上で狼谷が声をかけてきた。俺はびっくりして、隣に立つ狼谷をまじまじと見る。
 「ね、寝てるけど……なんで?」
 「いやなんとなく、顔色が悪い気がして……先輩、笑ってください」
 俺は期末試験前に狼谷と変な約束を取り付けてしまった。それは、『笑ってください』と狼谷にお願いされたら、笑みを浮かべないといけない……なーんてくらだない約束だ。
 俺はうっ、顔をしかめつつ、周りに人がいないのを確認する。約束は約束なので、お願いされたら笑うしかないのだけど……未だに慣れる気配はない。
 でも覚悟を決めて、俺は唇の端をにっと持ち上げた。
 「うーん……十八点」
 「点数低っ! 笑ってやったのに!」
 俺が憤慨すると、狼谷は眉根を少し寄せた。最近よく話すようになったからだろうか、狼谷のわずかな表情の変化を読み取れるようになってきた気がする。
 「それぐらい、顔色悪く見えるんですよ。もしかして、大会前だからって無理してませんか?」
 俺は核心を突かれ、ぎくっと肩が跳ねた。
 狼谷の言う通り、あと一週間後には三年生の引退試合が始まる。去年と同じく一回戦敗退だと、白山先輩と黒海先輩と一緒に試合に出れるのは一回限りだ。
 今年の目標は一回戦で勝つこと。しかも今回は初戦の相手がいい。最後まで気を抜かなければ、ギリギリ勝てなくはない相手だ。それが部員のみんなもわかっているのか、最近は誰一人休むことなく練習に励んでいる。
 一方頑張ってるみんなのために俺ができることと言えば……今日みたいにはちみつレモンを持ってきたり、みんなの投球フォームを確認したり、初戦の相手校の特徴を調べたり……ぐらいしかない。
 俺はみんなみたいに、野球で貢献できない。
 「……無理してないよ」
 声が暗くならないよう気をつけながら、狼谷に言う。それ以上は深く突っ込まれたくなかったので、足早に学校へ向かった。


 学校に着くとまず最初に、体育教官室にある冷蔵庫にタッパーを入れる。鍵は後で職員室に取りに行くとして、部室の前で狼谷と二人で着替えていると、マルオとホソヤン、それに四谷も一緒にやってきた。
 「みんな早いじゃん」
 俺が目を丸くして言うと、四谷が四角いメガネのブリッジを中指で上げる。
 「大会まであと一週間ですしね。拙者も尽力せねばと思いまして」
 去年はそんなこと一言も言ったことなかったのに、今年の二年生はモチベーションが高いらしい。俺は「そうだね」と返しつつ、口元に笑みが浮かぶ。
 三人が着替え始めた頃、ぞくぞくと部員が集まってきた。
 みんなで「よっすー」とか「おはよう」などの挨拶が交わされる中、俺は大体の部員が集まってきたのを確認してから、「ちょっといいかな?」と声をかけた。
 「これ、みんなの成績シートと、相手校のデータ。あとは練習を見ててみんなが苦手そうなところを書き出してみた。ちょっとは役に立つかなって」
 バッグから人数分のクリアファイルを取り出し、一人一人に渡していく。
 「わぁ! さすが柴ママ! これは嬉しくて涙出ちゃよぉ〜」
 白山先輩が涙を拭くフリをする。その隣で黒海先輩が「まじでありがとう。めっちゃ助かるわ柴ママ」と笑顔で肩を叩いてくれた。
 「だから、ママじゃないですって」
 と言いつつも、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じる。こういうとき、みんなに貢献できてよかった、と心の底から嬉しくなる。マネージャーをしていて一番やりがいを感じる瞬間かもしれない。
 誰かの役に立っている。俺には、マネージャーとしての居場所がある。野球ができなくても、ここにいていい。
 胸の辺りがほっと安堵に包まれた。
 「今日ははちみつレモンも持ってきたので、暑いですががんばりましょー!」
 俺が拳を上にあげて言うと、みんなが「まじっ!? やったぁ!!」「柴山先輩のはちみつレモンは最高にテンション上がる!」などと言って、嬉しそうに顔を綻ばせた。
 クリアファイルを受け取った部員からアップの準備に行き、俺は最後に狼谷にファイルを渡す。狼谷は「……ありがとうございます」といつもの淡々とした声でお礼を言ったあとに、じっとこちらを見つめて、「これ、作るのにどれくらいかかりましたか?」と聞いてきた。
 「えっ、いや、わりとすぐだよ……」
 「そうですか? 相手校の最新情報も載ってるし、今朝ははちみつレモンも作ってたんですよね……? 本当に先輩、ちゃんと寝てますか?」
 再び俺は肩が跳ねそうになった。狼谷の指摘が、図星だったからだ。
 昨日は深夜まで相手校の情報を漁り、一人一人の長所と短所を分析していたら、気づいたら朝日が登っていた。
 数時間は寝たけれど、はちみつレモンの用意を思い出して、慌てて起きたのが今朝。その様子を全て見透かされているようで、落ち着かない。
 狼谷は人の顔色など気にしないタイプかと思ってたけど……意外と鋭い観察眼を持ってるらしい。
 「寝てる、寝てる! 大丈夫だって!」
 俺は無理やり笑顔を作り、狼谷の追求から逃れるようにアップの道具を持って外に出た。が、扉の段差で足元がふらつく。
 「っ! 先輩、大丈夫ですか?」
 すかさず狼谷が腰を支えてくれて、倒れずに済んだ。距離が近づいた拍子にふわりと狼谷から柔軟剤の香りがただよって、俺の鼓動がどきっと鳴った。
 「だ、大丈夫……さすが狼谷、反射神経いいね」
 へらり、と笑って誤魔化そうとしたけれど、狼谷の目つきは鋭いままだ。
 「先輩、やっぱり休んだ方が……」
 「大丈夫だから!」
 思いのほか強い声が出て、自分でも驚いてしまう。慌てて「ご、ごめん……でも、どうせ俺は球拾いぐらいしか、体動かさないから」と早口で謝り、狼谷から離れた。
 「先輩……」
 「さっ、練習行こう!」
 俺はこれ以上心配をかけたくなくて、急いで外へ出る。そう、俺にできるのは球拾いと、成績分析シートの作成。あとははちみつレモンを作ったり、アップの準備をしたり、スポドリを作ったり……
 ——『お前、何にもできねぇじゃん!』
 耳の奥で、かつての同級生たちが笑う声がした。最近は、思い出すことも少なかったのに……今日の朝、メッセージが来ていたせいだろうか。
 俺は過去の幻聴が聞こえないように、今の自分ができることを心の中でたくさん数え上げながら、グラウンドへ駆けた。


 柔軟、ランニング、ボールキャッチ……と順番にアップが終わり、ノックが始まる。俺は選手の動きを目で追いつつ、せっせと球拾いをした。
 「あっつ……」
 今日は最高気温が三十五度を超える猛暑日らしい。みんなと同じ野球帽を被っていても、頭のてっぺんが暑い。目の奥もなんか痛くなってきて、俺は明るい日差しを遮るように、瞼をぎゅっと閉じた。
 遠くの方で、バットにボールが当たる音が響く。続いてトン、と地面にボールが跳ねた音がしたので、俺は薄く目を開けた。右側前方に、白い球が転がっている。
 取りに行かなきゃ、と思って足を一歩前に出すと、恐ろしく重い。まるで足に鉛がついてるみたいだ。
 「あれ……?」
 どうもおかしいぞ? と異変に気づきつつも、球は拾わないといけないため、のろのろとボールに近づいていく。しかし、歩けば歩くほど視界が歪んでいき、本当にやばいかもしれないと焦り始めた。
 ひとまずボールを拾って一旦考えよう。そう思ってしゃがんだら、なぜかそこから立ち上がれなくなった。
 足に力が入らない。顔が異様に熱い気がする。ここから離れたいのに、体が言うことを聞かない。
 ——あ、まずいかも。
 視界の周りが暗くなり、完全な闇に包まれそうになったとき、
 「柴山先輩っ!」
 腕をぐっと掴まれ、はっと息を吸い込んだ。水面へと引き上げられるように、ぼんやりしていた意識が一気に鮮明になる。
 「先輩! 顔が真っ赤ですよ!? 立てますかっ!?」
 重い頭をゆっくり持ち上げると、そこにはひどく焦った様子の狼谷がいた。
 「た、立てるよ」
 心配をかけたくなくて、膝に手をついて立ち上がる。俺はふらつかないよう注意してただけだけど、狼谷の目には危なっかしく映ってしまったようだ。狼谷は俺の前でしゃがんで、「背中、乗ってください。俺が日陰まで運びますから」と言う。
 「いやいやっ! いいって! 大丈夫だから!!」
 断ろうともがくけれど、狼谷が俺の腕を引っ張った。俺は半ば前につんのめるようにして狼谷の背中に体を預ける。
 「立ちますよ」
 俺は慌てて狼谷の首の前で自分の手首を掴んだ。安定した足取り。しっかりと支えられる大きな体。熱がこもった頭の中で、狼谷の存在が頼もしくもあり、同時に運ばれる恥ずかしさもある。俺は安堵と恥ずかしさの狭間で、目を閉じたくなった。
 「柴山っ!! 大丈夫か!?」
 「ちょっと、顔真っ赤だよ!?」
 練習は中断されていて、近くにいた黒海先輩や白山先輩が周りに集まってくる。顧問のスーちゃんとターちゃんも遠くから駆けてくるのが見えて、俺はひやっと背筋が凍った。俺のせいで練習が止まってる。みんなに迷惑をかけている。
 「ほ、本当に大丈夫ですから! 日陰で休めば平気ですって! みんなは練習に戻ってください!」
 実際、狼谷がおんぶしてくれているあいだにだいぶましになっていて、俺は「気にしないでください!」と訴え続けた。日陰のベンチに座ってスポーツドリンクを飲む頃には体のだるさも収まり、ターちゃんが用意してくれた冷たいタオルで首筋を冷やしたら、顔の赤みも人並みに戻った。
 俺のはっきりとした受け答えと、多少良くなった顔色を見て、「今日は無理せずここで休んでなさい」と顧問の二人は言い、無事に練習が再開される。
 俺は、再び練習を止めさせるわけにもいかないので、表向きは大人しく日陰で体育座りになって休んだ。
 でも内心は、みんなに迷惑をかけた罪悪感と焦りでいっぱいだった。
 ——なにやってんだろ、俺。
 役に立つどころか練習を止めて、みんなに迷惑をかけてしまった。今更巻き返すことはできないけど、ショックは大きい。
 瞼を閉じると、心臓が嫌な音を立てて鳴っているのがよくわかる。
 「先輩、タオルぬるくなってないですか」
 いつの間にかいなくなっていた狼谷が、コップを両手に持ってやってきた。そのまま狼谷が隣に座るので、「俺は大丈夫だから、狼谷は練習に戻りなよ」と返事をする。
 「いえ、先輩が心配です。先生には俺も休みますって言ってきました」
 狼谷はそう言って片方のコップを俺の方に差し出す。スポドリかと思って受け取ると、中には氷水とレモンが入っていた。
 「もしかして……俺のことが心配っていうより、自分がはちみつレモンが飲みたいだけ?」
 「それもありますけど、先輩を心配する気持ちのほうが強いですよ」
 狼谷は前方のグラウンドを眺めながら、コップに口をつける。なんだその言い方は、と思う一方で、わざわざ遠い体育教官室まで取りに行ってくれたんだな、なんて優しさに気づいてしまい、俺は何も言えなくなる。
 日陰に吹く風はそこまで熱くない。一口水を飲むと、甘いはちみつの味と、レモンの爽やかな酸味が口の中に広がる。どうしようと焦っていた心が、すっと落ち着くような気がした。
 「……狼谷、さっきはありがとう。お前が声かけてくれなかったら、あのまま立てなかったかも」
 少し冷静になってから、まだちゃんとお礼を言ってなかったことを思い出し、俺は改めて感謝を述べる。隣で狼谷はむすっと眉をひそめた。
 「先輩、やっぱり無理してたじゃないですか」
 「無理は……」
 してないと言おうとして、倒れかけてたのだから、狼谷の言う通りだと思い反省する。昨日の寝不足が今日の体調不良に繋がっているのは、さすがに認めないといけない。
 「……でも、俺にできることは、みんなを支えることだけだから」
 マネーシャーの俺はバットを振ることも、ボールを投げることもできない。みんなのように直接試合に貢献できない。
 ——『あいつ、いらねぇよな』
 足元の木漏れ日が左右に揺れる。今日はよく過去の記憶を思い出す日みたいだ。
 「……俺さ、この部活入ったの、先輩たちに『柴山みたいな優秀なマネージャーがいたら助かる!』って言われたのがきっかけなんだよね」
 流れるように高校に入学したときの記憶も掘り起こされ、気づいたら独り言のように呟いていた。
 当時は元々野球部に入るつもりはなくて、でも野球が好きだから見学だけでも……と思って見に行ったら、「スコア記入ができる即戦力の新人が来た!」と先輩たちに大歓迎されたのだ。当時は「スコア記入だけで?」と思ったけれど、やっぱり誰かに必要とされるのは嬉しくて、野球も好きだったし、マネージャーでよければ……と入部を決めた。
 「だから、白山先輩と黒海先輩の役に立ちたいし……何もしてないと、自分の居場所がなくなりそうで……」
 あれ、どうして俺は狼谷にこんな話しをしているんだっけ。
 地面に落ちる自分の黒い影に問いかけたけど、返事は返ってこなかった。
 「先輩の居場所なら、ここにありますよ」
 狼谷の影が自分の影に寄る。顔を上げると、狼谷の野球帽のツバが俺の額に当たりそうなところにあった。
 「えっ……」
 「そんな、先輩が自分を犠牲にしなくたって、先輩の居場所は桜庭高校軟式野球部にあります」
 犠牲、と断言されて、目を見張った。そんなつもりは全くなかったのに、狼谷の言葉を否定できない。
 吸い込まれそうな黒茶色の瞳に目を奪われていると、ふっと狼谷が小さく笑った。その些細な変化が、俺の心を大胆に揺らす。
 「それにほら、見てくださいよ。みんな先輩が心配で、ちらちらこっちを見てますよ。きっとこの調子じゃ、先輩が体調悪くて大会出れない方が、みんな成績下がるんじゃないですかね」
 前を向く狼谷に合わせて、グラウンドに視線を投げる。
 すると確かにみんな、ノックの合間にこっちを見ていた。白山先輩が気づいて手を振り、黒海先輩が「ちゃんと休めよー!」と声を張り上げる。
 俺はじわっと目の奥が熱くなって、誤魔化すように軽く手を振った。
 ……桜庭高校のみんなは優しい。自分が過去にいた場所とは違うんだ。そんな当たり前のことを、俺は狼谷に言われるまですっかり忘れていた。
 ——俺、ちょっと焦りすぎてたかも。
 自分の貢献度合いばかり気にして、周りの温かさに気づけなかったことが、なんだか恥ずかしい。狼谷が一言かけてくれたおかげで、狭かった視界が開けた気がした。
 「……でも、マネの仕事ができないマネージャーはいらないから……元気になったら頑張るよ」
 俺がベンチに手をついて立ちあがろうとしたら、優しく、本当に優しく、狼谷が俺の肩を押さえた。
 「だめです。先輩は今日ここで休んでてください」
 「でも……」
 「じゃあ、俺がここにいる間だけでも、休んでください。俺は柴山先輩がマネージャーの仕事してなくても、隣で笑ってくれればそれで全然いいんで」
 そう言ったあと狼谷は、「先輩、笑ってください」とお願いしてきた。
 いやいや、それじゃダメだろ、と俺は言うべきだったのに、なぜか次の言葉が喉元でつまって出てこなかった。笑っていればいいって、何もしなくても居ていいって。どんな理屈だよ。
 でも狼谷なら、本当にそう思っていそうだなって直感で信じられた。何を考えているかわからない狼谷だからこそ、俺にはわからない理由で、俺がここに居ていいって言ってくれてる気がする。
 「なんなん……お前」
 そんな変なことを言ってきたのは、狼谷が初めてだ。何もしなくても、ただ笑ってるだけでいいって。
 俺は再び涙が溢れそうになって、息を止める。狼谷に気づかれないよう鼻をすすってから、勢いよく首を持ち上げた。
 目尻を細め、唇の端を持ち上げる。狼谷が意味不明なほど価値を感じてくれてる俺の渾身の笑顔。
 「……可愛いです、先輩。百二十点」
 満足そうに微笑む狼谷に、俺の恥ずかしさは頂点に達する。胸がざわつき、頬が熱を帯びた。この感覚はきっと羞恥心が入り混じったものだろう。そうに違いない。
 「……お前の採点って何点満点なの」
 「さぁ、九百点満点ですかね?」
 「共通テストか!? ってか、それだったら点数低っ!」
 夏の青空の下、二人でくすくす笑い合う。俺はそこで初めて気づいた。いつの間にか狼谷と冗談を言い合えるほど、距離が縮まっていたんだって。
 焦りや不安でぎゅっとなっていた胸も、今はゆるりと解けていく。俺たちはぽーんっと打ち上がる白い球を眺めつつ、たわいもない話に花を咲かせた。