梅雨の晴れ間の日曜日。グラウンドにバコーンとボールが高く打ち上がる音が響く。
 硬式だとボールが硬いからカッキーンと高い音が響くが、軟式はゴムボールなので、なんだかくぐもったような音だ。
 「すげぇ……」
 俺はグラウンドの倉庫に行くついでに、ちらりと打席をみる。ちょうど今は狼谷がバッティング練習をしているところだった。
 野球は見るのは好きでも、やるのは全然別。俺にはどうしてもあの細いバットにボールを当てる術がわからない。
 しげしげと眺めていたら、狼谷と目が合った。狼谷は打撃練習の順番が終わったようで、ヘルメットを被ったままこちらにやってくる。
 「げっ」
 まだ狼谷の番が終わらないと思っていたので、俺は慌てて倉庫に行こうとするが、「柴山先輩っ!」と呼び止められてしまった。
 「先輩、あの件考えてくれました?」
 「いや、だから無理だって……!」
 狼谷と俺がコソコソ揉めていたら、二年生の三瓶が倉庫の裏からひょっこり現れた。頭の後ろに手を組んで、「二人とも、どうしたん?」と言う。
 「あの、俺柴山先輩に笑って……」と言いかけた狼谷の口を、俺はばっと手で塞ぎ、「な、なんでもない! ほら、三瓶も次はバッティング練習でしょ?」と誤魔化した。
 「あ、そうだった〜! あざす、柴ママ!」
 三瓶は何事もなくその場を離れる。俺は「だからママじゃないって!」と突っ込みつつも、ほっと息をつき、狼谷の顔から手を離した。
 「だーかーらー! お前の前だけで笑うのは無理だって、この前も言っただろうがっ!」
 俺は顔に熱が集まるのを感じながら小声で叫ぶ。
 はちみつレモンが食べたいと言われた日から今日まで、狼谷は部活で会う度に「先輩、どうしたら俺の前だけで笑ってくれますか?」と聞いてくるようになった。
 笑うってなに? って感じだし、なぜ狼谷の前だけで笑わないといけないのだろう。それになんか……笑ってくださいって必死にお願いされるのが恥ずかしい!
 「あのなっ、俺はお笑いを見たら笑うし、面白いことがあったら笑うし、お前の前だけっていうのは無理なの!」
 意外と狼谷って考えてること単純なのかも……と思ったばかりなのに、またわけわかんないことを言い出して、頭を抱える。
 宇宙人、とまではいかないけど、やっぱり俺と狼谷は住んでる世界が違う。それこそ人に飼われる豆柴と、森で生活する狼ぐらい、文化圏が違いすぎるって!
 「え、じゃあ面白いことがあったら笑ってくれるんですか?」
 「そりゃ笑うだろっ! はい、この話おしまい!」
 俺はぴゃーっと走って狼谷の前から姿を消す。「あっ、先輩!」と後ろから声を掛けられたが、振り返らない。本当は倉庫の方へ来たのだが、狼谷から離れたい一心で、急遽マネージャーの仕事を球拾いに変えた。
 「もうなんなんだよあいつ! 『俺だけを見て』とか『俺だけの前で笑って』とか……独占欲の塊か!? 意味がわからん!」
 俺は汗を掻きながらグラウンドを駆ける。
 でも狼谷の『俺だけ攻撃』も今日で一時休戦だ。なぜなら明日から期末試験前の部活動停止期間に入るから。
 俺は「やっぱり狼谷の考えは理解できそうにないな……」と呟きながら、球拾いに専念した。


 部活動停止期間が始まってから三日目、帰りのHRが終わったとき、担任に「柴山」と呼ばれた。
 ちょーっと嫌な予感がして教卓に向かうと、案の定プリント運びを命じられる。よりにもよって、ここから離れた特別棟まで。
 ちぇっ。今の担任、俺が断れないのを知ってて仕事を押し付けてくるんだよな〜と思いつつ、こういうときに、つい良い顔をしてしまう自分の性格が恨めしい。
 結局俺はプリントを抱えて特別棟まで向かった。
 「あの人帰りのHRも無駄に長いし、まじだるいな……」
 誰もいないのをいいことに、担任への文句を呟く。窓の外は雨が激しく降っており、廊下は昼間とは思えないほど暗かった。今朝の天気予報でお昼過ぎには止むって言ってたけど、本当だろうか。
 上履きの歩く音が雨音でかき消される。俺は階段を登り、数学科準備室の前までくると、足を止めた。両手が塞がっているので、どうやってノックしようか迷っていると、中からスーちゃんの声がした。
 「狼谷の苗字は変わるのか?」
 カミタニ、という音の響きと、スーちゃんの深刻そうな声音に、えっ、と顔を上げる。もちろん、目の前にはただの扉しかない。
 「いえ、父親の方についていくので、何も変わりません」
 狼谷の淡々とした返事も聞こえる。苗字の変更、父親についていく……断片的な言葉だけど、もしかして、と胸の奥にひやりとした予感が走った。
 「そうか。入学してそうそう大変だったな……親御さんの離婚に関して何か困ったことがあったら、いつでも相談しなさい」
 ……離婚、やっぱり。
 今どき親の離婚は珍しくない。頭ではわかっているのに、身近にいる後輩が現在進行形で複雑な家庭環境の渦中にいると知ると、少なからずショックを受けた。
 ——しかも今、盗み聞きしたみたいになってないか?
 そう気づいた瞬間、背中を冷や汗がつたった。やばい、これ……めちゃくちゃ気まずい。
 俺はプリントを抱えたまま扉の前に立ち尽くす。雨の音が遠くでざあざあと響いた。
 そのとき、何の前触れもなく目の前の扉が開いた。狼谷が目と鼻の先に現れて、俺の心臓が跳ね上がる。
 「あ、先輩」
 狼谷はいつもの無表情を崩さない。一方俺は、持っていたプリントを落とさなかっただけでマシなほど、動揺していたと思う。
 「お、柴山か。どうした?」
 狼谷の後ろで、スーちゃんが顔を出す。俺は「あ、先生にプリント運びを命じられて……」といそいそとプリントを置くと、すぐに数学科準備室を出た。
 廊下では俺を待ち構えてたかのように狼谷が立っている。どう声をかけようかと迷っていると狼谷から「もう帰りですか?」と聞かれ、一緒に下駄箱まで歩く流れになった。
 「狼谷、その……ごめん。俺、聞き耳を立てるつもりはなかったんだけど……」
 謝るならすぐがいいかと思って、俺は窓側を歩く狼谷に向かって言う。一方狼谷は「えっ、なんのことですか?」と首を傾げた。
 「いや、ほら、さっきスーちゃんとご両親の話してたでしょ? 俺、聞こえちゃって……」
 「ああ、別に隠してるわけじゃないので、大丈夫ですよ。それに、前々から決まってたので。俺の義務教育が終わったら離婚するって」
 「えっ」
 「逆にそれまでよく持ったというか、やっとというか……まだ正式には決まってないんですけど、引っ越しもないですし、苗字も変わらないので、俺自身はあまり変化がないんですよ」
 本当に何事もなかったかのように狼谷が淡々と言うので、こっちが返事に困ってしまう。
 「そっ、か……」
 俺が俯きがちに答えると、狼谷が「それより」と話を変えて足を止めた。
 「先輩……これ、見てください」
 俺も歩みを止め、顔を上げる。ちょうどその瞬間、窓の外で雷がピカッと光った。
 「ヒッ」
 光に照らされ、白目を剥いた狼谷の顔が浮かび上がる。
 ——ピシャーン!!
 遅れて響く雷鳴に、俺は思わず叫んだ。
 「こわい、こわい、こわいって!! なになになにっ!?」
 狼谷は俺の反応を見てすぐに怖い顔を止め「あれ?」と首をひねる。
 「超絶必勝おもしろ変顔をしたつもりだったんですが……おもしろくなかったですか?」
 「おもしろくねーよ! こえーよっ!!」
 俺はグーで狼谷の肩を殴る。やっぱり狼谷の思考は未知数だ。あれがおもしろ変顔だなんて、どこの放送局のバラエティ番組を見てたんだ! ほん怖をお笑い番組だと思ってるタイプか!?
 「そうですか……残念です。先輩の笑顔が、見たかったんですけど」
 でも狼谷は本気で笑わせたかったのか、気落ちしたように声のテンションが下がる。
 俺は思わず「ど、どんだけ俺の笑顔がみたいんだよっ……!」と突っ込んでしまった。
 けれど狼谷は、俺の突っ込みが不服だったらしい。
 「それは、見たいですよ、先輩の笑顔。俺、先輩の笑顔を見ると元気が出るんです。頑張れる気がするんです。どんなに嫌なことがあっても、先輩の笑顔を見てたら、なんか、心が軽くなるんです」
 珍しく早口でまくしたてる狼谷の声音には、からかいもイジりも一切ない、本気百パーセントの情熱が宿ってる。俺は恥ずかしさで顔が熱を持つのを、はっきり自覚した。
 「お、俺の笑顔にそんな価値ないだろっ……! お前、こだわりすぎ!」
 「価値はあります。変顔してまで先輩の笑顔が見たいんです。ちなみにギャグも考えましたが、聞きますか?」
 俺はどんなギャグが飛び出すのか想像もつかず、怖くて首を横に振る。めっちゃ寒いギャグだったら、どう反応すればいいかわからない。
 ……なんだ、こいつ、俺の笑顔に一生懸命すぎる!
 でもはたと気づいた。狼谷って、なんでも全力だなって。
 野球も休まないし、ついこの前は、はちみつレモンを食べるために腹踊り的なことまでしていた。これっ! と決めたことには、とことんやり切る性格なのかもしれない。
 じゃあ、俺の笑顔が見れるまで、何でもするってこと……? それはそれで困るんだが!?
 俺は自分の中の恥ずかしさと、ずっと狼谷に「笑ってください」と迫られる未来を天秤にかけて……迫られる方が絶対に嫌だなって確信した。
 「〜〜っ、わかったよ。お前の前だけで笑うのは無理だけど、お前が『笑ってください』って言えば、笑ってやる」
 「! 本当ですか!?」
 「ただし! そのお願いは二人だけのときだけな!! 恥ずいから!」
 ここまで本気でこられたら、こっちが折れるしかない。もちろん「笑ってください」って言われて笑みを向けるのは恥ずかしいけど、怖い変顔をされるよりはましだ。
 狼谷は俺の出した条件に何度も頷き、「もちろんです。俺以外の前で笑っても、我慢します」と言う。
 我慢ってなんだ、我慢って。現実的に可能なお願いだけ言ってくれ。
 そう思ったけれど、もはや口論する気にもならなかった。
 「じゃあ……今から、さっそくいいですか?」
 狼谷が緊張感を含んだ瞳で聞いてくる。まるで今から大事な告白をするかのような雰囲気に、俺もごくりと唾を飲み込んだ。
 「柴山先輩……笑ってください」
 別に告白されたわけでもないのに、顔が熱い。でも約束してしまったからには、笑わないと……!
 俺は恐る恐る口角を上げ、目元も緩める。息が少し早くなるのを感じながら、恥ずかしさを押し殺してにこっと笑った。少しはにかんでしまうのは、許してほしい。
 「…………」
 外の雨音がいつの間にか止んでいる。笑ってる時間は一瞬だったんだろうけど、俺にはとても長く感じて、もういいだろっ! と言いたくなったとき——狼谷は、唐突に俺の頬を両手で挟んだ。
 「……可愛い」
 「はっ!?」
 「可愛いです、先輩」
 狼谷は俺の笑顔に釣られてか、薄い唇を弓形にして、うっとりと呟く。
 瞬間、俺はぶわっと全身に汗をかいた。まるでシャンパンの栓が弾け飛ぶように、心臓がポンっと音を立てて跳ねた気がする。
 ——そ、その笑顔、ずるいだろっ!
 普段笑わない狼谷の、わかりやすい笑顔。表情筋をちゃんと動かせるんだ……なんて冗談さえ奪うほどの、とてつもない破壊力。
 俺はもう笑っていられなくて、わなわなと唇を震わせた。
 誰かの笑顔に価値なんて感じたことなかったけど、少しだけ……少しだけ、狼谷の言ってることがわかってしまったかもしれない。
 確かにこの笑顔は、お願いしてでも見たいかも。
 廊下に差し込む日の光を前に、俺はまた一歩、狼谷と心の距離が近づく自分を自覚していた。