「柴山先輩は、どうしたら俺だけを見てくれますか?」
五月最後の日曜日。部活の休憩中、後輩の狼谷一輝が変なことを聞いてきた。
俺はグラウンドの隅の木陰で、目を瞬かせる。
テーブルの上に置いたジャグから、カラン、と氷が崩れる音がした。
「あー、えっと……え?」
真っ白な野球帽から覗く狼谷の切れ長な目は、濡れた土みたいに黒茶色だ。
よく言えば涼しげでかっこよく、悪く言えば感情が読めないのでちょっと怖い。
俺は165cmある自分の身長より高い位置にある狼谷の顔をまじまじと見たあと、やっぱり質問の意図がわからず、助けを求めるためにまわりを見渡す。が、同じ軟式野球部の部員はみんな、少し離れた場所にあるベンチに座って談笑していた。
おい、俺をひとりにしないでくれよ。どう返していいかわかんねぇよ。
手に持った、【柴山順】と俺の名前が書かれたコップから水滴が落ちる。
見回したついでに、フォーム確認のために置いてある鏡が目に入った。
狼谷と違って、感情が筒抜けになってしまいそうな大きくて丸い目、よく部員に「豆柴っぽい!」とからかわれる明るい茶色の髪。みんなと違って白いTシャツに短パンなのは、俺が選手ではなくマネージャーだからだ。
何も知らない人が俺と狼谷を見たら、俺の方が後輩って思われそう……と自分の幼い容姿を認めてげんなりした。もう高校二年生になるのに、この顔はいつになったら成長するんだか。
「あの、先輩?」
「あ、ごめんっ! ぼーっとしてた……で、なんだっけ?」
「どうしたら、先輩が俺だけを見てくれるかなって思いまして」
狼谷の声は低く、淡々としている。この前、学内の噂好きのキャッチャー、マルオが「狼谷って女子にめっちゃモテるけど、無愛想だから最近人気落ちてきてるんだって〜」なんて言っていた。確かに改めて見ると、狼谷は女子ウケしそうな顔立ちをしてる。
すっと高い鼻筋に、落ち着いた雰囲気。清潔感のある容姿は、クラスでぱっと目を惹くイケメンというより、隠れガチファンが多そうな感じ。
もし俺が狼谷の顔面偏差値を持っていたら、少しは愛想よくして自分を良く見せようとしちゃうけど……狼谷は決して冷たい表情を崩さない。その態度がかっこいいなと思う反面、自分とは違う人種だなとも感じる。
喩えるなら宇宙人と地球人、みたいな?
それぐらい俺にとって狼谷は、どこか遠い存在だった。
「えっと……俺はスマホも見るし、授業中は黒板も見るし……狼谷だけ見るのは現実的に無理かな……?」
だから至極真面目に難解な問いかけをされて、やっぱり、狼谷は宇宙人だなぁ〜と妙に納得してしまう。言ってる内容は全部聞き取れたはずなのに、意味がさっぱりわからない!
「そうですか……」
狼谷はじっと俺を見てきた。今日初めて気づいたけど、狼谷は人の目をまっすぐ見て話すタイプらしい。澄んだ目で射抜かれると、何もかも見透かされているようで、俺は背中にじわっと変な汗を掻いた。
……突然始まった異星間交流、俺にはハードル高いっす!
「あ、えっと……」
思わず小首を傾げて頬をかいたとき、視界の端に丸いシルエットが近づいてきた。
「わかるぞー狼谷! 俺も柴ママに面倒見てもらいたいもん!」
いつの間にかキャッチャーのマルオが近くに来ていたようで、同情するように狼谷の肩を叩く。俺はつい条件反射で、「誰がママだってっ?」と突っ込んだ。
この「柴ママ」呼びは、俺が一年生のとき、桜庭高等学校軟式野球部のマネージャーとして入部してからずっと続いている。俺はこのあだ名をまったく気に入ってないので、呼ばれる度に毎度律儀に抗議しているけど……改善される兆しはない。
「はいはい、順ちゃん、そう怒らない、怒らない」
今度は部長の白山先輩が目を細めて笑う。白山先輩の目はデフォルトで細いので、からかっているのか判別が難しいが、今のは声で確実に茶化しているのがわかった。
俺が狼谷の宇宙語をどうにか理解しようと奮闘している間に、ベンチでの談笑は終わったようで、マルオと白山先輩に続いて、コップが空になった部員がぞろぞろとジャグの周りに集まってくる。
「たしかに、順ちゃん呼びも捨てがたいなー」
そう言って同意するのは副部長の黒海先輩だ。白山先輩が純塩顔男子なら、黒海先輩は極みソース顔。凛々しい眉は油性ペンで書いたみたいにくっきりしている。
「でも柴山氏は柴ママ呼び一択だと思うんですよねぇ〜」
黒海先輩の隣では、ピッチャーのホソヤンが謎の主張をした。ホソヤンは細身で顔も細長いので、マルオとは対照的な感じだ。
「なにをっ! 俺はこんな手のかかる息子たちを持った覚えはありません!」
などと否定しつつも、俺は集まってきた部員のために、自然とスポドリの残量は確認しているし、空いたコップは渡される前に回収してしてしまう。休憩でみんないるのをいいことに、一人一人に打撃成績分析シートなどを渡していると、ホソヤンの後ろにいた一年生の東野と西山が、
「この面倒見のよさ、母性を感じる……」
「俺らが手のかかる部員なんじゃなくて、柴山先輩が俺らをダメにしてるのでは?」
「それは一理ある。柴山先輩の気遣い、レベチだもん」
「スポドリもお手製だしな。やはり、偉大なる軟式野球部の母」
と言って拝み始めて、俺は「おいっ! そこっ! 勝手に俺を崇め奉るな」と指差した。
ママ、と呼ばれるのは不服だけど、自分でも面倒見が良い自覚もあるし、他人の顔色を察する能力が高い自負はあるので、まあ、そう呼ばれてしまうのもわからなくはない……でも、崇め奉られるのはさすがに恥ずいって!
「でもさぁ、そうなるとやっぱり狼谷は手がかからないから、柴山が世話する必要ないよなぁ〜」
マルオがコップにスポドリを注ぎながら、しみじみ呟く。隣でホソヤンが「そうだよね」と同意した。
「狼谷氏は今のところ、部活は無遅刻無欠席で?」
「まぁ、はい……家に帰っても、することないので」
ホソヤンの問いかけに、狼谷は相変わらず無表情で淡々と答える。
桜庭高等学校は部活動より学業優先、みたいな考えがあるため、どの部活動もあまり強くはない。軟式野球部も、軟の字を体現したかのようなゆるい部活で、日曜日は練習があるけれど、顧問と授業の都合で水曜日と土曜日は練習がないし、部員も塾や予備校があれば休んでOKだ。
部員は三年生が二人、二年生が七人、一年生が三人の少数精鋭(精鋭かどうかは怪しいけど)……にも関わらず、結構な頻度で誰かしら休むので、大会は大抵一回戦敗退。でも大会前になるとみんなそれなりにしっかり参加するので、どうにか今年は一回戦だけでも勝ちたいね、って話をこの前次期部長の一ノ瀬と次期副部長の二階堂としていた。
まあ、そんな一ノ瀬と二階堂も、今日は塾の模試で休みなんだけど……
「へぇ〜狼谷偉いじゃん」
黒海先輩が感心したように呟く。俺も賛同するために、こくこくと頷いた。
部活の出欠席を取るのはマネージャーの仕事なので、狼谷が皆勤賞なのは自信を持って答えられる。
その上、選手としての成績も目覚ましく、打撃センスが神がかっている狼谷は、早くも四月末から四番を任されていた。
俺はふと、ああ、だから狼谷とあまり話したことがないのか……と気づく。
サボろうとする部員や、伸び悩んでいる選手に声をかけることはあっても、手のかからない狼谷に声をかけるきっかけは少ない。
——あ、でも一度だけ接点があったような……?
脳裏に狼谷の沈んだ顔が浮かび上がる。あれはいつのことだったっけ……と思い出そうとしたら、マルオの声が耳に入った。
「狼谷も柴ママに面倒見てもらいたいよな?……え? さっきそういう話をしてたよな?」
マルオが俺と狼谷を見比べながら、確認するように問う。狼谷は黙っているので、肯定ってことだろうか?
じゃあ……狼谷の「俺を見てください」的な発言は、「俺の〝面倒を〟見てください」という意味を含んでいて……って、難しくない? 行間を読んで察するには、行と行の間が広すぎるんだが?!
「なら狼谷も手のかかる後輩になればいいじゃんない?」
俺が#行間とは? なんて考えている間に、白山先輩が「これぞ名案!」みたいな顔で人差し指を空に向ける。
「おお〜確かにそれはいい案ですな」
ホソヤンが頷き、黒海先輩も「たしかにな」と腕を組んだ。次々に部員のみんなが「ああ〜ね」と納得したように呟く。
「いやいや……」
何言ってんすか、と言いかけた俺の言葉は、狼谷の抑揚のない声によって遮られた。
「じゃあ、俺が手のかかる人間になれば、柴山先輩は俺だけを見てくれますか?」
「えっ」
まじ? と思った矢先にマルオが「いいじゃん! 狼谷の反抗期だ!」とはやし立てる。
「反抗期、というより、イヤイヤ期では?」
「まあ、かまってもらいたいならそっちが正しいか?」
ホソヤンと黒海先輩が表現の正しさについて議論しているが、そんなのどうでもいい。
「いや、待ってって! なんでそうな……」
「あっ、スーちゃんとターちゃんが来た」
白山先輩が遠くを眺めて呟く。
スーちゃんは数学科の鈴木先生のことで、ターちゃんとは体育科の田辺先生のことだ。俺らは陰で顧問の二人をそう呼んでいるけど、もちろん本人の前で口にしたことはない。
二人が来たと言うことは、休憩は終わり。次はノックだ。
俺は色々と文句を言いたいのを我慢して、みんなのコップを回収する。狼谷のコップを回収するときだけ鋭い視線を感じたけど、適当に愛想笑いで流した。
やっぱり俺は、狼谷のようにクールな態度は取れない。
翌日の月曜日、部活が始まった夕方。俺はグラウンドで球拾いをしつつ、狼谷を横目で見やる。
今狼谷は高く上がったボールをキャッチする練習をしていた。桜庭高校は守備に重点を置いているので、ボジションがセンターの狼谷は外野ノックの最中だ。
放物線を描く白球を、狼谷は難なく追いかけ、軽やかにグラブへ収めた。打撃はもちろんのこと、狼谷は守備も上手い。足が速いのもあるし、多分、目がいいんだと思う。
……あれで中学はバスケ部だったなんて、誰が信じるだろうか。俺には絶対無理な芸当だ。
「やっぱり昨日のは冗談かぁ……」
俺のつぶやきはグラウンドにぽとりと落ちる。
狼谷のイヤイヤ期発言から二日(結局ホソヤンの主張が通り、イヤイヤ期と名付けられた)今日が初めての部活動だ。今のところ大きな変化はなく、狼谷はいつものごとく真面目に練習している。勝手に身構えて損をした気分だ。
「まぁ、何事もなくていっか」
足元に転がってたボールを拾い、カゴに入れる。ふいに視線を感じて顔を上げると、狼谷と目が合った。
思わずどきっと心臓が跳ねる。
もしかして今の独り言……聞かれてた?
「そんな、まさかね」
狼谷と俺の間は一塁と二塁ほどの距離がある。大きな声は出していないし、絶対に聞かれていないはずだけど……なぜか胸がざわついた。
ちょうどそのとき、ボールが高く打ち上がる音がグラウンドに響く。俺は自然と白い球の軌跡を目で追い、視界の隅で狼谷が捕球の体勢を取ったのを確認した。
それはいつもの構え、いつもの風景。あとは取るだけ。そう思った瞬間——狼谷が華麗に、ボールを顔面キャッチした。
「えっ」
その場にいた全員が同じ音を発したと思う。一瞬の静寂ののち、俺はさーっと血の気が引いた。
「狼谷っ!!」
俺は球拾いのカゴを置き、うずくまる狼谷の元へ駆けた。やばいボールの取り方をした割には大きな怪我はないようで、狼谷はすぐに上体を起こす。
「先輩……本当に来てくれた……」
「え、なに? なんか言った? それより俺がわかるか!? 自分の名前言えるか!?」
「先輩の名前は柴山順、俺の名前は狼谷一輝です」
よどみなく答える狼谷に、安堵のため息が出る。深刻な症状はなさそうだ。
「グローブが一回クッションになったので、そんなに痛みはないです」
「そっか。でも念のため冷やした方が……」
俺が傷を確認するために狼谷の頬に触れたとき、鼻から真っ赤な血がたらりと垂れる。
「わぁーっ!!! おまっ! 鼻血出てる!! 保健室行かないと!!!」
ぎょっとして立ち上がると、狼谷が俺のTシャツの裾をつかむ。
「先輩、連れて行ってくれますか………?」
「あったりまえだろうが! 立てるか!?」
「はい」
狼谷の脇に手を入れて立ち上がらせるとき、あれ? と軽い違和感を覚える。なんか、見た目めっちゃ大惨事だけど、足取りしっかりしてね……?
でもそんな違和感を深く考えている暇もなく、顧問のターちゃんがやってきて、「大丈夫か!? 柴山、あとは俺が引き継ぐ。狼谷、今すぐ親御さんにも連絡するからなっ」と言って狼谷を連れて行ってしまった。
ターちゃんに引き渡すまで狼谷は「大丈夫です」とか「親に連絡するほどじゃありません」と駄々をこねていたが、鼻血が出るほどの一大事なので誰も取り合わない。
「大丈夫かな、狼谷……」
しかしこのときの俺は知る由もなかった。
——これがまだ、狼谷の小さな異変に過ぎないことに。
狼谷が華麗に顔面キャッチを決めた翌日の火曜日。
狼谷は普通に部活に参加していて、大した怪我じゃなかったんだと安心した束の間……アップのランニング中に盛大に転んだ。それもかなり派手に。最初、頭から急にスライディングしたのかと思ったほどだ。
俺はまたもや肝を冷やしたが、当の本人が「なんでもないです」と言い張るので、結局その日はそのまま部活動を再開した。
そして次の部活があった木曜日。
なんと狼谷は、一人でユニホームが着れなくなっていたのだ!
「柴ママ〜! 狼谷がユニホーム着れないって」
放課後部室に向かう道すがら、すれ違ったマルオがニヤニヤしながら言ってきて、俺は耳を疑った。さすがにユニホームぐらい一人で着れるだろ……と思って部室に入ると、本当に狼谷が一人でユニホームと格闘していて、目を瞠った。
その日は驚き過ぎて何も追求せずに服を着せてやり、狼谷を部活動に送り出したのだが……
翌日の金曜日。とうとう狼谷は、靴下も脱げなくなってしまった!
何がどうなって靴下が脱げないのか理解に苦しんだが、狼谷が着替え終わらないと鍵返却当番の俺も帰れない。
俺は「仕方ないな!」と言ってせっせと狼谷の靴下を脱がしてやり、どうにか無事に帰ることができたけれど……さすがにこの時点で、狼谷の行動が明らかにおかしいと疑い始めていた。
だって捕球ミスや転倒ならまだしも、服を一人で着替えられないって何歳児だよ!?
「はぁ……マジであいつ何考えてるんだろう」
宇宙人カミタニの考えに苦しみながら、俺は日曜日の部活動に参加する。
今日は一体、狼谷は何をやらかすつもりなのか。嫌な緊張感を抱きつつアップの準備を進めるが、練習が始まる時刻になっても狼谷はやってこない。
「まさか、無断欠勤……?」
俺はグラウンドにある時計を見た。時刻は午前九時。みんなはもうランニングを始めている。
もしかして事故に遭ったとか……? それとも何かのトラブルに巻き込まれたりして……?
最近何かと抜けている狼谷のことだから、登校中に危ない目に遭ってもおかしくない。そう思い始めるとじわじわ不安が押し寄せて、俺は居ても立っても居られなくなった。
「先生、狼谷に連絡してきてもいいですか?」
俺はスーちゃんに許可をもらい、一旦部室に戻る。バッグからスマホを取り出して狼谷にメッセージを送ると、すぐに既読のマークがついた。
「よかった、無事で……」
しかし送られてきた内容に、「えっ」と声が出た。
『すみません。今日部活あるの忘れてました』
「……はぁ?」
——なんなん、こいつ。
プチッ、と何かが切れる音がした。細い糸を引っ張って切るような音だ。スマホの画面から目を離すと、俺は無意識に服の裾から出ていた糸をちぎっていた。
多分、堪忍袋の緒が切れるときも、こんな音がするんだろう。直感的に、そう思った。
「スー……はぁ……」
俺は深く息を吸い、吐いて、少し落ち着こうとしたあと、バッグにスマホをしまい、グラウンドに向かう。
大体二十分後。「お腹が痛くて……」と嘘をついて、また部室前に戻ってきた。
俺は扉に背中を預け、腕を組む。しばらくすると渡り廊下の先から、制服姿の狼谷がやってきた。
「あれ、先輩?」
野球帽で隠れていない、艶のある狼谷のストレートな黒髪が風でなびく。俺は扉から背中を離し、狼谷の前に立ち塞がった。
「あのさ、最近のお前のポンコツ具合はわざとやってんの?」
俺は狼谷の目をしっかり見据えて、なるべく冷たい声を出した。一方狼谷は眉が少し驚いたように上がる。俺は場違いにも、へぇ、そんな表情もできたんだ、と思った。でも今話したいのはそのことじゃない。
「あ、えっと……」
「前さ、言ってたじゃん。『俺が手のかかる人間になれば、柴山先輩は俺だけを見てくれますか?』って」
「は、はい……」
「もしあれを本気でやってるなら、俺もうお前の面倒見ないから!」
俺は狼谷を睨みつけ、精一杯怒りを表した。本当に手のかかる後輩ならまだしも……わざとやってるなら、もう付き合いきれない。
一人で着替えられないこともそうだけど、今日の無断遅刻はさすがにムカついた。
こっちは本気で心配してたのに、既読がついてるってことは、起きてたってことだろ? 俺からの連絡を待ってたってことじゃん。
なんなんだよ、それ。
心配してた俺が、まるで馬鹿みたいだ。割と本気で、狼谷は部活をサボらない真面目なやつだと思ってたのに……裏切られた気分だった。
「じゃっ! それだけだから」
俺は一方的にそう言い捨てると、部活に戻るために狼谷の脇を通り過ぎた。が、「ま、待ってください!」とすれ違いざまに腕を掴まれる。
その力が思いのほか強く、手の熱が高く、俺の心臓が驚きで跳ねた。
「……なんだよ」
俺はゆっくり振り返って狼谷の顔を見る。するとそこには、動揺で細かく揺れる狼谷の瞳があった。
「……すみません。確かに、ポンコツはわざとやってました。それは心からの謝罪をします」
目を見て話す狼谷にしては珍しく、俺の胸元辺りに視線が集まる。俺は心の中で、やっぱりな、と返事をした。
「もう絶対にやりません。先輩に嫌われるのだけは嫌です。でも、俺……」
そこで狼谷はしばらく言葉を切った。初夏の爽やかな風が俺と狼谷の間を通り抜け、木の葉の擦れるざわめきが響く。俺はその間ずっと、狼谷の顔を見つめていた。
狼谷の長いまつ毛が震え、眉尻が困ったように下がる。薄い唇は引き結ばれているが、時折何かを伝えようと軽く開いた。
どれも見逃してしまいそうなほどごく小さな変化だ。でも俺は初めて、狼谷の感情——戸惑いや、困惑、どう伝えようかと悩む気持ちが、手に取るようにわかる気がした。
「あの俺、もう一度だけ…………先輩の作ったはちみつレモンが、食べたいんです」
狼谷の手が、するりと腕から離される。俺は今言われた言葉を頭の中で反芻し……
「はちみつレモンか……えっ!? は、はちみつレモンっ!?」
思わず、すっとんきょうな声を上げてしまった。え、だって、はちみつレモンって……あの、俺がたまに作ってくるはちみつレモンのこと?
「そうです。四月に先輩が俺のためにって持ってきてくれたはちみつレモン……あれがまた、食べたくて。マルオ先輩に聞いたら、不振の部員がいると柴山先輩が持ってきてくれるって聞きました」
「あ、いや、そうだけど……」
確かに俺はたまにはちみつレモンを作って部活に持ってくる。頻繁に持ってこないのは、単純に持ってくるのが面倒くさいからだ。俺が電車通学なのでなおのこと、駅から学校まで運ぶのが億劫になってしまう。
それでもマルオの言う通り、不振の選手がいたりとか、辞めそうな部員がいたとき……あとは大会前など、ちょっとみんなを元気づけたいときに、頑張って持ってきたりする。
——でも狼谷に持ってきたことあったっけ……?
俺は頭の中で、四月、はちみつレモン、狼谷……とパズルを組み立てるように、記憶のカケラを寄せ集める。一つ一つの単語をピースのごとく当てはめていくと……狼谷の暗い表情がぼんやりと浮かび上がった。
「あっ、ああ!」
ぱあっと脳裏にいつぞやの映像が蘇る。
そうだ。四月の末、狼谷が一週間くらい思いつめた顔で部活に来ていたのだ。
表情の変化に乏しい狼谷だけれど、その週だけはうっすら眉間に皺ができていて、俺は「何かあったのでは……?」と気になって仕方なかった。でもマルオやホソヤンに話しても「気のせいじゃない?」と流され、俺の考えすぎか、と反省したのだ。
けれど後日、狼谷が四番を任されるって知って、俺は狼谷がプレッシャーを感じてるのかな? と思ったのだ。
桜庭高校軟式野球部は完全実力主義だ。投球が早い人がピッチャーになり、バッティングが上手い人が四番になる。そこに学年は関係ないし、みんな「うまいやつがやればいいっしょ」と割り切ってるので、嫉妬や妬みを覚えるような部員もいない。
でも入ったばかりで野球経験もないのに、突然四番に抜擢されたら……俺だったら圧を感じて、気持ちが塞がるかもしれない。嬉しいことのはずだけれど、それと同じくらい、心が苦しくなる。
狼谷が俺と同じかどうかはわからなかったけれど……当時の俺は、狼谷の背負っているプレッシャーを少しでも軽くしたくて、はちみつレモンを使って話すきっかけを作ったのだ。
桜庭高校軟式野球部はゆるい部活だし、狼谷にはバッティングの才能がある。気負わずのびのび参加して、少しでも野球の楽しさを知ってくれたら嬉しいな……そんな風に話しかけたのを、今思い出した。
「俺、あのとき、本当に先輩のはちみつレモンに救われたんです。俺をちゃんと見てくれている人がいるんだって……すごく嬉しかった」
「す、救われたなんておおげさな……」
俺はただ、マネージャーとしてはちみつレモンを差し入れただけだ。狼谷が言うほどすごいことはしていない。
俺は急激に恥ずかしくなって、頬をかき……ふと我に返った。
えっ、待てよ……? じゃあ狼谷は俺の作ったはちみつレモンが食べたくて、『イヤイヤ期』をしてたってこと?
俺は信じられない思いで、狼谷の顔を見つめる。
「じゃあ、今までのポンコツ具合ははちみつレモンのために……?」
狼谷は少し照れたように目を伏せつつも、ゆっくり頷いた。
「まぁ、目当てははちみつレモンだけじゃないですけど……そんな感じです」
俺は思わず口を手で押さえ、目を大きく見開く。
「ガチで!?」
その瞬間、頭の中でこれまでの狼谷の行動が走馬灯のように流れた。
——華麗な顔面キャッチ……ダサい転び方……一人でユニホームが着れなくて、あたふたする間抜けな姿……あれ全部、俺のはちみつレモンのためだったのか!?
そのことに気づいた瞬間、腹の底から笑いがふつふつと込み上げてきた。
だって普通に考えて、服とか絶対一人で着れるもんな。首からユニホームが抜けなくて、腹踊りみたいになってたあの姿も……俺のはちみつレモンが食べたくてやってた演技で……
「ぷっ、ははっ、ま、まじかっ!」
俺はあのときの姿を鮮明に思い出し、とうとう堪えきれなくなって吹き出してしまった。目の前の狼谷は唖然としているが、どうにも笑いが収まらなくて、腹を抱えてしまう。
「えっ、やっぱり一人でユニホーム着れるよね? あのときのお前、腹踊りみたいにうねうねしてて……いや、あれもわざととか……はちみつレモンごときで……ふっ、ははっ」
「せ、先輩……? そんな面白いですか?」
「面白いにきまってんだろ……! ははっ」
何を考えてるかわからないなぁ〜なんて思ってたけど、まさかはちみつレモンが食べたいだけだなんて! フツー、そのためだけに服が着れない演技をするか? しないだろっ! どんだけ食べたいんだよっ!
俺はひとしきり笑ったあと、目尻に浮かんだ涙をぬぐって狼谷に向き合う。
「そんなの一言『はちみつレモンが食べたいです』って俺に言えばいいじゃん」
「え、そしたら先輩持ってきてくれるんですか?」
「あー……タッパーが重いから、駅から一緒に運んでくれるならいいよ」
駅から学校までは徒歩十五分。その間が一番腕が疲れるので、自転車通学の狼谷が手伝ってくれるなら問題ない。
俺がそう思って条件を提示すると、狼谷は真剣な眼差しで、
「行っていいのであれば、俺が先輩の家から運びますよ」
と真顔を崩さずに言う。
「いや、それは遠すぎるだろっ!」
俺はまたもや狼谷の突飛な発想が面白くなって、爆笑してしまう。だってこっちは電車通学だぞ? 狼谷の家からだと一時間以上はかかる。でも本気で言ってるから面白い。
——なんだ、俺が勝手に宇宙人だと思ってただけで、意外と考えてることは単純じゃん。
狼谷は少し言葉足らずで、考えが飛躍するところがあるけれど、それこそ宇宙語みたいに全く理解不能なわけじゃない。なんなら、はちみつレモンのために必死に色々考える姿は、ちょっと可愛いなって思ってしまった。
星と星ほど離れていると思っていた狼谷と俺との距離は、案外ずっと近いのかもしれない。
「ヒーっ、俺、お前がこんなおもしろいやつだなんて知らなかった」
ちょっと勘違いしてたわ、ごめん。それは胸の内だけで謝ったけど。
俺が指で涙を拭くと、なぜか狼谷が一歩近づいてきて、無言で見つめてくる。
どうした? と思って半身を引くと、涙を拭いていた手を両手で握られた。
「あの、先輩。どうしたらその笑顔を、俺にだけ見せてくれますか?」
「……へっ? え、笑顔?」
狼谷は頷き、なにかすごい宝物でも見つけたような眼差しで、繰り返す。
「はい。先輩の笑顔、俺だけが見たいです」
……やっぱり前言撤回。狼谷って……宇宙人かも?
五月最後の日曜日。部活の休憩中、後輩の狼谷一輝が変なことを聞いてきた。
俺はグラウンドの隅の木陰で、目を瞬かせる。
テーブルの上に置いたジャグから、カラン、と氷が崩れる音がした。
「あー、えっと……え?」
真っ白な野球帽から覗く狼谷の切れ長な目は、濡れた土みたいに黒茶色だ。
よく言えば涼しげでかっこよく、悪く言えば感情が読めないのでちょっと怖い。
俺は165cmある自分の身長より高い位置にある狼谷の顔をまじまじと見たあと、やっぱり質問の意図がわからず、助けを求めるためにまわりを見渡す。が、同じ軟式野球部の部員はみんな、少し離れた場所にあるベンチに座って談笑していた。
おい、俺をひとりにしないでくれよ。どう返していいかわかんねぇよ。
手に持った、【柴山順】と俺の名前が書かれたコップから水滴が落ちる。
見回したついでに、フォーム確認のために置いてある鏡が目に入った。
狼谷と違って、感情が筒抜けになってしまいそうな大きくて丸い目、よく部員に「豆柴っぽい!」とからかわれる明るい茶色の髪。みんなと違って白いTシャツに短パンなのは、俺が選手ではなくマネージャーだからだ。
何も知らない人が俺と狼谷を見たら、俺の方が後輩って思われそう……と自分の幼い容姿を認めてげんなりした。もう高校二年生になるのに、この顔はいつになったら成長するんだか。
「あの、先輩?」
「あ、ごめんっ! ぼーっとしてた……で、なんだっけ?」
「どうしたら、先輩が俺だけを見てくれるかなって思いまして」
狼谷の声は低く、淡々としている。この前、学内の噂好きのキャッチャー、マルオが「狼谷って女子にめっちゃモテるけど、無愛想だから最近人気落ちてきてるんだって〜」なんて言っていた。確かに改めて見ると、狼谷は女子ウケしそうな顔立ちをしてる。
すっと高い鼻筋に、落ち着いた雰囲気。清潔感のある容姿は、クラスでぱっと目を惹くイケメンというより、隠れガチファンが多そうな感じ。
もし俺が狼谷の顔面偏差値を持っていたら、少しは愛想よくして自分を良く見せようとしちゃうけど……狼谷は決して冷たい表情を崩さない。その態度がかっこいいなと思う反面、自分とは違う人種だなとも感じる。
喩えるなら宇宙人と地球人、みたいな?
それぐらい俺にとって狼谷は、どこか遠い存在だった。
「えっと……俺はスマホも見るし、授業中は黒板も見るし……狼谷だけ見るのは現実的に無理かな……?」
だから至極真面目に難解な問いかけをされて、やっぱり、狼谷は宇宙人だなぁ〜と妙に納得してしまう。言ってる内容は全部聞き取れたはずなのに、意味がさっぱりわからない!
「そうですか……」
狼谷はじっと俺を見てきた。今日初めて気づいたけど、狼谷は人の目をまっすぐ見て話すタイプらしい。澄んだ目で射抜かれると、何もかも見透かされているようで、俺は背中にじわっと変な汗を掻いた。
……突然始まった異星間交流、俺にはハードル高いっす!
「あ、えっと……」
思わず小首を傾げて頬をかいたとき、視界の端に丸いシルエットが近づいてきた。
「わかるぞー狼谷! 俺も柴ママに面倒見てもらいたいもん!」
いつの間にかキャッチャーのマルオが近くに来ていたようで、同情するように狼谷の肩を叩く。俺はつい条件反射で、「誰がママだってっ?」と突っ込んだ。
この「柴ママ」呼びは、俺が一年生のとき、桜庭高等学校軟式野球部のマネージャーとして入部してからずっと続いている。俺はこのあだ名をまったく気に入ってないので、呼ばれる度に毎度律儀に抗議しているけど……改善される兆しはない。
「はいはい、順ちゃん、そう怒らない、怒らない」
今度は部長の白山先輩が目を細めて笑う。白山先輩の目はデフォルトで細いので、からかっているのか判別が難しいが、今のは声で確実に茶化しているのがわかった。
俺が狼谷の宇宙語をどうにか理解しようと奮闘している間に、ベンチでの談笑は終わったようで、マルオと白山先輩に続いて、コップが空になった部員がぞろぞろとジャグの周りに集まってくる。
「たしかに、順ちゃん呼びも捨てがたいなー」
そう言って同意するのは副部長の黒海先輩だ。白山先輩が純塩顔男子なら、黒海先輩は極みソース顔。凛々しい眉は油性ペンで書いたみたいにくっきりしている。
「でも柴山氏は柴ママ呼び一択だと思うんですよねぇ〜」
黒海先輩の隣では、ピッチャーのホソヤンが謎の主張をした。ホソヤンは細身で顔も細長いので、マルオとは対照的な感じだ。
「なにをっ! 俺はこんな手のかかる息子たちを持った覚えはありません!」
などと否定しつつも、俺は集まってきた部員のために、自然とスポドリの残量は確認しているし、空いたコップは渡される前に回収してしてしまう。休憩でみんないるのをいいことに、一人一人に打撃成績分析シートなどを渡していると、ホソヤンの後ろにいた一年生の東野と西山が、
「この面倒見のよさ、母性を感じる……」
「俺らが手のかかる部員なんじゃなくて、柴山先輩が俺らをダメにしてるのでは?」
「それは一理ある。柴山先輩の気遣い、レベチだもん」
「スポドリもお手製だしな。やはり、偉大なる軟式野球部の母」
と言って拝み始めて、俺は「おいっ! そこっ! 勝手に俺を崇め奉るな」と指差した。
ママ、と呼ばれるのは不服だけど、自分でも面倒見が良い自覚もあるし、他人の顔色を察する能力が高い自負はあるので、まあ、そう呼ばれてしまうのもわからなくはない……でも、崇め奉られるのはさすがに恥ずいって!
「でもさぁ、そうなるとやっぱり狼谷は手がかからないから、柴山が世話する必要ないよなぁ〜」
マルオがコップにスポドリを注ぎながら、しみじみ呟く。隣でホソヤンが「そうだよね」と同意した。
「狼谷氏は今のところ、部活は無遅刻無欠席で?」
「まぁ、はい……家に帰っても、することないので」
ホソヤンの問いかけに、狼谷は相変わらず無表情で淡々と答える。
桜庭高等学校は部活動より学業優先、みたいな考えがあるため、どの部活動もあまり強くはない。軟式野球部も、軟の字を体現したかのようなゆるい部活で、日曜日は練習があるけれど、顧問と授業の都合で水曜日と土曜日は練習がないし、部員も塾や予備校があれば休んでOKだ。
部員は三年生が二人、二年生が七人、一年生が三人の少数精鋭(精鋭かどうかは怪しいけど)……にも関わらず、結構な頻度で誰かしら休むので、大会は大抵一回戦敗退。でも大会前になるとみんなそれなりにしっかり参加するので、どうにか今年は一回戦だけでも勝ちたいね、って話をこの前次期部長の一ノ瀬と次期副部長の二階堂としていた。
まあ、そんな一ノ瀬と二階堂も、今日は塾の模試で休みなんだけど……
「へぇ〜狼谷偉いじゃん」
黒海先輩が感心したように呟く。俺も賛同するために、こくこくと頷いた。
部活の出欠席を取るのはマネージャーの仕事なので、狼谷が皆勤賞なのは自信を持って答えられる。
その上、選手としての成績も目覚ましく、打撃センスが神がかっている狼谷は、早くも四月末から四番を任されていた。
俺はふと、ああ、だから狼谷とあまり話したことがないのか……と気づく。
サボろうとする部員や、伸び悩んでいる選手に声をかけることはあっても、手のかからない狼谷に声をかけるきっかけは少ない。
——あ、でも一度だけ接点があったような……?
脳裏に狼谷の沈んだ顔が浮かび上がる。あれはいつのことだったっけ……と思い出そうとしたら、マルオの声が耳に入った。
「狼谷も柴ママに面倒見てもらいたいよな?……え? さっきそういう話をしてたよな?」
マルオが俺と狼谷を見比べながら、確認するように問う。狼谷は黙っているので、肯定ってことだろうか?
じゃあ……狼谷の「俺を見てください」的な発言は、「俺の〝面倒を〟見てください」という意味を含んでいて……って、難しくない? 行間を読んで察するには、行と行の間が広すぎるんだが?!
「なら狼谷も手のかかる後輩になればいいじゃんない?」
俺が#行間とは? なんて考えている間に、白山先輩が「これぞ名案!」みたいな顔で人差し指を空に向ける。
「おお〜確かにそれはいい案ですな」
ホソヤンが頷き、黒海先輩も「たしかにな」と腕を組んだ。次々に部員のみんなが「ああ〜ね」と納得したように呟く。
「いやいや……」
何言ってんすか、と言いかけた俺の言葉は、狼谷の抑揚のない声によって遮られた。
「じゃあ、俺が手のかかる人間になれば、柴山先輩は俺だけを見てくれますか?」
「えっ」
まじ? と思った矢先にマルオが「いいじゃん! 狼谷の反抗期だ!」とはやし立てる。
「反抗期、というより、イヤイヤ期では?」
「まあ、かまってもらいたいならそっちが正しいか?」
ホソヤンと黒海先輩が表現の正しさについて議論しているが、そんなのどうでもいい。
「いや、待ってって! なんでそうな……」
「あっ、スーちゃんとターちゃんが来た」
白山先輩が遠くを眺めて呟く。
スーちゃんは数学科の鈴木先生のことで、ターちゃんとは体育科の田辺先生のことだ。俺らは陰で顧問の二人をそう呼んでいるけど、もちろん本人の前で口にしたことはない。
二人が来たと言うことは、休憩は終わり。次はノックだ。
俺は色々と文句を言いたいのを我慢して、みんなのコップを回収する。狼谷のコップを回収するときだけ鋭い視線を感じたけど、適当に愛想笑いで流した。
やっぱり俺は、狼谷のようにクールな態度は取れない。
翌日の月曜日、部活が始まった夕方。俺はグラウンドで球拾いをしつつ、狼谷を横目で見やる。
今狼谷は高く上がったボールをキャッチする練習をしていた。桜庭高校は守備に重点を置いているので、ボジションがセンターの狼谷は外野ノックの最中だ。
放物線を描く白球を、狼谷は難なく追いかけ、軽やかにグラブへ収めた。打撃はもちろんのこと、狼谷は守備も上手い。足が速いのもあるし、多分、目がいいんだと思う。
……あれで中学はバスケ部だったなんて、誰が信じるだろうか。俺には絶対無理な芸当だ。
「やっぱり昨日のは冗談かぁ……」
俺のつぶやきはグラウンドにぽとりと落ちる。
狼谷のイヤイヤ期発言から二日(結局ホソヤンの主張が通り、イヤイヤ期と名付けられた)今日が初めての部活動だ。今のところ大きな変化はなく、狼谷はいつものごとく真面目に練習している。勝手に身構えて損をした気分だ。
「まぁ、何事もなくていっか」
足元に転がってたボールを拾い、カゴに入れる。ふいに視線を感じて顔を上げると、狼谷と目が合った。
思わずどきっと心臓が跳ねる。
もしかして今の独り言……聞かれてた?
「そんな、まさかね」
狼谷と俺の間は一塁と二塁ほどの距離がある。大きな声は出していないし、絶対に聞かれていないはずだけど……なぜか胸がざわついた。
ちょうどそのとき、ボールが高く打ち上がる音がグラウンドに響く。俺は自然と白い球の軌跡を目で追い、視界の隅で狼谷が捕球の体勢を取ったのを確認した。
それはいつもの構え、いつもの風景。あとは取るだけ。そう思った瞬間——狼谷が華麗に、ボールを顔面キャッチした。
「えっ」
その場にいた全員が同じ音を発したと思う。一瞬の静寂ののち、俺はさーっと血の気が引いた。
「狼谷っ!!」
俺は球拾いのカゴを置き、うずくまる狼谷の元へ駆けた。やばいボールの取り方をした割には大きな怪我はないようで、狼谷はすぐに上体を起こす。
「先輩……本当に来てくれた……」
「え、なに? なんか言った? それより俺がわかるか!? 自分の名前言えるか!?」
「先輩の名前は柴山順、俺の名前は狼谷一輝です」
よどみなく答える狼谷に、安堵のため息が出る。深刻な症状はなさそうだ。
「グローブが一回クッションになったので、そんなに痛みはないです」
「そっか。でも念のため冷やした方が……」
俺が傷を確認するために狼谷の頬に触れたとき、鼻から真っ赤な血がたらりと垂れる。
「わぁーっ!!! おまっ! 鼻血出てる!! 保健室行かないと!!!」
ぎょっとして立ち上がると、狼谷が俺のTシャツの裾をつかむ。
「先輩、連れて行ってくれますか………?」
「あったりまえだろうが! 立てるか!?」
「はい」
狼谷の脇に手を入れて立ち上がらせるとき、あれ? と軽い違和感を覚える。なんか、見た目めっちゃ大惨事だけど、足取りしっかりしてね……?
でもそんな違和感を深く考えている暇もなく、顧問のターちゃんがやってきて、「大丈夫か!? 柴山、あとは俺が引き継ぐ。狼谷、今すぐ親御さんにも連絡するからなっ」と言って狼谷を連れて行ってしまった。
ターちゃんに引き渡すまで狼谷は「大丈夫です」とか「親に連絡するほどじゃありません」と駄々をこねていたが、鼻血が出るほどの一大事なので誰も取り合わない。
「大丈夫かな、狼谷……」
しかしこのときの俺は知る由もなかった。
——これがまだ、狼谷の小さな異変に過ぎないことに。
狼谷が華麗に顔面キャッチを決めた翌日の火曜日。
狼谷は普通に部活に参加していて、大した怪我じゃなかったんだと安心した束の間……アップのランニング中に盛大に転んだ。それもかなり派手に。最初、頭から急にスライディングしたのかと思ったほどだ。
俺はまたもや肝を冷やしたが、当の本人が「なんでもないです」と言い張るので、結局その日はそのまま部活動を再開した。
そして次の部活があった木曜日。
なんと狼谷は、一人でユニホームが着れなくなっていたのだ!
「柴ママ〜! 狼谷がユニホーム着れないって」
放課後部室に向かう道すがら、すれ違ったマルオがニヤニヤしながら言ってきて、俺は耳を疑った。さすがにユニホームぐらい一人で着れるだろ……と思って部室に入ると、本当に狼谷が一人でユニホームと格闘していて、目を瞠った。
その日は驚き過ぎて何も追求せずに服を着せてやり、狼谷を部活動に送り出したのだが……
翌日の金曜日。とうとう狼谷は、靴下も脱げなくなってしまった!
何がどうなって靴下が脱げないのか理解に苦しんだが、狼谷が着替え終わらないと鍵返却当番の俺も帰れない。
俺は「仕方ないな!」と言ってせっせと狼谷の靴下を脱がしてやり、どうにか無事に帰ることができたけれど……さすがにこの時点で、狼谷の行動が明らかにおかしいと疑い始めていた。
だって捕球ミスや転倒ならまだしも、服を一人で着替えられないって何歳児だよ!?
「はぁ……マジであいつ何考えてるんだろう」
宇宙人カミタニの考えに苦しみながら、俺は日曜日の部活動に参加する。
今日は一体、狼谷は何をやらかすつもりなのか。嫌な緊張感を抱きつつアップの準備を進めるが、練習が始まる時刻になっても狼谷はやってこない。
「まさか、無断欠勤……?」
俺はグラウンドにある時計を見た。時刻は午前九時。みんなはもうランニングを始めている。
もしかして事故に遭ったとか……? それとも何かのトラブルに巻き込まれたりして……?
最近何かと抜けている狼谷のことだから、登校中に危ない目に遭ってもおかしくない。そう思い始めるとじわじわ不安が押し寄せて、俺は居ても立っても居られなくなった。
「先生、狼谷に連絡してきてもいいですか?」
俺はスーちゃんに許可をもらい、一旦部室に戻る。バッグからスマホを取り出して狼谷にメッセージを送ると、すぐに既読のマークがついた。
「よかった、無事で……」
しかし送られてきた内容に、「えっ」と声が出た。
『すみません。今日部活あるの忘れてました』
「……はぁ?」
——なんなん、こいつ。
プチッ、と何かが切れる音がした。細い糸を引っ張って切るような音だ。スマホの画面から目を離すと、俺は無意識に服の裾から出ていた糸をちぎっていた。
多分、堪忍袋の緒が切れるときも、こんな音がするんだろう。直感的に、そう思った。
「スー……はぁ……」
俺は深く息を吸い、吐いて、少し落ち着こうとしたあと、バッグにスマホをしまい、グラウンドに向かう。
大体二十分後。「お腹が痛くて……」と嘘をついて、また部室前に戻ってきた。
俺は扉に背中を預け、腕を組む。しばらくすると渡り廊下の先から、制服姿の狼谷がやってきた。
「あれ、先輩?」
野球帽で隠れていない、艶のある狼谷のストレートな黒髪が風でなびく。俺は扉から背中を離し、狼谷の前に立ち塞がった。
「あのさ、最近のお前のポンコツ具合はわざとやってんの?」
俺は狼谷の目をしっかり見据えて、なるべく冷たい声を出した。一方狼谷は眉が少し驚いたように上がる。俺は場違いにも、へぇ、そんな表情もできたんだ、と思った。でも今話したいのはそのことじゃない。
「あ、えっと……」
「前さ、言ってたじゃん。『俺が手のかかる人間になれば、柴山先輩は俺だけを見てくれますか?』って」
「は、はい……」
「もしあれを本気でやってるなら、俺もうお前の面倒見ないから!」
俺は狼谷を睨みつけ、精一杯怒りを表した。本当に手のかかる後輩ならまだしも……わざとやってるなら、もう付き合いきれない。
一人で着替えられないこともそうだけど、今日の無断遅刻はさすがにムカついた。
こっちは本気で心配してたのに、既読がついてるってことは、起きてたってことだろ? 俺からの連絡を待ってたってことじゃん。
なんなんだよ、それ。
心配してた俺が、まるで馬鹿みたいだ。割と本気で、狼谷は部活をサボらない真面目なやつだと思ってたのに……裏切られた気分だった。
「じゃっ! それだけだから」
俺は一方的にそう言い捨てると、部活に戻るために狼谷の脇を通り過ぎた。が、「ま、待ってください!」とすれ違いざまに腕を掴まれる。
その力が思いのほか強く、手の熱が高く、俺の心臓が驚きで跳ねた。
「……なんだよ」
俺はゆっくり振り返って狼谷の顔を見る。するとそこには、動揺で細かく揺れる狼谷の瞳があった。
「……すみません。確かに、ポンコツはわざとやってました。それは心からの謝罪をします」
目を見て話す狼谷にしては珍しく、俺の胸元辺りに視線が集まる。俺は心の中で、やっぱりな、と返事をした。
「もう絶対にやりません。先輩に嫌われるのだけは嫌です。でも、俺……」
そこで狼谷はしばらく言葉を切った。初夏の爽やかな風が俺と狼谷の間を通り抜け、木の葉の擦れるざわめきが響く。俺はその間ずっと、狼谷の顔を見つめていた。
狼谷の長いまつ毛が震え、眉尻が困ったように下がる。薄い唇は引き結ばれているが、時折何かを伝えようと軽く開いた。
どれも見逃してしまいそうなほどごく小さな変化だ。でも俺は初めて、狼谷の感情——戸惑いや、困惑、どう伝えようかと悩む気持ちが、手に取るようにわかる気がした。
「あの俺、もう一度だけ…………先輩の作ったはちみつレモンが、食べたいんです」
狼谷の手が、するりと腕から離される。俺は今言われた言葉を頭の中で反芻し……
「はちみつレモンか……えっ!? は、はちみつレモンっ!?」
思わず、すっとんきょうな声を上げてしまった。え、だって、はちみつレモンって……あの、俺がたまに作ってくるはちみつレモンのこと?
「そうです。四月に先輩が俺のためにって持ってきてくれたはちみつレモン……あれがまた、食べたくて。マルオ先輩に聞いたら、不振の部員がいると柴山先輩が持ってきてくれるって聞きました」
「あ、いや、そうだけど……」
確かに俺はたまにはちみつレモンを作って部活に持ってくる。頻繁に持ってこないのは、単純に持ってくるのが面倒くさいからだ。俺が電車通学なのでなおのこと、駅から学校まで運ぶのが億劫になってしまう。
それでもマルオの言う通り、不振の選手がいたりとか、辞めそうな部員がいたとき……あとは大会前など、ちょっとみんなを元気づけたいときに、頑張って持ってきたりする。
——でも狼谷に持ってきたことあったっけ……?
俺は頭の中で、四月、はちみつレモン、狼谷……とパズルを組み立てるように、記憶のカケラを寄せ集める。一つ一つの単語をピースのごとく当てはめていくと……狼谷の暗い表情がぼんやりと浮かび上がった。
「あっ、ああ!」
ぱあっと脳裏にいつぞやの映像が蘇る。
そうだ。四月の末、狼谷が一週間くらい思いつめた顔で部活に来ていたのだ。
表情の変化に乏しい狼谷だけれど、その週だけはうっすら眉間に皺ができていて、俺は「何かあったのでは……?」と気になって仕方なかった。でもマルオやホソヤンに話しても「気のせいじゃない?」と流され、俺の考えすぎか、と反省したのだ。
けれど後日、狼谷が四番を任されるって知って、俺は狼谷がプレッシャーを感じてるのかな? と思ったのだ。
桜庭高校軟式野球部は完全実力主義だ。投球が早い人がピッチャーになり、バッティングが上手い人が四番になる。そこに学年は関係ないし、みんな「うまいやつがやればいいっしょ」と割り切ってるので、嫉妬や妬みを覚えるような部員もいない。
でも入ったばかりで野球経験もないのに、突然四番に抜擢されたら……俺だったら圧を感じて、気持ちが塞がるかもしれない。嬉しいことのはずだけれど、それと同じくらい、心が苦しくなる。
狼谷が俺と同じかどうかはわからなかったけれど……当時の俺は、狼谷の背負っているプレッシャーを少しでも軽くしたくて、はちみつレモンを使って話すきっかけを作ったのだ。
桜庭高校軟式野球部はゆるい部活だし、狼谷にはバッティングの才能がある。気負わずのびのび参加して、少しでも野球の楽しさを知ってくれたら嬉しいな……そんな風に話しかけたのを、今思い出した。
「俺、あのとき、本当に先輩のはちみつレモンに救われたんです。俺をちゃんと見てくれている人がいるんだって……すごく嬉しかった」
「す、救われたなんておおげさな……」
俺はただ、マネージャーとしてはちみつレモンを差し入れただけだ。狼谷が言うほどすごいことはしていない。
俺は急激に恥ずかしくなって、頬をかき……ふと我に返った。
えっ、待てよ……? じゃあ狼谷は俺の作ったはちみつレモンが食べたくて、『イヤイヤ期』をしてたってこと?
俺は信じられない思いで、狼谷の顔を見つめる。
「じゃあ、今までのポンコツ具合ははちみつレモンのために……?」
狼谷は少し照れたように目を伏せつつも、ゆっくり頷いた。
「まぁ、目当てははちみつレモンだけじゃないですけど……そんな感じです」
俺は思わず口を手で押さえ、目を大きく見開く。
「ガチで!?」
その瞬間、頭の中でこれまでの狼谷の行動が走馬灯のように流れた。
——華麗な顔面キャッチ……ダサい転び方……一人でユニホームが着れなくて、あたふたする間抜けな姿……あれ全部、俺のはちみつレモンのためだったのか!?
そのことに気づいた瞬間、腹の底から笑いがふつふつと込み上げてきた。
だって普通に考えて、服とか絶対一人で着れるもんな。首からユニホームが抜けなくて、腹踊りみたいになってたあの姿も……俺のはちみつレモンが食べたくてやってた演技で……
「ぷっ、ははっ、ま、まじかっ!」
俺はあのときの姿を鮮明に思い出し、とうとう堪えきれなくなって吹き出してしまった。目の前の狼谷は唖然としているが、どうにも笑いが収まらなくて、腹を抱えてしまう。
「えっ、やっぱり一人でユニホーム着れるよね? あのときのお前、腹踊りみたいにうねうねしてて……いや、あれもわざととか……はちみつレモンごときで……ふっ、ははっ」
「せ、先輩……? そんな面白いですか?」
「面白いにきまってんだろ……! ははっ」
何を考えてるかわからないなぁ〜なんて思ってたけど、まさかはちみつレモンが食べたいだけだなんて! フツー、そのためだけに服が着れない演技をするか? しないだろっ! どんだけ食べたいんだよっ!
俺はひとしきり笑ったあと、目尻に浮かんだ涙をぬぐって狼谷に向き合う。
「そんなの一言『はちみつレモンが食べたいです』って俺に言えばいいじゃん」
「え、そしたら先輩持ってきてくれるんですか?」
「あー……タッパーが重いから、駅から一緒に運んでくれるならいいよ」
駅から学校までは徒歩十五分。その間が一番腕が疲れるので、自転車通学の狼谷が手伝ってくれるなら問題ない。
俺がそう思って条件を提示すると、狼谷は真剣な眼差しで、
「行っていいのであれば、俺が先輩の家から運びますよ」
と真顔を崩さずに言う。
「いや、それは遠すぎるだろっ!」
俺はまたもや狼谷の突飛な発想が面白くなって、爆笑してしまう。だってこっちは電車通学だぞ? 狼谷の家からだと一時間以上はかかる。でも本気で言ってるから面白い。
——なんだ、俺が勝手に宇宙人だと思ってただけで、意外と考えてることは単純じゃん。
狼谷は少し言葉足らずで、考えが飛躍するところがあるけれど、それこそ宇宙語みたいに全く理解不能なわけじゃない。なんなら、はちみつレモンのために必死に色々考える姿は、ちょっと可愛いなって思ってしまった。
星と星ほど離れていると思っていた狼谷と俺との距離は、案外ずっと近いのかもしれない。
「ヒーっ、俺、お前がこんなおもしろいやつだなんて知らなかった」
ちょっと勘違いしてたわ、ごめん。それは胸の内だけで謝ったけど。
俺が指で涙を拭くと、なぜか狼谷が一歩近づいてきて、無言で見つめてくる。
どうした? と思って半身を引くと、涙を拭いていた手を両手で握られた。
「あの、先輩。どうしたらその笑顔を、俺にだけ見せてくれますか?」
「……へっ? え、笑顔?」
狼谷は頷き、なにかすごい宝物でも見つけたような眼差しで、繰り返す。
「はい。先輩の笑顔、俺だけが見たいです」
……やっぱり前言撤回。狼谷って……宇宙人かも?
