六月下旬。梅雨の重い空が校舎に覆いかぶさり、廊下の窓には絶えず雨粒が筋を描いている。ジメジメとした湿気が肌にまとわりつき、気分もなんだかどんよりと沈みがちになる季節だ。
けれど、ぼくは毎日学校にいくのが楽しみで仕方がない。蒼空と一緒にするラジオごっこが、ぼくの心を明るく照らしてくれるからだ。
相変わらず、ぼくと蒼空以外の部員は姿を見せない。部長の篠原先輩は受験勉強に忙しく、副部長の佳奈は委員会の仕事で手一杯、一年生で新入部員の岡田翼も最近は別の部活動に興味を示している。それでも、以前は自分一人ですべてをこなしていたので、蒼空がいてくれる今とは比べものにならないほど状況が良くなった。
「ねぇ、翔」
いつものように放送室で台本を読み合わせていると、蒼空が振り向いた。午後の陽射しが窓から差し込み、彼の横顔を金色に染めている。
「そろそろ『空と音のレター』、お昼の放送で流そうよ」
「えっ! まだ早いって!」
ぼくは思わず声を上げた。台本を持つ手が、かすかに震える。
「そんなこと言って、もうやり始めて二か月経ってるよ? 十分練習期間は取ったし、翔も上達してるんだから、大丈夫だって」
蒼空の声は穏やかだが、その瞳には確信に満ちた光が宿っている。
「だ、だって……絶対失敗するに決まってるもん……」
「やってみないと分からないでしょ? ね? 週に一回でいいから、やってみようよ」
確かに、最初はアドリブでやっていたラジオごっこも、今では構成を考えて脚本まで作った本格的なラジオ番組になっていた。今までは誰も聴いていないと思っていたからこそ好きなようにできた。でも、全校生徒が聴くとなると、そうはいかない。
「それに、翔の朝の放送だって、今はもうスムーズに喋れるようになってるでしょ? だから、お昼の放送を増やしても大丈夫だって」
言われてみれば、確かにそうだ。以前は声が震えて原稿を読むのがやっとだった朝の放送も、今では落ち着いて話せるようになっている。それもこれも、毎日蒼空が励ましてくれたおかげだ。
「……でも……先生がダメって言うかもしれないし……」
「あ、それなら大丈夫。顧問からは許可取ってるから」
蒼空はあっさりとそう言った。まるで当然のことのように。
「えっ? いつの間に?」
ぼくが驚いているのをよそに、蒼空は口元を片方だけ上げてニヤリと笑った。
「翔とラジオごっこ始めるとき」
「そんな前から?」
ぼくは驚きすぎて、開いた口が塞がらなかった。蒼空は、もしかしたら最初からこの日のことまで見越していたのかもしれない。
「というわけで、明日は水曜日だし、週の真ん中の放送ってことで、今から構成を考えて、脚本を作ろうか」
蒼空の迷いのない言動に、ぼくは改めて感心した。そして同時に、なぜか蒼空と一緒なら自分にも何でもできる気がしてきた。彼の存在が、ぼくに不思議な勇気をくれるのだ。
「……うん、分かった」
そうして、ぼくと蒼空は明日に向けてラジオ放送の準備を始めた。
次の日の昼休み。放送室のドアを開けると、いつもより緊張した空気が漂っているような気がした。
昨日、構成を考える際、ぼくは音楽を流すことを提案した。けれど蒼空が「翔の朗読は絶対外せない!」と息巻いたのだ。ぼくは最初からハードルが高いと反対したのだが――。
「今まで二人で練習しているとき、何度も朗読やってくれたよね? どれも物語が生き生きしていた。それを学内のみんなにも聞いてほしい!」
蒼空の瞳が、まっすぐにぼくを見つめていた。
「そんないいものでもないよ……」
ぼくがそう呟くと、蒼空は突然ぼくの手を握ってきた。温かい手のひらが、ぼくの震えを静めてくれる。
「翔、よく聞いて。君の声は本当に温かくて、心がほっこりする。そして何より、朗読しているときの表現力が豊かなんだよ」
「そんなことないよ。普通に読んでるだけだし……」
「普通に読んでいてそれができるってすごいと思うよ! だから、自信を持っていいと俺は思う」
ぼくには蒼空がそこまで言ってくれる良さがあるのか分からなかった。でも、きっと声優を目指している彼だからこそ、何か感じるものがあるのだろう。
しばらく考えてみたが、蒼空と二人なら、何とかやれるかもしれないと思えてきた。
「……分かった。やってみる」
「そう、それでこそだよ!」
そんなやり取りが昨日のうちに行われ、今に至る。
音声調整卓の前に座り、目の前に脚本を置く。何度も深呼吸するが、胸が苦しくて仕方がない。放送室の外では、生徒たちの楽しそうな声が響いている。その声が、急に遠く感じられた。
「翔、ほら、姿勢を正して」
蒼空がそっとぼくの背中に手を当てた。その手のひらの温もりが、ぼくの緊張をスッと溶かしてくれる。まるで魔法のようだ。
「あ、うん。そうだね」
ぼくはスッと背筋を伸ばし、基本の姿勢を作った。それをみた蒼空が、いつものように「三、二、一」と指を折ってカウントダウンした。
オープニングテーマ曲が流れる。その間中、ぼくの心臓は今にも飛び出しそうだった。目を閉じて、何度も深呼吸を繰り返す。
「みなさん、こんにちは! 本日からスタートしましたラジオ番組『空と音のレター』。パーソナリティーの星野蒼空です。これから毎週水曜日のお昼休みにお届けします」
蒼空の声が、いつも以上に張りがあって聞こえる。
「さて、本日は放送部員の音羽翔さんにお越しいただいています。音羽さん、こんにちは」
「みなさん、こんにちは。毎朝の放送を担当している、音羽翔です」
声を出す瞬間、怖くて仕方がなかった。でも、喉が開いて声がスッと前に出たのが分かった。ほっとした表情を浮かべると、蒼空も
「いいよ」と言いたげに微笑んでくれた。
「音羽さん、今日は朗読をしてくださるということですが、何を読んでくださるんですか?」
「今日はアンデルセンの『みにくいアヒルの子』を読みたいと思います」
「有名な童話なので、知っている方も多いですね。それではお願いします」
蒼空がキューを出した。ぼくはたっぷりと息を吸い込む。
「いなかは、ほんとうに素敵でした。夏のことです。コムギは黄色く実っていますし、カラスムギは青々と伸びて、緑の草地には、ほし草が高く積み上げられていました……」
ゆったりとしたスピードで、物語をイメージできるように、語りかけるように朗読した。隣では蒼空が頬杖をついて、うっとりとした表情で聞き入っている。その様子をみていると、毎日彼のために朗読していた日々を思い出し、緊張が徐々にほぐれていった。
最初は少し硬かった声も、徐々にほぐれていく。声を出すのがだんだん楽しくなってくる。もっと読みたいという気持ちが湧き上がってきた頃、放送時間終了間近だと蒼空がカンペを出してきた。
「そろそろ終了のお時間のようですので、今日はここまでにします」
「音羽さん、素晴らしい朗読をありがとうございました! それではまた来週お会いしましょう」
エンディング曲を流し、無事に初回の放送が終了した。
すると蒼空がガバッとぼくに抱きついてきた。
「翔、すっごく良かった! 今日もありがとう!」
「蒼空、いつも大げさだって」
「ううん、そんなことないって」
それまで興奮していた蒼空が、さらに抱きしめる腕に力を入れた。そして、耳元で囁く。
「俺、翔の声、大好きだから」
耳元に届く蒼空の低く艶っぽい声に、思わずぞくりとした。背筋に電流が走ったように感じたのは、気のせいだろうか。
「うん、ありがとう。蒼空がいつもそう言ってくれるから、ぼくは少しずつ自信が持てるようになってきたよ」
ぼくは蒼空の頭を撫でた。柔らかい黒髪が指の間をすり抜けていく。
「翔がそう言ってくれて、うれしい」
ぼくから体を離した蒼空は、目を細めて頬を赤らめていた。
その日の放送は無事に終わった。教室に戻ると、佳奈が駆け寄ってきた。彼女のショートボブがふんわりと揺れている。
「ちょっと、音羽くん、何あれ?」
「な、何って……何だよ」
「すごく朗読がうまいね!」
ほかのクラスメイトたちもぞろぞろと集まってきて、口々に言った。
「音羽っちにそんな特技があるなんて知らなかったよ」
「すっごく良かったよね?」
「うん、なんだろう……その情景が浮かぶっていうの? 思わず目をつぶって聞いちゃった」
みんなから褒められて、ぼくは手を顔の前でぶんぶんと振った。
「そ、そんな良いもんじゃないって」
すると後から蒼空が、肩をスッと組んできた。
「翔の声、いいだろ?」
まるで蒼空は、自分のことのように自慢した。
多くの人に囲まれて少し恥ずかしかったけれど、みんなが認めてくれていることがうれしかった。
けれど、ぼくは毎日学校にいくのが楽しみで仕方がない。蒼空と一緒にするラジオごっこが、ぼくの心を明るく照らしてくれるからだ。
相変わらず、ぼくと蒼空以外の部員は姿を見せない。部長の篠原先輩は受験勉強に忙しく、副部長の佳奈は委員会の仕事で手一杯、一年生で新入部員の岡田翼も最近は別の部活動に興味を示している。それでも、以前は自分一人ですべてをこなしていたので、蒼空がいてくれる今とは比べものにならないほど状況が良くなった。
「ねぇ、翔」
いつものように放送室で台本を読み合わせていると、蒼空が振り向いた。午後の陽射しが窓から差し込み、彼の横顔を金色に染めている。
「そろそろ『空と音のレター』、お昼の放送で流そうよ」
「えっ! まだ早いって!」
ぼくは思わず声を上げた。台本を持つ手が、かすかに震える。
「そんなこと言って、もうやり始めて二か月経ってるよ? 十分練習期間は取ったし、翔も上達してるんだから、大丈夫だって」
蒼空の声は穏やかだが、その瞳には確信に満ちた光が宿っている。
「だ、だって……絶対失敗するに決まってるもん……」
「やってみないと分からないでしょ? ね? 週に一回でいいから、やってみようよ」
確かに、最初はアドリブでやっていたラジオごっこも、今では構成を考えて脚本まで作った本格的なラジオ番組になっていた。今までは誰も聴いていないと思っていたからこそ好きなようにできた。でも、全校生徒が聴くとなると、そうはいかない。
「それに、翔の朝の放送だって、今はもうスムーズに喋れるようになってるでしょ? だから、お昼の放送を増やしても大丈夫だって」
言われてみれば、確かにそうだ。以前は声が震えて原稿を読むのがやっとだった朝の放送も、今では落ち着いて話せるようになっている。それもこれも、毎日蒼空が励ましてくれたおかげだ。
「……でも……先生がダメって言うかもしれないし……」
「あ、それなら大丈夫。顧問からは許可取ってるから」
蒼空はあっさりとそう言った。まるで当然のことのように。
「えっ? いつの間に?」
ぼくが驚いているのをよそに、蒼空は口元を片方だけ上げてニヤリと笑った。
「翔とラジオごっこ始めるとき」
「そんな前から?」
ぼくは驚きすぎて、開いた口が塞がらなかった。蒼空は、もしかしたら最初からこの日のことまで見越していたのかもしれない。
「というわけで、明日は水曜日だし、週の真ん中の放送ってことで、今から構成を考えて、脚本を作ろうか」
蒼空の迷いのない言動に、ぼくは改めて感心した。そして同時に、なぜか蒼空と一緒なら自分にも何でもできる気がしてきた。彼の存在が、ぼくに不思議な勇気をくれるのだ。
「……うん、分かった」
そうして、ぼくと蒼空は明日に向けてラジオ放送の準備を始めた。
次の日の昼休み。放送室のドアを開けると、いつもより緊張した空気が漂っているような気がした。
昨日、構成を考える際、ぼくは音楽を流すことを提案した。けれど蒼空が「翔の朗読は絶対外せない!」と息巻いたのだ。ぼくは最初からハードルが高いと反対したのだが――。
「今まで二人で練習しているとき、何度も朗読やってくれたよね? どれも物語が生き生きしていた。それを学内のみんなにも聞いてほしい!」
蒼空の瞳が、まっすぐにぼくを見つめていた。
「そんないいものでもないよ……」
ぼくがそう呟くと、蒼空は突然ぼくの手を握ってきた。温かい手のひらが、ぼくの震えを静めてくれる。
「翔、よく聞いて。君の声は本当に温かくて、心がほっこりする。そして何より、朗読しているときの表現力が豊かなんだよ」
「そんなことないよ。普通に読んでるだけだし……」
「普通に読んでいてそれができるってすごいと思うよ! だから、自信を持っていいと俺は思う」
ぼくには蒼空がそこまで言ってくれる良さがあるのか分からなかった。でも、きっと声優を目指している彼だからこそ、何か感じるものがあるのだろう。
しばらく考えてみたが、蒼空と二人なら、何とかやれるかもしれないと思えてきた。
「……分かった。やってみる」
「そう、それでこそだよ!」
そんなやり取りが昨日のうちに行われ、今に至る。
音声調整卓の前に座り、目の前に脚本を置く。何度も深呼吸するが、胸が苦しくて仕方がない。放送室の外では、生徒たちの楽しそうな声が響いている。その声が、急に遠く感じられた。
「翔、ほら、姿勢を正して」
蒼空がそっとぼくの背中に手を当てた。その手のひらの温もりが、ぼくの緊張をスッと溶かしてくれる。まるで魔法のようだ。
「あ、うん。そうだね」
ぼくはスッと背筋を伸ばし、基本の姿勢を作った。それをみた蒼空が、いつものように「三、二、一」と指を折ってカウントダウンした。
オープニングテーマ曲が流れる。その間中、ぼくの心臓は今にも飛び出しそうだった。目を閉じて、何度も深呼吸を繰り返す。
「みなさん、こんにちは! 本日からスタートしましたラジオ番組『空と音のレター』。パーソナリティーの星野蒼空です。これから毎週水曜日のお昼休みにお届けします」
蒼空の声が、いつも以上に張りがあって聞こえる。
「さて、本日は放送部員の音羽翔さんにお越しいただいています。音羽さん、こんにちは」
「みなさん、こんにちは。毎朝の放送を担当している、音羽翔です」
声を出す瞬間、怖くて仕方がなかった。でも、喉が開いて声がスッと前に出たのが分かった。ほっとした表情を浮かべると、蒼空も
「いいよ」と言いたげに微笑んでくれた。
「音羽さん、今日は朗読をしてくださるということですが、何を読んでくださるんですか?」
「今日はアンデルセンの『みにくいアヒルの子』を読みたいと思います」
「有名な童話なので、知っている方も多いですね。それではお願いします」
蒼空がキューを出した。ぼくはたっぷりと息を吸い込む。
「いなかは、ほんとうに素敵でした。夏のことです。コムギは黄色く実っていますし、カラスムギは青々と伸びて、緑の草地には、ほし草が高く積み上げられていました……」
ゆったりとしたスピードで、物語をイメージできるように、語りかけるように朗読した。隣では蒼空が頬杖をついて、うっとりとした表情で聞き入っている。その様子をみていると、毎日彼のために朗読していた日々を思い出し、緊張が徐々にほぐれていった。
最初は少し硬かった声も、徐々にほぐれていく。声を出すのがだんだん楽しくなってくる。もっと読みたいという気持ちが湧き上がってきた頃、放送時間終了間近だと蒼空がカンペを出してきた。
「そろそろ終了のお時間のようですので、今日はここまでにします」
「音羽さん、素晴らしい朗読をありがとうございました! それではまた来週お会いしましょう」
エンディング曲を流し、無事に初回の放送が終了した。
すると蒼空がガバッとぼくに抱きついてきた。
「翔、すっごく良かった! 今日もありがとう!」
「蒼空、いつも大げさだって」
「ううん、そんなことないって」
それまで興奮していた蒼空が、さらに抱きしめる腕に力を入れた。そして、耳元で囁く。
「俺、翔の声、大好きだから」
耳元に届く蒼空の低く艶っぽい声に、思わずぞくりとした。背筋に電流が走ったように感じたのは、気のせいだろうか。
「うん、ありがとう。蒼空がいつもそう言ってくれるから、ぼくは少しずつ自信が持てるようになってきたよ」
ぼくは蒼空の頭を撫でた。柔らかい黒髪が指の間をすり抜けていく。
「翔がそう言ってくれて、うれしい」
ぼくから体を離した蒼空は、目を細めて頬を赤らめていた。
その日の放送は無事に終わった。教室に戻ると、佳奈が駆け寄ってきた。彼女のショートボブがふんわりと揺れている。
「ちょっと、音羽くん、何あれ?」
「な、何って……何だよ」
「すごく朗読がうまいね!」
ほかのクラスメイトたちもぞろぞろと集まってきて、口々に言った。
「音羽っちにそんな特技があるなんて知らなかったよ」
「すっごく良かったよね?」
「うん、なんだろう……その情景が浮かぶっていうの? 思わず目をつぶって聞いちゃった」
みんなから褒められて、ぼくは手を顔の前でぶんぶんと振った。
「そ、そんな良いもんじゃないって」
すると後から蒼空が、肩をスッと組んできた。
「翔の声、いいだろ?」
まるで蒼空は、自分のことのように自慢した。
多くの人に囲まれて少し恥ずかしかったけれど、みんなが認めてくれていることがうれしかった。



