その日の夜、自宅のベッドに横になりながら、ぼくは今日の出来事を思い返していた。

 それにしても濃い一日だった。

 新年度が始まって最初の朝の放送も、うまくできなかった。同じクラスになった佳奈には、もっと部活に参加してもらえるよう頼んでみようと思った。

 そして転校生の蒼空――。整った顔立ちに澄んだ低い声。そんな彼が放送部に入部することになり、明日から放課後に発声練習をしようと提案してくれた。

「練習って、いったい何をするんだろう?」

 蒼空は声優を目指しているといっていた。だったらボイストレーニングや養成所に通っているのかもしれない。

 そんなことを考えていると、蒼空のことが頭から離れなかった。あの落ち着いた佇まいと、一つひとつの所作の美しさ。きっと育ちがいいのだと思う。

 明日から蒼空が一緒に練習してくれる――その事実が、ぼくの胸に小さな期待を灯していた。


 翌朝、いつものように放送室に向かったぼくは、椅子に座って深呼吸をする。朝の放送の原稿を読む練習をするつもりだった。

「おはようございます。四月八日の朝の放送を始めます。今日は……」

 一人で原稿を読むときには全くつっかからない。なぜマイクを前にすると、言葉が詰まってしまうのだろうか。

 大きくため息を吐き、もう一度原稿を読もうとしたとき、放送室の扉が勢いよく開いた。

「おはようございます!」

 その明るい声に振り向くと、蒼空が朝日を背負うように放送室に入ってきた。

「おはよう、翔!」

 朝から元気よく挨拶をしてくる蒼空が、まぶしく見えた。その声は澄んでいて、放送室によく響く。

「あ、蒼空。おはよう」

 一方、ぼくの声はどんよりしている。自分の気持ちとまさに連動しているのだ。

「今朝も放送するの?」

「うん。一応、ぼくの担当というか……実質、ぼくしか活動していないから。でも話す内容は、あまり面白くないんだけどね」

 いっていて恥ずかしくなった。頬に熱がこもるのがわかる。

「そうなんだ! じゃあさ、俺、放送見学してもいい?」

「えっ?」

 ぼくは顔を上げ、目を見開いた。

「そ、そんな……見せられるようなものじゃないよ。それに、ぼくの放送なんて全然たいしたことないし……」

 両手を顔の前でぶんぶんと振ると、その手を蒼空にぎゅっと握られた。温かい手だった。

「いいから。俺が見たいの」

 真剣な眼差しでいわれると、ぼくはこくりと頷くしかなかった。

「まだ本番まで時間があるから、少し練習してもいいかな?」

「うん、もちろん。俺はここで見てるよ」

 蒼空は椅子に座り、机の上で頬杖をついてこちらを見た。その真剣な眼差しを向けられると、一人で練習するのとは違い、一気に緊張感が増した。

「お、おはようございます。四月八日の朝の放送を始めます。今日は……」

 誰かに見られていることで緊張はしたが、言葉に詰まったのは最初の一言だけだった。その後は、一人で練習しているときと同じように、すらすらと原稿を読むことができた。

「いいじゃん! すごくいいよ、翔。あー、やっぱり翔の声、安心するわー」

 蒼空が目を細めて、うれしそうな顔を向けた。

「そ、そう?」

「うん。やっぱり、練習すればもっと上達するはずだよ。元の声がいいんだから」

 自分の声をこんなふうに素直に褒められたことは今までなかったので、恥ずかしく感じた。思わずうつむいてしまった。

「そ、そうかな……」

 すると予鈴が鳴った。

「あ、放送する時間だ! 今から放送するね」

 ぼくは音声調整卓の前に座って深呼吸する。電源スイッチをオンにして、マイクのボリュームを上げた。

「お、おはようございます。四月八日の朝の放送を始めます。き、今日は……」

 あれ? いつもはもっと言葉に詰まるのに、今日はそれが少なかった。放送が終わって蒼空を振り返ると、彼は満足げな笑みを浮かべていた。

「すっごくよかったよ!」

 そんなふうにストレートに自分の声を褒められるなんて、恥ずかしすぎる。

「そ、そう? もっと練習すれば、上手になるかな?」

「もちろんだよ! だからさ、今日の放課後から一緒に頑張ろう、ね?」

「う、うん……」

 本当に自分にはできるのだろうか……。不安に押しつぶされそうになるけれど、蒼空の顔を見ると、まるで「絶対大丈夫」といっているような自信にあふれているので、少しだけ頼ってみようかという気持ちになる。

 不安はまだ拭い切れないが、蒼空のいう通りに一度やってみよう。

 放課後にどのようなことをするのか、期待と不安を胸に、ぼくは蒼空と一緒に教室へと向かった。


 その日の放課後、ぼくは蒼空と並んで放送室へ向かった。発声練習など一度もやったことがなかったので、不安で胸がいっぱいだった。

「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」

 蒼空は満面の笑みでいった。

「うん……でも、上手にできなかったらって思うと……」

 ぼくがそういうと、蒼空は柔らかい笑みを向けた。

「大丈夫大丈夫。だって最初からうまくいく人なんていないんだから」

 そういわれると、少し胸の中の重しが軽くなったようだった。

 相変わらず他の部員は誰も来ない。二人きりのはずなのに、一人ぼっちだった空間がうそのように温かく感じられた。

「じゃあ、さっそく練習始めようか?」

 蒼空がうきうきとしながら声をかけてくる。ぼくは初めてのことで心臓がばくばくとうるさくなっていた。自然と体がこわばってしまう。

「はっはっ! そんなに固くならなくて大丈夫だって! 正しく声を出すのに三つの基本があるんだけど、今日はまず姿勢を正す練習からするから」

「姿勢?」

「そう! いい声を出すには、まずは姿勢を見直すといいんだよ。ほら、こっちに来て」

 蒼空はぼくの腕を引き、壁の前に向かった。

「肩に力が入ってたり、緊張してたりすると声が硬くなるんだよ。だからリラックスできる姿勢を覚えることが大切なんだ」

 蒼空は壁にぴったりと背中をつけて立つ。まっすぐに伸びた背筋が美しい。

「ほら、翔もこっちに来て」

 ぼくの腕を優しく引っ張った。

「最初は背中をぴったり壁につけて顎を引く。そのとき、重心はつま先にかかるように意識して」

「こ、こう?」

「そうそう。うまいじゃん。次に、両肩をぐっと上げる。そして胸を張る」

「えっ? これでいいの?」

「うん。肩甲骨を寄せるといいよ。胸が張った状態で肩を下げる。これがいい声が出せる正しい姿勢」

「結構、きついね……」

「慣れないうちはね。でも、毎日練習していたら、壁に立ってやらなくてもできるようになるから」

 そういうと、蒼空はそのままの姿勢で壁から離れてみせた。

「うわぁ! すごい!」

「翔にもできるようになるって。これだと家でも練習できるからやってみて」

「わかった……」

「あ、それから注意点があって。首が前に出ると喉が詰まって声が出なくなるから、常に顎を引くのを忘れないで」

 これまで姿勢について気にしたことはなかった。今朝の放送のときも、きっと猫背になって下を向いたままマイクに向かっていたのだろうと思う。

「ねぇ、蒼空。これだけで声がうまく出るの?」

「あと二つ、基礎があるけど、それは明日以降練習しよう」

 ぼくは首を振った。

「いや、今日教えて! すぐに!」

「えっ?」

 蒼空が目を見開き驚いた顔をしたが、すぐにふわっと柔らかい笑みをこぼした。

「わかった。翔がそういうなら、今日は基本の三つを覚えようか」

「うん!」

 すぐにうまくなれるとは思っていない。でも、声を出すことに自信がつけば、きっと放送中につっかえることも少なくなるはずだ。一日でも早く上達したい。

「じゃあ、次は喉の開け方と腹式呼吸ね」

 蒼空は喉の開け方と腹式呼吸のやり方もじっくりと教えてくれた。この基本の三つは家でも練習できる。

 基本を教わって改めて、ぼくはこの中の一つもできていなかったことに愕然とした。そんなことだから、うまく放送ができなかったんだと反省する。けれど、この基本をしっかりと体に叩き込んで、満足のいく放送ができる近い未来を夢見た。