九月になっても残暑が厳しく、アスファルトからは陽炎がゆらゆらと立ち昇っていた。セミの声もまだ衰えず、夏の終わりを惜しむように鳴き続けている。

 放送部の文化祭準備は、思っていたほど手間がかからなかった。視聴覚室に机とマイクを用意して、スピーカーの配線を確認するだけで済む。体育祭や合唱コンクールのような大掛かりな準備はいらない。

 ただし、演出として工夫を凝らすことにした。朗読している間、『無邪気な人々』の世界観をイメージした写真やイラストのスライドを流そうと考えたのだ。昭和の街並みや、登場人物たちの日常を彷彿とさせる画像を集め、スライドショーを作成した。

 全体の準備は順調に進んでいるように見えたが、自分自身の準備だけが思うように進まなかった。脚本を何度も見直して手直しし、朗読の練習も繰り返している。しかし、文化祭が近づくほど、声が思うように出なくなっていった。

 放送室で一人、マイクに向かって練習をしていると、ふと気づく。緊張しているつもりはないのに、声が震えている。

「一人だから、不安なのかな……」

 蒼空がいてくれたらいいのに――。そう心の中で呟く。彼の存在がどれだけ大きかったか、今更ながら思い知らされる。

 あの日以来、蒼空とはクラスで顔を合わせるものの、全く言葉を交わしていない。目が合いそうになると、お互いに視線を逸らしてしまう。きっとぼくのことに嫌気がさしたに違いない。放送部も、もしかしたら退部したかもしれない。

 もう、二人で放送することなんて、ないんだろうな……。

 そう思うと、心がちくりと痛んだ。蒼空が横にいるだけでどれだけ安心していたのか、失って初めて気づいた。

 文化祭前日の放課後。ぼくは放送室で最後の準備をしていた。スライドの動作確認を済ませ、残りの時間は朗読の練習にあてることにした。

 いつも通り基本の姿勢を整える。足を肩幅に開き、背筋を伸ばして、肩の力を抜く。喉を開いて大きく息を吸い込むが、いざ声を出そうとすると喉が詰まったような感覚に襲われた。

「大丈夫、落ち着いて……」

 自分に言い聞かせながら、もう一度深呼吸をする。でも、うまく朗読できない。一人で公開放送をやりきらなければならないというプレッシャーが、想像以上に重くのしかかっていた。

 その時、放送室のドアがゆっくりと開いた。

 振り返ると、そこには蒼空が立っていた。夕日を背にした彼の表情は、逆光でよく見えない。

 蒼空は静かに放送室に入ってきて、ぼくの前まで歩いてきた。近くで見ると、彼の顔は少し痩せたように感じた。

「翔、ごめん」

 蒼空は深く頭を下げた。その声は、いつもの明るさを失っていた。

「蒼空……」

「俺、翔に迷惑をかけるつもりじゃなかった」

 ぼくは何も言うことができなかった。喉が詰まったような感覚は、緊張のせいじゃない。込み上げてくる感情のせいだった。

「でも、俺は……翔を守りたかった」

 蒼空の目が潤んでいた。夕日の光を反射して、きらきらと光っている。その姿を見ると、胸が熱くなった。

「ぼくのほうこそ、ごめん。本当は自分でちゃんと向き合うべきだったのに……」

「そんなことないよ。翔は優しいから……。そんなことできないでしょ」

 蒼空の言葉は、責めるようなものではなく、ただぼくを理解してくれているという温かさに満ちていた。

「……っ! でもっ! ぼくは蒼空に守られるだけじゃなくて、自分に自信をつけて……同じ目線で、一緒に並んで歩きたい」

 その言葉を聞くと、蒼空は目を見開いた。驚きと、そして何か別の感情が、その瞳に宿っているように見えた。

「俺のこと、許してくれるの?」

 ぼくはこくりと頷いた。言葉にしなくても、伝わると信じて。

「本当はね、蒼空に感謝してたんだよ。ぼくの代わりに怒ってくれて……。でも、それに甘えちゃいけないって思って」

「そっか……」

 蒼空はふわっと目を細めて、久しぶりに柔らかい笑みをこぼした。いつもの蒼空の笑顔だった。

「よかった……本当によかった」

 そう言うと、蒼空は右手を差し出してきた。夕日に照らされたその手は、少し震えているように見えた。

「じゃあ、明日の文化祭本番、一緒にやってくれる?」

 ぼくはその手をぎゅっと握り返した。蒼空の手は温かくて、少し汗ばんでいた。

「もちろん! 一緒にやってほしいんだ。ぼく一人じゃ、きっと無理だから」

 その言葉に、蒼空は満面の笑みを浮かべた。目尻に涙が光っているのを、ぼくは見逃さなかった。