ああ、いやだ。またこの時間がやってきた。
ぼくはシャツの胸元をぎゅっと掴み、深呼吸をした。放送室特有の埃っぽい匂いが肺いっぱいに広がる。あまりに力を入れすぎたせいか、シャツとネクタイにしわがよった。
窓の外に目をやると、桜の花びらがひらひらと踊りながら舞い降りていた。
ぼくもあんなふうに、悩みなんてなさそうに自由でいたい。でも、現実はそうはいかない。
春の陽気に誘われて、心は晴れやかなはずなのに、今この瞬間のぼくの気持ちは沈みきっていた。
音響調整卓の前に座り、震える手で電源ボタンを押す。もう一度深く息を吸って、マイクのボリュームレバーを上げた。
原稿に目を落とす。一呼吸置いて、マイクに向かって声を出した。
「お、おはようございます。四月、な、七日。あ、朝の放送を……は、始めます」
まただ。あれだけ放送前に何度も下読みをして、練習をしたのにうまくいかない。マイクを前にすると、声の震えが止まらないのだ。何度も経験しているのに上達しない。
「き、今日から、し、新年度です。み、皆さん、あ、新しいクラスには、も、もう、は、入りましたか?」
ぼくも放送室に来る前に、クラス替え表を確認した。可もなく不可もなく、特にいいことも悪いこともなかった。心が躍るようなことも、なかった。
「あ、新しい、く、クラスで、こ、今年も、い、一年、た、楽しく、や、やっていきましょう」
特別仲のいい友達がいるわけでもないから、今年もなんの変哲もない一年になるだろう。思わずため息が出そうになるのを、マイクの前で必死にこらえる。
「き、今日の担当は……に、二年、お、音羽翔でした」
原稿を読み終え、マイクのボリュームレバーを下げると、大きなため息が出た。
「はあ……なんでぼくはいつもうまくできないんだろう」
がっくりと肩を落とす。
「それに、ぼくの声、女の子みたいに高くて、すっごくいやだ」
自分の声にコンプレックスを持っていて、それを克服したいがために放送部に入ったのに、全く役に立っていない。
他にも部員はいるのだが、幽霊部員だったり他の部活と掛け持ちをしていたりで、実質部員は自分ひとりきり。だから、毎日の放送はひとりで回さなければならなかった。これだけ同じことを繰り返していれば、普通は少しは上達しそうなものなのに、ぼくはちっとも上手くならない。
――なんで、ぼくばっかり……もう、いやだっ!
すべての電源をオフにして、音響調整卓からよろよろと立ち上がった。
「朝のホームルームが始まるから、そろそろクラスにいかないと……」
もう一度、電源などを確認してカーテンを閉める。とぼとぼと扉に向かい、施錠してから教室へ向かった。
教室に入ると、新しいクラスメイトたちが楽しそうに雑談していた。ぐるりと周りを見渡すと、知った顔もちらほら。
「あっ!」
その中に、放送部の副部長を務める三浦佳奈の姿があった。ぼくの姿を見つけると、タタタッと小走りで近づいてきた。ショートボブがふわりと弾む。
「音羽くん、今日も朝の放送ありがとうね」
相変わらずの人懐っこい笑顔で手をひらひらと振る佳奈を見ていると、ぼくの口元も少し緩んだ。
「三浦、副部長なのに、なんで部活に来ないんだよ」
「いいじゃん。音羽くんの声、すっごく澄んで聴きやすいんだよ」
「だからってぼくひとりに任せなくても……」
「あれ? だって音羽くん、自分の声のコンプレックスを克服したいんじゃなかったっけ?」
佳奈がにやにやしながら、ぼくに顔を近づけてきた。
「……そうだけどっ! でも、毎日あんなに詰まって読んでて、みんなちゃんと聞いてくれてるはずないよ」
ぐっと佳奈を押し戻すと、彼女は口を尖らせた。
「えー? そうかな。あたしは音羽くんの放送聞くと、今日も頑張ろうって思えるけどなあ」
「そんなこと思う人なんて、いないって! 三浦、ぼくに全部押し付けたいからそんなこといってるんでしょ?」
「そんなことないよー」
えへへと笑う佳奈の顔を見ると、本当かどうか怪しく思えてくる。
「たまには部活に来て、放送してよね。ぼくひとりじゃ、もう限界なんだって。それになんで副部長なのに幽霊部員なんだよ――」
その時、本鈴が鳴り、担任が教室に入ってきた。佳奈は「じゃあね!」と手を挙げて自分の席に急いで戻った。
「おーい、みんな自分の席につけよー」
担任がだるそうに声を出した。先生といえども、人間だ。そりゃだるい日もあるだろう。そうは思うものの、今日から新年度なんだから、もっとしゃきっとしてくれたらいいのに、とも感じる。
「ああ、このクラスに新しい仲間が増えます。ほら、入ってきて」
担任に促されて入ってきたのは、さらさらの黒髪が清潔感を感じさせる男子だった。顔立ちは整っていて、目は鋭い。すらりとした体格で手足も長い。いわゆるイケメンだ。
彼が入ってきた瞬間、クラス内がざわついた。特に女子の歓声が大きい。
「きゃー! めちゃくちゃかっこいいっ!」
「イケメン転校生とか、よすぎない?」
「なんかオーラが違う〜」
きゃーきゃーと女子生徒が騒ぐのを、担任が「静かに!」と制する。
「じゃあ、自己紹介して」
担任から促され、その男子生徒は教壇に上がった。その瞬間、柔らかく微笑む。鋭かった目が緩んだ。
「はじめまして。星野蒼空です。よろしくお願いします」
その声を聞いて、ぼくは胸が締め付けられた。低音だけど、よく通る声。ぼくのとは全く正反対のその声に、心を動かされた。
「うわっ! めっちゃイケボ!」
「イケメンの上にイケボってヤバすぎない?」
確かに、顔もよくて、声もいいなんて。「天は二物を与えず」なんて、真っ赤なウソだ。
クラスのざわめきをまるで遠くの出来事のように見つめ、きっと彼とは関わることなんてないんだろうと思った。
水の中に沈んでいるみたいに、クラスメイトの声が膜越しにぼんやりとしか聞こえない。窓の外に目を向けると、風に吹かれた桜の花びらが、楽しそうに宙を舞っていた。
ぼくはシャツの胸元をぎゅっと掴み、深呼吸をした。放送室特有の埃っぽい匂いが肺いっぱいに広がる。あまりに力を入れすぎたせいか、シャツとネクタイにしわがよった。
窓の外に目をやると、桜の花びらがひらひらと踊りながら舞い降りていた。
ぼくもあんなふうに、悩みなんてなさそうに自由でいたい。でも、現実はそうはいかない。
春の陽気に誘われて、心は晴れやかなはずなのに、今この瞬間のぼくの気持ちは沈みきっていた。
音響調整卓の前に座り、震える手で電源ボタンを押す。もう一度深く息を吸って、マイクのボリュームレバーを上げた。
原稿に目を落とす。一呼吸置いて、マイクに向かって声を出した。
「お、おはようございます。四月、な、七日。あ、朝の放送を……は、始めます」
まただ。あれだけ放送前に何度も下読みをして、練習をしたのにうまくいかない。マイクを前にすると、声の震えが止まらないのだ。何度も経験しているのに上達しない。
「き、今日から、し、新年度です。み、皆さん、あ、新しいクラスには、も、もう、は、入りましたか?」
ぼくも放送室に来る前に、クラス替え表を確認した。可もなく不可もなく、特にいいことも悪いこともなかった。心が躍るようなことも、なかった。
「あ、新しい、く、クラスで、こ、今年も、い、一年、た、楽しく、や、やっていきましょう」
特別仲のいい友達がいるわけでもないから、今年もなんの変哲もない一年になるだろう。思わずため息が出そうになるのを、マイクの前で必死にこらえる。
「き、今日の担当は……に、二年、お、音羽翔でした」
原稿を読み終え、マイクのボリュームレバーを下げると、大きなため息が出た。
「はあ……なんでぼくはいつもうまくできないんだろう」
がっくりと肩を落とす。
「それに、ぼくの声、女の子みたいに高くて、すっごくいやだ」
自分の声にコンプレックスを持っていて、それを克服したいがために放送部に入ったのに、全く役に立っていない。
他にも部員はいるのだが、幽霊部員だったり他の部活と掛け持ちをしていたりで、実質部員は自分ひとりきり。だから、毎日の放送はひとりで回さなければならなかった。これだけ同じことを繰り返していれば、普通は少しは上達しそうなものなのに、ぼくはちっとも上手くならない。
――なんで、ぼくばっかり……もう、いやだっ!
すべての電源をオフにして、音響調整卓からよろよろと立ち上がった。
「朝のホームルームが始まるから、そろそろクラスにいかないと……」
もう一度、電源などを確認してカーテンを閉める。とぼとぼと扉に向かい、施錠してから教室へ向かった。
教室に入ると、新しいクラスメイトたちが楽しそうに雑談していた。ぐるりと周りを見渡すと、知った顔もちらほら。
「あっ!」
その中に、放送部の副部長を務める三浦佳奈の姿があった。ぼくの姿を見つけると、タタタッと小走りで近づいてきた。ショートボブがふわりと弾む。
「音羽くん、今日も朝の放送ありがとうね」
相変わらずの人懐っこい笑顔で手をひらひらと振る佳奈を見ていると、ぼくの口元も少し緩んだ。
「三浦、副部長なのに、なんで部活に来ないんだよ」
「いいじゃん。音羽くんの声、すっごく澄んで聴きやすいんだよ」
「だからってぼくひとりに任せなくても……」
「あれ? だって音羽くん、自分の声のコンプレックスを克服したいんじゃなかったっけ?」
佳奈がにやにやしながら、ぼくに顔を近づけてきた。
「……そうだけどっ! でも、毎日あんなに詰まって読んでて、みんなちゃんと聞いてくれてるはずないよ」
ぐっと佳奈を押し戻すと、彼女は口を尖らせた。
「えー? そうかな。あたしは音羽くんの放送聞くと、今日も頑張ろうって思えるけどなあ」
「そんなこと思う人なんて、いないって! 三浦、ぼくに全部押し付けたいからそんなこといってるんでしょ?」
「そんなことないよー」
えへへと笑う佳奈の顔を見ると、本当かどうか怪しく思えてくる。
「たまには部活に来て、放送してよね。ぼくひとりじゃ、もう限界なんだって。それになんで副部長なのに幽霊部員なんだよ――」
その時、本鈴が鳴り、担任が教室に入ってきた。佳奈は「じゃあね!」と手を挙げて自分の席に急いで戻った。
「おーい、みんな自分の席につけよー」
担任がだるそうに声を出した。先生といえども、人間だ。そりゃだるい日もあるだろう。そうは思うものの、今日から新年度なんだから、もっとしゃきっとしてくれたらいいのに、とも感じる。
「ああ、このクラスに新しい仲間が増えます。ほら、入ってきて」
担任に促されて入ってきたのは、さらさらの黒髪が清潔感を感じさせる男子だった。顔立ちは整っていて、目は鋭い。すらりとした体格で手足も長い。いわゆるイケメンだ。
彼が入ってきた瞬間、クラス内がざわついた。特に女子の歓声が大きい。
「きゃー! めちゃくちゃかっこいいっ!」
「イケメン転校生とか、よすぎない?」
「なんかオーラが違う〜」
きゃーきゃーと女子生徒が騒ぐのを、担任が「静かに!」と制する。
「じゃあ、自己紹介して」
担任から促され、その男子生徒は教壇に上がった。その瞬間、柔らかく微笑む。鋭かった目が緩んだ。
「はじめまして。星野蒼空です。よろしくお願いします」
その声を聞いて、ぼくは胸が締め付けられた。低音だけど、よく通る声。ぼくのとは全く正反対のその声に、心を動かされた。
「うわっ! めっちゃイケボ!」
「イケメンの上にイケボってヤバすぎない?」
確かに、顔もよくて、声もいいなんて。「天は二物を与えず」なんて、真っ赤なウソだ。
クラスのざわめきをまるで遠くの出来事のように見つめ、きっと彼とは関わることなんてないんだろうと思った。
水の中に沈んでいるみたいに、クラスメイトの声が膜越しにぼんやりとしか聞こえない。窓の外に目を向けると、風に吹かれた桜の花びらが、楽しそうに宙を舞っていた。



