第二話 カブトと虫取り
放課後は、週に3〜4日家の近くのコンビニでアルバイトをしている。新学期初日に思い描いていたような、他校のかわいい女子…なんていう人はおらず、とても気の良いおじちゃんとおばちゃんばかりの職場だった。そういえば、ウチの家は学校から離れた割と田舎の方にあって、その近くのコンビニなのだから、学生がバイトしているわけなかったんだ。よく通っていたコンビニなのにそんなことにも気づかなかったなんてと入って3日ほどで悔いたが、おじちゃんとおばちゃんがいい人すぎて、働く環境としてはそれ以外の不満はなかった。
「カブトくん、高校生になったばっかりなんでしょう?どうなの学校生活は」
「む」
危ない、虫から逃げてますなんて言うところだった。
「む?」
「む〜ずかしい勉強も今のところはないですし、どうにかやってってますよー!まだ始まったばかりなので、分かんないですけどね」
「そうなんだね〜。オレが高校生のときは、すぐにかわいい彼女ができて、部活も楽しんで、引退したら放課後は友だちとワイワイして〜って、高校は楽しい思い出しかないな〜」
え、畑野さんそんなイケてる高校生活を送ってたの?!おじちゃんになった今の見た目とのギャップからいまいち想像ができなかったが、やっぱりそんな高校生活を送ることもできるんだ、と少し望みを持ち直した。よし、あしたから気を取り直してがんばろう。
隣の席の新藤はいつも遅刻ギリギリか遅刻で登校する。教室に入るとまずは虫取り網と虫カゴを専用の置き場に置き(2日目には気づいたらそんなものができあがっていた)、リュックから必要な筆記具などを机に出したらそのままロッカーへ片付け席に着く。新藤の身体には大抵、葉っぱがついていたり、草むらにいた影が残っている。そして授業をなんとなく受けながら(チラッと覗いたら、教科書やノートに虫の絵を描いたりなんかしていた)、休み時間になるとスマホの写真をみながら虫の絵を描いたり、外に虫を観察しに飛び出している。放課後ももちろん一番に教室を出て、何をしているかは言わずもがなだろう。クラスメイトと話す様子もあまりみないし、黙々と好きなことをして、帰っていく新藤をいつも横目で見送ることがクセになっていた。オレは新学期初日のあのときから、虫取りに誘われたらどうしようとか虫トークを繰り広げられたらどうしようとかそういう心配をして避ける言い訳を考えていたので、思ったより拍子抜けをしていた。しかし油断はならない、隣であんなに虫の気配を感じるだけで、こっちはゾワゾワしているのを必死で隠しているのだ。
この日は朝から新藤の雰囲気がいつもと違っていた。なんかソワソワしているというか浮き足立っているというか心ここに在らずというか。朝はもちろん遅刻してきた。それからぼうっとしたかと思うと、急にノートを取り出したり、そう思うと眉間にシワを寄せたり、とにかく落ち着きがないのだ。図らずしも新藤ウォッチャーになってしまったオレは、何があったか気になってきた。どうせ虫関連だろうとは思っていても、実際のところ何かは分からず、とても気になる。
「ねえ、新藤今日何かあったの?」
短い休み時間なら新藤が教室を飛び出ることはない。思い切って聞いてみた。新藤は驚いた顔したかと思うと、またあの満面の笑みになって言った。
「実はね、今日、ナミハンミョウを見つけたんだよ!」
「な、な?」
「ナミハンミョウ!すんっっっっっっごくキレイで見惚れちゃって、それで遅刻しちゃったんだよね。は〜あの色とりどりの身体をみると、人間って本当にシンプルだよな〜なんて思っちゃうな〜。でも、見惚れて写真を撮るの忘れちゃって。それだけが心残り。放課後になったら早くまたそこに行って、探すんだ!」
新藤が身体ごとオレに近づいてくる。
「そ、そんなにキレイだったのか」
新藤の圧に押され、ボソッと出た言葉を新藤は聞き逃してはくれなかった。カブト!!!近づいたまんま手を伸ばしオレの肩を掴んだと思ったら、サッといつも見ている図鑑を取り出した。そして、ページをめくってオレの目の前に広げた。そこにはとてもキラキラ光る宝石のような虫の絵が載っていて、緑やオレンジのような色や黒くピカピカしている身体はもちろんのこと、細い足の先までその色がのっていた。
「これは、キレイだな」
ここでもまた思わず言葉が出た。そういったオレを新藤が嬉しそうに眺めているのが横目で感じられて、なんだか照れたので、視線を再び図鑑に戻す。ん?!これもしかして!それから何ページかめくる。
「新藤、もしかしてこれ、お前の手描きか?」
「そうなんだよ〜。下手くそだけど、自分でまとめたくなってさ。見辛かったか?ごめんね」
「何言ってんだよ!すんげーーー上手じゃないか!文字は手書きぽかったけど、絵はてっきりコピーしたやつだと思ったよ」
ページを捲るオレの手が止まらない。虫は苦手だが、これは絵であって本物ではないし、丁寧に細部まで描かれた虫のイラストに加え、生息している環境、成長過程、食べ物なんかの生態も事細かく書かれているところを見ると、一つの芸術作品として存在しているようで、嫌悪感もない。と思って見入っていたら、あるページに辿り着いたおれは思わず身体をのけぞらせ、ひい!と叫んでいた。驚いた新藤がオレの開いていたページに視線を向ける。
「あ〜、ゴキページか。虫が好きな人でも、ゴキは苦手な人結構いるけど、カブトもそうなんだね。でもね、このゴキってね」
「ちょ、ちょっと待って」
このまま行くと新藤のゴキ談話が始まりそうだと思ったので思わず手のヒラを向け制した。一瞬しかみていない、でも一瞬でもそれと分かる、そして一瞬しかみていないのに細部まで見たような気がする。それがあいつの力だった。
「そいつだけは無理なんだよ。ごめん」
リアクションも盛大にしたし、好きな人こそ極小数のヤツだし、ここは取り繕うことはないだろうと素直に伝えた。新藤はいつもの申し訳なさそうな顔をして、
「大丈夫。また見たくなったら遠慮なく言ってくれ。ゴキのページはめくれないようにクリップとかで留めるからさ」
と言った。それから先生が入ってきて、いつも通りに授業が始まった。
「なあ、新藤、また新しい虫のページとか増えたのか?」
あの日からオレはたまに新藤に自分から声をかけるようになった。虫は苦手だが、あわよくば虫嫌いを克服したいと思っているのも事実だ。せめて、急な虫に慌てふためることなく対応できるくらいの免疫はつけたいと思っている。新藤の絵は、リアルを追求しているが、あくまでも絵で動き出すことはないし、それから見れば見るほど新藤の虫に対する愛情なんかがみてとれるようになってきて、それも含めて図鑑を見るのはオレの楽しみにもなっていた。
「そうそう新しい虫には出会わないから、図鑑は増えてないんだよね。昨日はよくいるモンキチョウとモンシロチョウを改めてみてきたんだ」
そういって、新藤は図鑑を取り出しその二匹の蝶が載っているページを開く。
「よくいる蝶だけど、少し色の濃さが違ったり、花を探して飛んでるところなんて、見てて飽きるものじゃないね。ずっと見てられる。あ、そうだ、カブトも今日の放課後、一緒に虫観察行かない?とっておきの場所があるんだ」
「今日は、、、家の用事があるんだよね」
虫図鑑をみるのは平気になってきた。それでもまだ、本物の虫を見に行くなんてことはオレにはハードルが高すぎた。目の前で虫たちがそんなオレを嘲笑っている妄想がパッと出てきたのを手で追い払う。図鑑を見せてもらうようになって、初めて虫活(新藤がしているであろう虫を愛でる活動の略で、オレが心の中でそう呼んでいる)に誘われたもんだから、慌ててしまって新藤のほうは見れなかったが、いざ誘われたときように、断るための理由をいくつか用意しておいたから、スムーズに対応できただろうと安堵する。
「そうか、急だししょうがないね。次また都合がいいとき行けたらいいな」
そう言った申し訳なさそうな顔をした新藤に、そうだなまた今度なというと、新藤は嬉しそうな顔をして、今日見たい虫はね〜と言って、図鑑のページをめくった。
新藤と少し話すように気づいたことがある。新藤は虫以外の会話をあまりしないということだ。クラスメイトに声をかけられても、最低限の返事で終わるし、盛り上がっているところをみたことがない。なんならオレ以外と話しているのもあまりみたことがない。そして、虫の話になると饒舌になるが、話終わると申し訳なさそうにすることが多い気がする。まあ、気のせいかもしれないけど。
今日は、虫活を断るために、家の用事と行った手前、家に帰って母に何かしてほしいことはないかと聞くと、隣町のばあちゃんちにこの前もらった野菜を分けて持ってってほしいと言われた。思いの外面倒臭い用事を言いつけられ断りたかったが、寂しそうな新藤の顔がよぎり、野菜を持って祖母宅へ向かった。
電車に乗って久しぶりの祖母宅へ辿り着くと、まさかの祖母が不在だった。スマホを取り出し、祖母へ電話する。
「カブト、ばあちゃん今家にいないのよって分かるか。家の横の前から3番目の鉢の下に鍵があるから、開けて野菜台所に置いといてちょうだい。もてなせなくて悪いね〜。冷蔵庫にあるのなんでも食べていいからね」
電話を切って、言われた通り鉢の下から鍵を取り出し、開けて入った。祖母の家は相変わらず古臭いがキレイに整えられていて、いつ来ても居心地がいい。台所に野菜を置いて、冷蔵庫を開けると、麦茶が作られてあったので、コップの一杯飲み干して、主人のいない古い温かい家を後にした。
外に出ると少し暑くなってきてはいるが、まだ歩けるくらいだと判断したため、ここらへんも久しぶりに来たしと少し散歩することにした。久しぶりに歩く街並みは様子が変わっているかと思ったらそうでもなく、幼い頃に遊びに来ていたときの記憶と照らし合わせてもそこまで誤差はない。あそこの家はとても大きいとか、あの家の門は個性的なデザインだったなとか記憶のまんまそこにあった。もちろん、もう人が住んでいないのかだいぶくたびれた家があったり、昔は開いてたお店が閉店していたりそういう変化もあった。フと、よくお菓子を買いに行った商店のことを思い出した。あのお店はまだあるだろうか。自然と足が向く。思い出の中の道を思い出しながら進むと、思い描いた場所に商店はあった。富田商店と元から薄い文字がさらに薄くなった看板を入り口の上に携えている。中に入るとあのときと同じ、間違いなく歳を重ねた店主が、いらっしゃいと穏やかな声で迎えてくれた。店内も変わらず、主に駄菓子や少しの日用品がいつもの顔して陳列されていた。オレは、歩いて暑くなってきたので、アイスを購入することにした。しわくちゃの手からお釣りを受け取り外に出ると、学校帰りの小学生2人と入れ違いになった。
早く食べようとアイスを持って、すぐそこの公園へ行った。木陰のベンチは虫がいる可能性が高いので、東屋になっているベンチを探して、座って食べ始めた。こんな風に過ごすのはなんか久しぶりだなあなんて思いながら、少しのエモさってやつを感じ調子に乗りながらアイスを食べていた。目の前は芝生が広がり、少し奥には軽く整備された雑木林のような木が生えている場所が広がっている。そこでは、学校帰りの子どもたちや保育園帰りの親子連れが遊んでいた。するとなんだか見覚えのあるシルエットをオレの目が捉えた。どうみても小学生の体型ではない、手には虫取り網を持って、虫カゴを携えているシルエットは、間違いなく新藤だった。見つけた瞬間、いけないことをしている気分になったのとバレてはいけないという気持ちの相乗効果で、オレは残っていたアイスを一気に食べ切り、そうっとその場を後にしようとした。
「カブトー!!!!!」
そう大きな声で呼ばれたときにはまだ引き返せたかもしれなかった。でもオレにそれはできず、呼ばれて気付いたフリをしながら新藤の方を向いた。
「あれ?新藤じゃん。こんなとこで何してんの?って、虫活だよな」
「虫活?そうそう、虫観察してたんだよ。カブトはなんでここに?」
「オレのばあちゃんちがここの近くでさ、親におつかい頼まれて来たんだよ」
決して嘘は言っていないのに、なんだか胸が痛い。
「そうだったんだ。ここがね今日言ってたとっておきの場所なんだ!あ、そうだ、カブト今からどう?……あ、用事の途中とかだったらいいから!」
ここまで言われて断れる理由がわかるやつがいたら教えてほしい。この一瞬でどうにか頭をフル回転させ、今日は虫活の準備してないから見てるだけならできると、最大限自分の耐えられるレベルを見極めてそう答えた。新藤は満面の笑みで、じゃあこっちだよとオレの手を引いて、その場所に連れて行ってくれた。
「じゃあ、オレちょっと虫捕ってくるから、カブトはそこで待ってて」
そう言って新藤は少しだけ離れた草むらに入り、虫を驚かさないようにだろうか、そうっと歩きながら真剣な表情で草むらを見つめていた。そんな新藤の表情を見るのは初めてで、そんな顔して虫に向き合うのかと思わず見入ってしまったくらいだった。するとそこから目の前の新藤が、無駄のない動きで虫取り網を振り下ろし、網の上を掴んで草むらから出てきて、その場で捕まえた虫をカゴへ入れた。それからオレのほうを見て、目にゴミが入ったのか、何度か目を擦ったあと、モンシロチョウ捕まえたよ〜とニコニコした顔で、そのままこちらへやってきた。新藤がやってくるまでの間に、今からカゴに入ったチョウが目の前にやってくる事実を自分に言い聞かせ、覚悟を決める。
「カブトー!今日話してたモンシロチョウ!ほら、見て!」
ほんの少し身体が後ろにそれるのはもう不可抗力だった。不自然にならないくらいの最長の距離をとって、カゴに入ったモンシロチョウをみた。チョウは初めは飛び回っていたが、そのうち諦めたのか慣れたのか、カゴの中でちょこんと羽をくっつけて留まった。
「かわいいんだよね〜キレイだし。みてよこの模様とか、ピッと伸びた触覚とか、よくみると合う気がする目とか、こんな小さい身体でこんなに完成されてて本当にすごいよね」
虫のことになると新藤は饒舌になる。そしてオレは、とても久しぶりにこの距離でこんな風に虫を見ている気がする。カゴから出てこない安心感もあってか、新藤のコメントのせいか、思いの外オレはモンシロチョウをに集中しまっていた。
「カブトがこんな風に見てくれてうれしいな」
そう言われてハッとする。チョウに近づきすぎた身体を少し離し、
「み、見慣れたもんだけど久しぶりだな」
と少しごまかした。
「そういえば、新藤さっき目にゴミでも入ったのか?目を何度も擦ってたけど大丈夫?ん?なんか少し赤い気もするな」
虫の話題だとこれ以上はボロが出そうだったので、さっき見て気になったことを口にした。オレがジーッと見てしまったからか、新藤は顔を赤くして、パッと顔を背け、
「ああ、そうなんだ。少しゴミが入ったみたいで目を擦っちゃったんだ。もう大丈夫。ありがとう。そういえば、できたらでいいんだけどカブトにお願いしたいことがあって」
「え、何、かな?」
お願いとはなんだろう、イヤな予感しかせず一気に緊張感が増す。
「あのさ、オレが捕まえた虫の写真を撮るのを手伝って欲しいんだ」
「……」
「やっぱりダメかな?あ、もちろんできるときだけでいいから!」
「写真?」
「そう、写真。オレ撮るの下手くそでさ」
そういって新藤はスマホを取り出し、撮り貯められた写真を見せてくれた。するとそこには尋常じゃない量のピンぼけした写真や、何の写真か分からない写真が広がり、あ、これは虫だね!と判断できるものが両手で数えられるくらいだった。そしてそれを見て、オレは思わず大笑いしてしまった。
「なんでか分かんないけど、こうなっちゃうんだよね」
新藤は恥ずかしそうに下を向いたままそう言った。
「笑っちゃってごめん。こんなカメラロール初めて見て」
笑いの隙間にどうにか言葉を繋ぐ。
「虫を取ろうとしてるときは、あんなにすごい集中してたのに、写真だと活かされないんかな?分かった、オレが手伝ってやる!」
気づくとそう言っていた自分に驚いた。顔を上げた新藤はあの満面の笑みで、ありがとうありがとうとオレの手をギュッと掴んで何度もお礼を言った。
「じゃあ、まずこのモンシロチョウ撮ってみてもらっていい?」
新藤にそう言われ、ハッと我に返った。もしかして写真って、ホンモノに近づいて撮るのか?オレニデキルカ?
「ほら、今の留まってる様子とか」
そう言われて見ると、新藤の虫かごは透明で、カゴに入ったまま、もしくは上の扉を少しズラすだけで写真が撮れる仕様になっていた。心底ホッとし、よしやってみようと新藤のスマホを借りて、その場で1枚撮ってみた。蝶も動かないし、ブレる要素などひとつもない環境だったので、もちろんしっかり撮れた。それを新藤に見せると、心から感動しているようで、一回でこんな風に撮れてすごい!と大喜びしていた。しかしオレは、写真を学んだことなどないが、何故か仕上がりに納得できず、もっといいのが撮れるはず!と新藤のスマホを再び借りて、撮影に及んだ。様々な角度、そして蝶が羽を少し開く瞬間など見落としがないように、カメラのレンズ越しにモンシロチョウを穴が開くほど見つめた。
「カブト、そろそろ〜」
新藤にそう声をかけられ、自分が思った以上にのめり込んでいたことを知った。
「悪い!全然気づかなかった!」
それから2人で撮った写真を見てみた。時間をかけたわりに、思ったより枚数は撮っていなかったことに、まず驚いた。しかし厳選して撮った写真は思いの外よく撮れていて、初めてにしてはいいんじゃないかと思いながら写真を右に送っていく。隣で目を見開いて嬉しそうに見つめる新藤を見ると、撮ったかいがあるなとさらに思った。あるひとつの写真になったとき、2人同時に
「この写真!」
と叫んでいた。この写真すごくいい!と2人で認めたそのモンシロチョウの写真は、少し羽を広げたモンシロチョウがこちらに視線を送っているような写真だったのだ。2人で顔を見合わせ、笑う。
「カブトの写真、とてもすごいね。この写真を見て、スケッチ欲が増したよ!本当にありがとう」
そう言われて、オレも嬉しくなった。
「オレも楽しかったし。またできるときは付き合うよな」
ありがとうと言った新藤は、じゃあモンシロチョウを外に逃すよとカゴのフタを開けた。少しすると、真っ赤な夕日を背景に、モンシロチョウが羽を広げてヒラヒラと頼りなく、しかしはっきりと意思をもって飛び出した。その光景に、見えなくなるまで見届けてしまった。そして、見送ったあと、なぜ今写真を撮らなかったのだと心底悔やんだ自分に驚いた。
「キレイだったね〜」
新藤も同じ気持ちだったのが嬉しくて、その言葉を聞いて、悔やんだこともオレの中からヒラヒラと消えていった。
「なあ、新藤ってさ、虫以外の話するのイヤなの?」
そういえばと気になっていたことを聞いてみた。新藤は困った顔をして、
「そんなことないけど、どういう話をしたらいいのかよく分からなくて」
と言った。
「どんな話でもいいじゃん。そんな気にしなくていいと思うけど。虫の話はすごいのにな」
そう言うと、新藤は再び困ったように笑って、そうだねと言った。それから、また明日学校でと手を振り、お互い帰路に着いた。
家に帰ると母が、
「ばあちゃんから連絡あったよ。いなかったんだって?あんたこんな時間まで何してたの?」
と聞いてきた。
「たまたま友だちに会って虫の写真撮ってた」
そうオレが言うと、母は不思議そうな顔をして、遅くなるときは連絡しなねと言い残して、すぐに台所へ戻った。
眠ろうと布団に入ると、自然と今日のことを思い出す。あんなに苦手だった虫の写真を撮るなんて。しかもあんなに真剣に。それから新藤の笑顔が自然に浮かんできて、同時にあの困った笑顔も浮かんできた。新藤は今頃、虫の図鑑でも描いているんだろうか。そんなことを考えていたら、いつの間にか眠っていた。
放課後は、週に3〜4日家の近くのコンビニでアルバイトをしている。新学期初日に思い描いていたような、他校のかわいい女子…なんていう人はおらず、とても気の良いおじちゃんとおばちゃんばかりの職場だった。そういえば、ウチの家は学校から離れた割と田舎の方にあって、その近くのコンビニなのだから、学生がバイトしているわけなかったんだ。よく通っていたコンビニなのにそんなことにも気づかなかったなんてと入って3日ほどで悔いたが、おじちゃんとおばちゃんがいい人すぎて、働く環境としてはそれ以外の不満はなかった。
「カブトくん、高校生になったばっかりなんでしょう?どうなの学校生活は」
「む」
危ない、虫から逃げてますなんて言うところだった。
「む?」
「む〜ずかしい勉強も今のところはないですし、どうにかやってってますよー!まだ始まったばかりなので、分かんないですけどね」
「そうなんだね〜。オレが高校生のときは、すぐにかわいい彼女ができて、部活も楽しんで、引退したら放課後は友だちとワイワイして〜って、高校は楽しい思い出しかないな〜」
え、畑野さんそんなイケてる高校生活を送ってたの?!おじちゃんになった今の見た目とのギャップからいまいち想像ができなかったが、やっぱりそんな高校生活を送ることもできるんだ、と少し望みを持ち直した。よし、あしたから気を取り直してがんばろう。
隣の席の新藤はいつも遅刻ギリギリか遅刻で登校する。教室に入るとまずは虫取り網と虫カゴを専用の置き場に置き(2日目には気づいたらそんなものができあがっていた)、リュックから必要な筆記具などを机に出したらそのままロッカーへ片付け席に着く。新藤の身体には大抵、葉っぱがついていたり、草むらにいた影が残っている。そして授業をなんとなく受けながら(チラッと覗いたら、教科書やノートに虫の絵を描いたりなんかしていた)、休み時間になるとスマホの写真をみながら虫の絵を描いたり、外に虫を観察しに飛び出している。放課後ももちろん一番に教室を出て、何をしているかは言わずもがなだろう。クラスメイトと話す様子もあまりみないし、黙々と好きなことをして、帰っていく新藤をいつも横目で見送ることがクセになっていた。オレは新学期初日のあのときから、虫取りに誘われたらどうしようとか虫トークを繰り広げられたらどうしようとかそういう心配をして避ける言い訳を考えていたので、思ったより拍子抜けをしていた。しかし油断はならない、隣であんなに虫の気配を感じるだけで、こっちはゾワゾワしているのを必死で隠しているのだ。
この日は朝から新藤の雰囲気がいつもと違っていた。なんかソワソワしているというか浮き足立っているというか心ここに在らずというか。朝はもちろん遅刻してきた。それからぼうっとしたかと思うと、急にノートを取り出したり、そう思うと眉間にシワを寄せたり、とにかく落ち着きがないのだ。図らずしも新藤ウォッチャーになってしまったオレは、何があったか気になってきた。どうせ虫関連だろうとは思っていても、実際のところ何かは分からず、とても気になる。
「ねえ、新藤今日何かあったの?」
短い休み時間なら新藤が教室を飛び出ることはない。思い切って聞いてみた。新藤は驚いた顔したかと思うと、またあの満面の笑みになって言った。
「実はね、今日、ナミハンミョウを見つけたんだよ!」
「な、な?」
「ナミハンミョウ!すんっっっっっっごくキレイで見惚れちゃって、それで遅刻しちゃったんだよね。は〜あの色とりどりの身体をみると、人間って本当にシンプルだよな〜なんて思っちゃうな〜。でも、見惚れて写真を撮るの忘れちゃって。それだけが心残り。放課後になったら早くまたそこに行って、探すんだ!」
新藤が身体ごとオレに近づいてくる。
「そ、そんなにキレイだったのか」
新藤の圧に押され、ボソッと出た言葉を新藤は聞き逃してはくれなかった。カブト!!!近づいたまんま手を伸ばしオレの肩を掴んだと思ったら、サッといつも見ている図鑑を取り出した。そして、ページをめくってオレの目の前に広げた。そこにはとてもキラキラ光る宝石のような虫の絵が載っていて、緑やオレンジのような色や黒くピカピカしている身体はもちろんのこと、細い足の先までその色がのっていた。
「これは、キレイだな」
ここでもまた思わず言葉が出た。そういったオレを新藤が嬉しそうに眺めているのが横目で感じられて、なんだか照れたので、視線を再び図鑑に戻す。ん?!これもしかして!それから何ページかめくる。
「新藤、もしかしてこれ、お前の手描きか?」
「そうなんだよ〜。下手くそだけど、自分でまとめたくなってさ。見辛かったか?ごめんね」
「何言ってんだよ!すんげーーー上手じゃないか!文字は手書きぽかったけど、絵はてっきりコピーしたやつだと思ったよ」
ページを捲るオレの手が止まらない。虫は苦手だが、これは絵であって本物ではないし、丁寧に細部まで描かれた虫のイラストに加え、生息している環境、成長過程、食べ物なんかの生態も事細かく書かれているところを見ると、一つの芸術作品として存在しているようで、嫌悪感もない。と思って見入っていたら、あるページに辿り着いたおれは思わず身体をのけぞらせ、ひい!と叫んでいた。驚いた新藤がオレの開いていたページに視線を向ける。
「あ〜、ゴキページか。虫が好きな人でも、ゴキは苦手な人結構いるけど、カブトもそうなんだね。でもね、このゴキってね」
「ちょ、ちょっと待って」
このまま行くと新藤のゴキ談話が始まりそうだと思ったので思わず手のヒラを向け制した。一瞬しかみていない、でも一瞬でもそれと分かる、そして一瞬しかみていないのに細部まで見たような気がする。それがあいつの力だった。
「そいつだけは無理なんだよ。ごめん」
リアクションも盛大にしたし、好きな人こそ極小数のヤツだし、ここは取り繕うことはないだろうと素直に伝えた。新藤はいつもの申し訳なさそうな顔をして、
「大丈夫。また見たくなったら遠慮なく言ってくれ。ゴキのページはめくれないようにクリップとかで留めるからさ」
と言った。それから先生が入ってきて、いつも通りに授業が始まった。
「なあ、新藤、また新しい虫のページとか増えたのか?」
あの日からオレはたまに新藤に自分から声をかけるようになった。虫は苦手だが、あわよくば虫嫌いを克服したいと思っているのも事実だ。せめて、急な虫に慌てふためることなく対応できるくらいの免疫はつけたいと思っている。新藤の絵は、リアルを追求しているが、あくまでも絵で動き出すことはないし、それから見れば見るほど新藤の虫に対する愛情なんかがみてとれるようになってきて、それも含めて図鑑を見るのはオレの楽しみにもなっていた。
「そうそう新しい虫には出会わないから、図鑑は増えてないんだよね。昨日はよくいるモンキチョウとモンシロチョウを改めてみてきたんだ」
そういって、新藤は図鑑を取り出しその二匹の蝶が載っているページを開く。
「よくいる蝶だけど、少し色の濃さが違ったり、花を探して飛んでるところなんて、見てて飽きるものじゃないね。ずっと見てられる。あ、そうだ、カブトも今日の放課後、一緒に虫観察行かない?とっておきの場所があるんだ」
「今日は、、、家の用事があるんだよね」
虫図鑑をみるのは平気になってきた。それでもまだ、本物の虫を見に行くなんてことはオレにはハードルが高すぎた。目の前で虫たちがそんなオレを嘲笑っている妄想がパッと出てきたのを手で追い払う。図鑑を見せてもらうようになって、初めて虫活(新藤がしているであろう虫を愛でる活動の略で、オレが心の中でそう呼んでいる)に誘われたもんだから、慌ててしまって新藤のほうは見れなかったが、いざ誘われたときように、断るための理由をいくつか用意しておいたから、スムーズに対応できただろうと安堵する。
「そうか、急だししょうがないね。次また都合がいいとき行けたらいいな」
そう言った申し訳なさそうな顔をした新藤に、そうだなまた今度なというと、新藤は嬉しそうな顔をして、今日見たい虫はね〜と言って、図鑑のページをめくった。
新藤と少し話すように気づいたことがある。新藤は虫以外の会話をあまりしないということだ。クラスメイトに声をかけられても、最低限の返事で終わるし、盛り上がっているところをみたことがない。なんならオレ以外と話しているのもあまりみたことがない。そして、虫の話になると饒舌になるが、話終わると申し訳なさそうにすることが多い気がする。まあ、気のせいかもしれないけど。
今日は、虫活を断るために、家の用事と行った手前、家に帰って母に何かしてほしいことはないかと聞くと、隣町のばあちゃんちにこの前もらった野菜を分けて持ってってほしいと言われた。思いの外面倒臭い用事を言いつけられ断りたかったが、寂しそうな新藤の顔がよぎり、野菜を持って祖母宅へ向かった。
電車に乗って久しぶりの祖母宅へ辿り着くと、まさかの祖母が不在だった。スマホを取り出し、祖母へ電話する。
「カブト、ばあちゃん今家にいないのよって分かるか。家の横の前から3番目の鉢の下に鍵があるから、開けて野菜台所に置いといてちょうだい。もてなせなくて悪いね〜。冷蔵庫にあるのなんでも食べていいからね」
電話を切って、言われた通り鉢の下から鍵を取り出し、開けて入った。祖母の家は相変わらず古臭いがキレイに整えられていて、いつ来ても居心地がいい。台所に野菜を置いて、冷蔵庫を開けると、麦茶が作られてあったので、コップの一杯飲み干して、主人のいない古い温かい家を後にした。
外に出ると少し暑くなってきてはいるが、まだ歩けるくらいだと判断したため、ここらへんも久しぶりに来たしと少し散歩することにした。久しぶりに歩く街並みは様子が変わっているかと思ったらそうでもなく、幼い頃に遊びに来ていたときの記憶と照らし合わせてもそこまで誤差はない。あそこの家はとても大きいとか、あの家の門は個性的なデザインだったなとか記憶のまんまそこにあった。もちろん、もう人が住んでいないのかだいぶくたびれた家があったり、昔は開いてたお店が閉店していたりそういう変化もあった。フと、よくお菓子を買いに行った商店のことを思い出した。あのお店はまだあるだろうか。自然と足が向く。思い出の中の道を思い出しながら進むと、思い描いた場所に商店はあった。富田商店と元から薄い文字がさらに薄くなった看板を入り口の上に携えている。中に入るとあのときと同じ、間違いなく歳を重ねた店主が、いらっしゃいと穏やかな声で迎えてくれた。店内も変わらず、主に駄菓子や少しの日用品がいつもの顔して陳列されていた。オレは、歩いて暑くなってきたので、アイスを購入することにした。しわくちゃの手からお釣りを受け取り外に出ると、学校帰りの小学生2人と入れ違いになった。
早く食べようとアイスを持って、すぐそこの公園へ行った。木陰のベンチは虫がいる可能性が高いので、東屋になっているベンチを探して、座って食べ始めた。こんな風に過ごすのはなんか久しぶりだなあなんて思いながら、少しのエモさってやつを感じ調子に乗りながらアイスを食べていた。目の前は芝生が広がり、少し奥には軽く整備された雑木林のような木が生えている場所が広がっている。そこでは、学校帰りの子どもたちや保育園帰りの親子連れが遊んでいた。するとなんだか見覚えのあるシルエットをオレの目が捉えた。どうみても小学生の体型ではない、手には虫取り網を持って、虫カゴを携えているシルエットは、間違いなく新藤だった。見つけた瞬間、いけないことをしている気分になったのとバレてはいけないという気持ちの相乗効果で、オレは残っていたアイスを一気に食べ切り、そうっとその場を後にしようとした。
「カブトー!!!!!」
そう大きな声で呼ばれたときにはまだ引き返せたかもしれなかった。でもオレにそれはできず、呼ばれて気付いたフリをしながら新藤の方を向いた。
「あれ?新藤じゃん。こんなとこで何してんの?って、虫活だよな」
「虫活?そうそう、虫観察してたんだよ。カブトはなんでここに?」
「オレのばあちゃんちがここの近くでさ、親におつかい頼まれて来たんだよ」
決して嘘は言っていないのに、なんだか胸が痛い。
「そうだったんだ。ここがね今日言ってたとっておきの場所なんだ!あ、そうだ、カブト今からどう?……あ、用事の途中とかだったらいいから!」
ここまで言われて断れる理由がわかるやつがいたら教えてほしい。この一瞬でどうにか頭をフル回転させ、今日は虫活の準備してないから見てるだけならできると、最大限自分の耐えられるレベルを見極めてそう答えた。新藤は満面の笑みで、じゃあこっちだよとオレの手を引いて、その場所に連れて行ってくれた。
「じゃあ、オレちょっと虫捕ってくるから、カブトはそこで待ってて」
そう言って新藤は少しだけ離れた草むらに入り、虫を驚かさないようにだろうか、そうっと歩きながら真剣な表情で草むらを見つめていた。そんな新藤の表情を見るのは初めてで、そんな顔して虫に向き合うのかと思わず見入ってしまったくらいだった。するとそこから目の前の新藤が、無駄のない動きで虫取り網を振り下ろし、網の上を掴んで草むらから出てきて、その場で捕まえた虫をカゴへ入れた。それからオレのほうを見て、目にゴミが入ったのか、何度か目を擦ったあと、モンシロチョウ捕まえたよ〜とニコニコした顔で、そのままこちらへやってきた。新藤がやってくるまでの間に、今からカゴに入ったチョウが目の前にやってくる事実を自分に言い聞かせ、覚悟を決める。
「カブトー!今日話してたモンシロチョウ!ほら、見て!」
ほんの少し身体が後ろにそれるのはもう不可抗力だった。不自然にならないくらいの最長の距離をとって、カゴに入ったモンシロチョウをみた。チョウは初めは飛び回っていたが、そのうち諦めたのか慣れたのか、カゴの中でちょこんと羽をくっつけて留まった。
「かわいいんだよね〜キレイだし。みてよこの模様とか、ピッと伸びた触覚とか、よくみると合う気がする目とか、こんな小さい身体でこんなに完成されてて本当にすごいよね」
虫のことになると新藤は饒舌になる。そしてオレは、とても久しぶりにこの距離でこんな風に虫を見ている気がする。カゴから出てこない安心感もあってか、新藤のコメントのせいか、思いの外オレはモンシロチョウをに集中しまっていた。
「カブトがこんな風に見てくれてうれしいな」
そう言われてハッとする。チョウに近づきすぎた身体を少し離し、
「み、見慣れたもんだけど久しぶりだな」
と少しごまかした。
「そういえば、新藤さっき目にゴミでも入ったのか?目を何度も擦ってたけど大丈夫?ん?なんか少し赤い気もするな」
虫の話題だとこれ以上はボロが出そうだったので、さっき見て気になったことを口にした。オレがジーッと見てしまったからか、新藤は顔を赤くして、パッと顔を背け、
「ああ、そうなんだ。少しゴミが入ったみたいで目を擦っちゃったんだ。もう大丈夫。ありがとう。そういえば、できたらでいいんだけどカブトにお願いしたいことがあって」
「え、何、かな?」
お願いとはなんだろう、イヤな予感しかせず一気に緊張感が増す。
「あのさ、オレが捕まえた虫の写真を撮るのを手伝って欲しいんだ」
「……」
「やっぱりダメかな?あ、もちろんできるときだけでいいから!」
「写真?」
「そう、写真。オレ撮るの下手くそでさ」
そういって新藤はスマホを取り出し、撮り貯められた写真を見せてくれた。するとそこには尋常じゃない量のピンぼけした写真や、何の写真か分からない写真が広がり、あ、これは虫だね!と判断できるものが両手で数えられるくらいだった。そしてそれを見て、オレは思わず大笑いしてしまった。
「なんでか分かんないけど、こうなっちゃうんだよね」
新藤は恥ずかしそうに下を向いたままそう言った。
「笑っちゃってごめん。こんなカメラロール初めて見て」
笑いの隙間にどうにか言葉を繋ぐ。
「虫を取ろうとしてるときは、あんなにすごい集中してたのに、写真だと活かされないんかな?分かった、オレが手伝ってやる!」
気づくとそう言っていた自分に驚いた。顔を上げた新藤はあの満面の笑みで、ありがとうありがとうとオレの手をギュッと掴んで何度もお礼を言った。
「じゃあ、まずこのモンシロチョウ撮ってみてもらっていい?」
新藤にそう言われ、ハッと我に返った。もしかして写真って、ホンモノに近づいて撮るのか?オレニデキルカ?
「ほら、今の留まってる様子とか」
そう言われて見ると、新藤の虫かごは透明で、カゴに入ったまま、もしくは上の扉を少しズラすだけで写真が撮れる仕様になっていた。心底ホッとし、よしやってみようと新藤のスマホを借りて、その場で1枚撮ってみた。蝶も動かないし、ブレる要素などひとつもない環境だったので、もちろんしっかり撮れた。それを新藤に見せると、心から感動しているようで、一回でこんな風に撮れてすごい!と大喜びしていた。しかしオレは、写真を学んだことなどないが、何故か仕上がりに納得できず、もっといいのが撮れるはず!と新藤のスマホを再び借りて、撮影に及んだ。様々な角度、そして蝶が羽を少し開く瞬間など見落としがないように、カメラのレンズ越しにモンシロチョウを穴が開くほど見つめた。
「カブト、そろそろ〜」
新藤にそう声をかけられ、自分が思った以上にのめり込んでいたことを知った。
「悪い!全然気づかなかった!」
それから2人で撮った写真を見てみた。時間をかけたわりに、思ったより枚数は撮っていなかったことに、まず驚いた。しかし厳選して撮った写真は思いの外よく撮れていて、初めてにしてはいいんじゃないかと思いながら写真を右に送っていく。隣で目を見開いて嬉しそうに見つめる新藤を見ると、撮ったかいがあるなとさらに思った。あるひとつの写真になったとき、2人同時に
「この写真!」
と叫んでいた。この写真すごくいい!と2人で認めたそのモンシロチョウの写真は、少し羽を広げたモンシロチョウがこちらに視線を送っているような写真だったのだ。2人で顔を見合わせ、笑う。
「カブトの写真、とてもすごいね。この写真を見て、スケッチ欲が増したよ!本当にありがとう」
そう言われて、オレも嬉しくなった。
「オレも楽しかったし。またできるときは付き合うよな」
ありがとうと言った新藤は、じゃあモンシロチョウを外に逃すよとカゴのフタを開けた。少しすると、真っ赤な夕日を背景に、モンシロチョウが羽を広げてヒラヒラと頼りなく、しかしはっきりと意思をもって飛び出した。その光景に、見えなくなるまで見届けてしまった。そして、見送ったあと、なぜ今写真を撮らなかったのだと心底悔やんだ自分に驚いた。
「キレイだったね〜」
新藤も同じ気持ちだったのが嬉しくて、その言葉を聞いて、悔やんだこともオレの中からヒラヒラと消えていった。
「なあ、新藤ってさ、虫以外の話するのイヤなの?」
そういえばと気になっていたことを聞いてみた。新藤は困った顔をして、
「そんなことないけど、どういう話をしたらいいのかよく分からなくて」
と言った。
「どんな話でもいいじゃん。そんな気にしなくていいと思うけど。虫の話はすごいのにな」
そう言うと、新藤は再び困ったように笑って、そうだねと言った。それから、また明日学校でと手を振り、お互い帰路に着いた。
家に帰ると母が、
「ばあちゃんから連絡あったよ。いなかったんだって?あんたこんな時間まで何してたの?」
と聞いてきた。
「たまたま友だちに会って虫の写真撮ってた」
そうオレが言うと、母は不思議そうな顔をして、遅くなるときは連絡しなねと言い残して、すぐに台所へ戻った。
眠ろうと布団に入ると、自然と今日のことを思い出す。あんなに苦手だった虫の写真を撮るなんて。しかもあんなに真剣に。それから新藤の笑顔が自然に浮かんできて、同時にあの困った笑顔も浮かんできた。新藤は今頃、虫の図鑑でも描いているんだろうか。そんなことを考えていたら、いつの間にか眠っていた。

