第一話 カブト出会う

 今日から高校生活が始まるのか。
入学式を終え、教室へ入る。席に着くとオレは視線を窓の外にやった。そこから燦々と降り注がれる太陽の眩しさは、まるで物語の主人公を照らす光のようで、今日からの高校生活の行く末を伝えてくれているような気がした。高校生になったら、イカした部活でも入ろうか、いや生徒会で目立とうか、でももうバイトが決まってるから、バイト先でかわいい他の学校の彼女とかできちゃったりして。それから放課後は友だちとカラオケとか喫茶店なんかに行ってコーヒー一杯で色んなものを醸し出したいなんて妄想が止まらない。始まる前から、オレの高校生活はすでに完璧に進んでいったのだった。
 そんな気持ちのいい新学期の朝を過ごしていたオレの目に、何やら窓の外からこちらに向かってくるものが映った。
ブ〜ン
実際はこんな音など聞こえない距離にそれはいた。
ブ〜ン
しかし気づくとそれはもう実在の音になってオレの頭で再生されていた。
ブ〜ン
それはまっすぐこちらに向かってきて、外と中とを隔てている境目を容易に越え、オレの二つ前の窓から侵入してきた。
ブ〜ン
それは、紛れもなく虫だった。しかもその虫は蝿なんてかわいいと言い切れるほど、大きめの、黒い胴体で、ものすごい羽音と共に、そのまま教室に入ってきた。
「きゃー!」
「でかい虫が入ってきたー!」
「ちょっと男子、どうにかして〜」
女子の悲鳴にも似た叫び声が教室中にこだまする。
「カブトくんならどうにかできるんじゃない?名前もカブトなんだし!」
その中でも切羽詰まった様子の無責任な言葉が聞こえ、震え上がる。オレは恐怖で動けない身体をどうにか動かし席を立つ。みんながこちらに注目しているのが分かる。これからの明るい高校生活のために、このでかい虫をどうにかしないといけないのか、オレには支えきれないプレッシャーを双肩に感じながら、目の前で右往左往に飛び回る虫を視界に入れたまま、オレの頭は大混乱していた。
 バシッ!目の前で何かが振り下ろされた。教室の空気が一瞬止まり、次の瞬間、
「やったー!カミキリムシゲットー!」
という言葉が静かな教室に響き渡った。ほんの少し余裕を取り戻したオレは、もう一度呼吸をおいて、目の前を見た。そこには、虫取り網と虫かごを携えた、同じ服装の青年がものすごい笑顔で手にした虫を眺めている光景が広がっていた。

 オレの名前は水森カブト。カブトという名前の印象の通り、見た目はややコワモテであるが、名前の印象とは異なり、虫が大の苦手である。どのくらい虫を避けているかというと、朝は必ず、虫除けスプレーを全身につけて外に出るし、長時間外にいるときは、携帯できる虫よけの機器も持ち歩くくらいには虫が苦手だ。もちろん極力、虫のいそうな場所には近づかない。そのおかげかオレに虫が寄ってくることはもうほとんどない。だからといってはなんだけど、今オレに虫が寄ってきたら一体どういう反応を自分がするのか検討がつかないという恐怖も同時に抱えている。
 そんなオレの目の前に、虫を手にしてニコニコしている学生がいるというのは、どういう状況なのか、まだ脳が正常に動いていないため処理できていない。固まったオレのことなど気にすることなく、その学生は目の前で手に持った虫を、虫カゴに入れ、目の前からいなくなった。
 それから教室の空気が一気に動き出し、今の誰だった?とか、え、虫取り網とか持ってたよね?制服着てたけどここの学生?など、さっきの不可解な出来事にみんなが抱いた疑問を口々に出していった。

 「カブト、さっき虫騒動あったって?オレトイレから戻ってきたら、教室の感じがすごいことになってて驚いたんだけど、大丈夫だった?」
中学からの友人でオレの虫嫌いを知っている一朗が話しかけてきた。
「なんか知らんヤツが虫捕まえて出てったから、大丈夫だった」
「それなら良かったけど。またお前が名前と見た目で頼りにされて困ってたんじゃないかって心配になったよ」
さすが友だち。今までのオレの苦労をよく分かっている。
「その通りになったんだけど、その正体不明のヤツのおかげでどうにかなったんだよ。はー、今一朗と話してようやく地面に戻ってきた感じがするー」
オレは盛大に一息ついた。
ガラガラガラ 
扉が開いて先生が教室に入ってきた。あとでなと言って、一朗は自分の席に戻って行った。
「みんな席についてー。出席とるよー」
そう言って、先生が1人ずつ名前を呼び、みんなが返事と挙手をしていった。
新藤翔樹(しんどうとき)ー。あれ?新藤はーまだいないな」
先生がオレの隣の席をみて言った。新藤以外は全員いて、初めてのHR、自己紹介をすることになった。自分の座席で立ち上がり、自分の名前と今年よろしくというなんてことのない自己紹介を1人ずつこなし、オレの番になったとき、ガラッと音がした。そして、当たり前にその音の方へみんなの視線が集まった。その先では、開くタイミングではない扉が開き、そこに立っていたのは、あの虫を捕まえた学生だった。
「新藤遅刻だぞ。早く席に着け。あ、ついでに席に座る前に自己紹介しろ」
先生だけが当たり前に話を進める。みんな、あの時の、と新藤から視線を外すことができない。新藤は申し訳なさそうにいそいそと虫取り網やカゴ、自分のカバンを片付けたあと、自分の席つまりオレの隣の席の方にきて、
「新藤翔樹です。よろしくお願いします」
と言って席についた。はい次ー!という先生の声にハッと我に返り、オレも、卒のない自己紹介をして席についた。

 休み時間になると新藤のところに安田さんがきて、
「ねえ、新藤くんって朝虫捕まえてたよね?」
と聞いた。それぞれの場所にいるクラスメイトの耳が大きくなったのが分かった。オレも隣にいるが、耳をそばだて聞き漏らさないように集中した。
「カミキリムシね。そうだね捕まえたよ」
新藤は少し申し訳なさ気味に答えた。
「なんで捕まえたの?虫取り網も持ってるし、捕まえた虫どうしたの?」
「オレ虫好きなんだよね。それで虫見つけると捕まえて観察してるんだ。だから虫取り網もカゴもいつも持ってる。観察した虫は弱まる前にちゃんと外に返してるよ」
少し自信なさげだが、聞かれたことに律儀に答えてくれたので、聞き耳を立てたみんなが頭の中で『そうなんだ』と言ったのが聞こえてきた。
「そうだったんだ。あのときみんなパニックになってたから、捕まえてくれて助かったんだよ。ありがとう」
そう言われて新藤は、困った笑顔でそれならよかったと言った。謎も解けたし良かったと気を抜いていたオレに、安田さんが最悪なパスを送ってきた。
「そういえば新藤くんの隣、カブトくんって名前なんだよ。新藤くんが来る前に、あの虫捕まえようとしてくれてたし、水森くんは虫好きかもね」
思わずバッとそこへ顔が向く。すると満面の笑みをした新藤と目が合った。
「君がカブト?虫好きなの?」
「あ、え〜っと、えっと、好きかもしれない」
オレは心底焦ったが、ここで虫が実は嫌いで、なんて言うことはできない。最後の方はゴニョゴニョとなってしまったけど、新藤は聞かれてほしくない言葉だけはちゃんと受け取ってくれたようで、さっきよりも満面の笑みで
「嬉しいなー!これからよろしくね!」
と言われて手を出されたものだから、握り返すほかなかった。少し視線を逸らすと、隙間から一朗が手を額に当て、心配そうな眼差しをオレに送っていたのが見え、そのときさっきまで描いていた輝かしい高校生活がガタガタと崩れ落ちる音を聞いた。それは間違いなく虫の羽音と同じ音だった。