夜明け前の冷気に包まれた林道を、二人は無言で進んでいた。

「航希さん……少し休みませんか?」
エルミナの声には疲労が滲んでいる。昨夜の戦いで消耗したのは航希だけではなかった。

「そうだな……でも」
言いかけた航希の言葉を遮るように、前方の茂みから鈍い金属音が響いた。

「伏せろ!」

咄嗟にエルミナを引き寄せた瞬間──

キィン!

鋭い剣閃が宙を裂く。しかし目標に届く前に、別の刀身がそれを弾いていた。

「おいおい、こんな朝っぱらから物騒だねぇ」

陽気な声と共に現れたのは、赤茶色の髪をした青年だった。腰には二振りの細剣。左目の下にある切り傷が印象的だ。

「誰だお前は!」

深淵教団の黒装束兵が詰め寄る。しかし青年は肩をすくめただけだった。

「名乗るほどの者じゃないが……まあいいや。俺はアッシュ=ラディアンス。通りすがりの賞金稼ぎってとこかな」
「邪魔をするなら容赦せん!」
「へぇ……そうかい」
アッシュが剣を抜くと同時に、周囲の空気が凍りついたようだった。一瞬の後、鋭い突きが教団兵の喉元に突きつけられる。
「今度は本気でやるぞ?次は命がないぜ」
「ぐっ……覚えてろ!」
黒装束の一団が逃げ去る姿を見送ると、アッシュは剣を収め航希たちに向かって微笑んだ。

「大丈夫かい?あんたら」

エルミナが恐る恐る立ち上がる。「助けていただき……ありがとうございます」

航希は警戒しながら尋ねた。「なぜ俺たちを?」

アッシュは少し驚いたように眉を上げた。「偶然さ。こんなところで死なれちゃ夢見が悪いからな」

だがその瞳には何かを計算するような光が宿っていた。航希は直感した。この男は単なる通りすがりではない。

「俺たちは北に向かっている。深淵教団から逃れるためにな」
「ほう……それは運命の巡り合わせってやつかな?」
アッシュが意味ありげに微笑む。
「実は俺も北に用事があるんだ。道中一緒に行かないか?」

突然の申し出にエルミナが不安そうな顔をする。しかし航希は考えた末に頷いた。
「いいだろう。ただし妙な動きを見せたら容赦しない」
「おー怖い。安心してくれ。俺は恩人には優しいんだ」
アッシュの軽口を聞き流しながら、航希は指輪をちらりと見た。昨日から感じていた微かな違和感。それが何なのか確かめなければならない。

***

三人が野営地を見つけたとき、エルミナはすでに限界を迎えていた。
「もう少し行けると思ったのですが……」
木陰に座り込む彼女を見て、航希は罪悪感を覚えた。
「無理させてごめんな。少し休ませてあげたいけど……」
「それなら心配ないぜ。あっちに泉がある。そこで休ませるといい」
アッシュが指差す方向には、小さな清水が湧き出ていた。
「アッシュ……あなた本当に詳しいんですね」

エルミナが不思議そうに尋ねると、アッシュは肩をすくめた。
「まあね。昔この辺りで傭兵をしてたからな」
航希は直感的に悟った。この男、ただ者ではない。

***

泉のほとりで休息を取る三人。エルミナが水を飲んでいる間、アッシュが小声で航希に尋ねてきた。
「君さ……変わった指輪してるね。それってまさか……『運命の器』ってやつじゃないかい?」
航希は一瞬息を呑んだが、冷静を装った。
「なぜそれを?」
アッシュが苦笑する。
「昔ね……同じものを持ってた仲間がいたんだ。深淵教団に追われて……最後は……」
言葉を濁したアッシュの横顔に影が落ちた。その表情から察するに、良い結末ではなかったのだろう。
航希は問いかけた。
「その仲間って……」
「うん。七死司祭の一人に殺された。あの化け物ども……絶対許さない」
低く吐き捨てるような言葉には憎しみが込められていた。

その時だった──
「あそこ!誰かいますよ!」
泉から少し離れた茂みから、小さな影が飛び出してきた。
「きゃっ……」
小柄な少女だった。翡翠色の髪と尖った耳。そして背中に背負った大きな弓。
「あ……あの……ごめんなさい!覗くつもりはなくて……」

少女は怯えたように後ずさりした。
「待ってくれ。君は?」
航希の問いに、少女は恐る恐る答えた。
「フィオネ……です。妖精族の……」
アッシュが興味深そうに近づく。
「へぇ……こんな所で妖精族とは珍しい」
「えっと……実は私……故郷の森を探していて……」
フィオネの言葉が途切れると同時に、遠くから鳥の羽ばたきが聞こえた。
「まずいな……」アッシュが表情を曇らせる。
「また来たのか……」
航希は指輪を見つめた。そこに浮かび上がる奇妙な文様。
(これは……『気配感知』か?)

指輪の能力が教えてくれる。北東方向から接近する複数の影。
「エルミナ、フィオネさんも。急いで隠れるぞ」
「でも……相手は何人いるんです?」
エルミナの問いに航希は首を振った。
「分からない。けど……今回は今までよりも強いかもしれない」
アッシュが不敵に笑う。
「へぇ……面白くなってきたじゃないか」
フィオネが震える手を握りしめた。
「私も……戦います……森の平和のために」
四人の影が再び動き始める。北への旅路はまだ序章に過ぎない──