俺たちは恋人になったのだろうか。それとも、両思いだと確かめ合うだけで、進展はなく終わったのだろうか。神代から好きだと聞けただけで満足してしまい、それ以上考えてはいなかった。
追試が無事に終了し、ようやく勉強から解放されたのと同時に、今後について悩んでいた。あの後普通に神代を駅まで送り、また学校で。と、手を振って終わった。実際、教室では今まで通りに過ごすし、甘い雰囲気になるどころか、話すタイミングさえないのだ。一応キスもしたし、両想いである事も確かめ合った筈なのに。放課後は毎日部活があって、水泳に打ち込む神代を気軽には誘えない。会うとなると休日に限られてしまう。
あいつの好きそうなプールとかに遊びに行くか、と思いつつも、それだと付き合う前と何も変わらない気がする。はぁ、と溜息をついたタイミングで青柳が「なあ」と声を掛けてきた。
「あそこの女子、見ろよ」
ふと視線を向ける。どこだよ、とすぐには見つけられずに文句を言うが、背が低いため人の影に隠れてしまったらしく、廊下に肩まで伸びた綺麗な黒髪の女子が、ちらちらとこちらを見ているのに気づいた。
「誰?あの子」
「一年のチア部の女子だよ。ほら、例の」
「あぁ、お前が玉砕した子か」
「言い方が悪いなぁ。結局慰めの一つも無かったくせに。……なんか、ずっとこっち見てるだろ。多分、お前目当てだぞ」
「なんで」
「さあな。キラキラオーラが見えてんじゃねーの?」
「皮肉言えるぐらいには立ち直ったんなら良かったわ」
青柳は「まあな」と、切り替えの早い性格からか、本当に後腐れはなさそうだった。
「なあ、朝田。お前は彼女欲しいとかねーの」
日常会話の延長で、深く考えた訳ではないのだろうけど、つい顔がにやけそうになる。食べかけのポッキーを飲み込み、動揺を隠すために、机を爪でトントンと小刻みに叩いた。まだ青柳には神代との事を話してはいない。
「いらないよ。だって俺には」
「俺には?」
神代がいるし、と言い掛けて、視線を感じる。その先に目を向けると、じっと神代がこちらを睨んでいた。いつもつけてるイヤホンを外し、頬杖をついたまま見ている。
絶対に言うなよ、という強い意志を感じる。
神代は警戒心が強い猫のように、周りの人に対してかなり距離を取るタイプだと思う。クラスでも俺以外に話している奴はいなさそうだし、本人も交流を望んでいるようには見えない。1人ぐらい他にも話し相手がいてもいいだろうに、とは思うが。ちょっと目つきが悪いし、怖い印象をもつかもしれないが、少し話せば神代がめちゃくちゃいい奴だって、すぐに分かる。
「朝田先輩」
一年チアの女子に呼ばれる。すぐそこに青柳がいるのに、この子の視界には入っていないのかと嫌な気分になった。多分、好意を持たれるのが好きな子なのだろう。自分の価値を、人の好意によって上げている。少しだけシンパシーを感じた。
「え、俺に何か用ですか」
「少しだけお話いいですか?」
無視する事もできず、とりあえず愛想良く笑ってみる。廊下に出ると、恥ずかしそうにスマホの画面を見せて来た。
「もし良ければ、一緒にここへ行きませんか?」
青の背景に幻想的な金魚の動画。これはたしか、神代が言っていたアクアリウムのイベントか。
「えっと、実は朝田先輩を夏祭りの日に見かけたんです。たくさん屋台で買ってるのを見て、すごく楽しそうで、キラキラして見えて……」
その瞬間、これだと思った。
「これだよ、これ!ありがとう、教えてくれて」
それだけ言って、彼女を置いたまま、神代の元へと向かう。スマホの画面を目の前に差し出し、前の席に座った。
「おい、神代!これだよ。これに行こう!」
「……え?」
ぽかんと口を開けたまま、状況を飲み込めずにいたが、画面の文字を見て口角がゆっくりと上がるのが分かる。こうして、半ば強引に俺たちの初デートが決まった。


**

金魚のアクアリウムは、大型商業施設の一角でやっており、もうすぐ閉幕という事で人はあまり多くはなかった。
「神代!」
制服姿以外を見るのは初めてなので、新鮮な感じがする。長袖のシャツにゆるめのジーンズで、想像通りの私服だな、と思う。もしこれが彼女なら、「可愛い」とか褒めるところなんだろうなぁと考えてみるが、俺たちは別にそういう甘い言葉をいう関係はない。
「ちょうど時間ぴったりだな。行こう」
そう言って、ぽんと肩を軽く叩く。隣を歩いていても、手を繋ぐ訳でもないし、肩と肩を寄せ合う訳でもなかった。本当は繋ぎたい。他の恋人みたいな事をしてみたい。でも神代はそれを望んでいないだろうし、無理させたくもない。
ジレンマに囚われつつも、入場の列の順番が回って来た。電子チケットを見せて、会場の中へと入る。水槽がライトアップされている分、灯りが少なく薄暗い。カラフルなネオンの光に照らされて、金魚が幻想的に浮かび上がって見えた。
見た事もないような大きなヒレを持つ金魚や、真っ赤な鱗のよく見るフォルムの金魚。中央には噴水のように上から水が流れ落ちる仕掛けがあり、心なしか中は涼しかった。水の音も心地が良い。隣を見ると、神代の目もキラキラと輝いており、興味津々に水槽の中の金魚を見つめていた。
映えを意識しているので、記念写真や自撮りを取る人が多いけれど、俺も神代もスマホを取り出さず、肉眼で金魚を眺めていた。道の脇には円柱が立ち並び、その中で風船のように丸く小さな金魚が、優雅に泳いでいる。壁が鏡張りになっている分、さらに空間が広く見えた。
「なあ、神代。あの白い煙が出てる所見てみろよ。星みたいに光っていて綺麗だ」
とん、指先が触れる。あ、まずいなと思い、手を引っ込める。故意ではなかったとしても、神代が嫌がりそうだなと思って、一歩横にずれた。けれど何故か、手首に感触が伝わる。
手を握られたのだと気づくのに遅れ、時間差で振り向く。神代が自分から手を握っている。あまりに予想外な出来事に、言葉に詰まってしまった。ぐっと固く結んだ口の端は、ちょっと歪んでいて、ほんのり頬も赤い。
「ねぇねぇ、あれ見て〜。キラキラしてて可愛いね」
女性の声が聞こえ、ぱっと2人同時に手を離した。どうやら俺たち2人に言ったのではなく、金魚の鱗がキラキラと光って見えたので、一緒に来た友人に言っただけらしい。水槽の方へ駆けていくのを見ると、ほっと胸を撫で下ろす。
神代はそっぽを向いていて、表情は見えなかった。もしかすると、俺だけじゃなくて、神代もくっつきたいとか手を繋ぎたいとか、考えていたりするのか。
「……あのさ」
「何」
「冷たいもん、食べたくね?」
神代は目を丸くさせる。
「まあ、暑いし。食べたくはある」
「昨日、ジェラートを作ったんだよ。いちごと柚子の2つ」
「ほんと好きだな、作るの」
「でも調子に乗って作りすぎたんだよ。冷たい物って、あんまり沢山食えないだろ?だから、その……」
「家、来いって?」
「来て欲しいなと…思ってた」
金魚がくるりと方向転換し、左右に体を躍らせる。そのまま赤い模様がついたもう一匹の方へと、素早く泳ぎ出した。

**

神代を家に呼ぶのは、これで2回目だ。けれど、以前よりも倍以上緊張していた。自分の中のやましい感情のせいだとは分かっているけれど。
「金魚って、案外癒されるもんだな。普通に楽しかった」
最後に記念として撮った、大水槽の写真を眺めながら、神代はぽつりと言う。ネオンの光も相まって、光る水の中に入り込んだような、非日常を体験できたのは面白かった。
「な。滑り込みで行けて良かったよ」
「朝田に言われるまで、普通に忘れてたわ」
「神代が夏祭りで言ってたくせに。あれ、俺と行きたかったんじゃねーの?」
笑いながら、冗談で言ってみる。ジェラートを飲み込んでから、神代はぽつりと言う。
「あれは、朝田が彼女と行くなら、良いかもなと思っただけだよ」
あぁ、そうか。あの時はまだ、好きとは伝えていなかった。
「……朝田って、彼女いた事ねーの?」
急な話の転換に、手が止まる。スプーンで一口掬ってから、首を横に振った。
「ないよ、1人も」
「ふうん。意外」
「もしかして、この間1年の女子がうちのクラスに来た時のこと、気にしてんの?」
「……」
無言が肯定か、と思い、食べかけのジェラートをテーブルに置いて、正面を向いた。
「元々、恋愛とかあんまり分かんなかったし、誰かを好きになるのは、神代が初めてだよ」
「何だそれ、キュンするやつか」
「恥ずかしがんなよ。そこは嬉しいって可愛く答えてくれれば良いんだよ」
神代の表情は固く、すぐには飲み込めていないようだった。
「正直、男同士だからとか同性だからとか、そんなのどうでも良いと思える相手は、神代だけだから。……ただ好きなんだよ、お前が」
すると、神代の手が頬に触れた。猫のようにすり寄って、その指にキスしてみる。今がチャンスかと思い、試しに聞いた。
「俺ら、付き合う?」
「……付き合ったら、何すんの?」
「今日みたいにデートしたり、家でごろごろしたり、プレゼント買ったり、あとは……」
「俺はまだ、朝田と外で恋人っぽい事するのは、出来ないと思う。人の目が、気になる」
そうだろうな、とは思っていた。きっと手を繋いできたのは、神代なりの精一杯の愛情表現なのだと思う。今はそれだけで嬉しい。
「分かってるよ。別に強要するつもりもないし、家でもどこでも、2人きりになれる時間に色々できれば良いよ」
「……色々って、何すんだよ」
恋人になって、俺たちの関係が今までと決定的に変わる事。付き合った者同士が何をするのかなんて、決まってるじゃないか。
「わかってんだろ、神代も。うぶなフリするなよ」
「朝田の口から明確に言ってもらわないと、ちゃんと返せるか分からないしな」
「キスして、ハグして、大人の階段登っていくんだよ」
「登った先は?」
「そりゃ、セ……」
言おうとしたけれど、口を思い切り塞がれた。
「待て。言う前に一つ確認」
「何だよ」
「俺とお前、どっちがどっちなんだ?」
「……そりゃ、俺がいれる方だろ」
「いや、逆だろ。人の裸見て先に欲情したのはどっちだ。筋肉がどうとか言ってたくせに」
「だからあれは違うって!」
すると、触れていた手が顎に添えられる。そのまま目を閉じて唇を重ねた。息を止めてみるけれど、顔の角度が変な方に傾いてしまったせいで、首が吊りそうになる。
そのまま離れようとしたけれど、もう片方の手が頬に触れた。次の瞬間、舌が隙間から入り込み、思わず肩を震わせる。神代の口の中は熱くて、息の仕方を忘れてしまった。
 まじかよ、と心の準備が全く出来ていない状態で、押し倒される。神代の呼吸が速くなるのを感じて、体が動かなくなる。ぎゅっと目を閉じた瞬間、ピンポーンと間延びした音が鳴った。
「ただいまー」
 父の声だ。誰かいるか確認するため、うちでは必ず家に帰ったら、誰かがいてもいなくても呼びかける。それのお陰で神代は急いで座り直し、俺も起き上がって玄関に向かった。今日は遅くなる筈だったのに、夕方に帰ってくるなんていつぶりだろう。
「おかえり、父さん」
「おう、ただいま。……もしかして、青柳君が来ているのか?」
「いや、他の友達。た、助かったわ。色々と」
「ん?なんだ、彼女とイチャコラしてたのか」
 はは、と曖昧に笑う。あながち間違いではない。後ろで神代が、ぺこりと頭を下げた。
「お邪魔してます」
「こんにちは。暑くてごめんな、うち風通しが悪いんだよ」
冷静さを保とうとしているのだろうが、神代の声が上擦っている。顔が真っ赤で、これではばれてしまう、と危機感を覚えたけれど、父さんは仕事で疲れているせいか、特に言及はせず、「ゆっくりしていってな-」と欠伸をしながら答え、洗面所へと消えていった。
「神代。お前、顔真っ赤だぞ」
「うっさい。朝田もトマトみたいになってる」
 嘘だろ、と思いつつ鏡を見ると2人とも同じ色になっていた。父さんが帰ってきていなかったら、今頃どうなっていたのだろう。
「…ジェラート、溶ける前に食おう」
「そうだな」
 俺達が上る階段は、まだまだ先が長そうだ。

**

翌日、神代と色々やってしまったせいで夜寝付けず、遅刻ギリギリの時間に学校へ到着し、急いで靴を履き替える。廊下の角を曲がろうとした瞬間、誰かにぶつかりそうになった。「すみません」とすぐに謝ったが、見慣れた顔を見て、肩を落とす。
「なんだ、神代か。どこ行くんだよ」
「今日日直だから、課題のノートを運んで欲しいって頼まれて。……朝田も今のうちにノート出すか?もう回収終わってたけど、セーフって事で」
「ありがてぇ……良かった、助かったわ」
昨日の今日で照れ臭い。顔が見れずに、鞄の中を漁った。
すると、廊下の方からガタイの良い男が3人、ゲラゲラと笑っているのが聞こえて来た。1年にしては制服を着崩し過ぎだし、同じ学年では見ない顔なので、3年の先輩かと推測する。
神代と同じように肌が焼けているので、外でやる球技か、もしくは水泳部だろうか。廊下で暴れると邪魔だなあ、と、その先にある職員室を眺める。面倒だけど遠まわりした方が良さそうだな、と神代に声を掛けようとしたが、気づくと消えていた。
「神代?」
気づくとガタイの先輩の方へと向かい、その力強い腕で相手の肘を掴んでいた。
「……危ないですよ。こんな所で遊んでたら」
「はあ?なんだお前……。あ、神代かよ」
「そこ、女子がいるんで」
見覚えのある女子に、「あの子は…」と声が漏れる。この間うちのクラスに来たチア部の1年女子か。身長が低いから、うちのクラスに来た時も、青柳に言われるまで気づけなかった。鞄を抱えてびくびくと震えた彼女は、神代を見て目を潤ませる。それから、ぱっとほおを染めた。
「あ、ありがとうございます」
「いや、廊下歩いてただけでしょ。気をつけたほうが良いですよ、周り見えずに、当たる人もいるから」
「はあ?お前、調子に……」
そこまで言いかけて、先輩はなぜか黙り込む。もしかして顔見知りか?と思ったけれど、雰囲気は良くない。ただ、神代を見て怯えているのが分かる。3年の男達は後ろめたいことでもあるのか、そのまま何も言わず、逃げて行った。
やるなぁ、と漫画のような展開に感動していると、「あの!」と女子の声が響いた。
「ありがとうございました!私、1年なんでチア部のトップを担当しているんですけど……」
「別に礼とか良いから。俺も職員室に用事があって、単純に邪魔だっただけで…」
「もし良ければ、一緒にアクアリウムへ行きませんか!」
「……は?」
つい顔がにやけそうになる。我慢してたけれど、神代が豆鉄砲を食らった顔をしたまま固まっていたので、思わずぶっと吹き出した。神代が防御壁を築いていても、案外こうやって、するりと内側に入り込んでくる人もいる。
神代が実は良いやつだって事を、きっとすぐにクラス中に知れ渡るだろう。寂しい気持ちもあったけれど、誤解が少しずつ解けていけば、俺たちが外で手を繋げる日も近いかもな、とこれからの未来を想像して、嬉しくなった。