高校2年になり、新しい教室に入った途端、このクラスの中にある空気感が既に出来上がっているのを感じた。盛り上がる輪の中心に、朝田はいた。
正直、朝田の第一印象は、そこまで良いものじゃなかった。日直でもないのに、代わりに仕事を手伝ったり、誰もやりたがらない雑用があれば、率先して引き受ける。こうすれば相手は喜ぶだろうと、全部を計算して動いているのが分かる。それを周りが無意識に利用している空間が、居心地が悪く、白い目で見ていた。
目が大きくて、人を惹きつける屈託のない笑顔。笑うと八重歯が少し見えて、人懐っこいゴールデンレトリーバーのようにも思える。誰にでも良い顔をしたところで、何が楽しいんだろうかと不思議だった。
「あ、ごめん。起こしちゃって。神代君って水泳部にだったよね。水着の予備とかって、部室に置いてないかな?青柳が忘れちゃってさ」
初めて名前を呼ばれた。何を企んでいるのだろう、というのが最初の感想だった。大して話したこともない俺に良い顔をしたって、得なことなんてない筈だ。感情の奥底が見えないから不気味だった。
ついいつもの癖で、ぎゅっと服の袖を掴む。こいつには、何も知られたくないと思った。何を見て、何を思い、何をしてくるか分からないから。

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「夏も長袖を着たい?そりゃ何でだ」
生徒指導の先生に一度だけ相談したことがあった。体に傷があったり、体質的な問題があるならば、証拠になる書類を見せることで許可を得ることが出来たかもしれない。しかし、ただ腕を人に見られるのが嫌という理由が通じるはずもなかった。
「そっちの方が落ち着くんです」
「そんな良い体してんのに、何も恥ずかしいことなんてねーだろ。長袖だと熱中症になりかねないし、半袖だって別にぴちぴちの物を着なくたって良いんだ。せめてオーバーサイズの物を着ても良いから。な、我慢してくれ」
まあ、そりゃそうだよな。先生から見ても意味不明だよな、とは思う。露出を気にするのであれば、なぜ水泳部にいるのだと疑問を並べたくなる。
プールは良い。水の中では気にならない。ただ、雑音の多い場所だと、自分をとにかく隠したくなる。
だから、朝田がプールの更衣室でじっと見てきたのも、タオルの匂いを嗅いでたのも、正直不快だった。俺を異常者扱いするつもりなのかと思った。
高一の時、何度も何度も言われた言葉を思い出す。プロになんてなれるはずもないのに。
ただの普通科の高校生のくせに。大会なんて興味ないって顔して、賞を取るために必死に泳いでさ。
お前何がしたいんだよ。と。
ゲラゲラ笑いながら、先輩が蔑みの目で俺を見てきた。俺の目つきが悪いせいか、いつの間にか排除すべき対象として見られていたと思う。先輩が部活から消えた後も、しばらく不快な声は頭から離れなかった。
水に浸かると、聞こえる音が小さくなる。余計な音が薄くなる。周りの目とか声とか届かない。
目が怖い。体つきが怖い。何考えているか分からなくて怖い。
初対面では、「怖い」という単語が最後につくのが常にあった。別に俺、威嚇なんてしていない。むしろ警戒するのは、当然じゃないだろうか。相手が何を言い出すか分からないから、なるべく人とは話したくない。だから、なんで朝田は怖がらないんだろうかと不思議だった。
顧問の先生に隠れて、練習している事がバレた時、ツイていないと思いつつ、むしろ好都合だと思った。朝田と放課後会う口実がなくなる。どうせならもう、以前の関係に戻れば良い。

「……朝田はどうする?一緒に来る?」
来ない前提で聞いた。だけど予想外の返事が返ってくる。
「うん、行く」
まじか。と、驚くと共に不信感が徐々に溶けていくのが分かった。もしかすると朝田は、俺といたいと本当に思っているのかもしれない。
競泳用のレーンではなく、一般のプールを使うのは久しぶりだった。波の音が複雑で、そこも浅いので音がよく響く。水にぷかぷかと浮かぶだけの朝田を見ると、どうやらプールに入ること自体慣れていなさそうだった。
俺のタイムを記録する手伝いをしたのは、水泳に興味があるからと思っていたけれど、どうやらそれも違うみたいだ。顔を上げた状態で平泳ぎをしながら、こっちに近づいて来る。
「よし、じゃあどっちが長く水中に潜れるか競争な!」
小学生みたいな事を言いながら、朝田が指差して来る。
せーの、と言って鼻を摘んで息を止める。その苦しそうな顔を、ゴーグル越しにじっと観察する。まじでガキだな、といたずら心で膨らんだほおを片手で挟んでみた。すると、泡を吹き出しながら、「何すんだこの野郎!」と眉を釣り上げる。そのムキになった顔が良いなと思った。もっとイタズラしてやりたいと思った。優等生の顔が崩れる瞬間を見る度に、もっともっと試したいと思った。

「たぶん、お前の事。好きなんだと思う」

夏祭りで眠ってしまった時。
告白された瞬間、一気に目が覚めた。抱きしめる力が緩みそうになるが、気づかれたくなくて、そのまま狸寝入りをする。
何で?と思った。なんで、俺に好意を持つのだ。青柳といる方が、自然体でいつも楽しそうにしているのに。俺を優先せずに、もっと別の奴といれば良いのに。俺たちは全然タイプが違う。共感するものとか、好きなものとか、考え方が違うから。別々の場所にいるんだから。そんな者同士が、好きになるのだろうか。俺と朝田は恋人として成立するのだろうか。自分でも、どうすれば良いのか分からなかった。
今ならまだ、引き返せる。元に戻せる。距離をとっていけば良い。まだ、まだ、まだ。そうやって何度も何度も先延ばしにしていく。
きっとそのツケが回って来たのだろう。不信感なんていつの間にか消えて、緊張することもなくなって、何も考えずに普通に笑って。
慣れてしまっていた。隣にいるのが、当たり前に続いていけば良いと思っていた。だから、朝田が泣いているのを見て、ずっとこいつが隠してきた本性に、ついに触れたのだと、驚きと共に微かな喜びを感じる。
赤く充血した目。ぽろぽろ流れる涙。
どうすれば泣き止むだろう。悲しませたい訳じゃない。ただずっと居心地が良くて、もっと朝田のことが知りたくて、どうすればこの時間が続くか考えていて。
潤んだ瞳を見て、衝動的に体が動く。両方の手首を掴み、こちらに引き寄せる。
ぐっと押し付けるように唇を塞いだ。慣れないキスにどうすれば良いか分からず、息を止めて触れた。最初は驚いて体のバランスを崩したけれど、嫌がる気配はなかった。むしろこちらに体重を預けていた。
「……神代?」
「ごめん。悪かった」
「それは何に対してだよ。嘘ついたことかよ。好きか聞いたことかよ」
きっと、更衣室で俺のことをじっと見つめて来た時から、薄々感じ取っていたと思う。好意を持たれている事に対し、嬉しいと思うようになっていた。優越感に浸っていた。朝田に好意を持たれたいという願望が生まれた。独りよがりな考えばっかりで、朝田のこと考えられていなかった。
ずっと、怖がられる事を恐れていたから。いつしかそれが当たり前になって、人をすぐには信じきれなくて。
朝田が何も怖がらずに来るようになってから、気づくと傲慢な自分に酔っていたのだろう。渡された物は、何かの形で返さなければならない。それをしなかったから、これまでも人が離れていったのだろう。
「朝田に好きって言われて、嬉しかった。誰かに好意持たれた経験なかったし、まじで嬉しかったから、それに浸ってた」
「何だそれ。やっぱ性格悪すぎる」
朝田の周りには人が集まっていく。人がどんどんと離れていく俺とは、越えられない境界線が、くっきりと引かれている。
「……ただ、これ以上どうなりたいとか、俺にはねーんだよ」
「じゃあ、せめて教えろよ」
朝田がじっと見つめてくる。
「俺が好きだって言って、お前の返事は?」
「……」
喉がカラカラに乾いているけれど、その奥で甘いティラミスの味が残っている。ひゅっと短く息を吸った。
「俺も、朝田の事が好きだよ」
すると、また唇に柔らかい感触が伝った。ほとんど身長は変わらないので、薄めを開けると表情がすぐ見える。あ、目尻の涙が乾いている。こうしていると、同じ歳なのに年下に思えて来るな、と指で目元をなぞった。
すると、覆い被さるようにぎゅっと抱きしめられたので、思わず体を硬直させた。
「やばい、めちゃくちゃ嬉しい」
そうなのか、と驚く自分がいる。俺はまだ現実を受け入れられてはいなかった。嬉しいよりも、怖いが勝つ。でも、今まで感じて来た怖いとは違う。
心底嬉しくて、幸せだから、怖いのだ。俺は、朝田のそばにいて良いんだなって。やっと心を許せる相手を見つけられたって。人の体温って、こんなにも高いんだな。と、その肩に顔を埋めた。