夏の暑さが珍しくかげりを見せた日。期末テストが終了し、あと1週間ほどで夏休みへと突入する。例年通りスムーズにいくと思いきや、恐れていた事態が起こった。
神代と2人、職員室へと呼び出され、並んで立たされる。全てのテストが返ってきた事を踏まえ、何で呼ばれたのか、大方予想はついていた。
「お前たち、いつも成績良いのに。どうした?2人揃って赤点なんて」
単純に勉強時間が取れなかったのが原因だろう。水泳という普段はしない全身運動をしたせいで、疲労が蓄積して全然テスト勉強できなかった。それに、神代への気持ちが膨らんで行ったのも、原因だろう。机の前に座り、ペンを動かしてみても集中できず、気分転換におやつを作っていても、目を閉じて眠る時でさえ、あいつの声が反芻する。家の中で何度も叫び出しそうになった。父に気づかれないように、ベッドの中で悶えた。
赤点を取ったのは今回が初めてだった。けれど思っていた以上に落胆している自分はいなかった。周りに失望される事を、前までは恐れていたのに、別にそれでも良いかと開き直っている。神代がいてくれるからだろうな、と言うまでもない結論に、勝手に恥ずかしくなる。担任からすれば、今回のテストで天変地異でも起こったのかと、驚きを隠せないようだった。
「まだ2年だから大目に見るけれど、来年には受験生なんだから、気を引き締めていけよ」
先生は腕を組んだまま、俺たちを交互に見る。「それにしても…」と吐露した。
「珍しい組み合わせだな。お前ら2人、仲よかったのか」
「そうですね、なんか成り行きで」
 詳しい事情の説明は避けたいので、適当ヘラヘラ笑ってかわす。察したのか、単純に興味がなかったのかは分からない。特には言及せずに、ため息をついてから、一枚のプリントを渡してきた。
「これ、追試。受ければある程度成績は免除されるから。分かってると思うけれど、絶対にサボるなよ」
「はい」と返事するけれど、神代は苦虫を噛み潰したような顔をしてじっと黙っている。せっかく補填してもらえるのに、何が不満なのかと、職員室を出たタイミングで尋ねてみた。
「追試、受けないのか?」
「……やっとテスト期間終わったのに。まだ放課後の時間に泳げない」
「どっちにしろ、赤点じゃあ顧問の先生も許してくれないだろ」
まあ、そうか。と、神代はボイコットするのを諦めたらしかった。
夏祭りでの出来事は、別に避けている訳じゃないけれど、話題に上がらないので擬似告白は記憶から抹消されようとしている。神代の事が好きかもしれない、と意識した途端に、自分の言葉一つ一つに責任を持たないといけない気がして、手汗がじわりと滲んだ。
神代が本当は何を考えているのか知りたい。漠然とした疑問じゃなくて、終止符を打つためのきっかけが欲しい。
「あのさ」
階段を降りる途中で呼び止める。神代はくるりとこちらを振り向いた。
「今日の放課後、勉強一緒にやんね?」
「図書室?」
「それでも良いし、うちに来てもいい」
「……美味いもん、作ってくれんの?」
「うん」
「分かった。なら行く」
食い物に釣られるなんて、本能で生きてる感じがするなぁ、と青柳なら「調子のいい奴」で終わるのに、神代だと「可愛いなぁ」と思ってしまう。こんな事を考えてしまう自分が気持ち悪い。理性と戦いながら、心の中で葛藤する。
次に口を開こうとすると、とん、と軽く肩を叩かれた。突然青柳が後ろから現れ、肩を組んでくる。
「どうしたんだよ、優等生。お前が赤点なんて、珍しいんじゃないか?」
「別に。ちょっとサボっただけだよ。俺にだってこんな時もある」
「いやいや、サボるっていう言葉が、朝田の辞書にあるのが事件なんだって。悩みなら聞いてやるぞ。あ、神代くんもいたんだ。おはよ」
すると、神代の眉間に深い皺が刻まれる。そのまま何も言わずに行ってしまったので、声をかけることも出来なかった。
「無視された。なんで不機嫌なんだ?あいつ」
「別に不機嫌ではないと思うけど…」
と言いつつ、確かに嫌そうな顔ではあった。青柳の額にデコピンを打ち、「暑いからさっさと離れろ」と、鞄を肩に掛け直す。
神代に、今日うちに来るの、決まりでいいんだよな、とLINEで聞こうか悩んだけれど、そういえば神代の連絡先を知らない事に、今更気づいた。クラスLINEにも入っていないので、直接本人に聞くしかない。
よく考えてみれば、神代とこうして話すようになったのは、ごく最近の出来事なのだ。なぜか1ヶ月ぐらい一緒にいる気分でいた。そもそも連絡先を聞くことさえ、すっかり忘れていたぐらいだから。どこにも接点もないし、性格も対照的だから、気が合うのが自分でも不思議だ。

**
チャイムが鳴り、いつもの放課後になる。
「ほら、テストも終わったし、時間あるだろ。俺の失恋を慰める会をやるぞ。いつものマックか喫茶店に行こうぜ」
前の席の椅子にまたがり、ぶつぶつと文句を言い始めたので、まだ引きずってんのかよとため息をつく。青柳がスマホをいじりながら喋るのを聞き流しつつ、神代の方を向いた。あいつの方が席は廊下側にあるので、見ておかないと先に帰っても分からない。
案の定、既に姿はなく、もう帰ったようだった。
「わり、神代と追試の勉強があるんだわ。今週も無理。じゃあな、青柳」
机の間をかき分け、勢いよく教室を飛び出す。まだ階段を降りる前だった。
「神代!」
呼びかけると、切れ長の瞳がこちらを向く。それから、「青柳と話してたんじゃねーの?」と暢気に聞いてきた。
「神代がそのまま帰っちまうんじゃないかと思って、焦って追いかけてきたんだよ。今朝はなんか、話が中途半端になっちまってたし」
「そうか。なんか長くなりそうだったから、下駄箱で待とうと思ってた」
「そういうのは一言声掛けてくれよ」
「……悪い。普通にイモった」
「何にだよ」
「青柳に」
「なんで?」
「朝田に俺が声掛けたら、また変な目で見て来ると思って」
「あれは青柳が馬鹿なだけだよ。あいつ何も考えずに言ってるだけだからさ、神代のことよく知らないから、警戒してるんだよ。気にしなくて良い」
「……そうか」
表情の翳りを見て、ふと思う。神代って、もしかして。
周りの人間に興味がないタイプだと思っていたけれど、逆だ。むしろ周りの目を気にして、立ち振る舞いに気を遣っている。自分がどう見られているか分かっているからこそ、身動きが取れないのだ。
「神代。まじでお前、良いやつだな。爪の垢を煎じて、青柳に飲ませてーよ」
「……意味がわからん」
「青柳みたいな猿にも配慮するその優しさは、誰にも真似できねーわ」
「皮肉だよな。褒められ慣れてねーくせに、人を褒めるときは調子乗りやがって」
不貞腐れる神代の前髪を、くしゃくしゃと撫でてやる。少し硬くて剛毛なので、まるで大型犬みたいだ。ほら、行こうぜ。と、少し先を歩いていく。
父は仕事で今日もいない筈だが、念のため鍵を開けた後に「ただいまー」と呼びかける。締め切った窓を開けて、一旦換気を行い、干してあった洗濯物を取り込む。
「狭くて悪いな。そこの座椅子使って」
築20年ほどの賃貸マンションは、父と2人で暮らし始めて、もう10年になる。落ち着かないのか、神代はきょろきょろと周りを確認してから椅子に腰掛けた。
壁には小学生の頃に賞をもらった習字と絵が飾ってある。箪笥の上の写真立てには、中学と高校の入学式の時の物が置いてあり、それより子供の時の写真は見えない場所にしまっていた。
たしか、昨日作ったおやつが残っていたよな、と冷蔵庫を開ける。ティラミスが残り3人分余っていたので、父の分を残して2つ皿に取り分けた。
空気の入れ替えが終わった後は、窓を閉めてから、エアコンと扇風機を駆使しつつ、部屋の中を十分に冷やす。テーブルに置かれた白い皿とフォークに興味を示し、神代が台所にやって来た。
「これ、店で買ったのか?」
「いや、昨日テスト終わった後に作ったんだよ。久しぶりにスイーツとか作るのも気分転換になって良いと思ってさ。意外と簡単に出来るんだよなぁ。オレオとクリームチーズがあれば、電子レンジなくても…」
「美味い」
まだ説明の途中なのに、フォークを持ってパクパクと口に運んでいく。神代が俺の弁当を食べるのは見ていなかったから、こうして目の前で美味しそうに食べてくれると、素直に嬉しい。
「食いながらでも良いけど、一応目的は勉強だからさ。テスト範囲のおさらいするぞ」
でも、神代の成績は元々良い方だし、本腰入れる必要もないか、と休憩を挟みながら問題を解いていく。どちらも喋らずに黙々と問題を解いていた。
カラン、と氷が溶けて音を立てる。ふと顔を上げると、ペンを動かすのを止めて、神代が俺の方をじっと見ていた。
「何だよ。なんか付いてる?」
「……ずっと聞いてみたい事があったんだけど」
「ん?」
消しゴムで間違えたところを消しながら返事をする。
「なんで、俺のタオル嗅いでたんだ?」
ぐしゃっと紙が勢い余って破れる。そのまま動けない。油断して来た所に爆弾を投下され、体は固まった。ぐっと拳を握る。もう過ぎた事だと風化させていたのは、どうやら俺だけだったらしい。
「……それは、もう良いだろ。聞くなよ、今更」
「いや、無理だろ。ずっといつ聞こうか迷ってたんだよ」
逃げられないと思った。ここで正直に話したら、さすがの神代も引くだろう。何も持てない手の置き場所に困り、綺麗に平らげたティラミスの皿を2枚重ねた。
「まじであの時は、頭がおかしかったんだって」
「おかしな頭で何を考えてたんだよ」
「だから、だからさ、その……」
こんな時でも神代の目は全く曇りなくて真っ直ぐだ。顔を両手で覆い、目を閉じた。
「お前の匂い、良いなーと思ったんだ」
「……匂いフェチ?」
「そういう訳じゃねぇよ。ただ、塩素の匂いで更衣室のお前を思い出してさ」
「俺の何を?」
「腕とか、腹筋とか、その……筋肉?とか」
「じゃあ筋肉フェチか。触るか?今」
「別に俺は、匂いフェチでも筋肉フェチでもない!」
「じゃあなんだよ」
お前だからだよ。神代だから、筋肉とか匂いとか、触れたり嗅いだりしたいと思ったんだよ。
「あのさ、朝田」
「な、何」
「俺はお前がよく分からん」
それはお互い様だ。理解できない部分を上げる方が早い。このまま口論になるのかな、と思いきや、ため息を一つついてから、再びペンを動かし始める。
「まあ良いや。納得はできてないけど、根掘り葉掘り聞くのも変だし。忘れてくれ」
忘れてくれ、か。
なかった事にすれば良いと思っていた。けれど、これでは魚の骨が喉に引っかかっているような、気持ち悪さがずっと残ったままだ。
気づくと、もう声に出ていた。
「ずるくね?お前だけ」
「……え?」
「俺だって神代に聞きたいことあるんだけど」
「何?」
かちりと何か音が鳴った気がする。頭の中で。あ、もう間に合わない。もう止められない。
「俺の事好きなのかって、聞いて来ただろ」
「あぁ、プールで言ったな」
「違う。そっちじゃない。夏祭りに行った日、俺に聞いただろ。好きじゃないのに、なんで見てくるんだって」
「……」
神代の長いまつ毛を凝視する。ぴくりと口の端が動いた気がした。
「覚えてない」
「お前は覚えてなくても、はっきりと言ってたんだよ。そんなの口にするって事は、神代だって何か考えてる事があるんじゃねーの?」
神代の反応は鈍かった。このまま濁されたくないと思い、椅子から立ち上がる。
「なあ、どうなんだよ」
「何だよ、駆け引きか?俺たち、そんな仲でもないと思うけど。……そもそも、ちょっと抱きしめられたぐらいで、朝田は大袈裟にし過ぎなんだって」
頭が真っ白になる。心臓をぎゅっと掴まれたような感じがした。酷く狼狽したのを見て、神代も自分の失言に気づいたらしい。彼の顔からも冷静さが失われていく。
 どうして、抱きしめたことを覚えているのか。
もしかして、お前。
「夏祭りの時、起きてたのか?」
神代の目が、今まで見た事ないほど見開かれたので、それが答えなのだと悟った。
「じゃあ、俺がお前に告白したのも」
「………」
「……さすがに、性格悪すぎだろ」
「違う。そうじゃなくて」
「もう良いよ。変な事言って悪かった。まじで、忘れてくれ」
恥ずかしいとかよりも、失望の方が大きかった。俺が告白したのを、お前はどう思ってたんだ。じわじわ外堀から攻めて、逃げられないようにして、弱みでも握るつもりだったのか。目元が熱いな、と思うと何故か泣いている事に気づく。なんで泣いているんだろう。自分のことなのに分からない。これ以上弱みを握られたくないのに。こんなもの止まれ、と腕で乱暴に拭う。
ふと、大きな手で掴まれた。