恋愛感情には、疎い方だと思う。自分の感情の起伏の中に、恋愛が占める割合は、ほぼない。流行りの歌やドラマを見て、恋する男女に憧れることはあっても、当事者になることを望んではいなかった。いつかはきっと、誰かを好きになるだろう。そう、いつかは。それが女性か男性かなんて、考えたこともなかった。
神代は良いやつだ。表情が読み取りづらいけれど、好きなものは好きと言うし、興味のないことには関心を示さない。その素直さが良いなと思ったし、話していて楽だった。でも、それを恋愛感情と呼んで良いのか。
「……いや、別に…違うんじゃないかな…だよな?」
「なんで俺に確認すんだよ」
神代はまあ良いや、と興味を失ったのか弁当だけひょいと取り上げ、更衣室へと消えて行った。別に深刻な質問ではない。ただの確認だ。そう思うと、一気に羞恥心がやって来る。今の答え方が正解だったのか分からない。俺だけ恥ずかしい思いをして、神代の表情はぴくりとも動かない。
沈黙をかき消すように始業5分前のチャイムが鳴る。言葉を交わさずとも、この場は解散となり、急いで教室へと向かった。
冷静になって考えてみると、神代の中には、同性を恋愛対象として考える隙間があるらしい。きっとあの好きの中には、恋愛的なものが含まれている。抵抗がないのであれば、恥ずかしがらずに聞いてみた方が良かったかもしれない。そういうお前はどうなんだって。
先生が教壇に立ち、1限目が始まってから、放課後のことを考える。こんなにも気まずい状態だけど、また神代を手伝いに行って大丈夫だろうか。別にボイコットしたって、神代の事だから怒ったりしないだろう。だが、無関心が何となく腹が立つ。どうせなら嫌がらせのつもりで行ってやるかと、机の中からノートと教科書を取り出し、ペンを掴んだ。
**
長い授業がようやく全て終わったので、机の中の荷物を鞄に放り込んでいると、ドンと勢いよく机を叩き、青柳が懇願してきた。
「朝田。今日は一緒に帰ろう。そしてラーメン食ってアイス食って帰ろう。……つーか、お前の家に泊まって良いか?」
昨日と態度が急変したので、どうしたんだと話を聞いてやる。
「例のチア部の女子に告白したんだよ。でもさ、無理なんだってよ。タイプじゃないってはっきり言われてさ」
「告白する前に、タイプぐらい聞いておけば良かったのに」
「それが意味分かんねーんだよ。キラキラした人が好きって言っててさ。そんなのタイプなんて言わねーだろ。頼む、頼むよ朝田。可哀想な俺を慰めてくれ」
このままだと家まで着いてきて入り浸る気だな、と読めたので、首を横に振った。
「悪いな。別で約束あるから今日は無理だ。じゃあな」
おい、見捨てるな!と叫ぶのを無視して、階段を一段飛ばしで走っていく。もう教室に神代の姿はなかったので、プールで泳ぎ始めているかもしれない。息を切らしながら走っていると、幸運にも途中で神代を見つけた。誰かに足止めを食らっているらしく、いつもの無表情でこうべを垂れていた。学年が違うので詳しくはないが、たしか水泳部の顧問だった気がする。仁王立ちで通せんぼしており、よく焼けた肌は神代よりも黒かった。
「じゃあ、そういう事だから。気をつけろよ」
そう言って先生が去っていくのを待ってから、不貞腐れた顔で石を蹴っている神代へと近づいた。
「どうした。何かあったのか?」
「……プールで泳いでいる事が顧問にバレた。出張中っていうから隠せると思ったのに。……予定より早く帰ってきちまった」
「今ってプールの使用禁止なのか」
「テスト期間中は部活は基本駄目だからな」
そうなると必然的に、手伝いが不要になった訳だ。じゃあこのまま帰るのか。だったら、また前みたいに何か食べに行こうと誘おうとした。けれど神代は先に、スマホで検索を始めていた。
「…19時までいけるか」
「もしかして、顧問の先生に頼み込むのか?」
「いや、さすがに。……ここから一番近い市民プールを探してたんだよ。そこで軽く泳いで帰ろうと思って」
やっぱりまだ泳ぐつもりなのかよ、と顔に出してしまい、神代の口がへの字に曲がった。
「朝と夕方の2回。水着2着用意して、万全の準備を整えてきたんだ。顧問に見つかったからって、そのまま帰るのも腹立つし」
「そ、そうか」
「……朝田はどうする?一緒に来る?」
え、良いの?と子供のように喜んでしまう。
「うん、行く」と即答すると、神代が目をパチパチと瞬いた。
「別に気遣わなくて良いけど」
「いや、そうじゃなくて。なんというか、俺も」
俺も。なんだろう。何か言わないといけない。
「泳ぎたい、気分だから」
沈黙が生まれる。さすがに嘘っぽかったかと後悔するが、思いの外、神代の声色は明るかった。
「そうか。じゃあ、泳ぎに行くか。俺の水着貸せるし」
子供のように無邪気な表情ををするので、嘘を吐いても行くと言って良かったと嬉しくなる。神代がはしゃいぐのを見るのは初めてじゃないか。
市民プールまではバスが早いので、学校を出てから徒歩でバス停まで行き、ベンチの隣に並んで立った。こうしてみると、少しだけ神代の方が身長が高いらしい。筋肉量で比べれば負けるけれど、思ったより目線は同じなんだなと、新鮮な気持ちになる。
「神代はさ、いつから水泳やってんの?」
「10年ぐらい前。小学生の時に住んでた家から、歩いて行ける距離に市民プールがあったんだよ。暇な時とか、むしゃくしゃした時は泳ぐとすっきりするから、入り浸ってた」
「へぇ。俺にはない感覚だなぁ」
「泳いでいる時は余計な事考えなくて良いし、無心になれる」
「でも神代って大会にも出てるんだよな。好きな事で賞を貰えるって、めちゃくちゃ良いじゃん」
「まあ」
あまり競争には関心がないのか、返事は空虚なものだった。たしかに熱血的なタイプでもないし、ただ泳ぐ事が純粋に好きなのだろう。
「朝田はいつから作ってんの」
「え?」
「料理。いつから自分で作ってんの」
「包丁を握らせてもらえたのが、小学校5年の時だから、それからちょっとずつ。弁当を作り始めたのは高校からだけどな」
「好きなら、プロを目指せば良いのに」
「好きとなりたいは違うだろ」
神代はにやりと笑う。つまり、彼が言いたいのはそういう事だろう。
エンジン音が聞こえたかと思うと、バスが丁度到着したので、スマホでICカードのアプリを起動した。
「そういえば、朝田の弁当。美味かった」
「……え?」
「ウインナーとかリンゴの形が凝ってたし、卵焼きの形もめちゃくちゃ綺麗だった。普段からやってるから慣れてるんだなと思った。すごいな」
「……別に。んな事言われても、しっくりこねーし…」
「褒められるの慣れてなさすぎだろ」
「いやいや、お前の言い方がなんか照れくさいんだよ。ストレートすぎるっていうか」
「褒められる回数、人よりも多そうなのに」
「揶揄ってんだろ。俺は……俺が褒められるのは、猫かぶってる時だけだし」
神代は何も言わなかった。少し不満げに睨むだけ。座席に座ったタイミングで勢いよくバスが発車する。舗装されていない道のせいか、揺れるたびに肩が触れる。
調子が狂う。神代が使う言葉一つ一つが、まっすぐで曇りがないから、どう受け取れば良いのか分からない。窓に額をつけて眠ったふりをしてみる。これ以上何もいうな、と無言の圧をかけているつもりだった。
**
市民プールに到着すると、競泳用と一般用に分かれていて、どちらも人はほとんどいなかった。子供連れの親子が3組ほど泳いでいるだけだ。平日の放課後だし、誰も来ないかと貸切の気分になりテンションが上がる。神代は競泳用の方に行くかと思い、1人で一般プールの方に向かおうとするが、がっつり腕を掴まれた。
「あっちの方が浅めで足つくから、そっちに行こう」
「お前、いつもみたいにタイム測るんじゃねーの?」
「朝泳いだから、競泳はもういい。朝田はお泳げんの?」
「まあ、クロールと平泳ぎぐらいなら」
「んじゃ、向こうの壁まで競争な」
ばしゃん、と勢いよく飛び込んでから、神代は顔を上げたままクロールを泳ぐ。それでもすいすいと先に行ってしまうので、つい負けたくなくて足をつけて走り出してしまう。
「おい、それずるだろ」
「神代は選手なんだから、素人の俺にはハンデありだろ。おい、待てってば!」
上にのし掛かる形で神代に飛びつく。浅く焼けた背中は、見た目通り固くて跳ね返りそうだ。肌と肌が密着すると、いつもは意識しない体温や匂いが、ダイレクトに伝わってくる。その想像があらぬ方向へ行く前に、ぱっと背中から離れた。
水中に潜り、目を開ける。ゴーグルをつけているので表情全部は読み取れないけれど、神代の生き生きした姿を見ると、水を得た魚の例えを体現しているように思える。本当に泳ぐのが好きなんだな、と無邪気な表情に微笑ましさを感じた。
滑らかに泳ぐ神代から少し離れた場所で、ぷかぷかと浮き輪に乗って天井を仰ぐ。そういえば、この間の水泳の授業は休んだので、じれが今年初めてのプールなのだと気づいた。まさか神代とこうして、放課後に市民プールで遊ぶ事になるとは思わなかった。
更衣室で神代の上半身を見た時、なんで勃ってしまったのだろう。あれ以来一度も、そういう事は起こっていないし、やっぱりあの日は夏の暑さのせいでおかしくなっていたのかもしれない。
「朝田!」
振り向くと勢いよく水をぶっかけられる。油断していたせいで、鼻と口の中にまで水が入って、思わずむせた。「何すんだよ」と文句を言うと、神代は口を大きく開けて笑っていた。周りも気にせず、心の底から笑う顔を見ると、なんだかそわそわする。心臓の音がバクバクと激しくなる。神代といる時は、自分で自分が分からなくなる。
結局、プールが閉まる19時まで、はしゃいで帰った。
**
市民プールから出るとまだ空には明るさが残っていて、さすが夏だから日が長いな、と有り難みを感じる。髪も毛先は既に乾き始めていて、風に通すだけで良さそうだった。
歩いているとカラフルな提灯の灯りがちらほら見えるのに気づき、そばにあった立て看板の文字を読む。日付は今日で、どうやら夏祭りをやっているらしい。どうりで人が多いな、と屋台の方を見やる。香ばしい匂いにつられ、自然と体がそちらを向いてしまう。神代を見ると、すでに俺の思惑はばれているようだった。
「神代は何食べる?」
「俺は別に……」
「そこの花壇のとこで待ってて。適当に取ってくるから」
まず最初に、目に留まったイカ焼きと、あとリンゴ飴と焼きそばをそれぞれ2つずつ買う。イカ焼きと焼きそばはパックに詰めてビニール袋に入れ、りんご飴は持ち手を指で挟むようにして運んだ。
「もしいらないなら全部俺が食うし。ほら」
手渡すと、神代は軽く頭を下げてから、割り箸を手に取る。泳いだ後に腹が空いていたのか、焼きそばを頬張りながら、美味しそうに食べていた。
「あそこに射的とか輪投げもあるけど。あと金魚釣りもあるな」
「……金魚っていえば、今夏の間だけイベントやってたな」
「そうだっけ」
「うん。金魚のアクアリウム。多分、今月末まで」
へぇ、とリンゴ飴を舐めながら返事をする。そんなのあったかな、とスマホで調べてみる。すると、ぽんと肩に感触が伝わった。
割り箸がカランと音を立てて地面に落ち、食いかけのまま神代は眠ってしまっていた。口の端に青のりがついている。よっぽど疲れたんだろうな、とティッシュがなかったので、プールで使ったタオルで拭ってやる。あまりにぐっすり寝ているので、俺の肩が耐えられるまで、このままにしてやるかと深く座り直した。目を閉じていると、長いまつ毛がさらにくっきりと見える。いつも鋭く切れ長の目元が、今は幼い子供みたいで可愛く見える。
朝のプールサイドで、神代にもし、「好きだ」と返事をしていたら、どうなっていたのだろう。この関係が、友達なのかそれとも恋愛感情なのか分からない。今までちゃんと人を好きになった事がないから、比べられない。
神代こそ俺の事どう思ってるんだと聞きたくなる。普通、友達に好きかどうかって聞くだろうか。仮に俺が好きだと言って、神代はなんて返事をするつもりだったのだろう。
そろそろ重さに耐えられなくなってきたので、「おい、起きろ」と肩を揺する。しかし、のし掛かる体重がさらに増えたので、両肩を支えるように向きを変えた。
次の瞬間、ぐっと腕が背中へと伸び、強く抱きしめられた。寝ぼけているのか、名前を呼んでも起きる気配がない。その力の強さに心臓がうねる。やばい、と熱が徐々に集中していくのが分かる。
「神代。なあ、神代」
お願いだから起きてくれ。じゃないと、更衣室の時みたいな状態になる。
すると、小さな声で呟くのが聞こえた。
「……お前は、俺のこと好きじゃねーの」
「……え?」
「じゃあなんで、そんな見てくんだよ」
「……神代?」
呼吸音が聞こえる。やっぱりまだ寝ている。寝言なのだ。
そんな事言われたって、恋愛にしっくり来た事がないのだ。比べるものがないから、自信を持って決定的な言葉を言えない。
でも、青柳と神代の存在が、全くの別位置にあるのは確実だった。青柳が笑ったり、嬉しそうな顔を見たって、動揺なんてした事がないし、抱きしめられた途端に「気持ちわりーな」と言って突き放すのが普通だ。
でも、神代は違う。
寝ぼけていたとしても、こうして抱きしめてくれている。心を開いてくれていると分かるのが、たまらなく嬉しい。そう思える事が、「好き」に結び付くのだろうか。
「…好きかもしれない」
耳元で言ってみる。けれど、返事はない。やっぱり聞こえていない。良かった、と安堵する。
「たぶん、お前の事。好きなんだと思う」
その言葉を、目を見て、面と向かって言う日が来るかは分からないけれど。ただ、これは今の素直な気持ちなのだろう。神代の背中に手を伸ばし、その体温を覚えておけるように、力強く抱きしめた。
神代は良いやつだ。表情が読み取りづらいけれど、好きなものは好きと言うし、興味のないことには関心を示さない。その素直さが良いなと思ったし、話していて楽だった。でも、それを恋愛感情と呼んで良いのか。
「……いや、別に…違うんじゃないかな…だよな?」
「なんで俺に確認すんだよ」
神代はまあ良いや、と興味を失ったのか弁当だけひょいと取り上げ、更衣室へと消えて行った。別に深刻な質問ではない。ただの確認だ。そう思うと、一気に羞恥心がやって来る。今の答え方が正解だったのか分からない。俺だけ恥ずかしい思いをして、神代の表情はぴくりとも動かない。
沈黙をかき消すように始業5分前のチャイムが鳴る。言葉を交わさずとも、この場は解散となり、急いで教室へと向かった。
冷静になって考えてみると、神代の中には、同性を恋愛対象として考える隙間があるらしい。きっとあの好きの中には、恋愛的なものが含まれている。抵抗がないのであれば、恥ずかしがらずに聞いてみた方が良かったかもしれない。そういうお前はどうなんだって。
先生が教壇に立ち、1限目が始まってから、放課後のことを考える。こんなにも気まずい状態だけど、また神代を手伝いに行って大丈夫だろうか。別にボイコットしたって、神代の事だから怒ったりしないだろう。だが、無関心が何となく腹が立つ。どうせなら嫌がらせのつもりで行ってやるかと、机の中からノートと教科書を取り出し、ペンを掴んだ。
**
長い授業がようやく全て終わったので、机の中の荷物を鞄に放り込んでいると、ドンと勢いよく机を叩き、青柳が懇願してきた。
「朝田。今日は一緒に帰ろう。そしてラーメン食ってアイス食って帰ろう。……つーか、お前の家に泊まって良いか?」
昨日と態度が急変したので、どうしたんだと話を聞いてやる。
「例のチア部の女子に告白したんだよ。でもさ、無理なんだってよ。タイプじゃないってはっきり言われてさ」
「告白する前に、タイプぐらい聞いておけば良かったのに」
「それが意味分かんねーんだよ。キラキラした人が好きって言っててさ。そんなのタイプなんて言わねーだろ。頼む、頼むよ朝田。可哀想な俺を慰めてくれ」
このままだと家まで着いてきて入り浸る気だな、と読めたので、首を横に振った。
「悪いな。別で約束あるから今日は無理だ。じゃあな」
おい、見捨てるな!と叫ぶのを無視して、階段を一段飛ばしで走っていく。もう教室に神代の姿はなかったので、プールで泳ぎ始めているかもしれない。息を切らしながら走っていると、幸運にも途中で神代を見つけた。誰かに足止めを食らっているらしく、いつもの無表情でこうべを垂れていた。学年が違うので詳しくはないが、たしか水泳部の顧問だった気がする。仁王立ちで通せんぼしており、よく焼けた肌は神代よりも黒かった。
「じゃあ、そういう事だから。気をつけろよ」
そう言って先生が去っていくのを待ってから、不貞腐れた顔で石を蹴っている神代へと近づいた。
「どうした。何かあったのか?」
「……プールで泳いでいる事が顧問にバレた。出張中っていうから隠せると思ったのに。……予定より早く帰ってきちまった」
「今ってプールの使用禁止なのか」
「テスト期間中は部活は基本駄目だからな」
そうなると必然的に、手伝いが不要になった訳だ。じゃあこのまま帰るのか。だったら、また前みたいに何か食べに行こうと誘おうとした。けれど神代は先に、スマホで検索を始めていた。
「…19時までいけるか」
「もしかして、顧問の先生に頼み込むのか?」
「いや、さすがに。……ここから一番近い市民プールを探してたんだよ。そこで軽く泳いで帰ろうと思って」
やっぱりまだ泳ぐつもりなのかよ、と顔に出してしまい、神代の口がへの字に曲がった。
「朝と夕方の2回。水着2着用意して、万全の準備を整えてきたんだ。顧問に見つかったからって、そのまま帰るのも腹立つし」
「そ、そうか」
「……朝田はどうする?一緒に来る?」
え、良いの?と子供のように喜んでしまう。
「うん、行く」と即答すると、神代が目をパチパチと瞬いた。
「別に気遣わなくて良いけど」
「いや、そうじゃなくて。なんというか、俺も」
俺も。なんだろう。何か言わないといけない。
「泳ぎたい、気分だから」
沈黙が生まれる。さすがに嘘っぽかったかと後悔するが、思いの外、神代の声色は明るかった。
「そうか。じゃあ、泳ぎに行くか。俺の水着貸せるし」
子供のように無邪気な表情ををするので、嘘を吐いても行くと言って良かったと嬉しくなる。神代がはしゃいぐのを見るのは初めてじゃないか。
市民プールまではバスが早いので、学校を出てから徒歩でバス停まで行き、ベンチの隣に並んで立った。こうしてみると、少しだけ神代の方が身長が高いらしい。筋肉量で比べれば負けるけれど、思ったより目線は同じなんだなと、新鮮な気持ちになる。
「神代はさ、いつから水泳やってんの?」
「10年ぐらい前。小学生の時に住んでた家から、歩いて行ける距離に市民プールがあったんだよ。暇な時とか、むしゃくしゃした時は泳ぐとすっきりするから、入り浸ってた」
「へぇ。俺にはない感覚だなぁ」
「泳いでいる時は余計な事考えなくて良いし、無心になれる」
「でも神代って大会にも出てるんだよな。好きな事で賞を貰えるって、めちゃくちゃ良いじゃん」
「まあ」
あまり競争には関心がないのか、返事は空虚なものだった。たしかに熱血的なタイプでもないし、ただ泳ぐ事が純粋に好きなのだろう。
「朝田はいつから作ってんの」
「え?」
「料理。いつから自分で作ってんの」
「包丁を握らせてもらえたのが、小学校5年の時だから、それからちょっとずつ。弁当を作り始めたのは高校からだけどな」
「好きなら、プロを目指せば良いのに」
「好きとなりたいは違うだろ」
神代はにやりと笑う。つまり、彼が言いたいのはそういう事だろう。
エンジン音が聞こえたかと思うと、バスが丁度到着したので、スマホでICカードのアプリを起動した。
「そういえば、朝田の弁当。美味かった」
「……え?」
「ウインナーとかリンゴの形が凝ってたし、卵焼きの形もめちゃくちゃ綺麗だった。普段からやってるから慣れてるんだなと思った。すごいな」
「……別に。んな事言われても、しっくりこねーし…」
「褒められるの慣れてなさすぎだろ」
「いやいや、お前の言い方がなんか照れくさいんだよ。ストレートすぎるっていうか」
「褒められる回数、人よりも多そうなのに」
「揶揄ってんだろ。俺は……俺が褒められるのは、猫かぶってる時だけだし」
神代は何も言わなかった。少し不満げに睨むだけ。座席に座ったタイミングで勢いよくバスが発車する。舗装されていない道のせいか、揺れるたびに肩が触れる。
調子が狂う。神代が使う言葉一つ一つが、まっすぐで曇りがないから、どう受け取れば良いのか分からない。窓に額をつけて眠ったふりをしてみる。これ以上何もいうな、と無言の圧をかけているつもりだった。
**
市民プールに到着すると、競泳用と一般用に分かれていて、どちらも人はほとんどいなかった。子供連れの親子が3組ほど泳いでいるだけだ。平日の放課後だし、誰も来ないかと貸切の気分になりテンションが上がる。神代は競泳用の方に行くかと思い、1人で一般プールの方に向かおうとするが、がっつり腕を掴まれた。
「あっちの方が浅めで足つくから、そっちに行こう」
「お前、いつもみたいにタイム測るんじゃねーの?」
「朝泳いだから、競泳はもういい。朝田はお泳げんの?」
「まあ、クロールと平泳ぎぐらいなら」
「んじゃ、向こうの壁まで競争な」
ばしゃん、と勢いよく飛び込んでから、神代は顔を上げたままクロールを泳ぐ。それでもすいすいと先に行ってしまうので、つい負けたくなくて足をつけて走り出してしまう。
「おい、それずるだろ」
「神代は選手なんだから、素人の俺にはハンデありだろ。おい、待てってば!」
上にのし掛かる形で神代に飛びつく。浅く焼けた背中は、見た目通り固くて跳ね返りそうだ。肌と肌が密着すると、いつもは意識しない体温や匂いが、ダイレクトに伝わってくる。その想像があらぬ方向へ行く前に、ぱっと背中から離れた。
水中に潜り、目を開ける。ゴーグルをつけているので表情全部は読み取れないけれど、神代の生き生きした姿を見ると、水を得た魚の例えを体現しているように思える。本当に泳ぐのが好きなんだな、と無邪気な表情に微笑ましさを感じた。
滑らかに泳ぐ神代から少し離れた場所で、ぷかぷかと浮き輪に乗って天井を仰ぐ。そういえば、この間の水泳の授業は休んだので、じれが今年初めてのプールなのだと気づいた。まさか神代とこうして、放課後に市民プールで遊ぶ事になるとは思わなかった。
更衣室で神代の上半身を見た時、なんで勃ってしまったのだろう。あれ以来一度も、そういう事は起こっていないし、やっぱりあの日は夏の暑さのせいでおかしくなっていたのかもしれない。
「朝田!」
振り向くと勢いよく水をぶっかけられる。油断していたせいで、鼻と口の中にまで水が入って、思わずむせた。「何すんだよ」と文句を言うと、神代は口を大きく開けて笑っていた。周りも気にせず、心の底から笑う顔を見ると、なんだかそわそわする。心臓の音がバクバクと激しくなる。神代といる時は、自分で自分が分からなくなる。
結局、プールが閉まる19時まで、はしゃいで帰った。
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市民プールから出るとまだ空には明るさが残っていて、さすが夏だから日が長いな、と有り難みを感じる。髪も毛先は既に乾き始めていて、風に通すだけで良さそうだった。
歩いているとカラフルな提灯の灯りがちらほら見えるのに気づき、そばにあった立て看板の文字を読む。日付は今日で、どうやら夏祭りをやっているらしい。どうりで人が多いな、と屋台の方を見やる。香ばしい匂いにつられ、自然と体がそちらを向いてしまう。神代を見ると、すでに俺の思惑はばれているようだった。
「神代は何食べる?」
「俺は別に……」
「そこの花壇のとこで待ってて。適当に取ってくるから」
まず最初に、目に留まったイカ焼きと、あとリンゴ飴と焼きそばをそれぞれ2つずつ買う。イカ焼きと焼きそばはパックに詰めてビニール袋に入れ、りんご飴は持ち手を指で挟むようにして運んだ。
「もしいらないなら全部俺が食うし。ほら」
手渡すと、神代は軽く頭を下げてから、割り箸を手に取る。泳いだ後に腹が空いていたのか、焼きそばを頬張りながら、美味しそうに食べていた。
「あそこに射的とか輪投げもあるけど。あと金魚釣りもあるな」
「……金魚っていえば、今夏の間だけイベントやってたな」
「そうだっけ」
「うん。金魚のアクアリウム。多分、今月末まで」
へぇ、とリンゴ飴を舐めながら返事をする。そんなのあったかな、とスマホで調べてみる。すると、ぽんと肩に感触が伝わった。
割り箸がカランと音を立てて地面に落ち、食いかけのまま神代は眠ってしまっていた。口の端に青のりがついている。よっぽど疲れたんだろうな、とティッシュがなかったので、プールで使ったタオルで拭ってやる。あまりにぐっすり寝ているので、俺の肩が耐えられるまで、このままにしてやるかと深く座り直した。目を閉じていると、長いまつ毛がさらにくっきりと見える。いつも鋭く切れ長の目元が、今は幼い子供みたいで可愛く見える。
朝のプールサイドで、神代にもし、「好きだ」と返事をしていたら、どうなっていたのだろう。この関係が、友達なのかそれとも恋愛感情なのか分からない。今までちゃんと人を好きになった事がないから、比べられない。
神代こそ俺の事どう思ってるんだと聞きたくなる。普通、友達に好きかどうかって聞くだろうか。仮に俺が好きだと言って、神代はなんて返事をするつもりだったのだろう。
そろそろ重さに耐えられなくなってきたので、「おい、起きろ」と肩を揺する。しかし、のし掛かる体重がさらに増えたので、両肩を支えるように向きを変えた。
次の瞬間、ぐっと腕が背中へと伸び、強く抱きしめられた。寝ぼけているのか、名前を呼んでも起きる気配がない。その力の強さに心臓がうねる。やばい、と熱が徐々に集中していくのが分かる。
「神代。なあ、神代」
お願いだから起きてくれ。じゃないと、更衣室の時みたいな状態になる。
すると、小さな声で呟くのが聞こえた。
「……お前は、俺のこと好きじゃねーの」
「……え?」
「じゃあなんで、そんな見てくんだよ」
「……神代?」
呼吸音が聞こえる。やっぱりまだ寝ている。寝言なのだ。
そんな事言われたって、恋愛にしっくり来た事がないのだ。比べるものがないから、自信を持って決定的な言葉を言えない。
でも、青柳と神代の存在が、全くの別位置にあるのは確実だった。青柳が笑ったり、嬉しそうな顔を見たって、動揺なんてした事がないし、抱きしめられた途端に「気持ちわりーな」と言って突き放すのが普通だ。
でも、神代は違う。
寝ぼけていたとしても、こうして抱きしめてくれている。心を開いてくれていると分かるのが、たまらなく嬉しい。そう思える事が、「好き」に結び付くのだろうか。
「…好きかもしれない」
耳元で言ってみる。けれど、返事はない。やっぱり聞こえていない。良かった、と安堵する。
「たぶん、お前の事。好きなんだと思う」
その言葉を、目を見て、面と向かって言う日が来るかは分からないけれど。ただ、これは今の素直な気持ちなのだろう。神代の背中に手を伸ばし、その体温を覚えておけるように、力強く抱きしめた。

