「それ、すげーな。リアルたこさんウインナーじゃん」
青柳が米を口に入れたまま喋る。いつもなら「きたねーな」と文句を言うところだが、今はそれどころではない。神代君との奇妙な関係を生み出してしまった結果、彼の動きにずっと注意を向けていた。同じクラスである以上、どれだけ避けようとも顔を合わせることになる。朝学校に登校してきた時、移動教室の時、掃除の時、放課後に帰る時だって、つい神代君がどこにいるか確認してしまう。
その度に、目が合う。
あの、感情が読めない無表情が怖い。面白いと口では言ってたが、実際にどう思っているか分からないから、こちらとしてもどう振る舞えば良いのか分からなかった。好意的なのか、ただの気まぐれで言っただけなのか。いつか決定的な言葉を言われる気がして怖くなる。
神代君は不思議な人だった。俺に対して、無の感情を向けてくるのだ。「優等生」「好青年」というレッテルではなく、「生意気」「調子に乗っている」というレッテルでもなく、ただまっすぐ見つめてくるのが慣れなかった。
「小テストって何のためにあるんだろうな。嫌でもあと2週間後には期末テストがあるのにさ」
青柳はそう言いながら、ぐりぐりと点数のところを塗りつぶしている。赤点は回避したものの、親に見せられる点数でもないらしい。証拠隠滅とでもいうように、無心でペンを動かしている。
「お前は良いよな。頭が良いから、親に怒られることもないだろ」
「うちの親は働いてるからなぁ。むしろ顔を合わせる時間が少ないというか」
物心ついた時から、平日祝日問わず、働きに出かける父の背中を何度も見かけた事がある。あんなに仕事をしてしんどくないのかな、と心配したこともあるけれど、一度も嫌だと言った姿は見た事がない。
子供ながらにかっこいいと思いつつ、自分の親だと言う認識からは、少しずつ乖離している気がする。嫌いだからじゃない。むしろ尊敬から来る畏怖の念だ。
「放課後どうする?図書室で勉強でもしていくか?」
 青柳の為に勉強の習慣を付けさせるかと思ったが、本人は全く乗り気ではないようだった。
「いや、いいわ。ちょっと他に用事あるから。色々と準備しないといけねーし」
本質を濁すような返事に、何か隠していることがわかる。でも問い詰めるほどでもないかと頷いた。
「分かった。じゃあ、俺も今日はまっすぐ帰ろうかな」
「悪いけど、先に帰っててくれ。俺はちょっと、体育館による必要があるんだ」
「体育館?バレー部かバスケ部に知り合いいたっけ?」
「いない」
「じゃあ他何だ…?あ、チア部が練習してるのか」
それを聞いた瞬間、分かりやすく動揺し始めたので、好きな子でもできたのかと、軽く笑った。
「青柳って一目ぼれとかするタイプだっけ」
「違ーんだよ。見た目がリアル透子ちゃんなんだって」
 誰だよそれ、と興味もないので適当に聞くと、いつも持ち歩いている漫画を開いて見せて来た。担任に何度も取り上げられているのに、何を愛読書にしているのだと思っていたが、まさかの少女漫画だった。
「胸キュンなんだからな。まじで可愛い」
「分かった、分かった。じゃあ、俺は先帰っとくわ。チア部の子によろしく」  
「おう!」
頬をぱんぱんに詰めながら食べる青柳を眺める。分かりやすくていいな、こいつは。と、無意識に神代君と比べてしまう。直接聞いた方が良いのかな、と彼の席の方へ目を向けるけれど、昼休みの時間は食堂を利用しているのか、神代君の姿はなかった。

**

宣言通り終業のチャイムがなった途端、青柳は体育館へと走って行った。急ぎすぎだろ、と呆れて階段下を覗いてみる。もう既に1階まで走り切っており、足音が天井まで響いていた。
トイレに行ってから、だらだら帰るかと、渡り廊下に向かう途中、プールの方へと歩く後ろ姿を見かける。
神代君だ。
水泳部はテスト期間中も部活があるのかと、さすが強豪なだけあるかなぁと感心する。しかし、他に部員らしき人はおらず、彼だけが更衣室へと入って行った。
プールの周りには木が取り囲むように植えられているので、校舎からでは様子を見ることはできない。鉄格子の隙間から覗くと、ようやくプールサイドが見えるのだ。
顔だけ出してみようかと、ぐっと背伸びをする。すると、熱されたプールサイドに、水着に着替えた神代君が立っていた。
「…あ、神代君」
偶然を装うつもりが、少しだけ声が上擦ってしまう。けれど、声色の変化には気づかれていないようだった。
「神代で良い。君付けで呼ばれることもないし」
「じゃあ、神代。今日って部活なのか?」
「自主練。……朝田はもう帰るのか」
「まあ、家に帰ってテスト勉強しようかなって」
「そうか。お疲れ」
そう言って、コースロープを張り、それからジャンプ台のチェックを始める。マネージャーもいないのかと、1人で準備しているのが不憫に思えてきた。
「何か手伝えることあるか?」
神代の目が丸くなる。それからプールの方へと視線を変えた。
「別に困っていないけど」
「俺水泳の知識はないけど、簡単な補助ぐらいなら手伝えるぞ」
それなら、と神代がペンと紙を持って来る。
「タイム測って欲しい。いつもはマネージャーに頼んでるけど、今日は誰もいねーからさ」
鉄格子越しだと、細かい表情の変化までは読め取れないものの、少しだけ表情が柔らかくなった気がする。なんだ、ちゃんと普通に話せるんじゃないか。
「分かった。じゃあ、そっち行くわ」
靴下を脱ぎ、軽く足を消毒してから中に入る。プールサイドに立つと、照り返しのせいか、さらに温度が上がる気がする。日陰に腰を下ろし、ストップウォッチを手に取った。
「俺が向こうの壁に手をついた時と、こっちに戻って来た時に、一回ずつストップウォッチを止めて時間を測って欲しい。それを連続でやるから、記録はこの紙にメモして」
「お、おう。分かった」
テキパキと慣れた様子で指示する姿は、なんだか見慣れない。
教室ではみない真剣な顔に、少し戸惑いを覚える。水泳が好きなんだな、と和やかな気持ちになると言うよりは、そのストイックさに怖さを覚えた。
ただ往復する神代の泳ぎを眺めながら、壁についたらストップウォッチを留め、記録を紙に書き記していく。一体何往復するんだろうかと、ぼんやり眺めていた。水泳の事はよく分からないけれど、筋肉の動きがまるで魚のように動くのを見ると、やはり彼は選手としてすごいのだろうな、と分かる。ただのクラスメイトが、知らない場所へと行ってしまった気分だった。
紙が一枚全て埋まったタイミングで、ようやく神代は止まった。ゴーグルとキャップを外し、肩で息をする。
「さんきゅ。助かった」
「まあ、お前には迷惑をかけたし」
「迷惑?」
本当に心当たりが無さそうな返事に戸惑う。
「プールの授業だよ。あと、タオルのこととか」
「……あぁ、別に。迷惑とは思ってねーけど」
水面の水がぴちゃんと跳ねる。どこかから飛んできた虫が触れたのだろう。波紋がゆっくりと広がった。
「神代は、水泳選手を目指してるのか?オリンピックとか」
「んなわけねーだろ。プロになれるとか、夢持つのも烏滸がましい。ただ泳ぐのは好きだから、部活やってるだけだよ」
「……そっか。まあ、厳しい世界だもんな」
ぽつりとそう言った途端、神代の顔が分かりやすく動いたのが分かった。口角が上がり、目尻に皺がよった。
「何が可笑しいんだよ」   
「いや、この前みたいに世辞を言わないんだと思って」
ロッカーで水泳部の事を聞いた時か。お世辞を言ったつもりはなかったけれど、そう捉えられたのなら言い方を間違えたな、と反省した。
「終わったら、神代はそのまま帰んの?時間あったらラーメンでも食ってかね?」
「ラーメン?」
「よく青柳と行くんだよ。駅前の西ロータリーにある所。結構穴場なんだ。何なら今から行く?」
「……まあ、行っても良いけど…」
すると、ぐう、と神代の腹の音が鳴る。泳いで疲れたんだろうな、と思わず笑ってしまう。聞こえたのが恥ずかしかったのだろう。照れて耳の先が赤くなっている。首筋をぽりぽりとかきながら、「行く」と素直な返事が来たので、つい顔がにやけた。神代の意外な一面に、愛玩動物に初めて触れたような喜びを感じた。

**

ラーメン屋に到着し、向かい合わせの席に座る。窓の外を見ると、道路を挟んで喫茶店が見え、同じ歳ぐらいの男女が、ノートと問題集を片手に喋っているのが見えた。
「そういえば、神代はテスト勉強しなくて大丈夫なのか?まあ、成績が良いのは知ってるけど」
「家でやってるから平気。眠くなったら授業の休憩時間に寝るし」
「よくそれで体持つな。水泳なんて体力めちゃくちゃ使うだろ?あれだけ泳いで帰ったら勉強とか、考えるだけでゾッとするわ」
「まあ何とかなるもんだよ」
クールだなぁ、と水を飲みながら神代の顔をまじまじと見る。下まつ毛が長いせいか、影ができて隈があるように見える。それが影ではなく本当に隈ではないかと心配になった。
注文してから5分ほどでラーメンが到着し、ずるずると啜る。「いただきます」と小声で呟いてから、神代が食べ始めるのをみて、礼儀正しいな、と感心する。真似して手を合わせるけれど、既に一口啜っているので、もう遅いかと諦めた。
「うん、美味いな」
「だろ。あっさりしてるけど、魚介の出汁が効いてて美味いんだよ。後味に少し辛みが残るのが癖になるし、麺ももっちりしてる分、スープと絡んで相性が良いよな」
怒涛の感想に引いたのか、神代はワンテンポ遅れて答える。
「へぇ、詳しいな」
「まあ、青柳としょっちゅう食いに来てるから。ラーメンも食うし、中華とかカレーとか、割と放課後は食って帰る事が多くてさ。常連だからポイントめっちゃ貯まってる」
「いや、店もそうだけど、料理の感想が食レポみたいだったから」
神代からそう言われると、余計恥ずかしく感じる。頭に浮かんだ単語を羅列しただけだが、まあ初めて一緒にご飯を食べた奴が、こんな事言ってたら普通驚くよなと納得する。
「……まあ、食べるのも作るのも好きなんだよ。語ってるつもりはねーけど」
「料理するのか」
「うち父子家庭だから、家事は基本俺が担当してんだよ。だから、弁当とか毎日作ってて」
「へぇ」
「今のところ皆勤賞」
すると神代の手が止まる。それからじっとこちらを見据えた。
「それ、すごくね?」
「別にうちじゃ普通だよ」
「お前の普通、すんげー上にあるんだな」
神代の目は、いつだってまっすぐで、やましさや黒い感情が全く見えない。俺と言う人間を、真正面から知ろうとしてくれている、気がする。それが初めての感覚で、とてつもなく嬉しい。
父子家庭だというと、気まずくなったり、相手に気を遣わせたりするので、学校では誰にも言ってない。青柳にさえ、話を濁しているのだ。けれど、神代になら言っても大丈夫だと直感的に思った。
「うちの父親、消防士なんだ。救急の仕事もあるから夜勤や早朝出勤もあって、体力的にもメンタルでも大変だと思うけどさ、カッコいいんだよ。男らしくて、強くて、頼もしい。だから、父さんの力になりたくて、料理の勉強して、バランスの良い献立を考えて。……って、自分語り恥ずいな」
「いや、面白い。正直、朝田のこと誤解してたし」
「え?」
「もっと鼻につく奴だと思ってた」
「ちゃんと喋ったこともねーのに、ひどい言い草だな」
「……まあ、それもそうか」
箸を置き、水を飲みながら外の方を向く。まるで独り言のようにぽつぽつと言った。
「朝田が料理好きって、青柳とかにも言ってんの?」
「食べるのが好きなことぐらいは」
「ふうん。お前が学校で、評論家みたいに料理の解説してても、面白そうだけど」
「他人事だから言えるんだよ。俺が変人だってクラス中の笑い者になる」
「朝田なら、ならないだろ。人望があるんだから」
「……俺のこと変態って言った奴に言われても、説得力皆無だけど」
「それはまあ事実だから」
は?とムキになると、神代は、「はははっ」と歯を見せて笑った。ちょっとだけ声が高くなり、一瞬別の人の声じゃないかと錯覚する。あの神代が笑った!と声に出して誰かに言いたかった。
笑うと目がなくなるんだな、と新たな発見に心が躍る。もしかすると他のクラスメイトは知らないんじゃないかと思うと、特別感が生まれて、得した気分になった。

**

店を出てから、帰る方向が真逆なので「じゃあ、また」と手を振る。「おう」とぶっきらぼうながらも返してくれたのが、背中を押すきっかけとなったかもしれない。「あのさ」と提案していた。
「明日も、時間あるから。ストップウォッチ押すぐらいしか出来ねーけど、手伝うよ」
「……お人好しだな。でもまあ、助かる」
「じゃあ、明日」と手を振る先で、小さくなっていく神代の背中を見つめる。どうしていつも、筋肉を隠すように袖の長い服を着ているのだろう。と、聞いても良いのだろうか。角を曲がり、姿が見えなくなったところで自分も帰路へとついた。

**

次の日、なぜか普段の1時間も早く起きてしまった。何となく落ち着かなかったからかもしれない。台所でお弁当の準備をしながら、ふと思いつく。神代に弁当を持って行ったら、喜んでくれるだろうか。
さすがに手作り弁当を作っていくのは重いか、と手が止まる。人が作ったものに抵抗あるかもしれないし。第一、頼んでもないのに持っていくのはエゴにしかならない。
結局迷いながらも、やっぱり作って持っていくことにした。いらなければ、そのまま持って帰れば良いだけの事だ。
下駄箱に向かう途中、水の弾ける音が聞こえ、反射的にプールの方を見ていた。網格子の間から覗くと、水飛沫が上がり、神代は1人ひたすらに泳いでいた。昨日と同じように何度も何度も往復し、それからやっと足をつけるまで、俺がいることに気が付かなかった。プールサイドに立つと、見上げた顔と目が合う。
「……あ、朝田だ」
「おはよ。すごいな、朝練か」
「それもあるけど、まあ、……この時間の方が人少なくて、見つかりにくいし」
何の話だろうかと首を傾げると、プールから上がり、ぺたりぺたりとこちらへ近づいてくる。くっきりと足裏の跡が付いていた。
「タオル、そこのベンチに置いてるからさ、投げてくんね?」
「お、おう」
軽く投げたタイミングで、神代が口を開いた。
「随分たくさん食べるんだな」
手に持ったお弁当の厚みを見て思ったのだろう。咄嗟に反論する。
「一人分じゃねーよ。これは一緒に食べようと思って」
「誰と?」
「……」
「青柳?」
「いや、違う」
「……じゃあ、誰?」
「お前の分だよ」
すると神代の表情が分かりやすく崩れた。破顔する。その瞬間、大きく心臓が波打つ。顔が熱くなる。体温が上がっていくせいで、頭が沸騰しそうだ。
神代の足が動き、ゆっくりと近づいて来たかと思うと、もう少しで触れる距離で止まった。
「聞いてもいいか?」
問いかけに声が出ず、かろうじて頷く。何を言われるのかと、緊張で震えそうだった。
「朝田はさ」
ぽたり、ぽたりと指先から滴が落ちるのが見える。
「好きなのか?俺のこと」
今日の夏の日差しは、一層刺してくる。
頭の中でストップウォッチの数字が、どんどんと増えていくのを想像する。徐々にそのまま加速していくようだった。