「今日ニュースで見たんだけど、最高気温また更新したんだってさ」
スマホをいじりながら、隣の席で青柳がぼやいていた。下敷きでパタパタと仰ぎながら、天井を見上げる。もう片方の手には、先生にばれないようにブックカバーを付けた漫画を開いていた。
「それ、毎年言われてるよな。このままじゃ日本の夏は、外出禁止令とか出てもおかしく無さそうだな」
休憩時間なので頻繁に教室の扉が開閉される。せっかくのエアコンの冷気も、空気の流れですぐに逃げていってしまう。休憩時間も動かしてくれと心の中で祈るばかりだ。
「あ。……っていうか今日から体育、プールの授業始まるじゃん。めんどくせぇ」
文句を言う青柳を見て、俺たちの話を聞いていたらしい女子が、横から加わって来た。
「お疲れ男子。うちら女子は室内で卓球だからさ。まあ、少しは涼しくなると思って頑張って」
「あ、やべ。水着忘れたわ」
「うそ、青柳。ただでさえ目つけられてんのに、イエローカードじゃない?」
どうしよう、と救いを求めるようにこっちを見て来る。さすがに体操服とは違い、他クラスから借りることは出来ないだろうし、サボりが続いているこいつの事だ。そろそろ成績もやばいんじゃないだろうか。
「なあ、朝田。お前の水着貸してくれよ」
「嫌に決まってんだろ。俺が授業に出れなくなるし」 
何より、他人に自分の水着を貸す事自体、生理的に無理だ。たとえ友達だとしても。
「水着の予備とかあれば、それ使って授業出られるのによお」
「あ、じゃあ水泳部に借りればいいじゃん。たしかうちのクラスに……」
ぐるっと教室を見回す。
浅黒い肌のクラスメイトを見つけ、歩み寄る。そういえば、彼とはまだ一度も話したことがなかった。もう新しいクラスが始まって3ヶ月が経とうとしているのに、驚くほど接点がない。
でも、別に見ず知らずの人に声をかけるわけではないのだ。机のそばまで歩み寄り、声をかけた。
「神代(かみしろ)君」
返事はない。それどころか目も合わない。
耳にはイヤホンを付けており、目も閉じているので気づいていないのだろう。神代くんは、普段から無口で大人しい。こうして面と向かうのも初めてなので、なんだかそわそわする。
よく見ると制服はオーバーサイズのものを着用していて、袖が肘の下まであった。暑くないのかな、と首を傾げた時、神代君の目が開いた。
「あ、ごめん。起こしちゃって。神代君って水泳部だったよね。水着の予備とかって、部室に置いてないかな?青柳が忘れちゃってさ」
切れ長の目。少し警戒した表情。その雰囲気は、まるでヒョウみたいだなと思った。正直怖い。
けれどまっすぐこちらを見る目は、澄んでいて綺麗だった。頬杖をついていた手が、制服の袖へと伸びる。ぎゅっと掴む手は力が入って見えた。
「あるけど」
「ほんと?助かるよ」
遅れてこちらに来た青柳は、「まじか、さんきゅ!」と頭を下げる。さっきまで俺の後ろに隠れていたくせに、調子が良いなと苦い笑みを浮かべる。冷たい人かと思ったけれど、優しい人みたいで良かった。
用は済んだか、とでも言うように、神代君は俺たちを交互に見る。「ありがと」と声をかけると、イヤホンをまた装着して目を閉じてしまった。
「助かったよ、朝田。実を言うと、神代のことちょっと苦手でさ。声かけづらかったんだよな」
その点、お前はすげーよと肩を叩かれる。
「そのカラッとした性格が羨ましいわ。俺にも、もーちょいお前のコミュ力と人間力があればなぁ」
なんだよ、人間力って、とどこかの啓発本で仕入れたのであろう、聞き慣れぬ単語を並べる青柳を睨む。こいつの中で、俺は過大評価され過ぎだ。
ただ、水着を借りられるか聞いただけで、持ち上げられても正直困る。
ふと視線を感じて横を見ると、目を閉じていたはずの神代くんが、じっとこちらを見つめていた。その見上げる顔は、やはり表情がなく読み取れない。
目が合うと、静電気でも走ったように逸らされてしまった。何か俺の顔についていたかと頰の辺りを触ってみる。
そのタイミングで授業開始のチャイムが鳴った。

**

青柳が言った通り、今日も最高気温を更新したらしい。プールへ移動するだけで、ジリジリと日差しが降り注ぎ、汗が背中から吹き出す。
運動場の脇に植えられた木々から蝉の声が響いており、思わず耳を塞ぐ。暑さで頭がぼんやりするので、さらに体調が悪化しそうだ。
更衣室に入ると、すでに誰もいなかった。教室を出たのが最後だったので、それも当たり前かと、ロッカーの鍵を開ける。キィ、と音が響いたかと思うのと同時に、後ろの扉が開いた事に気づいた。
扉を開けた本人も、俺がまだいるとは思わなかったのだろう。勢いよく開いたので、思わず後ろを振り向く。神代くんが目を丸くして立っていた。

「か、神代君もギリギリだったんだね」
「……予備の水着を渡した後、ついでに部室に寄ったから」
そう言って、ロッカーの鍵を閉めるために、鞄の中から小銭を取り出す。いつも使っているからか、小銭入れは紐がほつれていて、布が色褪せていた。
上段のロッカーは全て使用済みのため、もう下段しか残っていない。けれど数は多いので、場所がない事はなさそうだ。
「水泳部ってさ、確か去年全国大会に出場したよね? すごいよなぁ、格好いい。横断幕が校舎に垂れいるの見たことあるよ」
「……まあ」
「神代君は専門何?」
「………自由形」
「大会で賞取ったことあんの?」
「………一応」
声がどんどんと遠くなっていく。手前のロッカーも空いているのに、わざわざ隅にある使いにくそうな場所を使おうとしていた。
「なんか、遠くね?」
「こんだけロッカー空いてんだから、狭いところで使う必要もないだろ」
それもそうだが、あまりにも露骨だ。
今まで話したことないし、気まずいのも分からなくもない。けれど、こうも分かりやすく態度で示されると、どう反応しようか困る。あまり話しかけない方が良いかと、距離を取ろうとした。
ばさり、と服の脱げる音がする。ふと神代君の方を向いてしまう。
ぶかぶかの制服シャツの下から、浅黒い焼けた肌が見える。二の腕は膨らみがありつつも、しなやかで、ただ筋肉がついているだけではなく、線が通っているかのように綺麗だ。ぐっと前屈みになると、背筋に力が入り、肩、腰、足が引き締まる。同じ高校2年生とは思えなかった。
前髪が鬱陶しかったのか、左右に髪を振ってから、かき分ける。長いまつ毛が瞬く。ベルトを緩め、ズボンを下ろす手が動く。気づくとじっと見つめていた。
「おい」
低い声が響く。
「さすがに見過ぎじゃね?」
すぐには反応出来なかった。言葉が耳からこぼれ落ちてしまう。けれど、徐々に顔が熱くなった。
「は!?」
「朝田って、もしかして変態?」
「ちげーし!そうじゃなくて、ただ」
「ただ?」
ただ……ただ何だ?
自分のことなのに答えが出ずに、言葉に詰まる。神代君は眉間に皺を寄せたまま、じっと睨んでいた。
「根比べでもしたかったのかよ」
「んなもん比べるか!」
そのタイミングちょうど良く体育の先生が呼びに来る。もうチャイムは鳴っていた。
「おい、2人とも。さっさと着替えて集合しろよ。点呼始めるから」
「はい、分かりました」
何をぼんやりしているのだ。いつものように軽く流して冗談でも言っておけば良いのに。早く着替えてここから逃げようと、ズボンに手を掛ける。
その瞬間、ぐっと引っ掛かりを覚えた。思わず股間を凝視する。
まじか。まじか。嘘だろ。え、何で?
咄嗟にズボンを上げる。既に水着に着替え終わった神代君が、キャップとゴーグルを右手に持ち、こちらを見た。
「朝田。着替えねーの? 先生呼んでるけど」
「……」
「朝田?」
何か言わないと。誤魔化さないと。神代君に気づかれてはいけない。
「わりぃ。先行ってて。ちょっと暑さのせいで気分が悪くてさ。軽く休んでからいくわ」
「……先生に、言っておいた方が良いか?」
「うん、助かる」
神代君は、たぶん悪い奴じゃない。無愛想だけれど、基本的に優しい奴だ。けれど、今はその優しささえも、今は居た堪れない。
「分かった。無理すんなよ」
そう言って出ていく神代君を笑顔で見送り、すぐに正面へと向き直す。もう一度確認する。間違いなく、確実に勃っていた。
意味がわからない。最悪だ。プールどころではない。あいつの裸を見て興奮したのだとしたら、ガチの変態だ。
何に反応したのだろう。少し記憶を遡り、日焼けした肌と、引き締まった筋肉を思い出す。腹筋割れて、脂肪のない健康的な体躯だ。別に青柳や他の友達の裸を見ても、何とも思わなかったのに。
俺は、男の体を見て興奮したのか。
性的な目で見たことなんて一度もないから、そんな事を考えても自分のことには思えない。物静かで口数が少なく、何を考えているか分からない。今日みたいに唸るような暑さの日でさえも、二の腕まで長いシャツで過ごし、涼しい顔をした神代君の、知らない部分を垣間見たせいで、妙な好奇心が働いたのかもしれない。
それか、今日の唸るような猛暑のせいだ。ずっと頭はぼんやりしていたし、ちょっと感覚がおかしくなっているのだ。
涼しい部屋で休もうと、脱ぎかけていたズボンを上げて、鞄を手に外へ出る。プールサイドには、ラジオ体操の声が響いていた。
一番奥の列に、面倒くさそうな顔をして神代君が立っている。姿勢が良く背も高いせいか、1人だけ頭一つ抜けて見えた。
今まで気づかなかったけれど、クラスの中心にいてもおかしくないくらい、オーラがあって顔立ちも整っている。本人が暗く何を考えているか分からないせいで、周りが近づかないのだけなのか。
「あの、先生」
呼びかけると、ベンチで名簿を確認していた体育の先生が、俺を見て「体調は平気か?」と尋ねた。
「すみません。やっぱ回復しなさそうなので、ちょっと保健室で休んできます」
「おう、分かった。ちゃんと水分補給しろよ」
意識したつもりはない。でも、なるべく神代君の方を見ないように、早足でその場を去った。

**

放課後、青柳は髪を乱暴に掻きむしっていた。
「暑い!もう日本の夏は終わりだ!」
「放課後はクーラーもないしな。さっさと日誌書いて帰ろーぜ」
今日日直だった事を忘れていたらしく、その罰として、ペアの女子に日誌の当番だけ任されたらしい。既に教室には俺と青柳だけだった。
「俺の代わりに書いてくれよ。……今日一日の記憶なんて、もうなくなってるよ」
「1限目は数学。来週小テストをするから、問題集の24ページから26ページの復習を重点的にやっとけって言ってただろ。2限目は体育。女子は卓球で男子は水泳。来週は男女逆になるから、一応備考にメモでもしておけよ。それで3限目は…」
何やら視線を感じるので目を上げると、間抜けな顔をして青柳が固まっている。せっかく人が親切に教えているのに無反応かよ、と苛立ちを覚えて、ノートで軽く頭をはたいた。
「おい、何ぼーっとしてんだ。はよペン動かせ」
「いや、前から思ってたんだけどさ、朝田はまじで、優等生の鑑だよ」
ちくり、と胸が痛む。青柳の一ミリも悪気のない笑顔が、逆に傷口を抉る。
「まじで、お前と友達で誇らしいわ」
何と返事をすれば良いだろう。口角は意識的に上がる。それから、「んなことねーよ」と軽くあしらった。
「褒めても何もやらねーからな。さっさと書いて終わらせろよ」
「へいへい」
彼の純粋な言葉が、棘のように刺さる。青柳も、俺をそんな風に見るんだな。と、失望に似た感情が腹の底に溜まり始めた。
「あれ、神代君じゃね?」
振り返ると、確かに彼がそこにいた。音もなく教室の入り口に立っていたので、全く気が付かなかった。
「今日はほんと助かったよ。洗濯して明日持ってくるな」
「おう」
青柳こそ人懐っこくて、俺よりもコミュ力は高い。素直で馬鹿なところも愛嬌だ。こいつみたいに振る舞う事が出来たらな、と心底思う。
「朝田」
神代君に名前を呼ばれ、顔を上げた。
「……体調は、もう良いのか」
心配してくれるのか。ぶっきらぼうだけれど、やっぱり優しい奴だよな、と心の中で再評価する。
「あの後休んだらだいぶマシになったわ。先生に言ってくれてさんきゅな」
「そうか」
「あと、ロッカーのことも…」
言いかけて、止まる。額に神代君の手が触れていた。
「ん。顔赤くなってたのも戻ってるしな。とりあえず良かったわ」
手から、塩素の匂いがする。体育の授業から、もう何時間も経っているのに。さっき、水泳部で泳いできたのだろうか。
まずい、と予感した。脳裏にチラつく。神代君の後ろ姿、二の腕、背中、腰、そのまま想像が膨らんでいくのが怖かった。
「神代君は今から部活なの?」
青柳が声をかける。手が離れ、熱は徐々に溶けていく。
「今日は用事あるから、もう帰る」
そう言ってから、神代君の瞳がほんの少し揺れた。ズボンのポケットを探る手が速くなり、すぐに止まる。
「……スマホ忘れた」
ぼそりと呟き、持っていた鞄を机に置いて、部室へと引き返していった。
良かった。危なかった。
「よし、日誌書けたわ。まじで助かったわ朝田。あとは職員室に持っていくだけ…あれ」
「ん?」
「顔赤いぞ、どした?」
そんなはずは、と思い窓ガラス越しに自分と目が合う。開いた瞳孔。首筋から流れる汗は、きっと暑さだけのものではない。頬を拭うと驚くほど熱かった。
「何もねーってば。日誌早く持っていけよ。待ってる間にラーメン屋探しとくから」
「そっか。よっしゃ!秒で行ってくるわ」
青柳が走り去っていくのを確認し、大きくため息をつく。引き攣る顔をほぐしながら、スマホの画面を開く。まだ17時だ。いつもの駅前のラーメン屋なら、まだ空いているはずだ。いわゆる二郎系とかではなく、テーブル席に向かい合って話せる場所が、俺と青柳の行きつけなのだ。
予約画面を開くと同時に、熱風が窓から入り込む。その拍子でカーテンが膨らみ、紙がひらりと床に落ちた。神代君の鞄から落ちたらしい。
拾うと今日の小テストの回答用紙で、見事に全問正解だった。頭も良いのかと感心する。すると、鞄からタオルがはみ出ているのに気づく。乱暴に突っ込まれたそれに、妙に惹かれた。
自分でも、何でそんな事を思ったのかわからない。まだ熱が残っているせいだろう。さすがにキモいと分かっている。
すん、と匂いを嗅いでいた。触れられた手よりも、ずっと塩素の匂いが強く残っている。徐々に体温が上昇し、耳まで熱くなる。心臓の鼓動がどんどんと早くなっていく。暑いのは一緒の筈なのに、嫌な熱さではなくなっていった。
こんなところ、誰かに見られたらどうしよう。クラスメイトの誰かに。青柳に。きっと誰であっても、言い訳なんて出来ない。
けれど、やめなられなかった。タオルをそのまま握っていた。

「朝田?」

空気が凍る。
神代君が見たこともないような顔をして、俺をじっと見つめていた。どうして彼は、教室に入る時、音を立ててはくれないのだろう。驚きに満ちたその表情は、時が止まったように動かなかった。無理矢理タオルを鞄の中に押し込み、逡巡する。額を流れる汗は冷たくなっていた。
「は、はははははは!!あ、えっと、これはだな!ちげーんだよ!これはさ…」
やばい。言い訳は何も思いつかない。今すぐここから逃げたい。早く帰って来てくれ青柳。
と、その場から後退りしようとした途端、ぐっと手首を掴まれる。その力の強さに、軽くバランスを崩した。
「お前、まじの変態じゃん。まさか俺の匂い嗅いで、興奮してんの」
逃げられない。神代君のぴくりとも動かない表情が更に焦りを増幅させる。
「違う。俺は変態じゃない。だ、大体俺、男だぞ。神代君に興奮するとか…」
息を短く吸う。
「さすがにキモいだろ」
すると、掴む手の力が緩んだ。離してくれたと思いきや、何か複雑な表情を浮かべている。眉間に寄せる皺が深くなった。
「……一旦、それ返して。俺このまま帰るからさ」
「お、おう」
見逃してくれるのか。神代君は、どう思っただろう。どちらにせよ助かった、と胸を撫で下ろしつつタオルを渡す。
すると、手に置いた瞬間、神代君はゆっくりと口を開いた。
「朝田とは、喋ったことなかったから知らなかったけど」
一呼吸間をおく。顔を上げると、彼の口角が僅かに上がっていた。
「面白いんだな」
面白い?俺が?
「いつも周りの雰囲気作るためにニコニコしてるから、何考えているのか分からないし、胡散臭い奴とは思ってたけど、案外人間らしい所あるんだと思って」
「ひ、引いてんじゃねーの?」
「引く?別に。変態だとは思ったけれど」
「それが、引いてるって言うことだろ」
「じゃあ、言い方変える。興味が湧いた」
神代君は、まっすぐこちらを向く。彼の瞳の奥には、何の濁りもなく綺麗だった。
「朝田みたいな良い子の皮被った変態が、何を考えているのか気になる」
ぐっと距離がつまる。顔を覗き込むように、神代君が前屈みになって近づいてくる。制服のシャツが汗で張り付いている。二の腕が透けて見える。
「朝田は俺の何で興奮してんの?」
「ちょ……言い方」
「教えてくれよ。優等生」
一目惚れ?いや、違う。そんな甘く淡い言葉で片付けられるほど、この感情は綺麗なものではない。匂い、仕草、その表情が、俺の中の何かに刺さってしまったらしい。今この瞬間だって、神代君の匂いで心臓の鼓動が速くなっている。
どうすれば良いか分からないが、これだけは言える。
彼と関わるのは、危険だ。