彼女は、海が嫌いだった。
潮の匂いも、耳に残る波音も、すべてが苦手だと言っていた。
それなのに、その日、彼女は言った。

「どうしても、海が見たいの」

病室を抜け出し、車で二時間。
冬の海は、人影もなく、風だけが頬を切った。

彼女は静かに波打ち際まで歩く。
僕は不安になって問いかけた。

「嫌いだったんじゃないの?」

彼女は振り返って、少し笑った。

「うん。でもね、私がこの世で嫌いなものも、あなたとなら、きっと好きになれる気がしたの」

その瞬間、灰色だった海が、彼女の瞳の中で優しい色に変わって見えた。
潮風に髪を揺らしながら、彼女は小さく呟く。

「ほら、思ったよりきれいだね」

僕はその横顔を、世界で一番きれいな景色として、ずっと胸に焼きつけた。