残業続きで、心も体もボロボロだった。
パソコンの画面が滲んで見え、指先は震え、息は浅い。

このまま崩れてしまいそうで、でも、崩れる場所なんてなかった。

帰宅すると、彼女が台所に立っていた。
僕の顔を一目見るなり、包丁を置き、何も言わずに歩み寄ってくる。
そして、背中からそっと腕を回した。

「......おかえり」

それだけ。
けれど、その声は、胸の奥で絡まっていた糸を静かにほどいていく。

「ねえ、知ってる?」

抱きしめたまま、彼女が小さく笑う。

「ハグとかキスってね、ストレスを減らす効果があるんだって。科学的にも証明されてるらしいよ」

「…...だから?」

「だから、今日のあなたには必要だと思ったの」

頬に触れる温もり。
唇が触れた瞬間、胸のざわめきも、頭の重さも、静かに溶けていった。

その夜、僕は知った。
癒しって、薬や休暇じゃなくて、たったひとりの人の手の中にある。
そしてその人がくれる温もりは、世界でいちばん確かな「生きていてよかった」と思える理由だった。