僕に与えられた初めての仕事は、館内の清掃だった。
お客さんがチェックアウトしたあとの部屋に入り、布団のシーツを交換したり、ゴミを掃除したりする。掃除機は炊飯器みたいな形をしていて、コードが邪魔だしあまり小回りが利かない。操作に四苦八苦しながら、お客さんの忘れ物がないか確認する。
赤上荘は十部屋あるので、満室時はこの工程を十回繰り返す。夏休みに突入すればほぼ毎日だろう。
ここまででも重労働だけど、掃除するのは客室だけじゃない。
受付や廊下はもちろん、大浴場だって綺麗にする必要があった。
大浴場は男湯と女湯に分かれていて、それぞれに大きな湯船がある。僕は美羽の父親である保さんに借りたジャージの裾を捲り上げ、モップで丁寧にタイルを磨き上げていた。
途中、保さんがやってきて「腕じゃなくて腰で磨くんだよ」と実践してくれた。モップを操る保さんがあまりにも笑顔だったので、すこし、いやかなり怖かった。
あとから理由を聞くと、どうやら赤上荘が綺麗になっていくのが心底嬉しいらしい。保さんにとって、この場所は宝物なのだろう。
すべての清掃を終えて母屋に戻る頃には、すでにお昼を回っていた。
居間に向かうと、恵子さんが朝食兼昼食を用意してくれていた。
僕が住み込みで働く間は、三食が保証されている。これだけでもありがたいのに、給料まで支払ってくれるという。美羽が貰っていないので僕も断ろうとしたけれど「労働の対価は受け取るべき」と恵子さんに言われたので、ありがたく受け取ることになった。
美羽は終業式で学校に行っているので、今日の食卓は静かだ。
僕は煮魚を箸でほぐしながら、今後について考える。
まず、ここでずっと働くわけにはいかない。僕には戸籍が存在しないし、仮に再取得できても学歴は戻ってこない。大人になればなるほど、不都合なことが増えていくだろう。目下すべきことは、鳥居の法則性を知ることだ。
そう結論づけながら、食べ終えた食器を洗う。
洗剤は現代のものと比べると泡立ちが悪く、何度もスポンジを揉む必要がある。それでも綺麗に洗い終えれば、夕方までは自由時間だ。部屋でひと眠りしてもいいし、外へ出かけてもいい。
「……そもそも、鳥居ってこの時代にも残ってるのかな」
鳥居の劣化具合からして、もう何十年も前からあると勝手に決めつけていた。けれど、この時代に鳥居がなければどう頑張っても帰れない。まずは確認するべきだろう。
疲れが残る身体に鞭を打ち、ふたたび母屋の外へ出る。元の時代よりも建物が低いからか、島の北側には青空を背負った皇踏山がはっきりと見えた。
夏風を浴びながら、木造の民家が立ち並ぶ路地を歩く。蝉の声が遠くから聞こえてきて、乱暴に鼓膜を揺らす。軒先に干された白いタンクトップ。水が撒かれたばかりの植木鉢。気温はさほど高くないはずなのに、むせ返るほどに夏の気配が濃かった。
ふと前方の曲がり角からふたつの影が飛び出したので、ぶつからないように立ち止まる。
「あれ、千晴くんだ」
影の正体は、制服姿の美羽と裕子だった。
終業式を終え、夏休みが始まったからか、どこか上機嫌な面持ちに映る。
「どこか行くのー?」
「ちょっと散歩でもしようかなって」
皇踏山まで、と言ってしまうと説明が面倒くさくなりそうなので、適当に濁す。
「そっかそっか、千晴くんはお散歩好きなんだねえ」
「ウチの島なんて三日で飽きるのに」
「えー、そうかな? 私ぜんぜん飽きないよ」
「私は美羽みたく地元愛が強くないから」
二人の会話を聞きながら、僕は思いつく。
鳥居の噂は、この時代にも存在するのだろうか。
「二人にちょっと聞きたいんだけどさ、願いが叶う鳥居の噂って知ってる?」
僕が問うと、裕子が顎に手を添える。
「なんかそんなの、小学生の頃に流行った気がする」
「あったあった! 懐かしいなあ。千晴くん、なんで知ってるの?」
「えっと、すれ違った子がたまたま噂してて」
僕の言い訳を二人はとくに疑う素振りもなく、鳥居についての思い出話を繰り広げる。
「……皇踏山にあるんだっけ。クラスの皆で探し回ったことあるよね」
「あったな。美羽が遭難しかけたやつ」
「あれは私じゃなくて、皆が迷子になったんだよ」
「よく言うよ。鼻水垂らしてびいびい泣いてたくせに」
どうやら鳥居はこの時代にも存在するらしい。
僕がほっと胸を撫で下ろしていると、二人の話題は願い事の内容に発展していた。
「裕子ちゃんは、もしあの日に鳥居を見つけたらなんて願ってた?」
「エレキギターが欲しかった。ちょうどザ・ベンチャーズが流行ってた時期だし」
「なんか、ちっちゃいお願いだね」
「そりゃそうでしょ」
裕子が笑いながら言う。
「だって、あの鳥居は与えてくれるだけじゃないからな。大きな願い事だったら、なにが起きるかわからないし」
その言葉に、僕は思わず口を挟んでしまう。
「どういうこと?」
半ば前のめりになりながら、話の続きを促した。
「お、興味津々だな」
裕子はにたりと笑い、からかうように僕をつついてくる。
「そんなに知りたいか?」
「……詳しく教えてほしい」
僕の態度に裕子はやや面食らった様子だったが、仕方ないなと頭を掻きながら語ってくれた。
「皇踏山のどこかにある鳥居を、鍵で傷つけながらくぐったら願い事が叶うんだよ。ただし代償として大切ななにかを失う。まあ、大切ななにかってのがわからない。命かもしれないし、夢やお金かもしれない。そのへんの詰めの甘さはなんというか、小学生が考えた噂ってカンジだよな」
裕子の言葉が頭の中で反響する。
僕の時代に伝わっている噂とは異なる。いや、正確に言えば代償の部分が抜け落ちているのだ。噂話として何度も伝わるうちに、都合のいい部分だけが生き残ったに違いない。
「……ってことは」
僕はその場にうずくまり、逡巡する。
岬が助かる未来が訪れてほしいという願いは、なんらかの形で叶えられたのかもしれない。僕が五十年前に飛ばされてしまったのは、その代償ということだろうか。
でも、自分がなにかを失っている感覚がない。
便利な生活を手放したとも捉えられるけれど、大切なものとまでは言い切れない。
「……千晴くん、大丈夫? またまた顔色が悪くなってるよ」
「昨日も喫茶店で様子がおかしかったんだっけ。調子が戻ってないのか?」
心配そうに二人が僕を覗き込む。
僕はなんとか平静を装いつつ、あくまでも半信半疑という体裁で質問を口にする。
「その鳥居って、本当にあるのかな」
僕が問いかけると、美羽の身体がわずかに動いた。
「どうだろ? あったらいいよね」
ふにゃっと微笑む美羽の表情には、どことなく影が差しているような気がした。
お客さんがチェックアウトしたあとの部屋に入り、布団のシーツを交換したり、ゴミを掃除したりする。掃除機は炊飯器みたいな形をしていて、コードが邪魔だしあまり小回りが利かない。操作に四苦八苦しながら、お客さんの忘れ物がないか確認する。
赤上荘は十部屋あるので、満室時はこの工程を十回繰り返す。夏休みに突入すればほぼ毎日だろう。
ここまででも重労働だけど、掃除するのは客室だけじゃない。
受付や廊下はもちろん、大浴場だって綺麗にする必要があった。
大浴場は男湯と女湯に分かれていて、それぞれに大きな湯船がある。僕は美羽の父親である保さんに借りたジャージの裾を捲り上げ、モップで丁寧にタイルを磨き上げていた。
途中、保さんがやってきて「腕じゃなくて腰で磨くんだよ」と実践してくれた。モップを操る保さんがあまりにも笑顔だったので、すこし、いやかなり怖かった。
あとから理由を聞くと、どうやら赤上荘が綺麗になっていくのが心底嬉しいらしい。保さんにとって、この場所は宝物なのだろう。
すべての清掃を終えて母屋に戻る頃には、すでにお昼を回っていた。
居間に向かうと、恵子さんが朝食兼昼食を用意してくれていた。
僕が住み込みで働く間は、三食が保証されている。これだけでもありがたいのに、給料まで支払ってくれるという。美羽が貰っていないので僕も断ろうとしたけれど「労働の対価は受け取るべき」と恵子さんに言われたので、ありがたく受け取ることになった。
美羽は終業式で学校に行っているので、今日の食卓は静かだ。
僕は煮魚を箸でほぐしながら、今後について考える。
まず、ここでずっと働くわけにはいかない。僕には戸籍が存在しないし、仮に再取得できても学歴は戻ってこない。大人になればなるほど、不都合なことが増えていくだろう。目下すべきことは、鳥居の法則性を知ることだ。
そう結論づけながら、食べ終えた食器を洗う。
洗剤は現代のものと比べると泡立ちが悪く、何度もスポンジを揉む必要がある。それでも綺麗に洗い終えれば、夕方までは自由時間だ。部屋でひと眠りしてもいいし、外へ出かけてもいい。
「……そもそも、鳥居ってこの時代にも残ってるのかな」
鳥居の劣化具合からして、もう何十年も前からあると勝手に決めつけていた。けれど、この時代に鳥居がなければどう頑張っても帰れない。まずは確認するべきだろう。
疲れが残る身体に鞭を打ち、ふたたび母屋の外へ出る。元の時代よりも建物が低いからか、島の北側には青空を背負った皇踏山がはっきりと見えた。
夏風を浴びながら、木造の民家が立ち並ぶ路地を歩く。蝉の声が遠くから聞こえてきて、乱暴に鼓膜を揺らす。軒先に干された白いタンクトップ。水が撒かれたばかりの植木鉢。気温はさほど高くないはずなのに、むせ返るほどに夏の気配が濃かった。
ふと前方の曲がり角からふたつの影が飛び出したので、ぶつからないように立ち止まる。
「あれ、千晴くんだ」
影の正体は、制服姿の美羽と裕子だった。
終業式を終え、夏休みが始まったからか、どこか上機嫌な面持ちに映る。
「どこか行くのー?」
「ちょっと散歩でもしようかなって」
皇踏山まで、と言ってしまうと説明が面倒くさくなりそうなので、適当に濁す。
「そっかそっか、千晴くんはお散歩好きなんだねえ」
「ウチの島なんて三日で飽きるのに」
「えー、そうかな? 私ぜんぜん飽きないよ」
「私は美羽みたく地元愛が強くないから」
二人の会話を聞きながら、僕は思いつく。
鳥居の噂は、この時代にも存在するのだろうか。
「二人にちょっと聞きたいんだけどさ、願いが叶う鳥居の噂って知ってる?」
僕が問うと、裕子が顎に手を添える。
「なんかそんなの、小学生の頃に流行った気がする」
「あったあった! 懐かしいなあ。千晴くん、なんで知ってるの?」
「えっと、すれ違った子がたまたま噂してて」
僕の言い訳を二人はとくに疑う素振りもなく、鳥居についての思い出話を繰り広げる。
「……皇踏山にあるんだっけ。クラスの皆で探し回ったことあるよね」
「あったな。美羽が遭難しかけたやつ」
「あれは私じゃなくて、皆が迷子になったんだよ」
「よく言うよ。鼻水垂らしてびいびい泣いてたくせに」
どうやら鳥居はこの時代にも存在するらしい。
僕がほっと胸を撫で下ろしていると、二人の話題は願い事の内容に発展していた。
「裕子ちゃんは、もしあの日に鳥居を見つけたらなんて願ってた?」
「エレキギターが欲しかった。ちょうどザ・ベンチャーズが流行ってた時期だし」
「なんか、ちっちゃいお願いだね」
「そりゃそうでしょ」
裕子が笑いながら言う。
「だって、あの鳥居は与えてくれるだけじゃないからな。大きな願い事だったら、なにが起きるかわからないし」
その言葉に、僕は思わず口を挟んでしまう。
「どういうこと?」
半ば前のめりになりながら、話の続きを促した。
「お、興味津々だな」
裕子はにたりと笑い、からかうように僕をつついてくる。
「そんなに知りたいか?」
「……詳しく教えてほしい」
僕の態度に裕子はやや面食らった様子だったが、仕方ないなと頭を掻きながら語ってくれた。
「皇踏山のどこかにある鳥居を、鍵で傷つけながらくぐったら願い事が叶うんだよ。ただし代償として大切ななにかを失う。まあ、大切ななにかってのがわからない。命かもしれないし、夢やお金かもしれない。そのへんの詰めの甘さはなんというか、小学生が考えた噂ってカンジだよな」
裕子の言葉が頭の中で反響する。
僕の時代に伝わっている噂とは異なる。いや、正確に言えば代償の部分が抜け落ちているのだ。噂話として何度も伝わるうちに、都合のいい部分だけが生き残ったに違いない。
「……ってことは」
僕はその場にうずくまり、逡巡する。
岬が助かる未来が訪れてほしいという願いは、なんらかの形で叶えられたのかもしれない。僕が五十年前に飛ばされてしまったのは、その代償ということだろうか。
でも、自分がなにかを失っている感覚がない。
便利な生活を手放したとも捉えられるけれど、大切なものとまでは言い切れない。
「……千晴くん、大丈夫? またまた顔色が悪くなってるよ」
「昨日も喫茶店で様子がおかしかったんだっけ。調子が戻ってないのか?」
心配そうに二人が僕を覗き込む。
僕はなんとか平静を装いつつ、あくまでも半信半疑という体裁で質問を口にする。
「その鳥居って、本当にあるのかな」
僕が問いかけると、美羽の身体がわずかに動いた。
「どうだろ? あったらいいよね」
ふにゃっと微笑む美羽の表情には、どことなく影が差しているような気がした。

