世界でいちばん遠いところにいる君と


僕と美羽は、ほとんど無言のまま朝を迎えた。

荷物を抱えながら床で寝転んだ僕は一睡もできず、ただ美羽の言動について考えることしかできなかった。美羽もまた、眠れなかったらしい。目の下にはうっすらとクマが浮かんでいて、ときおり大きなあくびをしている。

美羽の両親には響さんが連絡してくれたみたいで、チェックアウトの際に僕たちはお礼を述べた。突然の外泊、それも男女が同じ部屋で過ごすにもかかわらず寛容なのは、きっと美羽の体調が関係している。見ず知らずの僕を赤上荘で雇ってくれたのも同様だろう。

ビジネスホテルを出ると、僕の心を投影したように鈍色の空が広がっていた。厚い雲がどこまでも町を覆い、今にも雨が降り出しそうな気配だった。

「今日は早めに帰ろっか」

美羽の言葉に僕は頷く。

どことなく、美羽の横顔は(ほの)(ぐら)かった。

昨夜、なぜ停滞を望んでいたのか。その答えは未だわからない。自身の体調を案じているのか、僕がこの時代の人間じゃないことを悲しんでいるのか、それすら判別できない。無力な僕は、美羽の体調を心配することしかできなかった。

池田港に到着した僕と美羽は、そのまま土庄行きの路線バスに乗り込んだ。次第に雨が降ってきて、窓ガラスを打ち鳴らす。不規則な音に耳を傾けていると、左肩に重みを感じた。

「美羽?」

規則的な寝息を立てながら、美羽は眠っている。その表情はとても安らかで、いたって健康な女の子にしか見えない。

僕が考えていることなんて()(ゆう)で、あの錠剤はただの風邪薬だ。

そんな都合のいい可能性に縋りながら、ほのかな体温を感じていた。

土庄町に到着した頃には雨が本降りになっており、僕たちは身体を濡らしながら必死になって駆けた。

「あはは、びしょ濡れになっちゃうね」

僕の前を走る美羽は、とても力強く見える。

まるで、僕の不安を吹き飛ばすような足取りだった。

きっと考えすぎなのだ。

何事もなく夏は過ぎ去って、僕はゆっくりと決断を下せる。

そんな祈りを胸にしながら、赤上荘の母屋に辿り着いた。

美羽は髪から雨を滴らせながら「ただいま」と元気よく声を出す。

居間から恵子さんが顔を出し、僕たちの姿を見て呆れたように笑う。

「バスタオル持ってくるわね」

「うん、ありがとう」

僕たちは身体を拭き、交代で入浴した。そうして落ち着くと、一気に睡魔が襲いかかってきた。昨日ろくに眠れなかったツケが回ってきたのだろう。

僕は自分の部屋に戻り、敷布団の上で横になる。

そのまま目を瞑ると、すぐに意識が薄れていく。

どこからか声が聞こえる。

僕を呼ぶ声が反響のように重なり合い、やがてひとつに収束していく。僕の脳を中心にして、くるくると回転するような感覚。

そんな()(どろ)みに身を委ねていると、いつしか意識を手放していた。

それから、どれくらいの時間が経ったのだろう。

次に僕の名前を呼んだのは、恵子さんだった。

激しく身体を揺さぶられ、僕は半ば無理やり覚醒する。

「――千晴くん!」

違う。これは夢じゃない。

慌てて飛び起きると、恵子さんが必死の形相で僕を揺さぶっていた。

「ど、どうしたんですか」

「美羽がどこにもいないの。母屋にも、民宿にも見当たらなくて……」

絞り出すような声には、悲壮感が滲み出ていた。

時計を見やると、時刻はすでに二十三時を回っていた。相変わらず外は激しい雨で、散弾銃のような音が絶え間なく鳴り響いている。

こんな時間、そのうえ悪天候。

外に出なければいけない用事なんて、あるはずがなかった。

「――捜してきます!」

恵子さんの静止を振り切って、すぐに部屋を飛び出した。スニーカーの(かかと)を踏んづけたまま外に出て、美羽の名前を叫んだ。けれど、闇の中で降り注ぐ雨は視界どころか音をも遮ってしまう。それでも僕は、白い霧を切り裂くように走り、どこにいるかもわからない美羽を捜す。

「どこに行ったんだよ!」

あてがない、心当たりがない。

こんな状況下で頼るべき人物は、一人しかいなかった。

喫茶店の前に辿り着いた僕は、扉を何度もノックする。雨音に間違われないよう、壊れるんじゃないかと思うくらいに力強く。

「うるせぇな、何時だと思ってんだ……」

勢いよく開いた扉から、怒り心頭の裕子が顔を出す。

けれど僕の姿を認めた瞬間、異常事態を察したようだった。

裕子は落ち着きを取り戻し、静かに問いかけてくる。

「どうしたんだよ」

その反応は、ここにも美羽がいない証でもあった。

僕は俯きながら、事の経緯を手短に説明する。

「美羽がどこにもいないんだ。心当たりはない?」

「こんな時間に美羽が行きそうな場所なんて、どこにもないぞ」

裕子も思い当たる節がないらしく、苦々しく顔を(ゆが)める。

僕は礼を述べて、ひどく重い全身に鞭を打つ。

「――おい、千晴!」

裕子の声を無視して、僕はふたたび闇の中へと駆け出した。

どこかで靴が脱げてしまったらしく、左足の裏に鋭い痛みが走る。白い靴下は赤く滲み、雨と一緒に血が滴り流れていく。それでも僕は美羽を捜し続けた。

このまま、二度と会えないかもしれない。そんな不安が大きくなってくる。

「どこにいるんだよ」

寒さと痛さで意識が朦朧としたまま歩いていると、いつの間にか美羽と出会った防波堤の前にいた。夜のなかで海は荒れ、打ち付ける波が道路にまで押し寄せる。たくさんの音と飛沫が混ざり合い、僕の視覚と聴覚はほとんど意味を成さなかった。前後左右がわからないまま、激しく転倒してしまう。疲労なのか、打ち寄せた波に足を取られたのかさえわからない。身体が引きずられ、激しい痛みが全身に伝わっていく。

雨音と波音。

「――千晴くん」

薄れゆく意識のなかで、美羽の声が届く。

美羽が近くにいる。

それだけを頼りにして、身体を起こそうとする。

まるで全身が泥に埋もれたみたいに重たくて、何度も何度ももがき続ける。

「――美羽!」

身体の奥底から出た叫びとともに覚醒する。

窓から差し込む朝日に、暖かい布団。

激しい音は小鳥の(さえず)りになり、かりそめの平穏を運んでくる。

フリップ時計は、朝の六時半を示していた。

「……あれ、僕。なんで、ここに」

意味がわからず、呆けてしまう。

辺りを見渡す。見間違えるはずがない。

ここは赤上荘の部屋の中だ。訳がわからない。

あれは夢だったのか。

頬をつねる。しっかりと痛みを感じる。

「なにが起きてるんだ……」

呟いても、答えは返ってこない。

「そうだ、美羽は!?」

飛び起きて母屋へ向かうと、玄関の扉がすっと開き、美羽が姿を現した。

「あれ、千晴くん頭ボッサボサだよ。もしかして寝坊した?」

美羽が冗談っぽく頬を膨らます。

白い格子柄のワンピースに、いつもよりカールが強い髪型。

目眩がするほどの既視感を覚えつつ、疑念を振り払うようにして美羽の肩を掴む。

「美羽、なんだよね?」

涙声で伝えると、美羽は怪訝な表情で僕を見た。

なんの話だ、といわんばかりに。

「もう、寝ぼけてるでしょ。このままじゃフェリーに乗り遅れるから、早く用意してきなよ」

「え?」

「え? じゃないよ。今から高松に行くんでしょ?」

その言葉で、確信してしまう。

「嘘だろ、そんなはず……」

言葉が夏に溶けていく。

僕はなぜか、美羽と高松へ出かける日に戻っていた。