今、僕の頭の中を占めているのは、たった二つのことだった。
 一つは、昼にレイヤくんと約束した、生徒会とサッカー部の打ち合わせのこと。
 もう一つは、残り四枚のカードに【キス】のミッションが含まれていること。
 カードを引くのはあと三回。つまり【キス】のカードが出ずに終わる確率は二十五パーセント。逆にいえば、今日中にレイヤくんとキスする確率は、七十五パーセントもある。

「ユウキくん、ねぇ、ユウキくんてば、聞いてるの?」
「え?あっ、ごめんなさい。なんでしたっけ?カケルさん」
「あらあら。何のことで頭がいっぱいなのかな、ユウキくんは?顔が赤いよ」
 そう指摘され、慌てて顔をペタペタと触り確かめるが、「フフフ」と笑われ、揶揄われたのだと分かる。
「もう、カケルさんの意地悪」
 二人で駅までの道を歩きながら、朝の空気を肺いっぱいに吸い込んで、冷静になろうと努めた。
「一週間くらい前から、表情がぐっと明るくなったね、ユウキくん。なんかいいことあった?」
「いいこと……。うん、あったかも」
「そっか、よかったね。大切にするといいよ、その気持ちを。焦らずに少しずつ、自分の中に生まれたものを育てていくといい」
「僕の中に生まれたもの……」
「もしくは、生まれたのはもっと前なのかな?ずっと心の奥底にあった小さなものが、今のタイミングで育ち始めたのかもしれない」
 一人っ子の僕にとってカケルさんは、本当のお兄さんみたいだ。僕は彼の言葉を素直に受け入れる。
「うん。そうするよ」
 駅の近くで、背後からレイヤくんが「よっ、おはよう」と声を掛けてくれた。首には僕が貸した紺色のマフラーが巻かれている。
 反対方向の電車に乗るカケルさんに手を振って、僕らは学校へと向かう車両に乗り込んだ。

 一緒に正門をくぐり、一緒に生徒会室へ入る。
 僕は通学カバンからプラスチックケースを取り出し、まるごとレイヤくんへ手渡した。
 レイヤくんは躊躇いもなく、一番上のカードに手をかけ、すっとめくろうとする。僕は咄嗟に目を瞑った。
 彼は【キス】のカードが出てしまう可能性が高いことに、迷いはないのだろうか?いや、こういうときもスマートで堂々としている。それが、レイヤくんの格好いいところなのだ。
 僕がゆっくりと目を開けば、期待とは違うカードが机の上に置かれていた。

【背中あわせでお喋りをする】

 一つの椅子に僕は右から、レイヤくんは左から座り、ピタリと背中を合わせる。顔は見えないが、彼の体温と、声の振動が背中越しに伝わってきた。
 予鈴が鳴るまで、まだ少し時間がある。いつもバタバタとしている僕らにはめずらしい、束の間のゆったりとしたひと時だった。
「ユウキはバイト代の二万円、何に使う予定?」
「あぁ、考えてなかったな。レイヤはもう決めた?」
「オレは、ユウキとどこかテーマパークに行きたい。どう?いい案だと思わない?」
 僕はいい案だと思いながらも、少し迷った素振りをする。そうすればレイヤくんが背中を押してくれると分かっていたから。
「行こうぜ、冬休み。一緒にさ」
 サラっとそんな返事をくれたけれど、レイヤくんの鼓動がドクドクと早くなったことが背中から伝わってきた。
 スマートでいつも堂々しているレイヤくんも、本当はこんなにもドキドキとしてくれていたのだ。
「うん、一緒に行こう。楽しみにしておく」
 誘ってくれたこと、やっぱり背中を押してくれたこと、僕のために胸を高鳴らせてくれたこと、全てがうれしかった。

 もし【キス】のカードが出たら、レイヤくんはドキドキしながらもそれを隠し、僕と向き合ってくれるだろう。
 だから僕も、ちゃんと受け入れなければいけないと思った。カケルさんが言うように、この気持ちを育てていきたいから。



 全科目のテストが終了し、校内には開放的な空気が流れていた。
 すぐ帰路に着く者。部活へ励むため学食へ走る者。まったりと教室に残りダラダラする者。
 そんな中、生徒会長のマコトくん、副会長の僕、サッカー部部長のレイヤくんが生徒会室で顔を合わせている。

「まず私から。来月、生徒会主催で地域の子どもを学校へ招待し交流会を行う。子どもが喜ぶような屋台や、室内遊びのブースは詳細が決まってきたが、目玉となるような催しが決まらない」
「あぁ、それでサッカー部に大道芸でもやらせようって?器用な奴が多いから、ジャグリングとか練習すれば上手くなるかも」
「話を最後まで聞け。オマエたちはサッカー部だろ。依頼するのは大道芸ではない、サッカーだ」
「サッカー?子ども向けイベントで、模擬試合でも見せるのか?」
「違う。サッカーをやったことがない子ども。サッカーを始めたばかりの子ども。それぞれとサッカーを通して遊んでやってほしい」
「サッカーを通して、遊ぶ……」
 ピンときてなさそうなレイヤくんに、僕が口をはさむ。
「練習のきつい我が校サッカー部に属しているような人たちは、きっとみんな、サッカーの楽しさを知っている人たちだと思うんだ。だからそれを、子どもたちにも教えてあげてほしい」
「サッカーの楽しさ、か」
「県大会準優勝のサッカー部とサッカーができるなんて、イベントの目玉として最適だ。どんな内容にするかはサッカー部に一任する。どうだ、できそうか?レイヤ」
 レイヤくんは真剣な表情で腕を組み、考え込む。そして頷いた。
「あぁ、請け負った。サッカー部にはいろんな奴がいる。みんなでアイデアを練れば、いい案が出ると思う。サッカーの楽しさについて話し合うなんて、今のオレたちにぴったりの議題だ」
「そうか、よろしく頼む」
 マコトくんとレイヤくんは、ガッチリと握手を交わす。
 近日中にサッカー部から、交流会の担当者を数名選出してくれることが決まって、打ち合わせ終了となった。

 マコトくんが生徒会室を去ってすぐ、レイヤくんが僕に言う。
「覚えててくれたんだろ、ユウキ。【悩み事を一つずつ打ち明ける】のカードのこと。サッカーの楽しさを見失いそうになっている部員がいる、皆が初心を思い出せるような機会があるといいのにってオレが言ったから」
「交流会の目玉がないって困っていた僕の悩み事も、解決したんだ。レイヤのお蔭だよ。ありがとね」
「いや、こっちこそ。ありがとう。サッカー部と生徒会が協力し合えるなんて、すげぇうれしいよ」
「うん。よかった」
「正直、オレの高校生活とユウキの高校生活って、同じ学校に通っているのに違い過ぎて、接点がないと思ってた。でも、大きく違うからこそ、支え合えることがあるのかもしれないな」
 今回の交流会のことではなく、僕らの未来のことを言われた気がして、ジンと胸が熱くなった。

「さて。カード引くか」
 腹が据わった僕は「うん」と力強く頷く。

【オデコとオデコを三十秒くっつける】

 レイヤくんは窓際にいき、全ての窓の白いカーテンをピッチリと閉めた。
「意外と見えるんだぜ、グラウンドから生徒会室ってさ」
 そして僕の正面に立ち、一歩また一歩と距離を縮めてくる。
「ユウキ。これはリハーサルみたいなものだ」
 そう言って、僕の肩を両手でしっかりと掴み、コツンとオデコを合わせてくれた。
 何のリハーサルなのかは、言われなくてもわかる。
 肩に置かれたレイヤくんの手は、微かに震えていた。それでも、お互いの吐息を感じるほど近い距離で、しっかりと目を合わせた。
「あのね」
 しばらく続いた沈黙をやぶり僕が発した声も、少し震えている。
「あのね。……僕、午後は、生徒会室で、交流会の企画書を、まとめる予定」
「うん」
「だから、部活が終わったら、ここへ、きてくれる?」
「あぁ、わかった」
 その返事とともにレイヤくんのオデコは僕から離れた。レイヤくん自身も「じゃ、あとでな」と走って生徒会室を出て行ってしまった。



 グラウンドを見下ろすための窓だけ、カーテンが半分開いている。他のカーテンは、昼間にレイヤくんが閉めたままだ。
 日が落ちるのが早い今の季節。生徒会室の窓の外はオレンジ色に輝き始めた。
 僕は学校に提出する交流会の企画書を書き終え、窓辺で読書をしている。あと十五分もしたら、電気を付けないと暗くて字が追えなくなるだろう。
 グラウンドにサッカー部の姿はもうない。少し前に整列をし、コーチに礼をしていたから、そろそろレイヤくんがノックもせずにガラッと扉を開ける頃だ。
 正直僕はずっと緊張していて、本の内容が頭に入ってこない。実は、何度も同じページを読み直している。

「悪い、待たせた」
 四階まで一息で階段を駆け上ってきたのか、息を切らせレイヤくんが現れた。
 練習着のままやってくると思っていたのに、すでに制服に着替えている。まるで正装で現れたかのようで、僕の緊張感はなぜか高まった。
「夕焼け、綺麗だな」
 レイヤくんはそう呟きながら、プラスチックケースに手を伸ばした。残りのカードは二枚。
 彼はそれを手に取り、たった二枚をシャッフルし始める。
「ユウキが、選んでくれる?」
 二枚のカードから、ババ抜きのように一枚引けばいいのだろう。
 僕がコクリと頷くと、驚いたことに、レイヤくんは二枚のカードをミッションが見えるよう机に置いた。
 右が【キス】のカード。左が【好きな曲を教えあう】のカード。
「……」
 僕がどうしていいのか分からずにいると、レイヤくんが背中を押してくれた。
「オレさ、流行りの曲とか全く知らない。あまり興味が無いんだ。もしユウキが左を選んでも、オレは校歌とか言うかもしれないぞ」
「なにそれ」
 思わず肩の力が抜け、笑ってしまった。レイヤくんも僕の目を見て、ニッコリと笑う。そして再び僕に告げた。
「ユウキが、選んで」
 僕はもう一度、コクリと頷いた。

 恥ずかしさのあまり俯きながら、右のカードにそっと触れた。
 すると、僕の顔を覗き込むように、レイヤくんの顔が近づいてくる。至近距離で「ユウキ」と切なげに名前を呼ばれれば、胸がキュンと締め付けられた。
 思い切って顔をあげる。窓の向こうでは夕陽が沈もうとしている。
 レイヤくんは両手を僕の肩に置き、そっと唇を合わせてくれた。触れた唇はすぐに離れたが、彼はそのまま強く、僕を抱きしめてくれる。
 そして背中に回っていた手が緩んだかと思えば、もう一度、キスをしてくれた。
 今度は下唇を甘く食んで、角度を変えて上唇を舌でペロっと舐められた。溢れ出た気持ちが抑えられないとでもいうように、抱きしめてはキスをして、キスをしては抱きしめてくれる。
 僕は自分が満ち足りていくのを、実感していた。
 夕陽は、遠くの山に吸い込まれるように沈んでゆき、オレンジ色だった空は黒くなった。
 生徒会室の中もすっかり暗くなり、互いの赤くなった顔はよく見えない。

「帰るか」
「うん」
 僕の胸はいっぱいで、何も喋れなかったが、きっとそれはレイヤくんも同じだった。
 エンジェルの描かれたカードゲームのテストプレイは、こうして無事にエンディングを迎えることができた。

 夜。夕食が終わり、風呂から出ても、自分が少しだけ地面から浮いているのではないか、と思うほどフワフワとしている。
 スマホがピコンと鳴り、メッセージの着信を知らせた。
『叔父さんにレポートを提出するんだけど、基本的にオレが適当に書いとく。いくつか回答必須のアンケートがあるから、それだけ転送する』
 そこには三つの問いが並んでいて、僕はしばらく考えてから返信をした。
『問一。ゲームをスタートする前より相手のことを好きになりましたか。/イエス』
『問二。ゲーム終了時、恋人同士になれたと実感していますか。/イエス』
『問三。もっと先に進むためのカードゲームが開発されたら、プレイしてみたいですか。/イエス』
 レイヤくんからすぐにメッセージが届く。
『オレも三つともイエス』
 その文字を見ただけで、僕は枕を抱え、ベッドの上で足をバタバタとさせた。自分の身体の中に渦巻いている恋と愛が、溢れ出てしまいそうだったから。
 ベッドの横で眠っていた愛犬ジョンが、うるさそうに顔を上げ、大きな欠伸を一つした。(完)