流れ星を期待して見上げる空と花火を期待して見上げる空。
 どちらが澄んでいるか、その瞳が綺麗か分からなかった。



 俺は今も、あの日をはっきり覚えている。


『おにいちゃん、あぶないよ』

『――うるさい。お前は寝てろ』

『おそらをみてるの?』

『……流れ星を待ってるんだよ』


 あの日、屋根に座って、必死で流れ星を待っていた。
 その姿が、その背中が、ひどく小さく見えて、そして怖かった。
 馬鹿な兄貴。

 叫べば良いんだ。泣けば良いんだ。
 助けてって、弱音を吐けばいいんだ。
 強がって殻にこもって、その姿はとても、哀れだった。

 だってこんなにも、夜空は綺麗なんだから。




 嗚呼、俺は兄貴を見て、ため息を着いた。
 顔立ちは、全然似てない。
 兄貴は日本人って感じの黒髪に黒縁メガネの明らかな優等生。
 俺は色素の薄い髪に、ちょっと小柄で女顔。
 性格だって、兄貴はくそ真面目で頭は固いし、
 俺は、まぁ今が楽しかったらそれで良いやって感じだ。
 親にはアリとキリギリスって笑われたが、弟をキリギリスに例えるのはひどくないか?
 夏休みの宿題が終わらず泣いているときに言われたけど、未だに言い返せず根に持っている。



「ねぇねぇ、それ、生徒会長だけでするのは大変っしょ? 会長サポートする奴らが気を回せよ」

 先輩だって事を忘れて、つい口を挟んでしまった。
 生徒会長である兄貴は、一人で全校生徒分のアンケートを集計しようとしていたからだ。
 偶々、通りかかって良かった。
 人が良すぎる兄貴は、何でも一人でしょうとしてしまうからな。

「お前は黙ってろ。俺が判断するんだから」

 助けてやったのに、兄貴はムキになって、教室に入って行った。
 俺はくそ真面目な兄貴は嫌いじゃない。
 一生懸命で、すげーと思ってる。
 ……まぁ見た目からして正反対な俺を、兄貴は嫌いみたいだけど。


 しょうがねぇじゃん。俺は頭悪いから、兄貴みたいに優等生にはなれねーのにさ。
 でも兄貴のクソ真面目さや人の好さを利用するのは違うくないか?
 

「さっきはありがとう。会長の弟くんだよね?」

 肩を叩かれて、俺は振り返った。
 話しかけて来た女は知ってる。副会長だ。
 常に三つ編みで眼鏡の典型的な真面目な姿で、清潔そうな爽やかな笑顔で、性格も良いと評判だ。
 ガチガチな兄貴と正反対で空気が柔らかくなる。


「そうっスよ。兄貴、石頭だからスイマセン」

 俺がそう言うと、副会長はクスクスと笑った。
 嫌みなく、綺麗に流れるような笑顔を。

「真面目すぎる弟を心配してるお兄ちゃんみたい」

 ――可愛いね。
 そう俺の嫌いな言葉を、イヤミにならずに吐いた。


「――じゃあ、サポートお願いしますね」
「アハハ。まってまって」
 ぶっきらぼうにそう言って、立ち去ろうと思った。
 まだ笑っていた副会長は、腹を押さえながら俺の腕を捕まえる。


「……なんスか?」

 苛立ってそう言うと、頬を染めて、首を傾げた。

「――お願いがあるの」
 よく分からねぇけど、わざと屈み、俺を上目遣いで見つめやがる。
 兄貴より、断然副会長の方が頭が良くて強かだと思う。


「日曜日の花火大会に一緒に行ってほしいの」


 俺が答えずに、睨みつけていると、俺の腕を握る力が強まった。
 そして、囁くように言った。
 ――お願い?と。


***


 僕は、弟が嫌いだ。
 ――大嫌いだ。
 成績悪くても、部活を3ヶ月で辞めても、ヘラフラ反省せず、いい加減で。
 夏休みの宿題を完ぺきに終わらせた俺と、最終日に両親に笑われながらも手伝ってもらえる要領と愛想のいい生き方。

 何をやっても笑って誤魔化す弟を、何故か周りも許していた。



「なあ、花火大会行こう」

 夏、と言ってもまだ涼しく、受験を控えた大事な時期にまだ突入はしていなかった。
 けれど、僕は受験生。そんな受験生の僕に弟は何を言ってるのか。

「冗談は止めろ。僕は大事な受験を―……」
「はぁ。兄貴、ガッチガチ」
 弟は面倒臭そうに溜め息を吐いた。めんどくさいのは俺の方だ。
 俺はお前と違って暇ではない。
「そんな勉強オーラしか出さねぇから、馬鹿そうな俺が狙われたんだよ」
 弟は仕方なさそうに、僕の参考書を取り上げた。


「副会長、花火大会に行きたいらしいよ。でも生徒会長が頑張ってるから言い出せなかったらしい」
「なんだって」

 僕は弟の言葉を理解できず、停止した。
 副生徒会長は僕のサポートをしてくれている優秀で、そしてとても美しい女性だ。
 いい加減で付き合ってはすぐに飽きて別れる弟には近づいてほしくない存在だ。
 弟はまだ僕を見ている。

「会長も花火大会に行かなきゃ、大事な弟くんと2人で行くわよ♪ってさ」
 副会長が――…?
 全然想像できなくて、疑ってしまう。
 僕より努力家で、成績も良くて、
 そしてとても綺麗で――…。
 僕の理想を詰めたような彼女が?
 何故、こんな弟を誘うんだ?

「兄貴が行かないなら、2人で行くよ?」

 僕はまた、あの日の夜空を思い出していた。
 ああ。おれはまた弟にーーすべて奪われすべて超えられていく。


***
 祭囃子の音と出店のいい香りがする夜。
 ごみのように吐いては捨てる人ごみの中、輝いている彼女にすぐに気づいた。

「会長、来てくれたんだ」

 淡い藤色の浴衣に、結い上げた長い髪。
 普段とは違った姿に、普段は見えない肌の部分に、僕は動揺した。
 ――綺麗だった。
 心なしか彼女も頬が赤く見えた。
 これが僕だけを誘ったデートだったらどんなに良かっただろうか。

「弟君もありがとう」
「……あー」

 女神のような彼女の微笑みにも、弟は余裕で、何故かとても惨めだった。

 弾まない会話。
 じめっとした暑さや人混みに気分も悪くなる。
 彼女の顔も曇っていく。
 その度に、弟が色々気を使う。


「兄貴、かき氷買ってくるから、その隅のベンチに座ってて」
 気分の悪い僕を座らせ、弟は屋台の通りに消えていく。
「会長、私が誘ったからですね。ごめんなさい」
 気の利いた言葉も出せない僕に、彼女の顔は曇っていた。
 惨めで、惨めすぎて、彼女の顔さえ見えなかった。
「空」
「え?」
「空、真っ暗だね」
 星の光が微かで、月も小さくて、真っ暗だった。
「本当ですね」
 やっと、彼女の顔が明るくなった。少しだけだけど。
「流れ星、流れないかな」
「流れ星? 花火はもうすぐだけど流れ星?」
「そ。一瞬だから見逃さないようにずっとずっと、見上げてさ」

 ずっと、ずっと、願いを唱えながら、空を見上げたらきっと、叶えてくれる。

***

 兄貴と副会長が良い雰囲気だったから、なかなか戻れず、佇んでいた。
 かき氷より、冷たいラムネの方が良いかな?とラムネも二本買って。
 兄貴は、また空を見上げていた。


 俺が忘れられなかった、あの日のように。
 ――醜くすがるあの瞳はとても痛々しくて見てられなかった。
 俺は傷ついてはいいはずなんだけど、一番傷ついている兄貴を見て感情は消えていた。
 あの人はなんで愚かで弱くて、そして不器用なんだろうな。



「それって勿体無いね」
 副会長は重い雰囲気の中、残念そうに呟いた。
 一瞬、過去を思ってよそ見をしている間に、二人の空気は重たい。
 学校で生徒会室で、勤勉に話し合いしているときの方がまだましだ。

「せっかくの夜空を、自分の願いの為だけに見上げるなんて」
 結局は、夜空なんて見てないのよね。
 そう、静かに言った。
 その通りすぎて、笑える。
 そして、俺も兄貴も惨めだった。
「で、そんなに何を必死で願うの?」
 溜息を吐きながらも、まだ副会長は兄貴に寄り添うそぶりを見せた。

 耳を塞ぎたい。けれど、かき氷とラムネを持ってる。
 兄貴は、笑いもせず答えた。
 本当に馬鹿だと思う。
 上手に嘘をつけば良いんだ。
 君とまたデートできますように、とか
 この時間が止まってしまえばいいのに、とか、
 自分を良く見せれば、そうすれば、俺の事なんて、きっと……。

「小さい頃、朝日が昇るまで願った願い事は、叶わなかったな」


 瞬きも忘れて願った夢。


『弟ナンテ居ナクナレバイイ』

 嗚呼、兄貴の馬鹿。
 
「……何、で?」
 あまりにも予想できなかった答えだったんだろう。副会長が戸惑ってた。
 意外と脆い仮面だった。
「弟は生まれた時から弟だ。けど、僕は生まれた時から兄だったワケじゃない」

 弟の存在が苦痛だった、と告げた。
 馬鹿正直に告げた。

「僕は勉強で親に褒められるのが好きで努力してきた。けど、弟は努力せずに親の愛情をもらえた」

 自分ができない事を、弟は簡単にやってのける。

「現に、君だって弟を花火大会に誘った」

 だから、夜空に願わずにはいられなかったんだ。
 副会長は真っ青になって顔を下げてた。
 これ以上はまずい。
 俺は慌てて、2人の元に戻った。

「ごめん! 兄貴! ジュースの方が良いかな?と思ってさ」

 かき氷を副会長に渡しながら、兄貴にもラムネを渡した。
 兄貴は、無言で受け取る。だが副会長はずっと兄貴を見ている。
 真実を確かめるように真っすぐ見ている。

「この優しさも煩わしい、だけ?」

 かき氷を見つめながら、副会長は尋ねた。
 肩は小刻みに震えいる。もうやめてやれ。
 二人とも、やめてくれ。

「ああ。気に食わない」

 そう言うと、副会長は立ち上がって兄貴の頬を叩いた。

「……可哀相な、人」

 そう言って、俺の手を握る。
 正義感の強い副会長は、俺を助けようとしてしまった。

「馬鹿だね、兄貴は」
 遠ざかる兄貴に苦笑した。
 それでも、俺は弟として――愛されたかった。
 不器用ながらも、愛に飢えながらも、兄貴はいつも誠実だった。
 いつも嘘も悪意もなく、自分を卑下するが努力は惜しまなかった。
 あんたの大嫌いな弟は、誰よりもあんたを見ていたんだ。



「副会長、つけ爪取れてるよ」

 藤色の浴衣に合わせたつけ爪が人差し指だけ無くなっていた。
 それでも副会長は下を向き、声を殺して泣いていた。
「君は会長が、……自分をどう思ってるか分かってたの?」
 震える手を、握りしめながら副会長は呟いた。
「――ああ、まぁね」
 ただ、知ってたけど、気づいてないふりしてた。
 ずっと、ずっと―……。

「流れ星に、自分の弟を消させる兄貴ってどう?」
 俺が尋ねると、副会長は更に手を握り締めた。
「可哀想だと思う。――最低だわ」

 真っ青な顔を微かに上げて、俺を見た。
 俺は諦めたように笑ってみた。
「でも、不器用な兄貴らしくね? 実際に俺に冷たくすれば更に両親は俺をかばうんだから」
 だから、俺は兄貴は嫌いじゃない。
「とても、馬鹿で純粋で、羨ましいよ」
 醜い願いさえ、自分の手を汚さずに叶えようとするんだ。

「醜くく感じるけれど、流れ星に願う事しかできないんだよ」
 だから、あの日を今でも覚えている。
 ずっと、ずっと、朝日が昇るまで、兄貴が流れ星を探していた日を。
 大好きな兄貴に、嫌われたと分かったあの日、を。
 
「……君の方が大人だわ」
「兄貴のおかげでね」

 どんなに、頑張っても、兄貴にはなれないと分かったあの日から。
 どんなに仲良くなりたいと思っても、逃げられてしまうことに気づいてから。



「……花火、始まっちゃったね」

 人混みが進むのを止め、皆、空を見上げた。
 音を弾けさせる花火を、ただずっと見ていた。
「花火は綺麗だけど、それは『綺麗』だと分かってるし、花火を見たいから空を見上げるわけじゃん?」
 だから、本当の綺麗な夜空は花火で隠れる。
「普段から自分の願いの為だけに綺麗な夜空を見上げるのって」
 どっちの夜空の方が綺麗なんだうろか。


――どちらも、本当の夜空の綺麗さを見てはいないのではないだろうか。

 花火の音と花火の光に、自分は消えていく。
 闇に溶け込みながら、夜空を見上げる。
 そこに、自分の欲しいものは無くて、叶えてもくれなくて。

「――俺を利用するほど、兄貴が好きなんじゃなかったの?」

 純粋な兄貴より俺の方が花火大会に来てくれるだろうと計算してたんだからさ。
 結局は、俺は利用されるだけ。
 アンタのように計算通りには生きられ、ない。
 だから。
「楽な俺に惹かれてみる?」
 自分の容姿は理解しているから、首を傾げて尋ねてみた。


***

 花火の音にかき消されて、2人の会話は聞こえなかった。
 ただ服の袖で、弟が副会長の涙を拭いた。
 副会長は照れたように微笑む。
 だから、嫌いなんだ。
 要領よく、その場を切り抜けるお前が。
 純粋に、直向きに、……無邪気に。
 真っ直ぐ僕を見る弟が。
 その無意識の純粋は、僕を傷つける。
 お前は、自分だけ傷つけられていると思ってるかもしれない。
 けれど、華やかなその存在は、僕を更に影に追いやる。
 弟の純粋な瞳から逃げたくて、僕は夜空を見上げた。

 それは、花火と花火の煙で掻き消され、真実の姿は見えなかった。
 夜空の花火は美しくない。
 偽りの華やかさで、闇を消しているだけだ。
 弟との、距離。
 僕が歩み寄らなければ、弟は一定距離から近づかないんだ。
 だから、僕は良い雰囲気の2人に近づく。
 全て、欲しいものは弟に奪われないために。


「……ごめんな」

 僕は、また、――弟を傷つける。
 弟は静かに苦笑した。
 そして、いつの間にか繋いでいた副会長の手を離した。
 副会長はただ、気まずげに俯く。
 弟はただ手を振って、祭の人混みの中に消えていった。
 副会長は、心配気に弟を目で追う。
 ……ゆっくりと、弟を。
 自分は退いたつもりでも、その健気さは俺を汚く見せる。

***


 まだ、花火は鳴っていた。
 今頃、兄貴は困ってる。
 自分の要領の悪さと、俺を傷つけた罪悪感と、――俺への嫌悪感。
 それでも、副会長は兄貴を選ぶさ。
 俺は、興味ない。
 ただ、純粋に俺を憎む兄貴が、少しだけ惨めで同情してしまう。
 花火が終わって、皆空を見上げるのかな。

 見上げるなら、その空に何を望むんだろう。


 俺は、何も望まない。
 けれど、ずっと、綺麗な夜空で居て欲しい。
 そこに、花火が無くても。
 そこに、流れ星が無くても。