○青紫の屋敷・昼
布団の上で上体を起こす優子。開けられた襖から入ってくる風の心地よさに目を瞑ると、手に持っていた新聞に目を向ける。

優子(……まさか、こんなことになっているとは)

※記事の内容は、帝都で起きた大火災について書かれている。前園家で起きたあの夜のこと。

優子モノ『前園家は全焼、被害は近隣の家まで及んだけど、幸いにも死者は出なかった』『そして、何よりも信じがたい事実が明らかになった』『前園家は多額の借金を抱えており、銀行は経営難に陥っていた』

優子(前園家は没落したも同然……)(私を早く嫁がせようとしたこと、相手が成金の高場であったこと。その全てが腑に落ちた)

優子モノ『一番の問題は、放火の犯人がまだ捕まっていないこと』『犯行現場となった前園家は、人通りの多い帝都にあるけど、放火の前後、誰も不審な者の姿を見ていないという』

優子(……おかしなことだわ)

木に並んでいた三羽のスズメが、首を傾げながら歌うように鳴いている。優子はスズメに目を向ける。

優子(あれ……あの右のスズメ、ほかのスズメより影が薄いような……)

多江「あらあら、優子さん、起きてて大丈夫なんですか?」

入ってきたのは、青紫の屋敷の使用人、多江。

多江(たえ)年齢は六十代半ばで、笑った時に両頬にえくぼがあるのが可愛らしい。

優子「平気です」「寝てばかりいたら、体も鈍ってしまいますから」

多江はおぼんを畳の上に置くと、優子に湯呑みを渡す。

多江「怪我の具合はどうですか?」
優子「まだ痛みますが、大したことありません」

優子の体には、あちこちに包帯が巻かれている。

優子モノ『額の傷は、かさぶたができるまでに良くなり、頬は腫れも引き、布で覆っていたけど、昨日、外れた』『手の甲の傷も深くなく、傷跡も残らないはず』

優子「多江さん、あそこの木の上に止まっている三匹のスズメなのですが、一番右のズズメだけ、影が薄くありませんか?」
多江「え?」

優子が指差した先を見て、多江は不思議そうに首を傾げる。

多江「ズズメなら、二匹しかいませんよ?」
優子「え……」

優子(多江さんには見えていない。つまり、あのスズメはもう……)

影の薄いスズメは、二匹のスズメに寄り添うようにしている。

多江「さ、冷めないうちに」

多江に促され、優子はお茶を一口飲む。

優子「美味しい……」
多江「桜茶です」「若様が帝都に行った時に、お見上げで買ってきてくださいました」

優子モノ『多江さんはここに来て間もないらしく、自宅に住み着く妖怪に悩まされていたところを、黒羽さんが祓ってくれたことがきっかけで、この屋敷に住み込みで働くことになったという』『多江さんには妖怪は見えていない。ただ、気配を感じることがあるという』

多江「若様、もう少しでお帰りになりそうですね」

時計を見た多江はそう言う。

優子モノ『ここ数日、黒羽さんは忙しそうにどこかに出かけていた』『彼が黒羽家の人間で、祓い屋を生業としているのは本当のようで、早朝や深夜に荷物を抱え家を出ていったと思えば、すぐに戻ってきたり、長い時間、戻ってこない時もある』『その毎日は多忙を極めるようだった』

優子(うる覚えだけど、彼は夜中に私の様子を見に来てくれていた)

優子モノ『傷のせいで熱を出し、寝込んでしまった時、額に置かれた手拭いを変えてくれたり、悪夢にうなされる私の頭を優しく撫でてくれていた』

多江「あ、若様」

優子が多江の視線の先を追うと、いつの間にか、襖のところに青紫が立っている。

多江「おかえりなさいませ」
青紫「ただいま帰りました」
多江「お疲れでしょう、お茶を淹れて参ります」
青紫「ありがとうございます」

多江は優子と青紫に一礼すると、部屋を出ていく。

青紫「だいぶ調子が良くなったようですね」

青紫は優子の顔色を伺いながらそう言うと、優子の隣に座る。

優子「おかげさまで、もう大丈夫です」

優子モノ『あの夜から一週間が経とうとしているけど、彼は何を語ることなく、私をこの屋敷で療養に専念させていた』『何がどうなったのか、目覚めてすぐにでも聞きたかったけど、体が本調子ではなかった。何せ、傷を負い食べ物も飲み物もろくに与えられず、暗闇の中に閉じ込められていたのだから』

優子「黒羽さん」

優子は姿勢を正すと、青紫を見る。

優子「改めて、お礼を言わせてください。助けてくださって、本当にありがとうございました。あなたがいなければ、私は死んでいました」

優子(二度も、命を救われた)

青紫「あなたが無事で、何よりです」

屈託のない笑みを浮かべそう言う青紫。

優子(掴みどころがなくて、何が本当で何が嘘なのか分からないけど、この言葉は、嘘ではない)

青紫は優子の懐においてある新聞に視線を置くと、再び優子を見据える。

青紫「色々と気になることが多いでしょうが、まずは放火について分かったことがあるので、それをお話ししてもいいでしょうか?」

青紫の問いに、頷く優子。

青紫「まず初めて言っておかなければならないのは、あの屋敷には、結界が張られていたということです」

優子「結界……?」
青紫「前園家の屋敷が建てられたあの土地には、昔、ある陰陽師の家系が住んでいました。彼らは妖怪や霊を呪い祓っていましたが、力が衰え、見えなくなったことで廃業。以来、妖怪や霊からの報復を恐れ、屋敷に結界を張ったのです」「そのうち、子孫も絶え、空き家になったあの家の土地をあなたの養父が買取り、前園家の屋敷が建てられたのです」
優子「術者が他界しても、術が残り続けることなんてあるんですか?」
青紫「稀にあります。祓い屋をしていた者が見えなくなったり、術を使えなくなったりして廃業することも、よくあることです」

優子モノ『報復……妖怪からすれば、祓い屋は天敵。恨みを買ってしまうことは普通のことなのね』

青紫「その張られていた結界ですが、かなり強力なもので、簡単には妖怪が中に入れないようになっていたのですよ」

優子(妖怪に追い回されることはよくあったけど、不思議とあの屋敷まではついてこなかった。それは、屋敷に結界が張られていたから)(……不憫なものだわ。あの屋敷にいたことで、妖怪から守られていたなんて……)

青紫「ですが、あの放火は妖怪の仕業かと」
優子「妖怪が、屋敷に火を放ったのですか?」

青紫は頷くと、話を続ける。

青紫「鎮火した後、屋敷をくまなく調べましたが、妖怪がいた痕跡がありました」

優子モノ(あの屋敷には、ウサギやネズミが出入りしていた。妖怪の痕跡があっても、おかしくはない)

優子「それは、あの屋敷を出入りしていた、他の妖怪のものではないですか?」

優子がそう言うと、青紫は何かを思い出したかのように、「あっ」という顔をすると、おかしそうな笑みを浮かべる。

青紫「彼らのような小物では、放火など、とても行えませんよ」
優子「小物って……」「もしかして、ウサギに会ったのですか?」「ウサギは、あの子は無事なのですか……!?」

切羽詰まったように問いただす優子に、青紫は冷静に、にっこりとした笑みを浮かべる。

青紫「ええ、無事ですよ」「屋敷の前をうろうろしていたので、何か知っているのかと思い声をかけましたが、私を怖がって、逃げてしまいました」「でも、すぐに戻ってきて、あなたが無事なのかと聞かれたので、無事だと伝えましたよ」
優子「……よかった……」

優子(本当に良かった……)

ウサギが無事だと聞き、優子は心から安堵する。

青紫「それと……」

青紫は着物の懐からハンカチを取り出すと、優子に差し出す。優子は何かと思いながらハンカチを受け取る。

青紫「中を見て下さい」

ハンカチの中を見た優子は驚く。

優子「これ……どうして……」

言いながら、優子は青紫を見る。
ハンカチの中にあったものは、切り刻まれたスカーフの破片。※黒い焼け跡がついている。

青紫「その小物が、あなたに渡してほしいと」「あなたの大事なものだから……と」「鎮火した後、瓦礫の下から、このスカーフの破片を探したらしいです」

優子(ウサギ……)

青紫「そのスカーフ、あの時、探したものですか?」
優子「……はい。これは、母の形見なんです」

優子(あの火事で、全て燃えてしまったと思っていた。もう二度と戻ることはないと思っていた。でも、こうして、手元に戻ってきてくれた)

優子「っ……」

優子は涙ぐみながら、両手でハンカチを握りしめると、額に寄せる。

優子「ウサギは今どこに」
青紫「さぁ……? ああいう小物たちは、季節がめぐるたびに、住処を変えますから」

押し込めるようにして、胸にハンカチを抱く優子。

優子(ウサギ……もう、会えないの? 木を埋める約束も果たせなかった。私こそ、あなたにもらってばかりなのよ)

青紫「そのうちまた会えるでしょう」「あなたの目には、彼らが見えているのだから」

気を落とす優子を少しの間見つめると、青紫はさらりとそう言う。

優子モノ『散々、妖怪に悩まされてきた私にとって、見えることを良いことだと思えるはずがない。それでも、この人の言う通り、またウサギに会える。そう考えると、嫌なことばかりではないと思えた』

優子「……そうですね」

優子モノ『いつか、もう一度会えたなら、今度はたわいもない話をして笑い合おう』

優子「では、そうなると、妖怪の痕跡というのは……別の?」
青紫「ええ」

優子モノ『なぜ妖怪が前園家に火を放ったのか。見える自分への嫌がらせとも思えるが、それは考えにくい。妖怪はしつこく絡んできても、襲ってくることはない』『あの妖怪を除いては……』

優子(あの妖怪……?)

ハッとした優子に、青紫はおもしろげにニヤリと笑う。

青紫「お気づきになりましたか?」
優子「まさかとは思いますが、あの妖怪なのですか?」

優子(あの老婆の姿をした妖怪は、他の妖怪と違い、私を食べようとした)

青紫「あの妖怪はヒトツメと言い、力の強さを求める妖怪なのです」「ヒトツメは人間の姿に化けることができる妖怪で、妖力はかなり強いです」
優子「力の強さを求める……」

優子(それって、私の妖力が強いからなの……?)

青紫「私にも、まだ見当がついたわけではありませが、あなたには、何か特別な力があるのかもしれません」
優子「特別な、力……?」
青紫「その髪色のことなのですが……」

青紫の視線は、優子の金色の髪に移る。
※優子の髪は普段は後ろで結っている。下ろしてる今は、より金色の輝きが増しているように見える。

青紫「古の時代、黄金色に輝く髪を持つものは、神々を映す鏡だと言われています」
優子「神々……ですが」「でも、私は普通の人間です」「妖怪が、見えますが……」

優子(妖怪が見えること以外、変わったところはない)

青紫「先祖に、同じ髪色を持つ方はいませんでしたか?」

考える優子。

優子「……分かりません。母は病ですでに他界していて、私は父を知らずに育ちました」

優子(昔、一度だけ、小百合さん両親のことを聞いたことがあったけど、お母様は一人で私を産み育てていたということ以外、何も聞かされなかった)(もっと血縁関係の近い親戚であれば、何か知っているかもしれないけど、どこに住んでいるのかも分からない)

青紫「そうですか……」「話がそれましたが、おそらく、あなたのその力を狙って、ヒトツメはあなたを追い回し、屋敷に火を放った。おおかた、自分はあの屋敷に入れないから、あなたにあの屋敷から出て来てもらおうと、火を放ったのでしょう」

優子モノ『ヒトツメがしきりによこせと言っていたのは、その神々の力……そんな力が自分にあるとは思えないけど、黒羽さんの言っていることが本当なら、ヒトツメはこれからも私を襲ってくる』

優子「ですが、あの火事の日、どうして私を襲ってこなかったのでしょうか」

優子(彼の話だと、ヒトツメは屋敷の外で自分を待っていたはず。それなのに、どうして襲ってこなかったのかしら……)

黙り込む青紫。

優子「黒羽さん……?」
青紫「それを話すには、私の身の上話を聞いていただかなくてはなりません」

立ち上がり寝室を出て行こうとする青紫と入れ違いで、おぼんに湯呑みを乗せた多江が入ってくる。多江は不思議そうに青紫と優子を見る。

多江「どうかされましたか?」

優子は布団から出ると、羽織を持つ。

優子「少し散歩に出掛けてきます」

そう言い、優子は青紫の後を追った。

○ 森
優子モノ『怪我をしている私を多江さんは心配したけど、すぐに戻る約束をして、黒羽さんと屋敷を出た』『人に見られてはいけない。そう言った黒羽さんは、私を森へ連れて来た』

森はあの日のように霧に包まれ、優子は青紫の姿を見失わないように、青紫から目を逸さない。
どこからともなく、一羽の黒カラスが現れ、カラスは離れた位置で優子と青紫を横目に、少しの間、低空飛行すると、近くの木に降り立つ。
カラスの片目は赤く光っている。

優子(あのカラス……あの時いたカラスだわ)

カラスは様子を伺うように、じっと優子と青紫を見ている。
先を歩いていた青紫が止まる。
優子は数十メートルほど距離を取った位置で足を止める。

青紫「人ならざるものを見るあなたは、私の正体に、薄々気づいていたでしょ?」

青紫の問いかけに、優子は少し沈黙すると、浅く息を吐く。

優子「……確証はありません」

優子モノ『その独特な雰囲気。体温は低く、気配もしない。何より、あの左目……あんな血に染まったような赤い瞳は、人間味を感じさせない』

左目に片手を当てる青紫。

青紫「やはり、この目を見られてしまったことが、運の尽きでしたね」

優子の考えを読むように、青紫は自嘲した笑みを浮かべ言う。
冷たい風が優子の頬を掠める。

優子モノ『外は気持ちの良い温かさだというのに、急に冷たい風が吹くのはおかしい』

その不可解な現象に、優子はゾクリとする。
目を伏せる青紫。

青紫「あなたの考える通り、私は人間ではありません。正確には……半分は」

霧は更に深まり、青紫を隠すように包み込む。
突如、カラスが大きな鳴き声を上げ飛び立つ。優子は肩をびくつかせ、空を見上げる。カラスは鳴き声を上げたまま、慌てるように落ち着きなく青紫の上をぐるぐると回っている。
霧の中で、赤い瞳が光ったと思えば、次の瞬間には、霧と混ざり合うように黒い煙のようなものが渦巻く。
優子の全身の細胞が小刻みに震え出し、身体から冷や汗が出る。
霧が薄くなり、青紫の姿が浮きぼりになる。

優子(これは……)

青紫「人間相手に、自らこの姿を見せるのは、あなたが初めてです」

※青紫の妖怪化。
青紫の背には、黒い大きな翼が生えている。顎下あたりだった髪は腰まで伸び、爪は動物のように鋭く長くなり、耳は矢のように尖っている。
右目は黒く、赤い左目は獲物を捕食するかのように鋭く光っている。

青紫「この姿を見たら、多少の悲鳴は上がると思ったのですが」

顔色ひとつ変えずに、背筋を伸ばしたまま佇む優子に、青紫はどこか残念そうな笑みを浮かべ言う。

優子(思い出した……あの日、私を助けてくれたのは、黒い羽を持つ妖怪。いや、妖怪と人の二面生を持っていた)(その半妖は、濃い霧の中をかき分けるように空から降りてくると、何かの術を使い、目の前にいたヒトツメを撃退した)

青紫「私は、人間と八咫烏の半妖」
優子「八咫烏……」

優子モノ『聞いたことがある。八咫烏とは、三本足のカラスで、神への道を示すと言われている。別名、神の使い』

青紫「ヒトツメは、私が八咫烏の血を引く者であることに気づいた。その力に慄き、あなたを襲ってこなかったのでしょう」

優子(火事の時、屋敷を出られたのも、牢獄を出られたのも、全部、妖怪の力……)(人と妖怪の血が混ざる存在がいるなんて、にわかに信じがたい。けど……目の前にいるこの男は、間違いなく半妖)

優子モノ『体は見ることを拒絶している。頭も、知るべきことではないと言っている。だけど、立ち去ろうとは思わない』

優子は青紫に歩み寄ると、そっと青紫の頬に片手を置く。
青紫に触れ、驚く優子。

優子(氷のように冷たい……変身して、妖怪の力が強くなったからなの?)

青紫「……あなたは、私が怖くないのですか?」

躊躇することなく自分に触れる優子に、青紫は訝しげに問う。

優子「怖くありません。いえ……本当のことを言うと、最初は怖かった」

優子モノ『だけど、その怖さは突然どこかへ消えてしまった』

優子(不思議だった。目の前にいるこの男は、ほんの少し私に触れただけで、息の根を殺してしまいそうなのに)

青紫「この爪で、あなたの喉を掻き切ったり、腹を切り裂くことだってできるのですよ」

青紫は脅すように、爪で優子の喉からお腹に手を這わせる。しかし、優子はの態度は毅然としたまま。

優子「あなたはそんなことしない」

優子の凜とした強い眼差しが、青紫の胸に突き刺さる。

青紫「……やはり、この決断をして正解だった」
優子「なんの話ですか?」

青紫の頬から、優子の片手が離される。

青紫「あの日、私があなたの屋敷にいたのは、前園夫妻に取引を持ちかけるためです」
優子「……取引? 一体、何の」
青紫「借金を肩代わりするために、あなたと結婚させてほしいと」

青紫が何を言ったのか分からず、優子は時が止まったかのようにフリーズする。

優子「……はい?」

全く理解できていない優子をよそに、青紫は続ける。

青紫「私が屋敷に出向いた時には、火はかなり回っていて、あなたを見つけるのに苦労しました」
優子「ちょ、ちょっと待ってください! 結婚って……どういうことですか……?」

優子は訳が分からず混乱した様子。

青紫「そのままの意味です」「私はあなたに、妻になっていただきたい」
優子「いや……妻って……」

優子(どうりで療養している間、前園家からの連絡がないわけだわ)(借金を肩代わりしてくれるとなれば、二人にとっても好都合だもの)(……まさか、黒羽さんが根回してしていたなんて)(でも、なぜ彼が私を妻に。目の前で半分カラスの姿になったことでも驚きだけど、結婚だなんて)

優子「名門一族のあなたが、どうして私と結婚を」
青紫「この歳になると、妻がいないと怪しまれることもありましてね」「何か良くないところがあるのではないかと、変な噂が立ってしまいそうで」「妖怪の血を引くことも隠さなければなりませんし、仕事に支障が出るのも避けたい」「何より、一門の名を汚すようなことは、これ以上あってはならない」
優子「だから、結婚がしたいと……?」「でも、どうしてその相手が私なのですか」

優子(事実上、前園家は没落、爵位もない私と結婚しても、お荷物になるだけ)(では、私を好き? いや、そんな馬鹿な話があるわけない。彼は私になどに微塵も興味ない)

青紫「あなたは妖怪が見える。故に、私も気を遣わなくて済むし、正体を隠さなくていい。あなたもそうでしょ? 半妖である私が相手だと、気持ちが楽なはずだ」「それに……私なら、あなたを守ってあげられる」

優子(あの家も、二人のことも、当たり前に大嫌い。でも、妖怪があの家を放火したことは、多少なりとも私に非がある)(ウサギの住処も奪ってしまっことだし……)(借金を返したとなれば、気分も楽になるはず)(この人の言う通り、結婚すれば、全てがまるくおさまる)

青紫「それに、前に言ってたでしょ」「翼がほしいと」

青紫の黒い大きな羽が音を立て開く。
優子は目を奪われたかのように、青紫の黒い翼に魅入る。

青紫「ならば、私がその翼になりましょう」「私がいれば、あなたは自由だ」

優子(自由……真実の愛と同じくらい、私が求めていたもの……)( 彼といれば、私は道具ではなく、人になれる)(それに……私は彼といる時だけが、幸せを感じられた)

青紫は優子に向けて、そっと片手を差し出す。

青紫「私の手を取ったら最後、もう後戻りはできません。さあ、選んで」

優子(こんな状況の中、普通の人はこの手を掴むことはしない)(相手は得体の知れない半妖、これはあまり危険なこと。それは分かっている)

優子モノ『でも、心を突き動かすものがある』

優子は青紫を見つめる。

優子モノ『闇を映すような黒い右目に、憎しみと悲しみを抱いたような赤い瞳。その瞳には、果たして自分は映っているのか』

優子(本当に、何を考えているのか分からない人だわ……)

優子モノ『この屈託のない笑みを貼り付けた仮面の下には、どんな顔があるのか。私はこの男の本当の姿を知りたいと思った』

優子(彼は私のことなど愛していない)(でも、それでもいい……)

優子は差し出された青紫の手の平に、そっと自分の片手を置く。
青紫は口の端を上げると、優子の手をぎゅっと握る。
濃い霧が二人を包み込んだかと思えば、光の速さで霧が消える。
青紫の姿は人間の姿に戻っている。

青紫「では、契約成立ということで」

優子モノ『この時は想像もしていなかった。この選択が、自分の運命を大きく切り開くことになるとは』

○青紫の屋敷・優子の寝室・朝
包帯も外れ、傷がすっかり完治した優子は、白無垢を着て化粧を施し、化粧台の椅子に座って青紫を待っている。

多江「お綺麗ですよ」

鏡越しの優子を見て、にこやかに微笑む多江。

優子「ありがとうございます」

襖の前に人影が見える。

青紫「入ってもよろしいでしょうか」
優子「どうぞ」

優子がそう答えると、襖が開く。
部屋に入って来た青紫は、白無垢姿の優子を見ると、目を丸くし動きを止める。※優子に見惚れている。
何も言わずじっと見られ、優子は恥ずかしくなる。

優子「へ、変ですか……?」

その問いかけに、青紫は我に返る。

青紫「綺麗だ……」

優子(穏やかで優しい声……それに、包み込むような温かさ)(分かる。これは本心だ)

優子「黒羽さんもお似合いです」

優子の白無垢に合わせ、青紫は黒い袴を着ている。

優子(普段から着物を着ている人だから、あまり変わり映えしないかと思っていたけど、これはこれで、かっこいい……)

青紫「ありがとうございます」

優子の褒め言葉に、青紫はどこかぎこちない笑みを浮かべる。
そんな二人を見て、微笑む多江。

優子モノ『祝言と言っても、客人を招いて盛大に行うものなどではなく、神社に参拝するだけ。それだけでも、私は驚きだった。彼はこういうことに関心を持つようなタイプには見えなかったから』『紙切れ一枚で始まると思っていた結婚生活だったけど、以外にも、彼は結婚の形を残そうとしてくれていた』

青紫「では、行きましょうか」

○神社
多江に見送られながら、青紫に手を引かれ屋敷を出ると、二人で神社に向かう。

優子モノ『今日のために、青紫さんと神社を掃除した』※手際の良い青紫と不器用な優子が手水舎を綺麗にしている絵。
『人気のない神社がいつも綺麗に整っていたのは、彼が毎日欠かさず、掃除をしてくれているおかげだった』

緩やかな風が吹き、木々が揺れている。

優子モノ(森も私たちの祝言を祝福してくれているのかしら)

賽銭箱の前に来ると、二人で手を合わせ、並んで神に挨拶をする。
優子が目を開けると、隣の青紫は、まだ目を閉じている。

優子(神への導きをする八咫烏だけど、神と会話できたりして……)

優子「何を願ったのですか?」

目を開けた青紫に、優子は聞く。
青紫は少し意地悪そうな笑みを浮かべ答える。

青紫「神との会話は、人には話さない方がいいそうですよ」

優子(最もそうな返答。それに彼が言うと、妙に信憑性が高まる)

向き合う二人。

青紫「これで私たちは、正式に夫婦となりました」「これから、どうぞよろしくお願いします」

優子(本当に、この人に妻に……)

屈託ない笑みを浮かべる青紫を、優子は凛とした瞳で見据える。

優子「はい、よろしくお願いします」

優子モノ『__これは、妖怪と人の儚くも美しい愛の物語だ』