○長沼邸・誠一郎の寝室
優子モノ『自分のことを心底不運だと思った』

優子は持っていた鞄を床に落とし、その光景を前に立ち尽くす。

主人公 前園優子(まえぞの ゆうこ)子爵家の養女。老若男女問わず、息を呑むほどの美しい容姿をしている 十八歳

男女がベッドの上でもつれ合うようにしている。女の方は見知らぬ者。男の方は祝言をあげる約束をした、優子の婚約者である誠一郎。

長沼誠一郎(ながぬま せいいちろう)優子の婚約者で伯爵家の嫡男

優子モノ『婚約者である長沼誠一郎の屋敷に来たのは、ついさっきのこと。メイドに、誠一郎さんは寝室にいると言われ、部屋を訪れてみればこの有様』

女に夢中になり、自分に気づかない婚約者に、優子は嘆くことなく、ただ静かに問う。

優子「これは一体、どういうことですか」

優子の声に、女の唇を奪っていた誠一郎がビクッと肩を揺らす。動きをピタリと止め、恐る恐ると言った様子で、首だけこちらに向けた誠一郎は、優子を見て顔を青ざめさせる。

誠一郎「優子さん……! ど、どうしてここに……」

酷く焦りながらそう言い放つと、女から体を離す誠一郎。

誠一郎「ご、誤解だ、僕は彼女とは何もない。彼女はただの友人で、今日は家に遊びに来ていて……その……っ」

誠一郎は必死に弁解しようとするが、顔色ひとつ変えず自分を見つめる優子に黙ってしまう。

優子「そんな姿を見せられて、私が信じるとでも?」

誠一郎「あっ……」

誠一郎ははだけている自分の着物を忙しなく直す。
誠一郎に下敷にされるようにいた女は、上体をお越し、優子から自分の顔を隠すようにして俯く。※頬は桃のようにピンク色に染まっている。優子に一部始終を見られ、羞恥している様子。

優子モノ『察するに、誠一郎さんがこの女性に迫り、女性もそれを受け入れたのだろう』

女性は小柄で、瞳は丸く、小動物のように愛らしい。

優子(……ああ、やっぱり、私のような女では、満足できなかったんだわ)

優子「明日の祝言は取りやめに。この結婚もなかったことにしましょう。ご両親にも、そうお伝えください」

優子は淡々とそう言うと、二人に背を向け、寝室を出て行こうとする。

誠一郎「ま、待ってくれ優子さん!」

後ろからドタンっと大きな音がする。
優子が振り向くと、誠一郎がベットから落ちている。

誠一郎「っ……」

膝を打った誠一郎は、苦痛そうにその場に蹲っている。

優子モノ『数分前までは、この男のこんな姿も、愛おしく思ったのかもしれない』

女性「誠一郎さんっ」

ベットを降りた女性は、心配そうに誠一郎に寄り添う。
※慎ましい二人の姿に、優子は胸を締め付けられたかのように息苦しい。

○長沼邸・廊下
誠一郎の寝室を後にした優子は、廊下を歩いていて、異様な気配を感じ、足を止める。

優子「……」

優子モノ『まただわ、この感じ。ここに来ると、いつも誰かに見られている気がする……』

ゆっくりと首だけ後ろを振り向かせる。だが、そこには誰もいない。

優子(嫌な気配……まさか。いや……そんなことないわよね。だったら、私に見えているはずだもの)

○長沼邸・玄関アプローチ
屋敷を出た優子が車に乗り込もうとすると、誠一郎の屋敷の執事長が駆け寄ってくる。

執事長「お忘れ物でございます」

差し出されたのは、蝶の柄の鞄。

優子「あっ……」

優子(いつの間に……)

優子モノ『蝶の着物には、夫婦円満という意味がある。呉服屋の主人からそう聞き、着物と合わせこの鞄もいただいた』『着物を着るのは今日が初めて。自分の門出を祝ってくれるであろう着物を、征一郎さんに見てほしくて着て来た』

優子(夫婦円満。その願いは始まることもなく、無意味に散ったけど……)

優子「……ありがとうございます」

お礼を言い、鞄を受け取る優子に、執事長は控えめな笑みを浮かべ、会釈をして後ろに下がる。
ふと優子が視線を後ろに向けると、寝室まで案内してくれたメイドの女と目が合う。彼女はいつもの如く、気に食わなさそう優子を見て、隣のメイドとヒソヒソと話をする。

メイド1「あんなところ見ても、さも平然としていられるなんて、いくら美人でも、あれでは誠一郎様が可哀想よ」
メイド2「それにあの噂……」

優子(もしかしたら、彼女はあの女性がいるのを分かっていて、私を寝室に通したのかもしれない)

優子モノ『誠一郎さんの屋敷の使用人に好かれていないことは分かっていた。昔から愛想もなく、顔の表情が一つしかないと言われている。こんな女が嫁に来て、自分たちの女主人になるのは嫌だったのかもしれない』

優子(人に良く思われないのはいつものことよ)

車に乗り込む優子。

優子「いってください」

優子の声に、運転手がハンドルを握る。車はゆっくりと動き出し、徐々に加速していく。
優子が窓の外に目を向けると、黒髪の男が、こちらに向かって歩いてきている。
男は黒い着物姿で、背には白い包みを背負っていて、片目は長い前髪で隠れている。※ミステリアスな男性。
優子は黒髪の男から視線を外し前を見る。

すれ違う瞬間、黒髪の男は優子を見ている。※優子はその視線に気づいていない。

優子(忘れよう……もう二度と、あの屋敷を訪れることはないのだから)

遠ざかっていく優子が乗る車を、黒髪の男は立ち止まり見ている。

○前園邸・居間
優子モノ『前園家は江戸時代に金融業で財を成し、帝から子爵の爵位を与えられた華族。現在は帝都にいくつもの銀行を構えるまでに成長を遂げた』『幼い頃に母を亡くした私は、遠縁であるこの前園家へ、養女として引き取られた』
※幼い優子が前園家へ来た優子が段々とと成長していく絵。
『側から見れば何不自由なく育った華族のお嬢様。だけど、この家は私にとって、幸せな人生を送れる居場所ではなかった』
『養父の新之助は、野心の強い男で、上にのし上がるためなら手段を選ばない。妻で養母にあたる小百合は、体裁をばかりを気にして、お金に目が眩む女だった』

前園新之助 優子の養父  小百合 優子の養母

※優子は帝都でも騒がれる美しい容姿をしている。少し釣り上がった色素の薄い瞳。筋の通った小さく高い鼻。肌は陶器のように白く滑らか。何よりも優子の美しさを際立たせていたのは、黄金色に輝く髪。

優子モノ『私が前園家の養子になったのは、養父母に愛されているからではない』『__家のための道具』『養父母にとって、私の容姿はさらなる儲け話に役立つモノだった』

小百合「この親不孝もの!」

小百合は怒りあらわにそう叫ぶと、刺すような鋭い瞳で優子を見る。
二人の前に正座をしていた優子は、部屋の一点を見つめ俯いている。

優子モノ『自宅に戻ってすぐ、誠一郎さんの屋敷であったことを話した。誠一郎さんの結婚が破談となったことを知った小百合さんは激怒。新之助さんは呆れてものも言えない様子』

呆れて深いため息をつく新之助。

新之助「苦労して取り付けた婚姻だったというに……」「優子、お前は一体、何がしたいのだ
?」

優子モノ『これまで、幾度もお見合いをしてきたけど、そのほとんどを断った。自分の容姿にしか見ていない除け者が嫌だったから』『勝手に縁談を断る私に、小百合さんは皮肉を言ってきたけど、新之助さんは人脈を広げられる良い機会だと、私にお見合いをさせ続けた。そんな中、唯一、婚約した相手が誠一郎さんだった』『強く惹かれていたわけではない。だけど、誠一郎さんの優しく気遣いのできる人柄に、この人だったら、良い夫婦になれるかもしれない。そう思って、彼との縁談を了承した』

優子(だけど、結局、誠一郎さんも他の人と同じだった。私のことなど、愛していなかった)(私は誰にも愛されない……)※孤独を感じる優子。

新之助「お前も分かっているだろう。前園家にとって、長沼家がどれほど利益となる存在か」

優子モノ『誠一郎さんは伯爵家の嫡男で、私がお見合いをしてきた中で、家柄、財力、地位、どれを取っても秀でていた』『それに加え、長沼家は前園家が経営する銀行の大手取引先。私が長沼家へ嫁ぐことは、事業のさらなる発展と、前園家の繁栄を意味していた』『新之助さんはこの結婚にかけていた』

小百合「まったく、浮気ぐらい、目を瞑ればいいものを」

呆れたような小百合の物言いに、優子は俯けていた顔を上げる。

優子(浮気ぐらい……?)

優子「誠一郎さんが他の女性と関係を持っているのに、見てみないふりをしろというのですか?」
小百合「そうよ」「だいたい、その程度のことを我慢できずにどうするのよ」

優子(我慢……? 裏切りを、我慢しろというの?)

何も言わずにじっと見てくる優子に、小百合は気に食わなさそうに目を細める。

小百合「何よその目は」「ほんと生意気な子」「それにその髪……ほんと目障り。いっそ染めればいいものを。興味ありませんみたいな顔をしておいて、結局は男の視線を引きたいんでしょ?」※嫌味ったらしい小百合。

優子(別に好きでこの髪色で生まれてきたわけじゃない……)※悔しさと怒りを感じながら、膝の上に置かれた両手を握りしめる優子。

優子「それは小百合さんの方では?」

蔑んでくる小百合に、優子は冷静に言い返す。

小百合「なっ……! なんですって!?」

沸騰したやかんのように頬を赤く染め叫ぶ小百合に、優子は淡々と続ける。

優子「いつもお化粧をバッチリとされていて、特に男性の訪問がある際には、濃いかと」

優子のその言葉に、小百合の顔はみるみる赤くなっていく。

優子「私の髪も、染めようと思えばいくらでもできたはず。そうさせなかったのも、私をより地位と財力のある男性と結婚させ、自分が優位に立ちたかったからでは?」
小百合「っあなたね……! 親に向かってなんて口の聞き方。誰かあなたをここまで育てたと思っているのよ!」

優子(あなたを親だと思ったことなんて、一度もない)

優子モノ『小百合さんは上部だけを取り繕う人間。私に対しても、外では気前の良い養母を演じ、一度屋敷に戻れば、冷ややかな視線を送り嘲笑う』

優子と小百合の言い合いが聞くに耐えなかった新之助が、仲裁するかのように咳払いをする。

新之助「……とにかく、この話は決定事項だ」「優子、お前は誠一郎くんと結婚してもらう」

そう言うと、新之助は立ち上がる。

新之助「今から謝りに行くぞ」

長沼家へ足を運ぼうとする新之助。だが、優子は座ったまま動かない。

新之助「__優子」

新之助の冷えついた声に、優子は身をすくめる。

優子(……分かっている。この家で自分の意見が通ることはない。今までもずっとそうだった。何をするのも、どこへ行くのも、全て決められていた。自分は前園家の道具で、選択権はない)(でも……一体いつまでこんな日が続く? そう考えると、苦しくてどうにかなりそう)※ここまで懸命に耐え忍んできた優子の絵。
(全てを変えることはできないかもしれない。だからせめて、自分に嘘をつく生き方だけは、したくない)

優子は顔を上げると姿勢を正し、新之助を見上げる。※色素の薄い瞳が、花のように凛とし、新之助を見据える。

優子「私は、誠一郎さんとは結婚しません」

キッパリとそう告げると、優子は立ち上がり、小百合と新之助の前を通り過ぎる。

優子「待ちなさいっ……!」

小百合が引き止めるも、優子は聞く耳を持たず、居間を出ようとする。
悔しそうに歯を食いしばる小百合。

小百合「っ……あんたみたいな気味の悪い女、誰が相手してくれるっていうのよ」「妖怪が見えるなんていう頭のおかしな女、誰も好きになりゃしないわ!!」

__妖怪が見える。その言葉に、優子の足は思わず止まる。

優子(っ……そんなこと、私が一番、分かってるわよ……)

優子は両手の拳を強く握りしめると、小百合に何かを言い返すことなく、静かにその場を立ち去る。
急足で屋敷の廊下を歩く優子。すれ違う使用人たちは、事の事情を察したようにハッとした顔をすると、廊下の端に寄り、すれ違うまで優子に頭を下げ続ける。

○前園邸・庭園
庭園には強い太陽の光が差している。優子は日傘さを差し、庭園に足を踏み入れる。

優子モノ(静かなこの庭園が、お屋敷で唯一、落ち着ける場所だわ)

気分が晴れない優子は深いため息をつく。

優子(罵られるのは慣れているけど、傷つかないわけじゃない)(……特に、さっきのように、妖怪のことを口に出されると)

ウサギ「ううっ……」

今にでも消え入りそうな、小さな唸り声のようなものが聞こえる。優子が足元を見ると、袴を着た白ウサギが、うつ伏せで地面に倒れている。

優子(これは……あの妖怪ね)

優子モノ『少し前から、屋敷に住み着いている小さな妖怪がいる。この庭園を駆け回る姿を度々、目撃していた』

優子(特に悪さをする様子もなかったから放っておいたけど、この状況はどうしたものかしら……)

ウサギの背には、風呂敷が背負われている。※荷物が重く、運べなくなっている。

ウサギ「うううっ……くそっ、あともう少しだというのに……」

両手、両足に力を入れ、立ち上がろうとしているが、中々立ち上がれないウサギ。日差しはどんどん強くなり、うさぎの体力を奪っていく。

優子(相手は妖怪。厄介ごとに巻き込まれないうちに、ここを離れた方がいいわね)

優子はウサギから背を向け歩き出す。

優子(ほっとけばいい。妖怪に関わっても、ろくなことがないのだから)

優子モノ『見える人間がめずらしばかりに、面白がった妖怪に遊ばれ、追いかけられることはよくある。その度に怪我をして、小百合さんに怒られた』

優子(自ら厄介ごとに首を突っ込むなんて、ごめんだわ)

そう思うも、数歩進んだところで足が止まる優子。

優子「……」

顔だけ振り向かせると、ウサギは弱りながらも必死に体を動かし続けている。

優子(ああもう……!)

優子は踵を返すと、しゃがみ込み、ウサギに日傘を差し出す。
日が遮られたことに気づいたウサギは、顔を上げ優子と目が合い叫ぶ。

ウサギ「うわぁぁぁぁぁぁ……!! 人の子! 人の子だ……!!」

完全にパニックになっているウサギに、優子は風呂敷を指先で摘み上げる。

ウサギ「おい! 何をする返せ! それは人の子などにあげるものではないぞ!」

立ち上がったウサギは、ジャンプをしながら怒りそう言い、優子を威嚇する。

優子(なんだ、案外、元気なのね)

優子「失礼な妖怪ね、別にこれを奪おうとしたわけじゃないわよ」

優子は摘み上げていた風呂敷をウサギの前に置く。
目の前に置かれた風呂敷に、ウサギはポカーンとした顔をする。

優子「あなたが野垂れ死そうになってたから、助けてあげたんじゃないの」
ウサギ「ええい! うるさいうるさい! おいらは野垂れ死にそうになどなってないっ!」※腹を立てるウサギ。

優子(せっかく助けてあげたのに)

聞かん坊なウサギに、優子はやれやれと思う。

ウサギ 正式名はヨモギ 優子の屋敷に住む小妖怪。非力だが、度胸と根性がある。

ウサギ「お前、人の子のくせに、おいらが見えるとは生意気な」

優子(見たくて見ているわけじゃないけど)

優子「その荷物、重そうね。一体、何が入っているの?」

優子の問いに、うさぎは風呂敷を囲うように抱きしめる。

ウサギ「これは森から集めてきた木の実だ」

優子(森から集めてきたとは、また随分と遠くから)

優子モノ『ここから森までは、車でもそれなりに時間がかかる。それをこの小さな妖怪が歩いて取ってくるとは、かなりの距離になるはず』『この暑さの中となれば、野垂れ死にそうになるわけね』

優子「妖怪も大変ね」「ここに年中通して木の実があれば、あなたの暮らしは楽になれる?」
ウサギ「ん? ああ……まぁそうだな」
優子「今度、他の木を埋められないか、庭師の方に聞いてみるわ」

そう言うと、優子は腰を上げ、屋敷の中へ入ろうとする。

ウサギ「あっ! おい待て人の子!」

足を止めた優子は、顔だけ振り向かせて言う。

優子「私は優子。人の子という名前ではないわ」
ウサギ「優子……」「優子、お前、良い奴だな」

ウサギは嬉しそうに笑いそう言う。※幼さを感じるその笑顔は、どこか、愛おしさ感じるもの。

○優子、幼少期の回想
優子モノ『物心ついた時には、それが見えていた。他の人には見えないそれは、妖怪と呼ばれるものの類だそうで、私の頭を悩ませる元凶だった』『妖怪を認識したのは、前園家へやって来て、少しした頃。新之助さんが当主となった祝いで行われたパーティーでのことだった』

優子「ねぇ、あそこにいるの誰?」

優子『窓の外にいる女性と思われる存在が気になった私は、小百合さんにそう問いかけた』

小百合「え?」

優子が指差した先、誰もいないのを見て、小百合は首を傾げる。

小百合「誰もいないわよ?」
優子「そこよ、そこにいるわ」

小百合は目を凝らし、窓の外をじっと見つめるが、その目には何も見えない。

小百合「やっぱり誰もいないじゃない」「嘘つかないの」
優子「嘘じゃないわ。長い髪をした女の人が、こっちをじっと見てる」

訝しげにする小百合の着物の袖を引き、優子は懸命にそう言うが、小百合は頭を抱えるだけ。

小百合「はぁ……お願いだから、今日は私を困らせないで。前園家の者ならちゃんとしなさい」
優子「でも、本当にそこにいるんだもの……」

優子モノ『確かにそこにいる。だけど、それは自分にしか見えないものだった』『それからも、妖怪と遭遇しては、小百合さんや新之助さん、使用人たちにもその存在を伝えてきたけど、誰にも見えず、信じてくれる者は一人としていなかった』『母親を失った幼い子供が、大人の気を引きたくて嘘をついている。大人たちはそんな風にしか思わず、手のかかる子供だと、私を煙たがるようになった』『そのうち、妖怪のことを口にすることはなくなかった。言っても誰にも信じてもらえない。理解してもらえない。その事実は子供だった私にとって、深い傷を残すことになった』

○森近くの田舎
窓の外には、閑静な田舎が広がっている。

運転手「あの……本当にここで降りられるのですか?」

物珍しそうに辺りをキョロキョロと見回す運転手。

優子「ええ、ここで降ります」

優子の返答に、運転手は車を降りようとする。

優子「あっ、大丈夫です」「一時間ほどで戻りますから」

そう言うと、優子は自分でドアを開け、車を降りる。
外はどんよりとしていて、今にでも雨が降ってきそうな天気。

優子(こんな気分には、ちょうどいい天気ね)

優子は持っていた布で髪を覆う。

優子モノ『外に出る時は、煩わしい視線を少しでも避けるために、こうして髪を隠している』『それに、お母さんの形見であるこの布を傍に置いておくと、少しは安心できた』

木と草に囲まれた小道を歩き始める。

優子(空気が新鮮。それに人もほとんどいないし、心が落ち着くわ)

優子モノ『あれから、誠一郎さんが屋敷を訪ねてきた』『話がしたい。誠一郎さんは強く懇願してきたそうだけど、私は会わないの一点張りだった』『それがさらに小百合さんの怒りを勝ったようで、外出禁止を命じられた』『誠一郎さんに裏切られたショックと、小百合さんからの罵倒に、心身ともに疲れ切っていたから、どこかに行く気力もなく、言われた通り、しばらくの間、屋敷を出なかった』

ふと足を止める優子。

優子(誠一郎さん、追って来てくれなかった)

優子モノ『あの時、ベッドの上でもつれあう二人を見て、あの場から早く立ち去りたいという思いはあった』『歩くスピードは至って普通、いや、いつもよりはゆっくりとした足取りで、あの屋敷を出た。使用人にも引き留められた。時間は十分にあったはず。それに、鞄を忘れていることに気づいたのは、きっと誠一郎さんだ。弁解の余地がなくとも、追いかける理由はあった』『それなのに、誠一郎さんは追いかけてきてくれなかった』『それが、誠一郎さんの私に対する思いのような気がした』

道端で女がうずくまっているのを見つける。

優子「どうかされましたか?」

近寄り声をかけるも、女はうずくまったままで何も言わない。

優子「あの……ご体調でも悪いのですか?」

言いながら、優子は女の隣にしゃがみ込み、顔を覗き込む。

うずくまる女「……ってる」

シワのある口元で、女はぶつぶつ何かを言っているが、聞き取れず、優子は女の口元に耳を近づける。

優子「え? なんですか?」

うずくまる女「いいものを……持って……いる」

っと、次の瞬間。

優子「ぐっ……!」

立ち上がった女は、乱暴に優子の首を掴むと、そのまま体勢を崩し、優子に覆い被さる。優子は地面に押さえつけられる。

妖怪「こんな細い首、すぐにへし折ってやるわい……!!」

優子(妖怪……!!)

女の顔は泥のように溶け出し、目は真っ黒く穴が空いているかのよう。

優子「っぐっ……っ!」

首を絞める力はどんどん強まり、優子は息が出来ず、足をジタバタとさせる。

優子(っ……このままでは殺される……!)

優子は必死に手を伸ばし、砂を掴み取ると、妖怪の顔に向かって投げる。

妖怪「ぐああああっ!」

妖怪は悶え、優子は立ち上がると一目散に走り出す。その拍子に髪を覆っていたスカーフを落としてしまう。※優子はそれに気づいていない。

妖怪「おのれぇぇ……小娘……」「待てぇぇ……!!」

逆上した妖怪が、烈火の勢いで優子を追ってくる。

車が待機している方向へ逃げる優子。運転手に助けを求めようとしたが、思いとどまる。

優子(ダメだ……巻き込んでしまう)

人の話し声がして見ると、若い男女がこちらに向かって歩いて来ている。

優子(どこか人のいないところに行かないと)

辺りを見回すと、優子は人気のない生い茂った道を進む。そこで石階段を見つける。

優子(あんなところに石階段なんて、あったかしら……?)

石階段は霧に包まれ、不気味な雰囲気を漂わせている。

優子(この先に進んだから、この世でないどこかに消えてしまえそう……)

妖怪「待てぇぇ……待てぇぇ……」

声がして後ろを振り向くと、妖怪がすぐそこまで来ている。
優子は両手で着物の裾を持ち上げると、石階段を上がる。

優子(風が冷たい……身体が冷えてきている)

優子「はぁ……はぁ……はぁ……」

片手で汗を拭い、息を切らしながら石階段を上がる。
足はおぼつき、霧は徐々に濃くなり、視界が悪くなる。

優子(あの妖怪は、どうしてここまでして私を追うの?)(それに、いいものを持っているって、一体、何のことを言って)

優子「あっ……!」

階段を踏み外し、顔から前に倒れ込んでしまい、石で額を切ってしまう。

優子「っ……」

額から刺すようなズキズキとした痛みを感じ、優子は顔を歪める。片手で額に触れると血がつく。血は頬を通り顎まで伝う。
優子は歯を食いしばると自分を奮い立たせ立ち上がり、おぼつかない足を引きずり、一歩一歩、階段を上り、上まで辿り着く。

優子(人気を一切、感じさせない……静寂に包まれ、空気も冷たく、朝か夜かも分からない不思議な空間だわ……)(どこかに身を隠せる場所は)

そう思い辺りを見回すも、霧が濃くてよく見えない。

妖怪「よこ、せ……よこ、せ……それを、よこせ……」

霧の中、すぐ後ろから、妖怪の声が聞こえる。

優子(もう追いつかれた……!)

必死に足を動かすも、上手く歩けない。身体はすでに限界に達している。
引きずっていた足が絡まり合い、優子はその場に崩れるように、横倒しになる。
妖怪が優子の顔の前まで迫る。

優子(もう、ダメだ……食われる……)

諦めかけたその時。突然、強い風が吹き、霧をかき分け、空から黒い何かが舞い降りてくる。
優子は途絶えそうになる意識の中、朧げな視界でその様を見ている。

優子(妖怪……? いや、人……?)

黒い何かは、優子の華奢な肩を掴むと、引き寄せる。そして、守るように優子を包み込む。

妖怪「お、お前は……!!」

黒い何かを見て、大きく気が動転する妖怪。

黒い何か「__去れ」

目を開けていられないほどの眩しい白い光が放たれる。

妖怪「ぎゃゃゃゃゃぁぁぁ__!!」

妖怪の苦痛な叫び声が響き渡り、妖怪の姿は消える。

黒い何か「……逃げたか。まぁいい」

黒い何かはそう呟くと、腕に抱いた優子を見据える。
優子は意識を失っている。

黒い何か「……」

黒い何かは優子を抱き抱え、深い森の奥へと消える。