水曜の帰宅後。いつものように、家に着くなりパソコンの画面を開いた。
いつもはただよだれを垂らして動画を見ているだけだが、今日は違う。
だって俺には、佐藤の母親が作ってくれたサブレがあるのだ。
ほくほく気分で袋を開けて、中身を皿の上に1種類ずつわけて取り出す。
普段の俺は根ががさつだから、こんなことは絶対にしない。
だけどわざわざ3種類、味を分けてくれているのだ。
きっと味とか香りの違いを堪能してねという、佐藤のお母さんの配慮に違いない。
それが分かったから、昨日も同じようにきっちり分けていただいた。
うっかりすると危うくすべて食べきりそうなほどうまかったから、ちゃんと全種類半分ずつ残しておいた俺、グッジョブ!
せっかくだから元々家にある、おふくろが買った英国産のうまい紅茶とともにいただくとしよう。
お湯を沸かして、タイマーをセットして。
ティーポットを使い、丁寧に紅茶をいれる。
これも普段ならあまりしないことだが、推しであるりとる君のレシピで作られた激ウマなサブレがあるのだ。
ティーパックを使って安い紅茶を雑にいれるのは、失礼にあたるというものだ。
そんな気持ちの悪いこだわりを遺憾無く発揮させながら、いそいそとティーセットを用意する。
こうして準備を万端に整えてから、今日の午後3時に配信されたばかりの、りとる君の新作動画を開いた。
『今日は以前配信して好評だったレシピの、アレンジバージョン。抹茶味のサブレを、作っていきたいと思います!』
一般的な男と比べたら、やや高めの澄んだ声。
それはとても穏やかで、耳に心地いい。
だけど緊張したり、あわてたり。興奮したりした時は、途端に早口になってしまう。
それすらもなんだか可愛くて、いつもついクスクスと笑いながら見ているわけだが。
それにしても、味付けは違えどなんてタイムリーな!
まさかの偶発的コラボレーションに、ひとり歓喜した。
野郎とは思えないくらい、細くしなやかな指先。
ついさっきまではただの粉だったはずのボウルの中身が、あっという間にしっとりとした、そしてほんのり艶のあるサブレ生地へと変化していく。
りとる君の動画を見るたび、いつも思うのだ。
……本当に彼は、スイーツの国の魔法使いなんじゃないかって。
もちろんそんなことはありえないし、彼も普段はどこにでもいるような平凡な男子なのかもしれないという現実を、ちゃんと俺だって分かってはいるけれど。
しかし視聴している中で、違和感を覚えた。
というのも今日のりとる君からは、いつものように自分自身がワクワク楽しんでいる感じが、まったくといっていいほど感じることができないのだ。
最初はいつもみたいに、まるで魔法みたいに完成していくスイーツを楽しんで見ていた。
だけど彼の様子がおかしいことに気付いてからは、こちらまでなんだか落ち着かない気分になってしまった。
りとる君に、いったい何があったんだろう?
当然のことながらただのいち視聴者でしかない自分にはどうすることもできないし、その理由を知ることすらもかなわないけれど。
***
その翌日の、木曜日。
なにかりとる君の変化の原因となった出来事の糸口を見つけることはできないものかと、もう学校に到着してそろそろ授業も始まろうかというのに動画を食い入るように見つめる俺。
するとその背後を、佐藤が通りかかった。
なのでそれに気付いたから、いつもみたいに俺のほうから声をかけた。
「おはよう、佐藤!」
「おはよう、大路君。どうかした? なんだか、浮かない顔をしてるみたいだけど……」
あまりにも真剣に、食い入るみたいに動画をみていたせいだろう。
なんて答えようかと迷っていたら、彼は情けないくらい眉尻を下げ、一歩後ずさった。
人見知りで臆病な佐藤がようやく俺に対して気を許してくれてきたというのに、これでははじめて話した頃に逆戻りじゃないか!
それに気付いたから、苦笑しながら答えた。
「俺が浮かない、というか。うーん……。なんとなくだけど、りとる君が元気がないみたいで」
数秒の、沈黙。それから佐藤は、困ったように笑って答えた。
「そうかな? 大路君の、気のせいじゃない?」
おそらく彼は、俺のことを気遣ってそう言ってくれたのだろう。
なのにそれに納得がいかなかったから、子どもみたいな八つ当たりをしてしまった。
「絶対、気のせいなんかじゃねぇよ! 俺のりとる君愛、なめんな。りとる君、大丈夫かなぁ……」
だけどこの時の俺は、ただりとる君の様子だけが心配で。
……佐藤が俺の発言に心を痛め、傷ついていただなんて、ほんの少しも気付いてはいなかったんだ。
そのため午後になり、さすがにちょっと冷静さを取り戻した俺は、また当たり前みたいに佐藤に声を掛けようとした。
だけどこの日を境に、佐藤は目に見えて俺を避けるようになってしまった。
当然といえば、当然の反応だ。
だってあいつは俺の不安を軽くしようとして、ああいう風に言ってくれたはずなのだ。
なのに俺はりとる君のことが心配で心配で、とてつもなく身勝手な八つ当たりで繊細な彼を傷付けた。
でも距離を取られ、ショックだったのは俺だけだったらしい。
休憩時間。隣のクラスの中西と、楽しそうに笑う佐藤の姿を目にした。
中西の手にしっかり握られているのは、俺がもらったのと同じ紙袋。
だからきっとその中身は、佐藤のお母さんが作ったスイーツに違いない。
なのに俺がショックを受けた理由は、スイーツをもらえなくなったことなんかじゃなかった。
……彼のあの楽しそうで幸せそうな笑顔が、俺ではなくあの男に向けられていることだった。
そしてそれは俺にとって、想像以上にショックな出来事だったみたいで。
……何も悪くないはずの彼に対してなんであんなにも酷い態度をとってしまったのだろうと、かつてないほど激しい後悔の念にとらわれた。
翌週の、水曜日。
沈んだ心を無理やり浮上させるべく、いつものように帰宅するなりパソコンへと向かった。
だけど、この日。『PM3時の魔法使い』は更新されることのないまま、日付が変わってしまった。
りとる君の配信を見つけてから、およそ1年半が経つ。
更新は毎週規則正しく行われていたはずだから、こんなのははじめてのことだった。
だから足りないものを補うみたいに、過去の動画を再生しようとしたけれど、やっぱりなんだかものたりなくて。
これ以降りとる君の動画の配信ペースはガクンと下がり、月に一度程度、気まぐれに更新されるだけになってしまった。
やっぱり彼の心境に影響を与えるような、なにか大きな出来事があったのかもしれない。
なのにそれを案じる気持ちよりも、佐藤に避けられるようになった衝撃とダメージのほうが大きくて。
俺はあれだけ熱心な信者だったくせに、更新の可能性がある水曜日以外は彼の動画をみなくなってしまった。
いつもはただよだれを垂らして動画を見ているだけだが、今日は違う。
だって俺には、佐藤の母親が作ってくれたサブレがあるのだ。
ほくほく気分で袋を開けて、中身を皿の上に1種類ずつわけて取り出す。
普段の俺は根ががさつだから、こんなことは絶対にしない。
だけどわざわざ3種類、味を分けてくれているのだ。
きっと味とか香りの違いを堪能してねという、佐藤のお母さんの配慮に違いない。
それが分かったから、昨日も同じようにきっちり分けていただいた。
うっかりすると危うくすべて食べきりそうなほどうまかったから、ちゃんと全種類半分ずつ残しておいた俺、グッジョブ!
せっかくだから元々家にある、おふくろが買った英国産のうまい紅茶とともにいただくとしよう。
お湯を沸かして、タイマーをセットして。
ティーポットを使い、丁寧に紅茶をいれる。
これも普段ならあまりしないことだが、推しであるりとる君のレシピで作られた激ウマなサブレがあるのだ。
ティーパックを使って安い紅茶を雑にいれるのは、失礼にあたるというものだ。
そんな気持ちの悪いこだわりを遺憾無く発揮させながら、いそいそとティーセットを用意する。
こうして準備を万端に整えてから、今日の午後3時に配信されたばかりの、りとる君の新作動画を開いた。
『今日は以前配信して好評だったレシピの、アレンジバージョン。抹茶味のサブレを、作っていきたいと思います!』
一般的な男と比べたら、やや高めの澄んだ声。
それはとても穏やかで、耳に心地いい。
だけど緊張したり、あわてたり。興奮したりした時は、途端に早口になってしまう。
それすらもなんだか可愛くて、いつもついクスクスと笑いながら見ているわけだが。
それにしても、味付けは違えどなんてタイムリーな!
まさかの偶発的コラボレーションに、ひとり歓喜した。
野郎とは思えないくらい、細くしなやかな指先。
ついさっきまではただの粉だったはずのボウルの中身が、あっという間にしっとりとした、そしてほんのり艶のあるサブレ生地へと変化していく。
りとる君の動画を見るたび、いつも思うのだ。
……本当に彼は、スイーツの国の魔法使いなんじゃないかって。
もちろんそんなことはありえないし、彼も普段はどこにでもいるような平凡な男子なのかもしれないという現実を、ちゃんと俺だって分かってはいるけれど。
しかし視聴している中で、違和感を覚えた。
というのも今日のりとる君からは、いつものように自分自身がワクワク楽しんでいる感じが、まったくといっていいほど感じることができないのだ。
最初はいつもみたいに、まるで魔法みたいに完成していくスイーツを楽しんで見ていた。
だけど彼の様子がおかしいことに気付いてからは、こちらまでなんだか落ち着かない気分になってしまった。
りとる君に、いったい何があったんだろう?
当然のことながらただのいち視聴者でしかない自分にはどうすることもできないし、その理由を知ることすらもかなわないけれど。
***
その翌日の、木曜日。
なにかりとる君の変化の原因となった出来事の糸口を見つけることはできないものかと、もう学校に到着してそろそろ授業も始まろうかというのに動画を食い入るように見つめる俺。
するとその背後を、佐藤が通りかかった。
なのでそれに気付いたから、いつもみたいに俺のほうから声をかけた。
「おはよう、佐藤!」
「おはよう、大路君。どうかした? なんだか、浮かない顔をしてるみたいだけど……」
あまりにも真剣に、食い入るみたいに動画をみていたせいだろう。
なんて答えようかと迷っていたら、彼は情けないくらい眉尻を下げ、一歩後ずさった。
人見知りで臆病な佐藤がようやく俺に対して気を許してくれてきたというのに、これでははじめて話した頃に逆戻りじゃないか!
それに気付いたから、苦笑しながら答えた。
「俺が浮かない、というか。うーん……。なんとなくだけど、りとる君が元気がないみたいで」
数秒の、沈黙。それから佐藤は、困ったように笑って答えた。
「そうかな? 大路君の、気のせいじゃない?」
おそらく彼は、俺のことを気遣ってそう言ってくれたのだろう。
なのにそれに納得がいかなかったから、子どもみたいな八つ当たりをしてしまった。
「絶対、気のせいなんかじゃねぇよ! 俺のりとる君愛、なめんな。りとる君、大丈夫かなぁ……」
だけどこの時の俺は、ただりとる君の様子だけが心配で。
……佐藤が俺の発言に心を痛め、傷ついていただなんて、ほんの少しも気付いてはいなかったんだ。
そのため午後になり、さすがにちょっと冷静さを取り戻した俺は、また当たり前みたいに佐藤に声を掛けようとした。
だけどこの日を境に、佐藤は目に見えて俺を避けるようになってしまった。
当然といえば、当然の反応だ。
だってあいつは俺の不安を軽くしようとして、ああいう風に言ってくれたはずなのだ。
なのに俺はりとる君のことが心配で心配で、とてつもなく身勝手な八つ当たりで繊細な彼を傷付けた。
でも距離を取られ、ショックだったのは俺だけだったらしい。
休憩時間。隣のクラスの中西と、楽しそうに笑う佐藤の姿を目にした。
中西の手にしっかり握られているのは、俺がもらったのと同じ紙袋。
だからきっとその中身は、佐藤のお母さんが作ったスイーツに違いない。
なのに俺がショックを受けた理由は、スイーツをもらえなくなったことなんかじゃなかった。
……彼のあの楽しそうで幸せそうな笑顔が、俺ではなくあの男に向けられていることだった。
そしてそれは俺にとって、想像以上にショックな出来事だったみたいで。
……何も悪くないはずの彼に対してなんであんなにも酷い態度をとってしまったのだろうと、かつてないほど激しい後悔の念にとらわれた。
翌週の、水曜日。
沈んだ心を無理やり浮上させるべく、いつものように帰宅するなりパソコンへと向かった。
だけど、この日。『PM3時の魔法使い』は更新されることのないまま、日付が変わってしまった。
りとる君の配信を見つけてから、およそ1年半が経つ。
更新は毎週規則正しく行われていたはずだから、こんなのははじめてのことだった。
だから足りないものを補うみたいに、過去の動画を再生しようとしたけれど、やっぱりなんだかものたりなくて。
これ以降りとる君の動画の配信ペースはガクンと下がり、月に一度程度、気まぐれに更新されるだけになってしまった。
やっぱり彼の心境に影響を与えるような、なにか大きな出来事があったのかもしれない。
なのにそれを案じる気持ちよりも、佐藤に避けられるようになった衝撃とダメージのほうが大きくて。
俺はあれだけ熱心な信者だったくせに、更新の可能性がある水曜日以外は彼の動画をみなくなってしまった。

