「よぉ、理人。ちょうどよかった! 今帰り?」

 学校からの、帰り道。ちょうど同じく帰宅途中だったらしき太陽に、遭遇した。

「あぁ、太陽。うん……」

 いつも以上にどんよりとした空気を垂れ流す僕の姿を見て、一瞬顔を引き攣らせる太陽。
 それに気付いたから、あわてて笑みを顔面に貼り付けた。

「そうだね、ちょうどいいタイミングだったみたい。昨日渡したサブレ、もしかしてもう食べてくれた?」

「食わいでか! 今回のも、めちゃくちゃうまかった……」

 その味を反芻するように、うっとりとした顔で答える太陽。
 それを見て、さっきまでの重かった気持ちが少しだけ軽くなった気がした。

「ほろほろで、サクサクで、ほろ苦で。お前が作ったのを食ったら、まじで店で売られてるのを食えなくなるわ。やっぱスイーツの魔法使い りとる様の作るスイーツは、最高だな!」

 最大級の、賛辞。それを聞き、地味で陰キャな僕自身ではなく、スイーツ研究家であり配信者、りとるとしての自信は取り戻すことができた。

「そっか、それはよかった。だけど声のボリュームは、もう少しだけ下げてよね」

 今目の届く範囲には、僕と太陽のふたりしかいないように思う。
 だけど、よくいうではないか。壁に耳あり障子に目あり、と。

「……ごめん、ちょっと興奮しすぎた」

「ううん。そんなに喜んでくれて、僕も嬉しいよ。いつも味見してくれて、ありがとう。なら今日の夜もう一度作って、明日サイトにあげられるようにしようかな」

「うん、いいと思う! 作ったサブレが余ったら、またいつでも引き受けるから」

 ひとりで食べるにはじゅうぶんな量を渡したはずなのに、どうやらそれはすでに、すべて彼の胃袋に収まってしまった後らしい。
 だけどこうして純粋に喜んで食べてくれる彼のような存在は、基本的に自分にたいして自信のない人間にとって、とても大切でありがたい。

 だから僕は、今度は心からの笑顔で答えることができた。

「うん、そうだね。うちにはまだ昨日作った分が残っているはずだから、また明日にでも渡すようにするよ」

「あざす! うひょー、楽しみ!」

 素直に喜びを言葉と表情で表現してくれる彼を見て、思わずクスクスと笑ってしまった。
 でもそこで、そういえばとふと気付いた。
 
 せっかく大路君も僕の作ったサブレを大絶賛してくれていたはずなのに、ちゃんと聞くことができなかったなと。
 ……いくら動揺していたからって、あの態度はさすがに失礼だったかもしれない。

 ただでさえ人気の高い、クラスの王子様的存在の大路君。
 しかも僕は、彼と同じ男なのだ。
 だから僕がいくら好きになったとしても、この想いが彼と通じ合うことはきっとない。
 
 でもそんなのは、勝手な僕の事情でしかない。
 そのため急にあんな素っ気ない態度を取られたら、誰だって不快になるに違いない。
 彼に好かれたいだなんて、そんな贅沢なことを望むつもりはもちろんない。
 それでも彼に、嫌われるのだけは嫌だ。

「……りとるが、うらやましいな」

 思わず口を、ついて出た本音。
 だって彼は、僕であって僕じゃない。

***

 その日の夜。予定通り抹茶味のサブレを作りながら、撮影に臨んだ。

 だけど気分は、どうしても沈んだままで。僕はみんなの人気者、スイーツの魔法使い りどるの仮面を被りきれないでいた。
 ……顔出しなしでの配信だから、それに気がつく人なんて、きっとどこにもいないけれど。

「シュガーパウダーを上から軽くふりかけたら、抹茶味のサブレの完成です! 実は今回の、このサブレ。めちゃくちゃ、自信作だったりします。なのでぜひ皆さんも、作ってみてくださいね。本日もご視聴いただき、ありがとうございました!」

 無理やり明るい声色を作り、いつものように締めの言葉を口にした。

 撮影停止のボタンを押してから、ふぅと小さくため息をひとつ吐き出す。
 いつもならお菓子を作ったり、配信用の動画を撮っている間だけは、気持ちをうまく切り替えることができるのだ。
 なのに今日は、僕の自信の源であるりとるの存在そのものが、僕の心に影を落とした。

 りとるだって僕の一部のはずなのに、大路君の心をとらえて離さないりとるのことが、うらやましくて仕方がない。

 お菓子を作るワクワクを、少しでも多くの人に知ってほしい。
 誰でも手軽に作ることのできるスイーツで、みんなを笑顔にしたい。
 それが僕が配信をはじめた、一番の目的だった。
 正直なところ、ここまでたくさんの人たちに見てもらえるようになるとは思っていなかったけれど。
 
 ……なのにこんな気持ちのままで配信なんて、続けていていいのだろうか?

 何が、スイーツの魔法使いだ。
 他人の心はおろか、自分の気持ちすらもコントロールできない未熟で弱い僕。
 ドロドロとした、ヘドロみたいな負の感情が僕の心を支配していく。
 そんな気持ちをごまかすみたいに、できたての抹茶サブレに手を伸ばす。
 それをひとくち口に運び、苦笑した。

「ハハ……、やっぱりおいしいんだよな」

 もう一度、さっきよりも大きなため息をひとつ吐き、それから自分の心にたまった汚い感情を洗い流すみたいにひとり後片付けを開始した。

 それが終わると、明日の午後3時からの配信に向けて、動画の編集に入った。
 これに関しては最初の頃は本当に苦戦していたけれど、今ではそれにもすっかり慣れてしまった。
 ちなみにバックで流すための音楽は、自分が活動するバンドの曲の作詞作曲も担当している太陽が作ってくれた、オリジナル音源を使用している。

 りとるのイメージに合わせて作ってくれたのだという明るい曲調のピアノ演奏は、沈んでいた僕の心までちょっぴり軽くしてくれた。

 スイーツの魔法使い りとるのキャラクターを描いたデフォルメされた可愛らしいイラストは、絵を描くのが趣味の妹が描いてくれたものだ。

 どちらもたいへん好評で、周囲のみんなからの協力もあり、りとるは今の人気を手に入れることができたのだと思う。
 動画そのものはそこまで凝ったものではないのに、どちらも僕の作った動画に、花を添えてくれているから。
 僕を支えてくれる人たちの協力があったおかげで、今のように楽しみながら活動ができている。

「よし! いつまでも、うじうじと悩んでいても仕方ない。今できることを、やっていかなくちゃ!」

 次の配信用のお菓子のレシピを考えるため、命の次に大事といっても過言ではない、自分専用のレシピノートを開いた。
 ページをパラパラとめくりながら、何を作ろうかと考える時間。
 それは至福の時なのだけれど、集中しすぎたせいで寝不足になることもしばしば。

 ただでさえ昨夜はほとんど眠れなかったから、早めに寝ようと思っていたはずなのに。
 ……明け方近くまで次のスイーツのテーマを考えるのに没頭し過ぎたせいで、気付けば僕は机の上に突っ伏すみたいにして、寝落ちてしまっていたのだった。

***

 その週の、木曜日。学校に着くと大路君は珍しくひとりで席に座ったまま、熱心にスマホで動画を見ていた。

 もしかしたらと思い、こっそり彼の背後にまわってその画面を確認する。

 するとそこに映し出されていたのはやはりというべきか、魔法使い りとるが抹茶のサブレを作る動画だった。

 なんともいえない微妙な気分になり、そっとその場から離れようとする僕。
 だけど僕の存在に気がついた大路君は、いつもみたいにまばゆい笑顔で挨拶の言葉を口にした。

「おはよう、佐藤!」

 だから僕も、あわててそれに答えた。

「おはよう、大路君。……りとる君の動画を、みていたんだね」

 スルーするのもかえって変な気がしたから、自分からその話題に触れた。

「うん。昨日から、何回もみてる」

 それから彼は、珍しく少しだけ暗い表情を浮かべた。
 それを不思議に思い、その理由を聞いてみることにした。
 僕ではなんの役にも立たないかもしれないけれど、それでも話すだけで気持ちが軽くなることがあると、つい最近の経験からよく知っているからだ。

「どうかした? 大路君。なんだか、浮かない顔をしてるみたいだけど……」

 ハッとしたように見開かれた、彼の深い青色の瞳。
 やはり触れるべきじゃなかっただろうかと後悔し始めたタイミングで、彼は困ったように笑った。

「俺が浮かない、というか。うーん……。なんとなくだけど、りとる君が元気がないみたいで」

 その言葉に、思わず息を呑む。
 まさかそんなことまで、画面越しに伝わってしまっていただなんて。
 ……配信者、失格じゃないか。情けない。

「そうかな? 大路君の、気のせいじゃない?」

 激しく動揺しながらも、当たり障りのない返事を返した。
 だけどそれに納得がいかなかったのか、大路君はちょっと不快そうに答えた。

「絶対、気のせいなんかじゃねぇよ! 俺のりとる君愛、なめんな。りとる君、大丈夫かなぁ……」

 後半は心から心配そうに、ひとりごとみたいに彼はつぶやいた。

 りとるの失態に、心を痛める大路君。
 それを見て申し訳ないと感じるのと同時に、僕の分身であるりとるへの嫉妬で心が真っ黒に塗りつぶされていくのを感じる。

 そして、この日を境に。……ずっと続けていた週一の配信も、情けないことに僕は休みがちになっていってしまった。