それから追い込み練習が始まった。
 土日も午前中から皆で部室に集まり学校にいられる時間ギリギリまでみっちり練習した。
 お蔭で「IMY」も大分形になってきた。

 そして、日曜の帰り道。
 俺は迷いに迷って、思い切って優真に声を掛けた。

「なぁ、優真」
「なあに?」
「今日も朝から練習詰めで、さすがに疲れたろ?」
「まあね」
「だろ? だからさ、その……報酬、だけど、今日は2回くらいにしとかないか?」

 二本指を立て笑顔で言うと、スっと優真の目が据わった。

「だーめ。今日フルで演奏したの7回だから、7回。ちゃんとキスしてね」

 両手で7を作りながら強く言われて、ぐうと俺は低く唸った。

 ……ちなみに昨日は5回だった。
 外でそんな回数のキスなんて出来るわけがなくて優真の部屋で5回した。全部俺から。めっちゃ頑張った。
 優真は俺の必死で拙いだろう触れるだけのキスを、嬉しそうに受け入れていた。
 今思い出しただけでも、うわー!と叫び出したくなる。

 しかし、これから学祭が近くなる毎に回数はもっと増えていくわけで。

「そんなに何度もキスして嬉しいか!?」
「好きな人からのキスだよ。嬉しいに決まってるでしょ」
「っ、……で、でもさ、これから本番近くなったら軽く10回とか行くぞ!」
「だろうね」
「そんなにしたら唇が痛くなるかもだろ!?」

 俺が必死に言うと、優真はアハハと声を上げて笑った。

「そんなわけないでしょ! 可愛いなぁ奏汰!」
「笑うなよ! それに可愛い言うな!」

 真っ赤になって言うと、優真はひとしきり笑った後でふぅと息を吐いた。

「じゃあさ、こういうのはどう? 10回越えたら10回毎に1回」
「え、ほんとか!?」

 俺がその話に飛びつくと、優真は自分の唇に指を当ててにんまりと笑った。

「その代わり、ディープキスね」
「ディ……っ!?」

 これまでのキスは全て唇が触れ合うだけの軽いキスだった。
 ディープキスということは、濃厚なキス。確か、舌を絡め合ったりするキスのことだ。

(あんなドエロいキスを、俺が優真と……!?)

 つい想像して顔が爆発したように熱くなった。

「そんなの無理に決まってるだろ!」
「えー、でも10回分だしなぁ~、そのくらいはしてもらわないと」

 まさに、「うまい話には裏がある」だ。
 俺はもう一度低く唸ってから、はぁ~と諦めの溜息を吐いた。

「……わかった。ちゃんと回数分するから。ディープは勘弁してくれ」
「僕はどっちでもいいよ。とりあえず今日は7回ね。帰ってからにする?」
「ああ」
「了解っ」

 その語尾には絶対ハートマークが付いていた。


   ***


 7回。
 言わずもがな、これまでで最高回数である。
 母の用意してくれた夕飯を食べた後、練習のため俺はギターを肩に掛けて優真の部屋を訪れた。

「どうする? 先にキスする? それとも練習してからにする?」

 首を傾げ可愛らしく問われて、俺は小さく答える。

「……先にキス」

 昨日は先に練習して、この後5回のキスが待っていると思ったら情けないことにうまく集中出来なかったのだ。

「はーい。じゃあ、どうぞ」

 優真がピアノの椅子から立ち上がり楽しそうに目を瞑った。俺はその前に立つ。
 昨日もそうだったが、身長差があるためにどうしても少し背伸びしなくてはならない。
 もう早く終わらせてしまえと、優真の肩に手を置きつま先立ちになってまず1回。続けて2回、3回とキスしていく。
 その度にちゅっちゅっと小さくリップ音がするのがたまらなく恥ずかしかった。
 このままあと4回、そう思って再び優真の唇に自分のそれを合わせようとしたときだ。

「ちょっとストップ」
「ぅえ?」
「残りは僕からしたい」
「っ!?」

 俺が何か答えるよりも早く優真の大きな両手が俺の頬を包んだ。
 間近で優しい瞳に見つめられて思わずドキリとする。
 そのまま1回。
 角度を少し変えて下唇に1回。上唇に1回。
 最後に少し長めのキスを1回。
 わざとか、というくらい大きなリップ音を立ててそれは離れていった。

 ふっと優真が笑う。

「もう何度もキスしてるのに、全然慣れないね。顔真っ赤」
「う、うるせーな。お前が慣れすぎなんだよ!」

 経験値の差を見せつけられたようでなんだか面白くなかった。
 俺は優真とするキスが初めてだが、やはり優真は向こうですでに経験済みなのだろう。
 じゃなきゃ、こんなに慣れているはずがない。

「別に僕だって慣れてるわけじゃないよ。僕のファーストキスはこの間奏汰にしたキスだし」
「嘘だろ?」
「嘘じゃないよ。奏汰以外の人とキスなんて絶対嫌だもん、僕」

 それでこんなに手慣れた感じに出来るのかよと逆にショックを受けていると、優真はにっこりと続けた。

「ただ、イメージトレーニングっていうの? 想像の中では何度も奏汰とキスしてたからさ」
「ああーーーーっ、そういうのは言わなくていいから!」

 聞いてるこっちが恥ずかしくなってきて俺は耳を塞いだ。

(こいつ、どんだけ俺のこと好きなんだよ!)

 そして、そんなふうに思ってしまったことに更なる羞恥を覚える。
 と、耳を塞いでいた両手首をぐいと取られた。

「奏汰も、勿論僕が初めてだよね?」
「――っ」

 その笑顔がなんだか少し怖くて、俺は視線を外してぼそっと答える。

「……そ、そうだよ」
「よかった!」

 パッと手を離して優真は嬉しそうに笑った。

「ほらっ、もう練習行くぞ、練習!」
「はーい!」

 機嫌良さそうに返事をして優真は再びピアノの椅子に腰掛けた。
 俺も一呼吸ついてなんとか頭を切り替えたのだった。


   ***


「行ってきます」
「行ってきまーす!」
「はい、ふたりとも行ってらっしゃい!」

 月曜。母に見送られ、俺と優真は玄関を出た。
 今日は優真の登校初日。
 同じ制服、と言ってもまだ夏服なので同じ半袖ワイシャツとスラックス姿の優真を見て自分の顔が緩むのを感じた。

「一緒に登校すんの、小学校以来だな」
「そうだね。まぁ、あの頃は他の子たちも一緒だったけど」
「そうそう、そうだった。集団登校な」
「嫌だったなぁ、集団登校」
「え?」
「奏汰が他の子に取られるから」
「!」

 その頃を思い出したのか口を尖らせた優真を見て、そういえば登校時いつも優真の機嫌が悪かったことを思い出した。
 てっきり眠いのかと思っていたけれど。

(そんなこと思ってたのかよ)

 胸の辺りがムズ痒くなって、俺は早々に話を変えることにした。

「友達、出来るといいな」
「まあね。出来なくても別にいいけど」
「そうか? ま、焦ることはないけどな。優真ならきっと大丈夫だ。まず女子が放っておかないと思うしな!」

 冗談まじりに笑いながら言うと、優真は半眼で俺を睨んできた。

「奏汰さ、僕の気持ち知っててそういうこと言うんだね」
「え、や……」

 焦る。
 マズイことを言ってしまったようだ。

「じゃあさ、僕が女の子と付き合うことになったら奏汰はどうするの?」
「どうって……」

 優真が女の子と付き合うことになったら……?
 優真の隣に女の子がいるところを想像したら、それはごく自然な微笑ましい光景に思えた。
 きっと誰からも祝福されるようなお似合いのカップルだろう。
 俺なんかと一緒にいるよりも、ずっと――。

 ……ズキ。

(あ、あれ?)

 そのとき、胸の奥に小さく痛みを覚えて俺は困惑する。

 優真は不機嫌を隠さずに続けた。

「僕は奏汰のことが好きなのに、他の子と付き合うんだよ。その子に失礼じゃない?」
「そ、そんなの、ダメに決まってるだろ」
「でしょ?」
「……ごめん、悪かった」

 反省して謝ると、優真は小さく息を吐いた。

「デリカシーがないって言われるでしょ、奏汰」
「う゛っ」

 覚えがありすぎて小さく呻く。

「まぁ、お蔭で僕的には助かったけど」
「は?」
「奏汰がモテ男子じゃなくて良かったってこと!」
「おい、それはちょっと俺に失礼だろ!」

 確かにモテたことなんてないけれど。
 すると優真は「ごめんごめん」とやっと楽しそうに笑った。


  ***


 あっと言う間に時が過ぎて行った。
 優真は一年のクラスでもうまくやれているようだった。
 案の定、最初は女子に囲まれウザイとぼやいていたけれど、軽音部の奴が同じクラスにいたようでそいつが何かと優真のことを気にかけてくれるらしい。
 良かったなと言うと、優真もまんざらでもないような顔をしていて俺は一安心した。

 キスが10回を超えたのは、学祭の3日前だった。
 ピアノの椅子に座った優真に12回のキスをしたときは、唇が痛くはならないまでもしばらく感触が消えなくて困った。

「ディープ1回でもいいのに」

 そんなふうに言われはしたが、丁重にお断りした。

(自分の気持ちだってまだよくわかってねーのに、ディープなんて出来るかよ)

 ……それに正直なところ、やり方がよくわからないのだった。



 バンドの方も順調だった。学祭本番もこのまま上手くいくだろうと思った。
 まだ各々少し不安なところがあるけれど、そこを集中的に練習すればなんとかなると思った。

 そう、安心しきっていた。

 ――しかし。

 本番2日前、まさかの事態が起きた。



「軽音部に、戻りたい?」

 俺は呆けた声を出した。
 放課後、今日も皆で練習しようと部室に入ると椋が俺に頭を下げていた。

「――ちょ、ちょっと待ってくれ……美緒が? どういうことだ?」

 2週間前にも同じような台詞を口にした気がする。
 律は先に話を聞いていたのか、そんな椋を呆れたように見つめている。
 優真は、まだ部室に来ていないようだ。

「よりを戻したんだ。俺ら」
「それは、良かったけどさ」
「それでな、美緒が最後にどうしても俺らとバンドやりたいって言うんだよ」

 それを聞いて俺は目を剥いた。

「何言ってんだよ! そんなの、今更無理に決まってんだろ!」
「だよね~、俺もそう言ったんだけどさ」

 律が溜息混じりに言う。
 しかし、椋は俺に頭を下げたまま、真剣な声音で続けた。

「わかってる。俺も最初は何言ってんだと思った。でも、元は全部俺のせいだし……彼氏として、バンド仲間として、美緒の願いを叶えてやりたい。だって、美緒にとっても最後のステージだろ」
「そりゃ、そうだけど……」

 美緒の気持ちも、椋の気持ちもわからないわけじゃない。
 3年間ずっとやってきた仲間だ。俺だってそのつもりでずっとやってきた。
 だからこそ2週間前あんなに慌てたのだ。なのに。

「だって、じゃあ優真はどうすんだよ!?」
「ゆ、優真っ」

 律のバツの悪そうな声を聞いて、ハっとして俺は部室の入口を見る。
 いつの間にか優真が目を大きくしてそこに立っていた。

「優真」
「……っ」

 優真は俺から目を背けると、そのまま部室を飛び出していった。

「優真!」

 俺はすぐさまそれを追いかけた。
 椋と律の声が聞こえた気がしたけれど、振り返っている余裕はなかった。