その後の帰り道、優真とどんな会話をしたかほとんど覚えていない。
いや、ほとんど会話という会話はしなかったかもしれない。
とにかく頭がパニック状態だった。
……ただ、わかっているのは。
「ただいま」
「ただいま~」
優真と帰る場所が一緒ということだ。
昨日から優真は俺のうちに住むことになったのだから。
つい今朝まで、それを嬉しく思っていたのに。
(好き? 優真が俺を? ラブの意味で?)
あんなふうに直接はっきりと言われても未だに信じられなかった。
でも、優真の唇の感触はまだ生々しく残っていて……。
「おかえりなさーい」
居間の方から母の大きな声が聞こえてきた。
「ご飯もう少しだから、部屋でちょっと待ってて~」
「わかった」
そう返事をしたときだ。
「奏汰!」
「え?」
先に靴を脱いで家に上がっていた優真が楽しそうに笑っていた。
「今日、僕の荷物全部届いたんだ。部屋見に来てよ」
そう何事もなかったように明るく言われて、俺は少し呆気にとられながら頷く。
「あ、ああ」
そして優真に先導されるように俺は部屋のある2階へと上がっていく。
(そういえば、今日優真のベッドが届くって言ってたっけ)
それを思い出して、少しホッとしている自分がいた。
今日から優真は隣の部屋で寝るのだ。だから昨日のように寝ている間にいきなりキスされるようなことはないということで。
(――って、何考えてんだ俺は!)
幼馴染である優真を、まるでキス魔の変態のように。
……でも、キスをされたのは事実で。
(それにしても優真の奴、普通過ぎないか?)
あんな衝撃の告白をしておいて。
あんなキスをしておいて。(しかも二度も)
俺だけがこんなに動揺して、バカみたいじゃないか。
俺がそんなことを考えているとも知らずに、優真はにこにこと部屋の前に立っていた。
そして俺が近づくと、じゃーん!と効果音つきでドアを開けた。
中の様子を見て、俺は目を大きくした。
少し前まで雑然とした物置部屋だったのに、ちゃんとした一人部屋になっていた。物がまだ少ない分、俺の部屋より綺麗で広く見える。
ベッドと本棚と簡易的な勉強机。そして、何より驚いたのが。
「ピアノ」
「そう、持ってきちゃった」
見覚えのある、白のアップライトピアノだ。
あの頃、優真の部屋にあったのと同じピアノだろう。
白は他ではなかなか見ないからよく覚えている。
「まだあったんだな」
「勿論」
優真の後についてピアノに近づいていく。
「奏汰との約束もあるし、向こうに行っても練習はかかさなかったよ」
「え?」
――約束?
何か、俺は優真と約束を交わしただろうか。
するとそんな俺を見て優真はふっと笑った。
「やっぱ覚えてないかぁ」
その笑顔が少し寂しそうに見えて、罪悪感を覚える。
しかし、本当に何も思い出せない。
「えっと……」
「いいよ、8年も前の話だし。覚えてなくても仕方ない」
言いながら優真は白い椅子を引いてピアノの蓋を開いた。
鍵盤の上に敷かれた赤い布を外しそれをピアノの天井に置くと優真は椅子に腰掛けた。
そのあとで軽く弾き始めたのは「猫踏んじゃった」だった。
(懐かしい)
ふっと思わず笑みが漏れていた。
この曲もよく隣から聞こえてきたのを思い出したのだ。
大体いつも難しそうなクラシック曲の合間に聞こえて来るので、あ、優真の奴練習に飽きたんだなと思ったものだ。
「キーボードじゃないけど、あとでふたりで合わせ練習しようよ」
「え?」
弾き終わって、優真が俺を見上げた。
「僕はやっぱり奏汰にボーカルをやって欲しい」
「優真……」
「あのドラムの人も言ってたけどさ、今から奏汰の歌いやすい曲に変えたっていいと思うし」
「でも」
「今から新しく女子を入れたりしたら、またなんか面倒事が起きるかもしれないよ?」
「それは……そうかもしんないけどさ」
そもそもの発端が発端なのでそこは強く否定できないでいると、優真はもう一度真剣な顔で言った。
「僕は、奏汰がボーカルのバンドで演奏がしたい」
「……」
俺が視線を彷徨わせていると、階下から「ご飯できたわよ~」という母の大きな声が聞こえてきた。
出来るだろうか。俺に。
ギターボーカルが務まるだろうか。
確かに俺が最初に目指したのはギターボーカルだった。
人生で初めて俺がエレキギターに触れたのは小学5年生の頃だ。
俺が興味があると知り、叔父が学生の頃に使っていたものだけど、と譲ってくれたのだ。
それからは毎日のようにギターを弾いた。お小遣いやお年玉を貯めてはアンプやストラップなどアクセサリーを揃えていった。
その頃は下手ながらも演奏に合わせて歌も歌っていた。憧れのギターボーカルに近づけた気がして嬉しかった。
しかし中学に入った頃、俺は声変わりを迎えた。それまで歌えていた曲が歌えなくなり大きなショックを受けた。
でも俺にはギターがある。ボーカルは他の上手い奴に任せて、俺はリードギターに徹しようとそのとき決めたのだ。
高校に入学し迷わず軽音部に入部した。バイト代を貯めて初めて自分でギターを購入した。あのときの興奮は今でも覚えている。今も使っているのがそのギターだ。
夕飯を終え、俺はギターを肩に掛け再び優真の部屋にいた。
鍵盤を前にして優真が俺を見上げる。
「とりあえず学祭でやる曲は置いといて、奏汰が一番弾き慣れてる曲は?」
「あー」
「これは? 昔奏汰がよく歌ってた……」
そうして優真が弾き始めたのは、俺がギターボーカルに憧れたきっかけのバンドの曲だ。
確かに昔よく優真のピアノ演奏に合わせてこの曲をデカイ声で歌っていた覚えがある。
ちなみにその頃はまだギターを持っていなかったので、エアーで弾いている気になっていた。
「行ける、気がする」
「じゃあ、やってみよう」
「わかった。……あ、でも、えっと」
ふと、考えてしまった。
もしかしてこれも、キス一回に入るのだろうか、と。
するとそんな俺の思考を読み取ったのか、優真はふっと笑った。
「これは僕がお願いしてるんだから、報酬は要らないよ」
「あ、そ、そっか……」
気まずくなって視線を逸らす。と。
「まあ、奏汰がしたいって言うならしてもいいけどね、キス」
「だ、誰も言ってねーし!」
慌てて言うと優真はもう一度笑ってから再び鍵盤の方に向き直った。
「行くよ」
「おう」
優真が足先で床を叩いてカウントをとり、ギターとピアノの演奏が同時に始まった。
優真のピアノと合わせてギターを弾くのはこれが初めてだ。昔はエアギターだった。
アンプには繋いでいないためギターの音はごく小さいが、あの頃出来なかったことが8年の時を経て実現し胸が熱くなった。
そして、俺の歌が入る。
今目の前にマイクはないが、あえて視線は前に向けたまま手元は見ずに歌うことにした。
流石に弾き慣れた曲だ。昼間とは安心感がまるで違った。
歌も昼間のようにかっこ悪くひっくり返ることなく最後まで歌いきることが出来た。
ギターの演奏を終えると、優真がパチパチと拍手をしてくれた。
「完璧じゃん!」
「なんとか、な」
満更でもなく、俺は笑った。
これなら確かに学祭でも行けるかもしれないと思った。
椋と律ともこの曲は何度も合わせたことがあるから、きっと今からでも大丈夫だろう。
「でも、俺の歌で本当にいいのかな」
特別上手いわけでもないし、いい声でもないし、特徴のある声でもない。
「なんつーか、映えないっていうかさ」
「僕は昔から奏汰の歌声好きだよ」
優真が優しい目をしていて、不覚にもどきりと胸が鳴った。
それを誤魔化すために俺は苦笑する。
「でも声変わりして、あの頃の声とは全然変わっちまっただろ」
「そりゃ低くはなったけど、変わってないよ。聞いてると元気になれる、僕の大好きな奏汰の歌声のままだった」
じわりと喜びが広がっていく。
ついでに、じわじわと顔も熱くなっていく。
「そ、そっか……。でも、あと2曲をどうするか、明日椋と律にも相談してみるわ!」
「うん」
ちょっと希望が見えてきた気がした。
そして、また優真に助けられたと気づく。
(だからって、お礼にキスなんて出来ねーけど……)
代わりに俺は笑顔で言う。
「でも優真、ピアノめちゃくちゃうまくなったよな。ガチですげぇよ!」
すると優真ははにかむように笑ってピアノの方を向いた。
「これが、僕の支えだったからね」
(支え……)
なんとなく声に寂しさのようなものを感じて、俺は訊く。
「やっぱ、向こうの生活は大変だったのか?」
「え?」
きょとんと優真が俺を見上げた。
引っ越し先はやっぱりアメリカだったと昨日母との会話の中でわかったけれど。
「や、自分だけ日本に帰ってくるくらいだし、よっぽど合わなかったのかなと、思ったんだけど……」
なぜか優真は眉を寄せ半眼になっていた。
「だーかーらー、」
がたっと椅子から立ち上がると、優真は俺に顔を近づけてきた。
「僕は奏汰に会いたくて帰ってきたんだよ!」
「え」
俺が目を瞬いていると、優真は続けた。
「引っ越すときに言ったでしょ。絶対戻って来るからって。まったく、全部忘れてるんだから」
「ご、ごめん」
思わず謝ってしまいながら、また顔が熱くなってきた。
……なんだか、とんでもないことを言われた気がする。
好きだとは先ほども言われたけど。
(まさか、日本に帰ってきた理由まで俺なんて思わないだろ……)
「失敗した」
「え?」
ぽつりとそんな声が聞こえて顔を上げると、優真がなんだか怖い顔をしていた。
「今すっごく奏汰のこと抱きしめたいのに、ギターが邪魔」
「は!?」
俺は思わず後退りしていた。
「な、何言ってんだ!」
「だって、今奏汰すごく可愛い顔してるのに!」
「か……っ!?」
(可愛い!?)
「ちょっとギター外してよ奏汰」
「嫌だよ!」
「じゃあ、キスしていい?」
「もっとダメだろ!」
「なんで!?」
そんなアホ過ぎるやり取りをしている最中、「そろそろどっちかお風呂入りなさ〜い」と階下から母の声が掛かって正直ホッとした。
「お前、先入れよ」
このままこの部屋にいたらマズイ気がしてドアを開けながら言うと、優真の不貞腐れたような声が聞こえた。
「昔みたいに一緒に入ろうよ」
「入るか!」
バタンっと俺を勢いよくドアを閉めた。
顔が赤いのを自覚して、俺は廊下ではぁ〜と長い溜息を吐いた。
(優真のやつ、ガチなのかよ……)



