歌うことは好きだ。
 カラオケも好きだし、家でギターを弾きながらつい気分が乗って大声で歌ってしまい母に煩いと怒られたことは何度もある。
 でも、バンドのギターボーカルとして歌うとなると話は別だ。

(俺には荷が重すぎるって!)

 しかし。

「んじゃ、行くよ~」

 律が早速スティックでカッカッとカウントを取り始めた。
 俺の目の前にはいつもはないマイクがセッティングされている。
 優真の言葉通り、とりあえず一曲やってみようということになってしまったのだ。
 当日のセトリの中では一番難易度が低くこれまで何度も弾いてきた曲だが、これまでにはない緊張を覚える。

 なんとか、いつも通りギターは入ることが出来た。皆の演奏も合わさって出だしはいい感じだ。
 しかしこの後、俺のボーカルが入るのだ。

 ――行けるのか? 俺、ちゃんと歌えるのか?

(~~っ、もうどうにでもなれ!)

 その勢いでなんとか歌い出した。
 優真の言う通り、これまでの練習で歌詞は完璧に頭に入っている。
 気持ちいい! 最初はそう思った。
 これは案外行けるかも? 正直そう思った。

 しかし、ギターを弾きつつマイクにずっと口を向けてないといけない。これが結構キツかった。
 手元が確認出来ないことが、こんなにも心許ないとは思わなかった。
 しかも。

「――っ」

 元が女性ボーカルの曲だ。
 高音箇所で声が思いっきりひっくり返ってしまった。
 今のは酷かったと恥ずかしくなった。

 そして、サビ前で俺はギターの演奏を止めた。

「ごめん! やっぱ無理だ!」

 サビではさっきひっくり返ってしまった音より更に高音域が続く。こんなの無理に決まっている。

 皆の演奏も止まって、気まずい雰囲気が流れた。

「良かったと、思ったけどな」

 椋がそう言ってくれる。

「キーを下げるか、それかいっそ今から曲変える?」

 律がそう提案してくれる。
 でも。

「や、そこまでして俺じゃなくてよくね?」

 俺はそう苦笑した。

「それよかさ、もう少し探してみようぜ。やっぱこのセトリならボーカルは女子のがいいと思うし。俺もう少し周りに声掛けてみるわ」

 椋と律は顔を見合わせ、わかったと頷いた。

「そもそも原因作ったの俺だし、俺も色々当たってみる」
「俺も」

「……」

 優真は、鍵盤に視線を落としたまま何も言わなかった。
 折角俺なんかを推薦してくれたのに、こんな空気にしてしまって申し訳なかった。

(あとで謝んなきゃな)

 その後はいつも通りパート練習をして、ラストに一回ボーカルなしの合わせ練習をして解散になった。



「僕はやっぱり奏汰のボーカルがいいけどな」

 方向の違う椋と律と別れ、ふたりきりになった途端だった。
 こちらを見ずに言った優真の口が尖っていて、昔も自分の思い通りにならないとよくこんな口をしていたなと思い出し俺は苦笑する。

「ありがとな、優真。でもやっぱ俺には無理だって。つか、ごめんな。折角提案してくれたのにあんなダメダメでさ」
「……」

 ハハと笑いながら言うが優真からは何も返ってこなくて、俺はそのまま明るく続けた。

「あ、そうだ。お前が女子に声かけてくれたら案外すぐに見つかったりしてな! お前いい顔してるし、さっき部室前に集まってた子達みたいにさ」
「奏汰」

 大きくはないのに、声に圧を感じて俺はその後の言葉を飲み込んだ。

「今日の報酬」
「え?」
「合わせ練習1回と、遅刻分の1回で2回ね」

 そうして優真はその場で立ち止まり俺を見た。

「え?」

 ……報酬って、もしかして昨日のあれか?
 演奏一回につき、キス一回ってやつ。

(昨日だけの話じゃなかったのか?)

 またあの慣れない恥ずかしいキスをするのかと目線が泳いでしまった。

「あー、えっと」
「昨日みたいなキスはカウントしないからね」
「え?」
「僕が夜にしたみたいなキスじゃなきゃ認めないよ」

 それを聞いて、俺はゆっくりと目を見開いていく。

「夜って……」
「昨日の夜、したでしょ。キス2回」
「だって、あれは夢じゃ……っ」

 言いながら昨夜の夢を、妙にリアルだった唇の感触を思い出してぶわっと顔に熱が集まった。

 ――夢じゃ、なかった?

 優真があのときのように薄く笑う。

「なんだ。夢だと思ってたんだ? 酷いなぁ、僕たちのファーストキスだったのに」
「……っ」

 思わず手で口を押さえる。

 ファーストキスって?

 僕たちのって……!?

 優真の口から紡がれる信じられない言葉の連続に思考が追いつかない。

「な、なんで、」
「キスして欲しいって言ったのに、あんな変なチークキスするんだもん」

 変な、とはっきり言われ、やっぱりそう思われてたんだ!? と小さくショックを受けつつ首を振る。

「そうじゃなくて! なんで、俺にキスなんか……」

 そう訊くと、優真はまた少し口を尖らせ答えた。

「そんなの、奏汰のことが好きだからに決まってるでしょ」
「へ?」

 ――好き?

 俺のことが?

 滅多に言われることのない「好き」という言葉にじわりとまた顔の熱が上がって、しかし、いやいやともう一度首を振る。

「そりゃ俺も優真のことは好きだけど、キスは違うだろ!」
「何が違うの?」

 ぶすっとした顔で訊いてきた優真に俺は焦りを覚えながら続ける。

「お前が住んでたとこじゃどうか知らねーけど、口へのキスは普通恋人同士か、えっと、ラブの意味で好きな奴にするもんだ!」

 なんで俺、道の真ん中でこんなこっ恥ずかしいこと熱弁してんだと思いながらも必死になって言う。
 このままじゃ優真がこれからの高校生活でキス魔のレッテルを貼られてしまう。
 日本ではライクの意味で口にキスはしないのだと、ちゃんと伝えたかった。

 ――なのに。

「そんなの知ってるよ。だから奏汰としたいんだって」
「はぁ?」

 俺が眉を寄せると、優真は呆れたような溜息をついた。

「あーもう、相変わらずにっぶいな!」
「えっ」

 急にぐいと腕を掴まれたかと思うとそのまま強く引き寄せられて、また唇に柔らかい感触を覚えた。
 すぐ目の前に優真の長い睫毛が映って、このままじゃ刺さりそうだと反射的に目を閉じる。
 ちゅっと短い音を立ててそれはすぐに離れていって。

「ラブの意味で、僕は奏汰とキスしたいんだよ」

 そう耳元で低く囁くように言われて、俺は目を見開いた。

 ――ラブの、意味で……?

「あ、遅刻分ももらわなきゃ」
「っ!」

 もう一度啄むようなキスをされて、俺は漸く我に返った。
 優真から慌てて距離を取り、まだ感触の残る唇を押さえる。

「――な、な、なっ!?」
「ハハっ、奏汰耳まで真っ赤」

 こちらを指差し可笑しそうに笑う優真。
 その笑顔はいつもの優真なのに。

「そういうわけだから。改めてよろしくね、奏汰」
「〜〜っ」

 首を傾げにっこりと俺の名を呼んだ幼馴染が、急に知らない奴に見えた。