机の中の教科書やノートを全部リュックの中にしまい込み、最後に忘れ物がないか二度チェックして教室を後にする。
よくクラスメイトに少しくらい教科書を学校に置いていくよう勧奨されるが、僕は全部持って帰らないと気が済まないタイプなので、家で勉強するという名目で煙に巻いている。
いつもなら教室と同じ階にある図書室に一回寄って帰るのだが、今日は大事な予定があるので、人でごった返していて息が詰まりそうになる階段を何とか下りきって校舎の外に出る。
僕はとにかく人混みが苦手なので、この混雑を避けるためにほぼ毎日図書室に通っていると言っても過言ではない。
外に出るなり上手く呼吸できなかった分の空気を一気に吸い込んで、少し落ち着いてきたところでふと空を見上げると、分厚い雲の隙間から太陽がひょっこり顔を覗かせていた。
朝家を出る時に母親から『今日は雨が降るよ』と忠告されたので、念のため折りたたみ傘をリュックに入れてきたが、この様子だと今日はリュックの中でずっと眠っているだけで良さそうだ。
少しじめじめした空気を肌に感じながら、ホームルームが終わると同時に勢いよく教室を飛び出していったとしの姿を探してみるが、辺りにそれらしき人は見当たらない。
連絡しようかどうか迷ったが、とりあえず色々な部活動が準備を始めているグラウンドまで歩み寄ってみると、ストレッチをしている陸上部の中に、何故か一人だけ野球部が混じっていた。
彼の社交性に感心しながら声をかけにいこうと一歩グラウンドに向かって片足を踏み出した瞬間、人見知りスイッチが作動してしまい、もう片方の足が地面に張りついてしまったかのように動かなくなってしまった。
しばらくその状態で身動きが取れずにいると、陸上部のメンバーの一人が僕の存在に気づき、こちらを指差しながら固まったロボットの存在をとしに知らせる。
としは僕の存在に気づくと、立ち上がって制服のズボンについた砂を取り払い、いかにも不服だと言わんばかりの表情を浮かべながらこちらに駆け寄ってきた。
「遅すぎだろ!何やってたんだよ!」
「ごめん、ちょっと前からいたんだけど声かけづらくて……」
「とりあえず早く行こうぜ!やっぱり女の子を待たせるわけにはいかんでな!」
表情が一瞬にして陰から陽に変わる。
よっぽど今日の〝一方通行の約束〟が楽しみなのだろう、今日一日中話の種はそのことで持ちきりだった。
まだ会えるかどうかもわからないというのに。
「集合場所って、御曽根駅でよかったんだよな?」
「うん、大丈夫」
集合場所は、ふみちゃんの高校の最寄り駅である御曽根駅に決めた。
僕たちの高校からも近く、自転車で十分程で行ける距離だ。
最初は駅の近くにあるショッピングモールを集合場所にしようと思っていたのだが、仮に移動することになった場合、駅に集合したほうが効率がいいと思ったのだ。
「そういえば啓太とこうやって遊びにいくの初めてだな」
左前を歩いているとしが、恋人と思い出話をするような口調で呟く。
「そうだね。僕は友達とこうやって学校終わりに遊びにいくのも初めてだよ」
「俺部活ない日に啓太と一緒に帰ろうと思っても、気づいたら教室からいなくなってるから、てっきり他のやつと一緒に帰ってるのかと思ってたよ」
としがそんなふうに思ってくれていたことを初めて知った。
彼は部活がない日も野球部のメンバーと帰ることが多かったので、その邪魔をしてはいけないと思っていたのだ。
「啓太はいつも一人で帰ってるの?」
「休憩がてら一回図書室に寄って、校内が落ち着いてきたところで帰るようにしてる」
そこでとしは大きく息を吸い込んで、吸い込んだ分の空気を一気に吐き出した。
その一連の動作から、彼がこれから大事な話をしようとしていることは明白だった。
「確かに野球部のやつらと約束している日もある。でも、俺はずっと啓太とも一緒に帰りたいと思ってたんだ」
そう言うと立ち止まり、僕がいる右側に九十度体の向きを変えた。
僕も反射的に体を左側に向け、真正面から向き合う形になると、彼は今まで見せたことのないような真剣な表情をしていたので、思わず息をのんだ。
「啓太が俺のこと考えてくれてるのはすごく嬉しい。でもな、もう少し素直な気持ちをぶつけてきてほしいんだ。啓太とはお互いが心を許しあえるような関係でいたいんだよ」
としの言葉が、僕の心に深く突き刺さる。
自分の中では彼のことをわかっているつもりでいたのだが、実際は全然わかっていなかったのだ。
僕は結局自分にとって都合のいいようにしか考えることができず、そのせいで知らず知らずのうちに相手のことを傷つけてしまっていたのだ。
何も言葉が見つからずその場で俯いていると、としが僕の左肩に右手をかけた。
恐る恐る顔を上げると、さっきまでの表情とは打って変わって、優しい微笑みを浮かべている。
「何も啓太のすべてを話してくれとは言ってないんだ。人にはそれぞれ言えないこととか話したくないことも必ずある。ただ、もし俺に何か伝えたいと思った時には遠慮なく伝えてきてほしいんだ」
堪えていた涙が、思わずこぼれそうになる。
「本当にありがとう。それとごめんね」
としは言葉を受け取ると、僕の肩を軽く二回叩き、左に九十度体の向きを変えて歩き始める。
「とし!」
その瞬間、気がついたらいつものように頭で考えるよりも先に、斜め前を歩くその背中に呼びかけていた。
胸の中に込み上げてきている想いを、今彼に伝えないといけないと直感的に思ったのだ。
としは歩みを止めて振り返り、不思議そうな顔で僕を見つめている。
「次の部活がない日、一緒に帰ろう」
頭の中に浮かんできた言葉を、一言一句濁すことなく伝える。
としは一瞬驚いた表情を見せたが、それからすぐにさっき見せた優しさとはまた違った意味を持った微笑みを浮かべ、グッドサインした。
その時僕は初めて、心と心が通じ合えたような確かな感触を体全体に感じた。
そのじわじわと満たされていく温かさを逃すまいと浸っていると、突然としが僕のほうに近づいてきて勢いよく肩を組んできた。
「今日ふみちゃんたちに会えるかな~」
まるで変なリズムの歌でも歌っているかのような口調で彼が呟き、体の力が一気に抜ける。
さっきまで話していた内容は、もう頭の隅の隅のほうに片づけてしまったみたいだ。
彼の切り替えの早さにはいつも驚かされる。
「会えるといいね」
動揺を悟られまいと、黒縁メガネのブリッジの部分に手をかけ、表情が見えないようにメガネを調節するふりをする。
実は話に夢中になりすぎて、ふみちゃんとの一方通行の約束をすっかり忘れてしまっていたことは、としにも、そしてもちろんふみちゃんにも内緒だ。

