蒼井さんのクリーム色の自転車の横に自分の自転車を停めて、木の陰からこっそり覗いてみると、彼女は気持ちよさそうに目を瞑りながら音楽を聴いていた。
彼女の心地よさそうな顔を見ていると、何だか邪魔し難い。
話しかけたくても話しかけられない状況で、どうすることもできずに非生産的な時間を過ごしていると、突然強い風が吹いてきて、後ろに停めてあった自転車が二台とも勢いよく倒れた。
呆気に取られながらも、とりあえず倒れた自転車を元に戻して振り向くと、驚いた様子の蒼井さんと視線が重なる。
その瞬間頭が真っ白になり、ずっと考えていた話す内容も、さっきの強風に流されてしまったかのように脳裏から消えてしまった。
どうにか思い出せるよう必死に記憶の欠片を掻き集める作業をしていると、彼女が鞄から昨日と同じノートを取り出して僕の近くまで歩み寄り、ノートに文字を書き入れた。
【黒木君ごめんなさい。昨日居心地がすごく良かったので、また今日も来てしまいました。】
昨日と変わらず、気品のあるとても綺麗な字だ。
「全然大丈夫です。いつでも来たいときに来てください」
【ありがとうございます。黒木君はどうして今日ここに来たんですか?何か辛いことでもあったんですか?】
「辛いことではないんですが……」
脳から伝達されたその答えを伝えるには相当な勇気がいるし、できれば心の中に留めておきたいものだった。
しかし、この場面を嘘で乗り切れるような立ち回りの上手さを僕が持ち合わせている訳がなく、それを伝える以外の選択肢はもう残っていなかった。
「実は、蒼井さんにもしかしたら会えるんじゃないかと思って今日来たんです。蒼井さんがまたここに来るんじゃないかと思って」
言ったそばから面映ゆくなり、桜を眺めているふりをしていると、彼女が恥ずかしげにノートを差し出してきた。
【さっきの居心地がよかったっていうのは事実なんですけど、本当は私もまた黒木君に会えるんじゃないかと思って今日ここに来たんです。】
嬉しさ、喜びが全身を包んでいるのだが、こういうときの感情表現の仕方は僕の教科書のどのページを探しても載っていない。
「こんな展開になるとは予想してなくて。作戦会議のときにも出てこなかったし……あっ!」
動揺しすぎて思わず心の声が漏れ出てしまった。
【作戦会議って何ですか?】
もうどう取り繕っても無駄だと感じたので、正直にありのままを話してみる。
「実は今日学校で、もしも蒼井さんに会えた時のために友達と作戦会議をしたんです」
彼女の頬が緩み、表情から作戦会議の内容を心待ちにしているのが伝わってくる。
「そこで友達に三つのミッションを課せられて」
【どんなミッションなんですか?】
「まずは敬語を使わずに話すことです」
すると彼女は、勢いよくノートに何か書き始めた。
【それすごくいいです!よかったらそうしませんか?】
僕はどのミッションにも不安要素しかなかったので、思わぬ反応に気が少し楽になる。
「ぜひそうしましょう!」
【じゃあこれから敬語はなしね。】
「……うん、わかった」
何だかちょっと照れくさい。
【二つ目のミッションは?】
「二つ目は下の名前で呼ぶってことなんだけど」
さっきと同じくらいのスピードで、勢いよく書き始める。
【それもすごくいい!じゃあ私は啓太君って呼ぶね。】
「僕はふみちゃんって呼ぶね」
この瞬間が、人生で一番幸せだと言えるぐらい心が満たされていくのを感じる。
【最後のミッションは?】
最後のミッションが僕の中で一番ハードルが高いものだった。
「最後は……連絡先を交換するってことなんだけど」
すると彼女は、さっきまでの勢いとは裏腹に、少し表情を曇らせながら何か書き始めた。
幸福感は一瞬で消え去り、一気に焦燥感に駆られる。
【ごめんね、私携帯電話持ってないんだ。】
頭の中で絶望のゴングが鳴り響く。
今日の昼休みの作戦会議の時、としから『携帯忘れたとか携帯持ってないって言われたら完全に脈なしだから諦めろよ』と言われていた。
今の僕の心情を表現するなら、青天の霹靂がぴったりかもしれない。
「それならしょうがないね!」
できる限りの明るい表情を作って答える。
【ごめんね。それでその代わりといってはなんだけど、私が今書いてるノートを使って交換日記しない?】
「えっ、交換日記?」
【うん。よかったらなんだけど…】
「もちろんいいよ!やろう!」
希望の光が少しだけ顔を覗かせてくれた気がして、無意識に声が大きくなる。
【ありがとう。それで私考えたんだけど、毎日だと大変だと思うから一週間ごとに交換しない?毎週月曜日にここで交換するの。】
もちろん断る理由が何もないので、素早く大きく二回首を縦に振る。
【あとせっかくだから日記に名前付けない?】
「うん、いいね!何がいいかな……」
【啓太君って夢ってある?】
突然の質問に、図らずもとしの姿が脳裏を掠めた。
「僕は今のところ思いつかないな。ふみちゃんは?」
【私もまだ見つかってないの。それなら二人の夢が見つかって、叶いますようにっていう願いを込めて〝夢物語〟っていうのはどう?】
「夢物語か……うん、とても良い名前だと思う!」
【お互いこの日記で夢が見つかるといいね。】
僕にとって〝夢〟というのは遠くて、手をいくら伸ばしても掴めないものだと思っていた。
自分は平凡に、刺激のない日々を生きていくんだろうと勝手に想像していた。
【じゃあ最初は啓太君からね!来週の月曜日学校が終わったらここに集合で。私もうそろそろ帰らないといけないから渡しとくね。】
たった今命を吹き込まれた〝夢物語〟が僕の手に渡る。
彼女との出会いとこのノートがきっかけで、もしかしたら自分が変われて成長できるんじゃないかと今は不思議と思えた。
「ふみちゃん今日はありがとう!また月曜日ね」
心からの感謝の気持ちを込めて、クリーム色の自転車に跨った彼女の背中に呼び掛ける。
彼女は『こちらこそ』と言っているかのように、柔らかい笑顔を浮かべながら胸の前で手のひらを合わせ、駆け出していく。
徐々に距離が離れていく彼女の後ろ姿を見ていると、もしかしたら彼女は妖精なんじゃないかと思えてくる。
そして今、自分は現実の世界ではなくて夢の中にいるんじゃないかと。
それほどこの二日間が自分の人生にとってあまりにも刺激的で不可解だった。
ただ一つ確実なのは、今自分の手元に夢物語があるということだ。
今日も空は綺麗な夕焼けに包まれている。
これからの人生がどうなっていくのか、夕焼けにそっと聞いてみるがもちろん答えはない。
ただ何故だろう、この綺麗な夕焼けが自分の背中を押してくれていると今は自然と思えた。

