始業式当日は、雲ひとつない青空に迎えられ、心地の良い気候に恵まれた。
 着任してから今日まで職員会議や諸々の手続きなど、当たり前だが慣れないことばかりで、若干の疲労感が体を包んでいる。
 始業式では新任教員の自己紹介があったのだが、ここでの挨拶は趣味が読書であることを伝える程度に留めた。
 としと事前に作戦会議を行って一緒に考えた内容は、担任を任された三年生のクラスの児童たちとの顔合わせの時に取っておきたかったのだ。
 自分が目標とする教師像も組み込まれた、納得の内容である。
 あとは緊張で飛んでいかないように、自分に自信を持って伝えるだけだ。
 一度大きく深呼吸をしたところで、半ば上の空だった校長先生の挨拶が終わり、始業式が無事閉式した。

 職員室に戻ってあらかじめ準備しておいた荷物を手に取り、受け持ったクラスへと向かう。
 道中はさすがに緊張感が高まったが、それに匹敵するぐらい心躍る自分もいた。
 黒板に住む君に、とうとう会うことができるから。
 教室の前で一度立ち止まり、今まで数多の思い出を共にしてきた黒縁メガネをかけ直して気持ちを落ち着かせる。

 「よし、行こう」

 覚悟を決めて教室の扉を開くと、今まで感じたことのない量の視線が一気に集まった。
 怖気づきそうになったが、この教室には僕のことを見守ってくれる味方がいる。
 その大切な人が住んでいる黒板に視線を向けると、まるで『大丈夫』と言ってくれているかのように、僕の大好きな笑顔を浮かべたふみちゃんがそこにいた。
 怖さは一瞬で消え去り、落ち着きを取り戻し始める。

 『久しぶりふみちゃん。ありがとう』

 そう心の中で呟き、教壇に立って前を見据える。
 君が一緒にいてくれるなら、僕はもう大丈夫だ。

 「皆さん、おはようございます!」

 児童たちから元気な挨拶が返ってくる。

 「今日からみんなと一緒に勉強する黒木啓太といいます。よろしくお願いします!」

 数多の拍手の音が教室中に鳴り響く。

 「僕は人見知りで不器用な性格なので、今まで友達ができたことがなく、ずっと一人でした。でもみんなと同じように友達を作って、色んな話をしたい気持ちはあります」

 当たり前だが、児童たちはポカンとした表情で僕のことを見つめている。

 「先生は友達がいないの?」

 すると、挨拶の時も一際大きな声が目立っていた元気な印象の児童が沈黙を破った。

 その子を見ていると、自然と出会った時のとしの姿が思い浮かんだ。

 「この自己紹介のおかげで今は大切な友達がいるよ。先生はずっと友達がいなくて独りだったんだけど、この自己紹介で勇気を出して一歩踏み出すことで大切な友達ができたんだ」

 一度呼吸を整え、思考を整理する。

 「先生が伝えたかったのは、みんな何かしたいことがあったら一歩でもいいから踏み出してほしいってこと。勇気を出して挑戦することの大切さを伝えたかったんだ」

 児童たちの真剣な眼差しに心が震えた。

 「もしその中で辛いことがあったら先生に頼ってほしい。先生はどんな時でもみんなの側にいるし、みんなの味方だから。これだけは覚えといてほしいです。あとはみんなで楽しく過ごしたいから先生と仲良くしてください、よろしくお願いします!」

 今日一番の大拍手が教室中に鳴り響いた。

 「先生!質問があります!」

 ここで声を上げるあたり、本当にそこにとしが座っているんじゃないかと思えてくる。

 「どうぞ!」

 「先生は好きな人いますか?」  

 突拍子のない質問に、思わず笑みがこぼれた。

 「特別に答えましょう。先生が好きなのは……後ろにある黒板です」

 それまで賑やかだった教室が、一瞬にして静寂に包まれる。

 「先生の大切な人は、黒板に住んでるんです」

 としに似た子が吹き出したのを皮切りに、教室に笑いの渦が巻き起こった。

 「先生頭おかしくなっちゃった」

 「窪田君、あとで職員室に来てください」

 「先生ごめんなさ~い」

 教室に再び笑いが起きる。
 僕の運命を変えた高校二年のあの春の日のようで、どこか懐かしかった。
 こうしてここにいる児童たち、そして黒板に住む君と歩む未来が幕を開けた。
 いつも心に訪れる不安感は、心の中のどこを探しても見当たらなかった。