ふみちゃんの目線が現在も続いている最後の一文に到達すると、彼女はゆっくりと夢物語を閉じて、鞄にしまっていた会話用のノートを取り出した。
 彼女の瞳にうっすら涙が浮かんでいるように見えたのは気のせいだろうか。
 僕自身は今まで経験したことのない、言葉では言い表せないような感情に支配されていた。

 【啓太君、伝えるのにどれだけの勇気が必要だったか計り知れないけど、私を選んで想いを届けてくれてありがとう。本当に感動した。】

 「感動するようなことなんて何も言ってないよ」

 【文章に乗った啓太君の気持ちがしっかり伝わってきて、私は感動したよ。】

 勇気を出し、そして心を込めて書いたものが、しっかりと彼女の心に届いたことが何より嬉しかった。

 「僕はふみちゃんと出会って世界が変わったんだ。出会えてなかったらたぶんこの想いが芽を出すことはなかったと思う。だからふみちゃんに届けたいと思ったんだ」

 【ありがとう。そう言ってもらえて本当に嬉しい。】

 一粒の麗しい涙が、彼女の左頬を伝う。

 【それでね、内容のことなんだけど。】

 固唾を飲んで、彼女の次の言葉を待つ。

 【私は啓太君が先生になるという夢を持つこと、大賛成です】

 理由は聞かずとも、もうその一言だけで未来への重かった扉が開けた気がした。

 「ありがとう。でも根暗な僕が先生なんて大丈夫かな?」

 【先生にも色々なタイプがあると思うの。明るさや活発さでグイグイ引っ張っていってくれるような先生もいれば、啓太君が言っていたように、思いやりがあって心に寄り添ってくれる先生もいる。私はどちらも違った良さがあって素敵だと思うの。】

 確かに僕は、先生という職業で必要となるコミュニケーション能力という点に重きを置き過ぎていたのかもしれない。
 僕が心惹かれた先生像は、〝心に寄り添ってくれる先生〟なのだ。

 【啓太君は尊敬する先生からの思いやりがしっかり心に刻まれていて、痛みを知っている。そんな啓太君なら一人一人に寄り添えて、困っている児童の心の拠り所になれるような、優しくて親しみやすい啓太君にしかなれない先生になれると思うの。】

 彼女の言葉が積み重なる度に、不安や怖さが取り除かれていき、遂に夢への階段の終着点を視界に捉えた。

 【コミュニケーション能力とか明るさは大丈夫!啓太君には模範となるとし君が側にいるんだから。啓太君にあと必要なのは自分に自信を持つことだけだよ。】

 「ありがとう。ふみちゃんにこの想いを伝えられて本当に良かった。またすぐ逃げ出しそうになるかもしれないからここで宣言させてください」

 彼女はノートを一旦閉じて、体を僕のいる方向へと向ける。
 反射的に僕も体を彼女のほうに向けると、真っ直ぐに僕を見つめる彼女の瞳と目が合った。

 「僕の夢は……心に寄り添える先生になることです!」

 まさか自分が夢を宣言する日がくるなんて、今までの人生を顧みると想像もできなかった。
 ふみちゃんとの出会いで自分が変わって、成長できるかもしれないと思っていたあの頃の自分は間違っていなかったのだ。
 彼女には感謝してもしきれない。
 
 僕の宣言を聞いたふみちゃんは、満面の笑みを浮かべながら拍手で応えてくれた。

 「ふみちゃんが夢へと導いてくれたと言っても過言ではないから、本当に感謝してる」

 【感謝してるのは私のほうだよ。啓太君との出会いで私自身変わることができたの。啓太君と出会ったこの素敵な場所が私の心を癒してくれたり、夢物語を交換する中で今まで気づかなかった文字の美しさに魅了されたり、啓太君と過ごしてきた日々のおかけで私の日常は彩られたの。】

 彼女と積み重ねてきた数々の思い出が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

 【だから改めて感謝を言わせてほしい。本当にありがとう。私に出会ってくれて、私と仲良くしてくれて、そして私の心に平穏をもたらしてくれて。】

 そう書き終えてノートを見せてきた彼女の瞳には涙が溢れ、幾許かこぼれ落ちていた。

 「ごめん、泣かせるつもりはなかったんだけど……今日は様子がいつもと違うけど大丈夫?」

 【ごめん、心配になるよね。でも違うの。啓太君が夢を見つけられたことが自分のことのように嬉しかっただけだよ。】

 彼女はいつものように相好を崩したが、隠しきれないぐらいの切なさが滲み出ていた。

 【そろそろ帰ろうか。】

 「ふみちゃん……また会えるよね?」

 【もちろん!また会えるよ。】

 しかし、彼女がこの家に姿を現すことはもうなく、夢物語が僕の手元に届くことはなかった。
 彼女の文面や雰囲気から感じた不安が、許容できない現実となってしまったのだ。
 そしてそれは……ふみちゃんと過ごすかけがえのない日常に、望まないピリオドを打たなければならないことを意味していた。