昼食の洗い物を済ませたころ、外から美子(みこ)の声が聞こえた。慌てて手を拭いて玄関の戸を開くと、すぐ前に彼女はいる。現代らしい洋服姿だった昨日とは違って、淡い青の着物を纏っていた。悟が一歩後ずさったのは、思った以上に彼女の顔が近かったからだけではない。

「へぇ、似合ってるじゃない。着流し」
「あ、ありがとう」

 悟の着る濃紺の着流しは杏士朗のものだ。まだ身長の伸びきっていない彼には少し丈が長いが、未だ成長期。すぐに丁度良くなるだろう。
 悟も美子の格好を褒めた方が良いのだろうか、と考えるが、言葉が出てこない。求められているかも分からないのに急に褒めて気持ち悪がられないかが不安だった。

「あ、杏士朗さん、悟お借りします!」
「ああ」

 それじゃ行くよ、と踵を返した彼女の後ろでは狐の尾がゆらゆらと揺れている。少なくとも不機嫌にはなっていないらしい。昼の日差しの中で跳ねる黄金(こがね)の長髪が眩しくて、どこにいても見つけられそうだった。

「あっ、ちょっと、化日さんっ。……その、行ってきます、父、さん」
「……ああ、気を付けろ」

 玄関を出る直前のなんでもない挨拶。それなのに、悟はどうしてか胸の奥のこそばゆくなるのを感じた。

 美子に連れられて向かったのは、昨日出風の郷に初めて来たときも通った道だった。その時の悟は気がつかなかったが、どうやらここは商店街にあたる場所らしい。いくつもの店が軒を連ね、姿形の様々な妖たちが客を呼び込んでいる。当然その客達も同じ輪郭のものが殆どおらず、悟は仮装パーティにでも迷い込んでしまったような心地を覚えた。

「ここがこの郷唯一の商店街。もしおつかいを頼まれたら、ここに来たらいいから。あ、お金は人の世と一緒ね」

 歩きながら美子の指さした先には、たしかに、()の単位が書かれた値札がある。悟の分かるものの範囲だと、コンビニよりも少し高めだろうか。

「妖も買い物とかするんだね……」
「そりゃそうよ。誰もが何でも手に入れられるわけじゃないし。まあ、趣味で人間の真似してるだけって妖もいるけど」

 なるほど、と辺りを見回してみた悟だが、ぱっと見た限りではどっちがどっちか分からない。ただ、とても活気があるように見えた。
 賑やかだと思って見ていると、締め切られている店が目に付く。廃業しているわけではなさそうだし、佇まいも綺麗で、やっていけなくなってしまうようには思えない。そんな店はいくつもあった。
 ――定休日、なのかな……?

「あの店は夜のお店ね」
「えっ!?」
「昼は寝てる妖も多いから。妖ってけっこう生活リズムバラバラなのよね」

 悟は美子の方に視線を向けられない。ある意味高校生らしい勘違いではあったのだが、そんなことは当人には関係なく、ただただ恥ずかしい。隣の彼女にバレていないか不安にもなる。こういう時心が読めたら、と普段は疎ましい自身の能力が恋しくなってしまった。
 ――……俺、けっこうあの力に頼りきりだったんだな。

 通用しなくなって初めて気がついた。あって当然にはなっていたが、それでも、なくてもやっていけると思っていた。
 しかしいざ、心が読めなくなってみると、不安だ。何でも悪い可能性が頭を過ってしまう。嘘つきだと思っていた皆はこんな状態で生きていたのかと、悟は少しだけ、同級生達を尊敬した。

 その力は覚という妖の力らしいが、そもそも妖の力とはなんなのか。今朝教わった妖術とは違うのか。その前に妖とはいったいどういう存在なのか。急に色んなことが気になった。
 ――その辺りも、後で聞いてみよう。

 歩きながらで聞くには、少し情報量が多い気がした。

「とりあえず、そうね、色々見てみよっか。私も久しぶりに郷に来たから、ちょっと楽しみだったのよね」

 美子の笑みに影は見えない。たぶん本当に楽しみだったのだろうと思うと、悟の心もいくらかは軽くなる。

 美子に手を引かれ最初に入った店は、どうやらおもちゃ屋のようだった。なぜか奥に武者の甲冑一式が飾ってある他、彼の小学生のころ、駄菓子屋で見た覚えのある木のおもちゃが並んでいる。独楽(こま)にけん玉、やじろべえにめんこ、その駄菓子屋もなくなってしまったし、最近だと古いアニメの中くらいでしか見ないものばかりだ。

「あんた、こういうのやったことある?」
「いや、たぶん、無いかなぁ。カルタくらいならあると思うけど」
「そうだよねぇ。私もこっちでしか見ないもの」

 美子は独楽を一つ手に取って表裏を見ているが、悟はそれをどうやって回すか想像出来ない。横にある紐を使うのだろうが、やり方を教えてもらう必要がありそうだった。

「ねえ、これ、ちょっと回してみてもいい?」
「ん? ああ、構わんよ。それならほれ、そこが広い」

 奥にあった甲冑はどうやら妖だったらしい。兜の奥に怪しく光る紫色の両目があり、美子に視線を返している。悟は声を上げそうになったのをどうにか我慢したが、鎧武者の妖にはバレているようだった。一瞬悟を見て肩を揺らした後、店の一角を指してまた、置物のように戻る。

「えっと、たしかこんな感じ。えいっ!」

 可愛らしいかけ声で美子は駒を投げて、思いっきり紐を引く。一応回りはしたが、巻きが甘かったのか、既にフラフラだ。

「難しい……。悟、あんたもやってみる?」
「え、じゃあ、うん」

 見よう見まねで独楽に紐を巻き付けてみる。しかしこれで良いのかは分からない。美子にちらりと視線を向けてみても、良いという反応も悪いという反応も返ってこない。
 とにかく投げるだけ投げてみようかと構えたところで、待ったをかけたのは先程の鎧武者だった。

「それでは上手く回らんぞ。貸してみろ」

 妖という存在を知ったばかりの悟にとって、異様な雰囲気の鎧武者に近づくのは恐ろしい。しかしまさか、この状況でとって食おうとしているわけではあるまい。そう信じて、彼はそっと独楽を差し出す。

「底の軸に巻き付ける前に、上の軸に引っかける。こうしてな。それから裏に回して、後は同じだ」

 一度解かれた紐と独楽を受け取って、自分で巻き付けてみる。美子も鎧武者からもう一組受け取っていた。

「そうだ、上手く巻けておる。ほれ、回してみろ。投げ方は化日(あだしび)の娘がやっておった方法であっておる」

 少しばかり緊張しながら投げてみる。殆ど同じタイミングで美子も投げた。果たして二つの独楽は、おもちゃ屋の床で綺麗に回っていた。フラつく様子も無い。上面に描かれた模様が模様が止まった状態で見るときとはまた違って、多重円が美しい。

「おお……!」
「どっちの独楽が長く回ってるか勝負ね!」

 二人は目を輝かせ、触れるか触れないかのぎりぎりで円を描く二つの独楽を眺める。その様子を悟は、ずっと見ていられるような気がする。