「悟よ、おぬしはまだ、妖の世界を知らない。これから先、どちらで生きるかはそれを知ってからでもよかろう」

 尤もな話だった。悟は自分がただ、今の環境から逃げようとしていただけだと気がついて赤面してしまう。

「そうだな、数日ほど杏士朗の家で暮らしてみてはどうだ」
「あっ、それいい! 悟、私がこの郷案内してあげる!」
「それは良い。では美子よ、悟をよろしく頼んだぞ」

 悟は口を挟もうとして、止める。別に困る話ではないのだし、それで良いだろう。高校生にもなって初めて父と暮らすことには気恥ずかしさもあるのだが、心浮かれる思いがあるのも事実だ。

「えっと、よろしくお願いします」
「……さっきの話し方でいい」
「う、うん」

 もし、この妖の世界での暮らしで何かが変わるなら。杏士朗に連れられて石段を降りる傍ら、悟はただそれだけを願った。

 麗らかな春の日差しが高窓の隙間から差し込んで、眠る悟の顔を照らす。その眩しさに目を覚ました彼は、ぼんやりと霞む視界で首を傾げた。外から小鳥の鳴く声が聞こえてくるのはいつものことだが、妙に天井が遠い。それに、あんな古木のような色をしていただろうか。
 寝ぼけたままにゆっくり体を起こすと、その途中でむき出しの梁も見える。まるで古民家のようだ。
 ――あ、そっか。父さんの家に来たんだった……。

「起きたか」

 がらりと玄関が開いて、杏士朗が入ってきた。外はまだ明るくなったばかりなようだったが、杏士朗の朝は早いらしい。肩には桜の花びらが乗っていて、玄関の外を桜吹雪が舞い散るのが見えた。

「おはよう。……父さん」
「……ああ」

 ぎこちない挨拶を交わし、布団から這い出る。その布団はすぐに畳んで、昨晩あったように部屋の隅へ寄せた。
 杏士朗は朝餉の用意をしているようで、土間で何やら作業をしている。調理場は昔ながらのかまど式で、悟が同じものを見たのは教科書の中でだけだった。

 かまどに薪を入れた杏士朗が、指先に火を灯し、底に置いた藁へ着火する。不思議な光景だった。妖の術だろうか、と悟は彼の指先をじっと見る。

「妖術だ。妖力があれば誰にでも使える」

 自身の両の掌を見つめてみるが、妖力というのが悟にはよく分からない。ただ、妖の世界で生きていくのなら、それも覚えなければいけないだろう。せめて火を点けられないと、炊事すらできない。

「あとで教える。化日(あだしび)の娘が迎えに来るのは昼過ぎだったな」
「うん」

 昨日彼女が提案したとおり、この出風(いずかぜ)(さと)を案内してもらう予定だった。

 かまどの中で薪が勢いよく燃え始めた。その上に置かれたのは炊飯釜だ。少し火加減が強かったようで、杏士朗は薪を動かして火加減を調整する。その様子を、悟は三角座りをして眺めていた。

「退屈か」
「いや、その、大変そうだなって」
「今の人の世は便利だからな」

 杏士朗はあまり多くを語らない妖なようで、いくらか情報を省いて話す。この口ぶりからして、彼はこの作業を大変だとは思っていないようだった。
 とはいえ悟では何をどうしたら良いのか分からなくて手伝えない。多少の家事ならできるのだが、古いやり方までは把握していなかった。
 せめて何か会話した方が良いだろうか。しかし何を話そうか。今の人の世は便利、と彼は言ったが、人の世で暮していた時期があったのだろうか。

 しかし気軽に質問をしていいのか分からなくて、けっきょく、口には出せない。

「飯が炊けるまでしばらくかかる。その間に妖力の扱い方だけ教えよう」

 杏士朗は汁を火にかけるところまでは済ませたようで、かまどの前から離れて悟の方にやってくる。それから手を拭いて、悟の横へ腰掛けた。

「手を出してみろ」

 言われるままに右手を差し出し、杏士朗の手へ乗せる。その手になにやら熱いような、冷たいような、奇妙な感覚を覚えた。どうやらこれが妖力の感覚らしい。

「この感覚を意識して動かしてみろ。手の上だけでいい」

 理屈は分からないが、それで妖力を扱えるようになるらしい。ならばと言われたとおり、悟は自身の掌と睨めっこをする。眉間に皺を寄せて四苦八苦する彼を、杏士朗は静かに眺めていた。

 午前中はそうして妖力を扱う練習に使った。まだ妖術を習うところまでは進まなかったが、なんとなく自分の中のそれを感じ取れるようにはなった気はする。

「悟! 準備できてる!?」