「まず、おぬしの父は覚という妖だ」
あまりにあっさりと告げられた。悟はもっと仰々しく宣告されるのかと思っていたばかりに、力が抜けてしまう。
――サトリ、覚、か……。
いつか読んだ漫画に出てきた覚えがあった。たしかに、人の心読む妖だ。当時も気になって軽く調べた記憶がある。しかしその存在には様々な解釈があるという程度にしか分からず、そのまま忘れてしまっていた。
あとでもう一度検索してみることにして、続きを待つ。
――……あれ?
ふと違和感に気がついた。
――おぬしの父は、って言われた……?
まるで悟の父を知っているかのような口ぶりだ。もし彼に流れる血が覚のものだと言うだけなら、おぬしは覚だとだけ言えば良いのに、天目一箇神はわざわざ父はと言った。その意味には、すぐに辿り着いた。
「父を、知っているんですか」
「ふ、聡い少年だ。……会いたいか?」
それはすなわち、悟が会おうと思えば会えるということだ。それが分かってなお、いや、分かったからこそ、彼はすぐに答えられなかった。
今更会ってどうするのか。何を話すのか。悟は俯き、じっと考える。天目一箇神の孫を見るような視線も、美子の祖母の哀れみを孕んだ視線も、美子の案ずる視線も、彼の視界には入らない。
聞きたいことは、正直なところ、いくつもある。しかしその答えを聞くのが怖い。もし望まない答えが返ってきたら。母を愛したことはなく、用が済んだから捨てたのだと言われたら。
何も聞かず、何も知らないことにして、伯母達の家に帰った方が幸せなのかもしれない。形の上だけでも、内心どう思っていたとしても、彼女らはまっとうに悟の相手をしてくれる。それが虚構だとしても、少なくとも、学校に通い続けることはできる。
成人すれば、あとは自由だ。家を出てしまえば良い。今と同じ形ばかりの人間関係はずっと付き纏うだろうが、それは今のまま変わらないだけだ。真実を知って、傷つくよりずっと良い。
やはり、このまま何も知らずに、人間として生き続けた方が良いのではないだろうか。そんな思いが、悟の胸中を侵食する。
それでも、それでも、だ。
美子の姿が目に入った。彼女に引っ張られるようにしてここまで来た。拒否しようと思ったらできたのに、しなかった。それは、何かが変わる気がしたからだ。嘘ばかりの世界で、太陽のように笑う彼女と一緒なら。
「……父は、母のことを、ちゃんと好きだったと思いますか?」
ぽつりと呟いたのは、それだけでも先に確認しておきたかったからだ。
「さてなぁ。それは本人に聞くべきことだと思うが……」
「それは、分かってます」
困ったものを見るような視線が大きな一つ目から向けられた。そんな目を向けられる理由も、悟は分かっていた。分かっていても、不安だった。
「少なくとも、儂はあやつを悪い男だとは思わんよ」
それが天目一箇神から悟に差し伸べられる精一杯の助けなのだろう。悟の質問には何一つ答えていないものだ。しかし彼が勇気を出すには、十分だった。
「……決めました。父に、会わせてください。お願いします」
悟は改めて頭を下げる。心臓は、これまでに覚えのないくらい激しく脈打っていた。
「だそうだ、杏士朗」
杏士朗。その名には悟も覚えがあった。昔、母の呟いていたのを聞いたのだ。その時は誰のことかと思ったが、合点がいった。父の名だったのだ。
天目一箇神の影から一人の男性が姿を現す。一瞬、男装の麗人なのかと思えた。彼は透き通るような銀の長髪を和紙で纏め、前に下ろしている。悟の髪が灰色がかっているのは彼からの遺伝なのだろう。しかし目は母親に似たようで、杏士朗の目は悟とは違う切れ長だ。瞳の色も灰色。色白で線の細いところは似ているかもしれないが、頬をかくのに上げられた腕は筋肉質に見えた。そのせいか、青藤色の着流しに打ち刀を差した格好がよく似合っている。
「久しぶり、だな、悟。お前は覚えていないかもしれないが……」
気まずげな彼に、悟は見覚えがあった。昨晩見た夢に出てきた人だ。
その心を読んだのだろう。杏士朗は、朧気には記憶に残っていたか、と少し口角を上げる。彼を見る天目一箇神の口元もニヤけているようだ。
悟は悟で、なんと声をかけるべきか悩んでいた。父さん、といきなり呼ぶのは気恥ずかしい。しかし杏士朗さんでは他人行儀過ぎる。これならいっそ、乱暴に呼べるような相手の方が気楽だ。
「ほれ、杏士朗よ、一つ目の質問は聞いていただろう。答えてやったらどうだ」
業を煮やしたのか、助け船なのか、天目一箇神が催促する。
「長老様、ここで言わなければなりませんか」
「当然であろう。今の状況はおぬしのせいには違いあるまい。罰げぇむというヤツよ」
杏士朗は顔を顰めて、目頭を押さえる。それから少しばかりうなり声を上げて、大きな溜め息を吐いた。
「愛理を、母さんをちゃんと好きだったか、だったな」
「う、うん」
「好きというか、そうだな、愛していたよ」
愛してる、という言葉に、悟の顔が赤くなる。胸を撫で下ろすより先に、その言葉に照れくささを感じてしまった。
杏士朗も言い慣れているわけではないらしい。耳が少し赤くなっているのが悟の目にも見えた。
「じゃ、じゃあ、どうして、母さんと俺を置いていったの?」
「実を言えば、ときおり愛理とは会っていたんだ。お前は人間として育てると決めていたから、隠れてだが……」
「人間として……」
そう決めたのは、母だろうか。だから母は、悟に流れる妖の血のことを言わなかったのだろうか。悟はまた俯いて、ぐるぐると考える。悟にとって母との日々はかけがえのない記憶だし、心を読めると知った上で純粋に愛してくれたことに感謝もしている。しかしそれでも、こうして妖の世界に来て、思ってしまった。
「妖として、育てられたかった……」
悟に答える声はない。なんと声をかけるべきか考えているのか。郷の妖たちの声もこの場所までは届かない。知らぬ間に夕日は完全に姿を隠していて、灯籠と天目一箇神が放つ光ばかりが頼りだ。悟が顔を上げて見回したなら、出風の郷に生きる妖たちの灯す明かりの群れが見えただろう。
しかし今、悟の視界に映るのは神社によくある石畳だけ。向き合うべき父の姿も目に入れられず、胸につっかえる苦しさに悶えることしかできない。
「愛理は、その方がお前が幸せになれると信じていた。俺も、それで良いと思っていた。……すまない」
その声は、酷く寂しげだった。
「……ふむ。悟と言ったな、少年」
「は、はい」
急にかけられた声に悟は背筋を伸ばした。老人然としたその声はやはり優しげで、会ったことはないが、祖父とはこんな感じなのだろうかと悟は胸の温かくなる心地を覚える。



