約束の場所である出風神社は、悟の通う出山高校の隣にある。校門へ向かう坂を通り過ぎてすぐ横の鳥居をくぐり、長い石の階段を登り切れば境内だ。小さな縁日ならどうにか開けそう、という程度の小さな神社ではあるが、歴史は古いらしい。参拝所の横の立て看板にはつらつらとその歴史や祀ってある神様について書き連ねてあり、悟の記憶が確かなら、天目一箇神という龍神様について記されていたはずだ。
「遅い」
「えっと、ごめん」
少女は境内の入り口辺りにある手水舎の柱に背をもたれさせて待っていた。明らかに不機嫌そうで、不満を明るい茶色の瞳に浮かべている。時刻は十七時三十五分。五分遅刻してしまったから、言い訳の余地はない。その理由も神社の階段下でやっぱり止めるか悩んでいたせいなのだから、なおさらだ。
「……ふーん。意外と私服のセンスは悪くないのね」
白の長袖シャツにベージュのチノパン、赤いスニーカーという特に目立つわけでもない、言ってしまえば普通の格好だったが、少女の合格ラインは越えていたらしい。
その彼女は、白シャツの裾をデニムのショートパンツに入れ、上に一枚薄手の上着を羽織った格好をしていた。寒くないのだろうか、という感想を悟が口にしなかったのは、賢明だったろう。
「さ、それじゃあ付いてきて」
「……ちょ、ちょっと待って!」
少女は表情を明るく一転させ、踵を返す。悟はふわりと揺れた暗い茶髪を見送りそうになって、慌てて止めた。
「え? あ、そういえば自己紹介がまだだった。私は化日美子。よろしくね」
「よ、よろしく、恕夜見悟、です。……じゃなくて! どこに行くかとか何も聞いてないんだけど!」
足を止める様子のない美子に小走りで追いつく。彼女はどうやら、神社の一番奥に向かっているようだった。
「あれ、そうだっけ? まあ、あまり時間ないし、行けば分かるから」
美子は気にした風でもなく賽銭箱の前を通り過ぎて、拝殿の脇を通り抜けていく。悟の記憶だとこの先には注連縄で巻かれた青緑色の大岩が一つあっただけのはずだ。
悟としてはここで断るかどうかを決めるつもりであったから、正直困ってしまう。しかし止めて良いものかも分からな。彼女は最終的には気にしないような気もするが、自信が持てない。
どうしたものかと考えているうちに、境内の一番奥に来てしまった。目的地は、やはり件の大岩のようだ。
話している内に西の空は茜色に染まり始めている。東側を見れば山の陰から星の瞬きが見えており、濃紺の夜が姿を現しつつあった。悟たちに影を作る光はまだ無し色だが、もう間もなく西日と同じ色に塗りつぶされるだろう。
「うん、間に合った」
美子の見つめる先には木の柵でコの字に囲まれた大岩がある。大人の背丈よりも高く、囲むにも五人程度で手を繋ぐ必要がありそうなほどの大きさだ。その青緑の大岩も、日の傾くにつれて見る見る赤くなっていった。
「来て」
美子に手を引かれ、悟は大岩に近づいていく。握られた手から伝わる熱がこそばゆい。少し顔の熱くなるのを自覚する。
美子の手が大岩に触れた。いや、触れたはずだった。それなのに、彼女の真っ白な手は、そこにあるものが幻であるとでも言うように、大岩の先に消えていく。
「えっ……?」
そのまま大岩の中に消えていく美子に、悟もついていく。踏ん張りそうになるのをどうにか抑えて、自分の腕が同じように消えたのを見た。
岩の中に吸い込まれるような妙な感覚。肩口まで消えたところで、悟はぎゅっと目を瞑る。
一瞬ばかり間があって、その直後、不意に瞼の先に光を感じた。ゆっくりと目を開けると、テレビの時代劇で見るような光景が広がっている。古い日本家屋の並ぶ夕焼けの町並みだ。しかし視界に入る沢山の人影は、人の形をしていないものばかり。何とも形容しがたい影がいくつも蠢くそこは、妖たちの暮らす町だった。
「驚いた?」
「うん」
美子は悪戯っぽい笑みを悟に向ける。行けば分かるというのはこういうことだったらしい。
「ここは出風の郷。長老様、天目一箇神様の治める異界で、ご覧の通り妖たちの隠れ住む場所よ」
すなわち、妖の世界。そこにいる多くは同じ形をしていなくて、ちょっとずつ違う。人間に似た者もいれば、何と形容したら良いのか分からないような輪郭を持った者もいる。ここなら、悟が心を読んだと分かるようなことをしても気持ち悪がられることはないのだろうか。ありのままの悟でいられるのだろうか。
「私のおばあ様の家もここにあるんだけど、とりあえず、長老様に会いに行きましょ。たぶん、あなたが何の妖かも分かるから」
美子の歩き出したのに少し遅れて、悟も続く。いつの間にか手は離されており、少しばかりの心細さが彼の心に入り込んだ。
聞けば、先程の入り口は明け方や日没のころなど、昼と夜の曖昧になる時間にしか通れないらしい。それは多くの異界に共通していることで、この時間帯に神隠しに遭う話が多いのはそういった異界の入り口が開いたところに誤った落ちてしまうからだと美子は言う。
――だからさっき急いでたのか……。
どれくらいの時間開いているのかは分からないが、あれ以上にウダウダしていたなら美子もこちらの世界に来られなくなっていたということだ。焦らせてしまったなら、悪いことをしたと悟は内心で反省する。
「おや、美子ちゃんじゃないか。隣はぼーいふれんどってやつかい?」
行き交う妖たちの隙間を縫って奥へ進んでいると、そんな声をかけられた。声の主は江戸時代の劇に出てくる町人のような格好をした男で、その顔には一切のパーツが無い。のっぺらぼうというやつだ。悟は驚いたのを表に出さなかった自分を褒めつつ、お辞儀をする。
「違うから! 悟は学校の同級生! 長老様のところに連れてくとこ」
「ほーう? んー、はぁ、なるほどねぇ。人の世で育った半妖か。こりゃ失敬。それじゃ、化日の婆様によろしく」
のっぺらぼうは背を向けて、すぐに人混みの中に消える。美子は少し、顔を赤くしているようだった。
「半妖って、そんなに簡単に分かるものなの?」
「分かる人にはね。匂いに敏感なら混ざってる人間の匂いで分かるし」
これまで妖に会うことなく人間の世界だけで生きてこられたのは偶然なのか、本当のところは悟には分からない。もっと早くにそういった存在の誰かに出会っていたなら、今と違う暮らしがあったのだろうかとは思わなくもない。
――そういえば、母さんは知ってたんだよね、俺が半妖だって。
悟の母、愛理が彼を騙していなかったのなら、父親が妖だ。愛理は悟の能力に驚かず、当然あるものとして扱っていた。それなら、父がそうと知った上で結婚しているのは間違いない。
それならどうして愛理は悟に妖のことを教えなかったのか。父親は本当はどうしているのか。
気になることが急に増えた。
「あっ、化日の姫さん、長様が呼んでたよ。長老様のところに来るようにって」
「分かった! ありがとう!」
小さな老人のような妖に姫と呼ばれた彼女の顔を、悟はまじまじと見てしまう。そんな身分だったのか、という純粋な驚きであったのだが、美子は違った意味に捉えたらしい。
「……何よ。似合わないとでも言いたげね?」
「あっ、いや、そんなことは全然思ってないって! むしろ……」
勢いで口を滑らせかけたのに気がついて慌てて口を閉じたが、間に合わなかったらしい。美子はまた少し頬を染めて、そっぽを向いてしまった。ふーん、と聞こえた声が何かを抑えているものだということだけは分かった。
悟は悟で少し恥ずかしくなってしまって俯く。心の声で求められたままに世辞を言うのはかまわないが、本音が漏れてしまうのは照れくさい。それに、あまり経験の無いことだった。
「そ、そういえば、ここの妖たちの心の声も聞こえないね」
「え、あんた、心の声が聞けるんだ?」
しまった、と思った。母から人には絶対知られないようにと言いつけられていたのに、つい口を滑らせてしまった。気持ち悪がられる。嫌われる。幼い頃の記憶が脳裏を過る。
「まあ、大抵の妖は無意識にそういった術への防御はしてるでしょうからね。自分が半妖ってことすら知らなかったあんたの力なんて通用しないでしょ」
しかし美子の反応はあっさりしたもので、悟は拍子抜けしてしまった。やはり、妖の世界ならこれくらいは当然にある範囲のものなのだろうか。首を傾げるが、分からない。美子が普通ではないのかもしれないし、この郷の妖たちが特殊な可能性もある。
「そうなると、あんたって――あっ、忘れてた。長老様におばあ様までいるなら変化は解かないと!」



