思い出したのは、あの日、そば屋で美子に渡そうと思っていたものだ。色んな意味で、渡すなら今だろう。
「はい、これ」
「え? ありがとう?」
袂落としから取り出された小さな紙袋に、美子は首をかしげる。紙袋には彼女も見覚えがあるはずで、雪菜の店のものだ。
中を覗き込んだ彼女は、勢いよく顔を上げて、目を輝かせた。それから、視線を彷徨わせて、頬を赤く染める。
「本当、私、妖狐らしくないのね。……でも、嬉しい」
紙袋から取り出されたのは、小さな猫のぬいぐるみと、小犬の柄の櫛。ぬいぐるみの方はキーホルダーになっていた。
「美子が見てた方のぬいぐるみは、ちょっと買えなかったんだけど、同じ見た目のがあったから」
悟はどうしてか少し、頬の熱くなるのを感じた。ただ、彼女が喜んでくれているのは一目瞭然で、それが嬉しい。
――案外、心を読めなくても喜んでもらえるんだなぁ……。
あの時、調子に乗ってしまっていたわけではないと知れて、また少し、自信が持てた。そんな二人を、出風の月は静かに見守っていた。
翌日の夕方、美子が帰るのに合わせて、悟も出風の郷を後にした。昼と夜の混じる黄昏時に合わせ、商店街の一番外側にある鳥居をくぐると、一瞬視界が真っ暗になって、すぐに光が戻る。オレンジ色の光に照らされた出風神社の境内には相変わらず人の気配はなくて、振り返ると、注連縄を巻かれた青緑色の大岩があった。
境内を抜け、手水舎の横を通って石段を下る。そこから初めてあった公園まで、二人は無言のまま並んで歩いた。
「それじゃあ悟、また後で。その……。頑張って」
「うん。また。ありがとう」
手を振って、暗い茶髪の、人の姿をした美子と別れる。その背中は、夕日のせいか、なんとなく寂しげに見える。
――いや、寂しいのは、俺のほうか。
連絡先も交換したし、最悪学校が始まればまたいつでも会えるのに。友人に対してそこまで入れ込むなんて、と首を傾げながら。悟は伯母の家を目指す。時刻は十七時半を少し過ぎたくらい。今日は平日だから、まだしばらくは、家には誰も居ないはずだ。
「ただいま……」
誰も居ないと分かっているのに、ここ数日の癖で声が出た。玄関は暗く、やはり、誰もいないように見える。
――……あれ? 靴がある。
今日は祝日だったろうか。スマホを取り出して、カレンダーを確認しようとした。その瞬間、リビングの扉が勢いよく開いた。
「悟君!」
悟が何か反応を見せるよりも早く、彼を温かな何かが抱きしめた。それから嗅ぎ慣れた柔軟剤の香りに包まれる。伯母、愛未だった。
「今までどこ行ってたの!」
涙混じりの声だ。わけが分からなくて、どうして伯母に抱きしめられているのかが分からなくて、悟は、言葉を発せられない。
「(良かった。本当に、無事で良かった……)」
聞こえたそれは、久しく聞いていなかった、心の声。頭で響くような愛未の声に、ますます混乱は深まる。
「悟君、無事だったか……」
安堵の息が混ざった声は、伯父、健司のものだ。彼も心の内でたしかに喜んでいて、もしかしたら自分は、疎まれていなかったのではないかと思える。今までそうだと思っていた心の声は、受け取り方を悟が間違えていただけないのではないだろうかと、妖たちとのやり取りを思い出して、気がついた。
「ごめん、伯母さん、伯父さん……」
「いいえ、いいの。無事だったなら、それで」
ようやく悟を離した伯母の目には涙が溜まっていた。その涙も嘘には見えない。
だから、聞かなければいけないと思った。前へ進まなければならないと思った。
「……ねえ、母さんが死んだとき、どうして俺を、引き取ってくれたの?」
まさかそんな質問をされるとは思わなかったのだろう。二人はきょとんとして、顔を見合わせる。
「そんなの、あなたが大切だからに決まってるじゃない」
嘘では、無かった。愛未はそして、心の内で続ける。
「(だって、愛理の子なんだもの。じゃなかったら、余裕もないのに引き取ったりしない)」
目頭が、熱くなった。頬の濡れる感触がする。よく伯母が心の内で毒づいていた、遺産がなければ引き取らなかったというのは、引き取ることができなかったという意味だったのだ。思い返せばそういう時、伯母はいつも家計簿をつけていた。そんな簡単なことにも、自分は思い至れなかったのか。悟の後悔が、涙となってあふれ出す。
どうして悟が泣いているのか愛未たちには分からないはずだ。それでも、二人は泣くじゃくる彼を静かに抱きしめて、背中を撫でてくれた。
夜になって、綺麗な月が閑静な住宅街を照らす。悟がコンビニに行ってくると伝えて家を出ると、春先の強い風が灰色がかった黒髪を巻き上げた。空に雲は無く、星々の瞬きがよく見える。
コンビニまでは、まっすぐ行けばものの数分。しかし彼は少し回り道をして、この時間なら人っ子一人居ないはずの公園を目指す。
月に照らされた静かな時間。田舎故にまったく人通りのないこの時間の散歩が、悟は好きだった。
公園の前に差し掛かると、月明かりの下、ブランコに一人、座っている少女がいた。暗い茶色の長髪に、大きく、ややつり上がった目。明るい茶色の瞳は月光に負けないくらい眩しく輝いている。
すぐ近くまで行っても静寂は保たれたまま。聞こえるはずの声は聞こえない。ただ、猫のキーホルダーがついたスマホを弄る彼女が、そこで誰かを待っているということを悟は知っていた。
「お待たせ」
「遅い」
「はは、ごめんって」
いつかのようにジトッとした目を向けてくる美子に、悟は笑みを返す。彼につられて、美子も微笑んだ。
「そのジャージ、なんだか懐かしい。つい数日前のことなのに」
「ね。あの時、この道を通ったのはただの気まぐれだったんだけど、本当に、良かったよ」
「そうね……」
月を見上げた悟に、美子も倣う。
「……その様子じゃ、大丈夫だったみたいね」
「うん。伯母さんも、伯父さんも、仕事を休んでまで探してくれてたみたいだった」
家にいないはずの時間に二人がいたのは、そういう理由だった。あの後伯母は山のように唐揚げを作ってくれた。その唐揚げは杏士朗と二人で食べたものに負けないくらい美味しくて、また泣いてしまったのは美子には秘密だ。
「そう……」
美子は淡い笑みを浮かべる。それは安堵の笑みだった。
「私も、改めてお礼を言わせて。私のために、おばあ様を説得してくれて、ありがとう」
美子はやはり頬を染めてはいたが、今度はまっすぐ、悟の方を見る。もし本来の姿だったなら、金色の一尾をゆらゆらと揺らしていたのだろう。
「それと、その……ちょっと、かっこよかった」
春一番が吹いた。ビュウっと音を立てたそれに、美子の言葉は阻まれて、届かない。
「ごめん、なんて言った?」
「ま、また学校でって言ったの!」
顔を真っ赤にして叫んだ彼女が嘘を吐いているのは、すぐに分かった。ただ、どうしてそんな嘘を吐いたのかが悟には分からず、首を傾げる。
ふと気がつくと、悟の肩に一枚の桜の花びらがあった。花びらは、手を伸ばした美子を揶揄うようにひらりと風に舞って、どこかへ飛んでいく。やがてそれは、月に誘われて、光の中に消えた。それはまるで、人の知らない異界に消えてしまったかのようだった。
―完―
「はい、これ」
「え? ありがとう?」
袂落としから取り出された小さな紙袋に、美子は首をかしげる。紙袋には彼女も見覚えがあるはずで、雪菜の店のものだ。
中を覗き込んだ彼女は、勢いよく顔を上げて、目を輝かせた。それから、視線を彷徨わせて、頬を赤く染める。
「本当、私、妖狐らしくないのね。……でも、嬉しい」
紙袋から取り出されたのは、小さな猫のぬいぐるみと、小犬の柄の櫛。ぬいぐるみの方はキーホルダーになっていた。
「美子が見てた方のぬいぐるみは、ちょっと買えなかったんだけど、同じ見た目のがあったから」
悟はどうしてか少し、頬の熱くなるのを感じた。ただ、彼女が喜んでくれているのは一目瞭然で、それが嬉しい。
――案外、心を読めなくても喜んでもらえるんだなぁ……。
あの時、調子に乗ってしまっていたわけではないと知れて、また少し、自信が持てた。そんな二人を、出風の月は静かに見守っていた。
翌日の夕方、美子が帰るのに合わせて、悟も出風の郷を後にした。昼と夜の混じる黄昏時に合わせ、商店街の一番外側にある鳥居をくぐると、一瞬視界が真っ暗になって、すぐに光が戻る。オレンジ色の光に照らされた出風神社の境内には相変わらず人の気配はなくて、振り返ると、注連縄を巻かれた青緑色の大岩があった。
境内を抜け、手水舎の横を通って石段を下る。そこから初めてあった公園まで、二人は無言のまま並んで歩いた。
「それじゃあ悟、また後で。その……。頑張って」
「うん。また。ありがとう」
手を振って、暗い茶髪の、人の姿をした美子と別れる。その背中は、夕日のせいか、なんとなく寂しげに見える。
――いや、寂しいのは、俺のほうか。
連絡先も交換したし、最悪学校が始まればまたいつでも会えるのに。友人に対してそこまで入れ込むなんて、と首を傾げながら。悟は伯母の家を目指す。時刻は十七時半を少し過ぎたくらい。今日は平日だから、まだしばらくは、家には誰も居ないはずだ。
「ただいま……」
誰も居ないと分かっているのに、ここ数日の癖で声が出た。玄関は暗く、やはり、誰もいないように見える。
――……あれ? 靴がある。
今日は祝日だったろうか。スマホを取り出して、カレンダーを確認しようとした。その瞬間、リビングの扉が勢いよく開いた。
「悟君!」
悟が何か反応を見せるよりも早く、彼を温かな何かが抱きしめた。それから嗅ぎ慣れた柔軟剤の香りに包まれる。伯母、愛未だった。
「今までどこ行ってたの!」
涙混じりの声だ。わけが分からなくて、どうして伯母に抱きしめられているのかが分からなくて、悟は、言葉を発せられない。
「(良かった。本当に、無事で良かった……)」
聞こえたそれは、久しく聞いていなかった、心の声。頭で響くような愛未の声に、ますます混乱は深まる。
「悟君、無事だったか……」
安堵の息が混ざった声は、伯父、健司のものだ。彼も心の内でたしかに喜んでいて、もしかしたら自分は、疎まれていなかったのではないかと思える。今までそうだと思っていた心の声は、受け取り方を悟が間違えていただけないのではないだろうかと、妖たちとのやり取りを思い出して、気がついた。
「ごめん、伯母さん、伯父さん……」
「いいえ、いいの。無事だったなら、それで」
ようやく悟を離した伯母の目には涙が溜まっていた。その涙も嘘には見えない。
だから、聞かなければいけないと思った。前へ進まなければならないと思った。
「……ねえ、母さんが死んだとき、どうして俺を、引き取ってくれたの?」
まさかそんな質問をされるとは思わなかったのだろう。二人はきょとんとして、顔を見合わせる。
「そんなの、あなたが大切だからに決まってるじゃない」
嘘では、無かった。愛未はそして、心の内で続ける。
「(だって、愛理の子なんだもの。じゃなかったら、余裕もないのに引き取ったりしない)」
目頭が、熱くなった。頬の濡れる感触がする。よく伯母が心の内で毒づいていた、遺産がなければ引き取らなかったというのは、引き取ることができなかったという意味だったのだ。思い返せばそういう時、伯母はいつも家計簿をつけていた。そんな簡単なことにも、自分は思い至れなかったのか。悟の後悔が、涙となってあふれ出す。
どうして悟が泣いているのか愛未たちには分からないはずだ。それでも、二人は泣くじゃくる彼を静かに抱きしめて、背中を撫でてくれた。
夜になって、綺麗な月が閑静な住宅街を照らす。悟がコンビニに行ってくると伝えて家を出ると、春先の強い風が灰色がかった黒髪を巻き上げた。空に雲は無く、星々の瞬きがよく見える。
コンビニまでは、まっすぐ行けばものの数分。しかし彼は少し回り道をして、この時間なら人っ子一人居ないはずの公園を目指す。
月に照らされた静かな時間。田舎故にまったく人通りのないこの時間の散歩が、悟は好きだった。
公園の前に差し掛かると、月明かりの下、ブランコに一人、座っている少女がいた。暗い茶色の長髪に、大きく、ややつり上がった目。明るい茶色の瞳は月光に負けないくらい眩しく輝いている。
すぐ近くまで行っても静寂は保たれたまま。聞こえるはずの声は聞こえない。ただ、猫のキーホルダーがついたスマホを弄る彼女が、そこで誰かを待っているということを悟は知っていた。
「お待たせ」
「遅い」
「はは、ごめんって」
いつかのようにジトッとした目を向けてくる美子に、悟は笑みを返す。彼につられて、美子も微笑んだ。
「そのジャージ、なんだか懐かしい。つい数日前のことなのに」
「ね。あの時、この道を通ったのはただの気まぐれだったんだけど、本当に、良かったよ」
「そうね……」
月を見上げた悟に、美子も倣う。
「……その様子じゃ、大丈夫だったみたいね」
「うん。伯母さんも、伯父さんも、仕事を休んでまで探してくれてたみたいだった」
家にいないはずの時間に二人がいたのは、そういう理由だった。あの後伯母は山のように唐揚げを作ってくれた。その唐揚げは杏士朗と二人で食べたものに負けないくらい美味しくて、また泣いてしまったのは美子には秘密だ。
「そう……」
美子は淡い笑みを浮かべる。それは安堵の笑みだった。
「私も、改めてお礼を言わせて。私のために、おばあ様を説得してくれて、ありがとう」
美子はやはり頬を染めてはいたが、今度はまっすぐ、悟の方を見る。もし本来の姿だったなら、金色の一尾をゆらゆらと揺らしていたのだろう。
「それと、その……ちょっと、かっこよかった」
春一番が吹いた。ビュウっと音を立てたそれに、美子の言葉は阻まれて、届かない。
「ごめん、なんて言った?」
「ま、また学校でって言ったの!」
顔を真っ赤にして叫んだ彼女が嘘を吐いているのは、すぐに分かった。ただ、どうしてそんな嘘を吐いたのかが悟には分からず、首を傾げる。
ふと気がつくと、悟の肩に一枚の桜の花びらがあった。花びらは、手を伸ばした美子を揶揄うようにひらりと風に舞って、どこかへ飛んでいく。やがてそれは、月に誘われて、光の中に消えた。それはまるで、人の知らない異界に消えてしまったかのようだった。
―完―



