「……はぁ。悟君、あなたは、どうするつもりなの? 人の世を捨てたがっていたでしょう」
「俺も、あっちの家に戻って、今まで通り暮します」

 悟に向けられたのも何かを見透かそうとするような視線だ。まだ拭いきれない自信のなさが彼をたじろがせようとするが、ここで揺らいでは駄目だと、彼もまっすぐ見つめ返す。時間にすれば数秒のことだろうが、何分もそうしていたような心地がした。

 月明かりの静けさを神々すら模すなかで、珠祢はもう一つ、溜め息を吐いた。

「……まったく。若いっていいわねぇ。それに、お母さんたちそっくり」

 そう零した珠祢の口元は、ほころんでいる。

「悟君、この子のためにありがとう。美子を、よろしくね」

 それはつまり、美子は今まで通り暮して良いということだった。大きく見開いた悟の目が喜色に染まり、酒でも飲んだかのように頬が紅潮する。

「はいっ!」
 
 美子の方を見れば、彼女は安堵したように息を吐いて、花火のような笑顔を咲かせた。上気したその笑顔はやはり眩しくて、いっそう嬉しくなる。

 振り返れば杏士朗も口の端を上げて杯を傾けていた。隣の顕仁や天目一箇神も満足げに杯を交わしており、胸のあたりが温かい。事情をよく知らないはずの巴まで微笑みかけてくれるのだから、珠祢に認めてもらえた高揚を抑えきれない。

「しかしマヒトツよ、大事な友達だとよ」
「これ、顕仁。あまりからかってやるな」
「それもそうだな。本当に誰かさんそっくりだぜ。なっ?」

 顕仁が杏士朗の肩に腕を乗せる。杏士朗の顔は案の定苦く歪んでいたが、言い返すことができないようだ。
 悟には二柱の言っていた意味は分からない。しかし、悪い意味ではなさそうだ。勇気を出して良かった。空を見上げれば、月や星々も彼を湛えてくれているように見える。火照った身体に風が心地よい。
 もうすぐ人の世に戻らなければならないが、今なら、あちらでも楽しくやれるだろう。隣に美子がいるのなら、なおさらだ。悟は心の内でそう呟いて、大きく息を吐く。その彼を、美子は変わらぬ笑みで見つめていた。

 この夜の宴は、悟の奮闘の影響か、いつもよりも多くの酒瓶が空いたらしい。そうとうに上機嫌な三人の傍ら、巴に告げられて、悟も苦笑いしてしまう。それが苦言ではなく、むしろ礼の体をとられていたことは、ある意味で救いだ。
 料理の方は全員、とっくに完食していて、あとは酔った面々の話に付き合うばかり。それも主には珠祢や巴が相手しているから、高校生二人は手持ち無沙汰になってしまった。今なら抜け出しても、おそらく気がつかれない。

「ちょっと私、向こうで風に当たってくる。……悟、あんたもくる?」

 美子が視線を逸らし、頬を染めながら尾を所在なさげに揺らしているのは、言外に来てほしいと言っているからだろう。

「うん、そうだね」

 当然悟は受け入れて、山頂部分の端、森と商店街の境が見える辺りにまで移動した。そこは世話をする妖が落ちないようにするためにか、柵が設けられている。すぐ下は崖になっていて、木々ごしに郷を一望できた。天目一箇神はいつもこうして、ここから郷中を見守っているのだろう。

「良い風ね」
「うん。ここは、いつも風が気持ち良くていいね」
「でしょ?」

 また前のように話せていることに、彼らの口角は上がった。
 それ以上言葉は続かない。続かないが、居心地は悪くない。郷の明かりを眺める美子の横顔は優しげに微笑んでいて、悟もつい、つられてしまう。同じ方向に目を向けると、いくつかのオレンジが消えるのが見えた。昼を活動時間にする妖だろうか。そういえば、美子と初めて会ったのもこれくらいの時間だったと、悟は数日前を思い出す。あの日も綺麗な月が出ていて、月光に照らされた美子に見蕩れていた。
 その空気に甘えていると、森の少し高いところにも一つ明かりが見えた。あれはたぶん、山姥の家の明かりだろう。いつかお茶しに来てと言われていたから、その内美子を誘おうと決める。時間はたっぷりあるが、早いほうが良いだろう。

「ねえ」

 沈黙を破った彼女の声は少し、ぎこちない。

「その、ありが、とう」

 美子は郷の方を見たままだが、顔を赤くしているのは、横からでも分かった。

「俺がしたかっただけだから」

 本当のことだ。悟が、美子の、友人の苦しむ姿を見たくなかった。それだけだ。

「それより、俺も、すぐにうんって言えなくてごめん」

 美子は一瞬、なんのことか分からなかったようだ。一瞬きょとんとした顔を悟に向けて、すぐにああ、と声を漏らす。

「あれは、ちょっと、悲しかったかな。……ごめん嘘。めちゃくちゃ悲しかった」
「うっ、その、……ごめん」

 あの時、そば屋で頷いていたとして、本当に人の世に逃げていたかは分からない。なんだかんだ頭の悪くない二人だから、けっきょく珠祢を説得しようとしていた気もする。
 だから、変わらなかったかもしれないし、大きく変わったかもしれない。どちらが良かったかは、どうやっても分からない。もしこれから先、後悔するとしたら、あの時のことになるのだろうかと、悟は崖下の木々に視線を移す。

「まあ、それはもういいのよ。あんなのどうでも良くなるくらい、嬉しかったから。……それに、ちょっと、かっこよかったし」

 最後の呟きは、風に阻まれて悟には届かない。
 その悟も、目を細める彼女の横顔に見蕩れていた。この眩しい輝きを、もう二度と、失わせたくない。守りたい。そのためなら、父が顔を顰めるような顕仁の指導を受けるのも吝かではない。そう思える。
 その感情の名を悟はまだ知らないが、いずれは気が付くのだろう。杏士朗がそうであったように。

 気がつけば、郷に灯った明かりの位置はすっかり変わっていた。悟の思っていた以上に時間が経っていたのかもしれない。後ろの方で続いている宴も、そう遠くないうちに終わるのだろう。

「……ところでさ」
「え?」
「悪かったわね、妖狐と思えないくらい、嘘が下手で、分かりやすくって」

 笑顔を一転させてジトッとした目を向けてくる美子に、悟はうめき声を漏らす。勢いで言ってしまったことだが、たしかに、失礼だったかもしれない。よくよく思い返せば、珠祢も濁してはいた。

「それは、その……」

 魅力だと思っている部分ではあるが、今の空気でその弁明は恥ずかしい。美子も照れ隠しなのだろうが、それはそれだ。
 珠祢を説得しようとしていたとき以上に言葉が出てこない。どうしたらこの場を乗り切れるのか、必死に考える。

「あっ、そうだ!」