珠祢はちらりと神々を見て、溜め息を一つ吐く。もう話を通してあるのは察したらしい。

「悟君、だったわね。なんでしょう」

 やはり、珠祢は優しげな目をしていた。美子が歳を重ねたら、そのままこの姿になるのではないかというような風貌だ。その彼女と真剣な顔で向き会う悟へ、美子が困惑した視線を向ける。

「美子のことです」
「……あなたには、関係ないことでしょう?」

 それはやんわりと、家族の話に首を突っ込むなと言っているに等しい。それが分からない悟ではなかったが、っこで引き下がるわけにはいかない。

「関係あります。美子は、大事な友達ですから」

 珠祢の視線が美子へ向く。その先で彼女は視線を彷徨わせ、尾を揺らしていた。よく見れば狐耳もピクピクと動いている。

「美子は、人の世界に大事な人が、たくさんいます。学校の友達とか、お母さんとか、お父さんとか……」
「私は、その上で言っているの」

 静かなのに、強い声だった。話す内容は考えてあったはずなのに、上手く話せない。取り付く島もないように思えて、喉に栓を嵌められてしまったような心地さえする。

「でも、美子、泣いてました。会えなくなるなんて、そんな悲しいこと、可哀想じゃないですか!」

 どうにか自分を奮い立たせて思いの丈をぶつけようとする。それは珠祢からすれば、何も分かっていない幼子の戯れ言に過ぎないのだろう。
 
「別に両親と一切会うなとは言ってないのよ。学校のお友達とは、諦めてもらわないとだけど、どの道寿命が違いすぎるわ」

 悟とは対照的に冷静な言葉だ。返す言葉がすぐに浮かばない。しかし、彼女は学校の友人も大事だと言っていた。諦めてもらうだなんて、簡単に言ってほしくない。

「それに、この子は化日の娘です。可哀想だなんて、感情的なことばかり言ってられないのよ」

 諭すような口調だったが、それは同時に、悟の考えを拒絶するものでもあった。追い打ちをかけるように告げられた言葉に、俯いてしまう。美子を思えば、引き下がれるはずがない。それなのに、次の言葉を継げない。
 それでも、底の底に残ったものを、どうにか絞り出す。
 
「でも、でも、それじゃあ、美子も、俺と同じになっちゃう……」

 いつまでも付き纏う孤独に苛まれ、周囲に心を開けなくなってしまう。相手を疑って、自分に自信が持てなくて、不安に心を支配されてしまう。周囲を責め、自分自身の問題に目を向けられなくなってしまう。
 
「あなたのような思いをさせないために、人の世を捨てるの」

 悟には厳しい言葉だ。しかし、同時に確信した。やはり、珠祢は美子のためだと信じて、人の世を捨てさせようとしている。化日の家の者としてだとか、長を継がせたいだとか、そういった世間体的な理由ではない。それは美子にも伝わったのだろう。彼女のいる方から息を飲むような音が聞こえた。

「……この子が、半妖であることに負い目を感じているのは知ってます。でも、あなたがいるなら寂しくないとも言ってました。なら、自分を偽り続けなければいけない人の世にある意味はないでしょう? ただでさえ、この子は妖狐らしくないのに」

 それは、その通りだ。納得してしまった。それだけ聞いたら、たしかに合理的な判断のように思える。実際、周囲を騙し続けなければいけない孤独も、それが難しいだろう美子の性格も、悟には覚えがあった。
 しかし、駄目なのだ、それでは。それでは、美子の心を無視することになってしまう。悟の今は、その思いを見てもらえなかった結果なのだ。だから、ここで引き下がってはいけない。
 悟は自分の中にあるものを確かめるように、一つずつ、確実に、言葉を紡ぐ。

「たしかに、美子は妖狐とは思えないくらい嘘が下手で、正直です。心を読む必要がないくらいに分かりやすいです」

 美子の前で言うことなのかは分からなかったが、今、言葉にしないわけにはいかなかった。

「でも、それは悪いことじゃなくて、むしろ、美子のいいところで……。眩しいんです。まっすぐに、心の底から笑ってる彼女が」

 その眩しさに引っ張られて、悟はここに来た。心を照らされた。……救われた。

「俺は、その眩しさを、失わせたくない」

 一瞬だけ美子の方を見て、そして、どうか分かってくれと、珠祢の目を真っ直ぐに見つめ返す。
 
「人の世を捨てたら、眩しくなくなってしまうって言いたいの?」

 少しばかり、珠祢の声のトーンが落ちた。寒気がして、身がすくみそうになる。それでも、悟は珠祢の向けてきた視線をまっすぐに受け止め続ける。

「分かりません。でも、そうなってもおかしくない。自分の思いに目を向けてもらえないって、そういうことだと思ってます」

 自分が、そうだったから。何度も過った家族の団欒。もし、悟の思いにも目を向けてもらえていたなら、あったかもしれないもの。それと一緒に失ったものが、美子の持つ眩しさの一つだと彼は考えていた。

 不意に静けさが訪れた。風の音ばかりが夜を揺らす。麓でもお祭り騒ぎをしているはずだが、やはり、いつかと同じように、ここまで音が届くことはない。
 珠祢は悟の言葉を考えているのか、軽く目を伏せ、いまだ皿に残された料理を見つめていた。

「俺ぁ、悟の言うことにも一理あると思うぜ」

 沈黙を破ったのは、顕仁だった。彼の周りには空になった一升瓶が数本転がっているが、顔に赤みはほとんどない。どころか、いつの間にやら移動した巴におかわりを注がせていた。

「周りにアレコレ勝手に決めつけられて忖度されるってぇのは、なかなかに面倒だった。上手く転ぶなら良いが、大抵余計なことしやがるからな、あいつら」

 色々と思い出してしまったのだろう。苦虫を噛みつぶしたような顔を顕仁は浮かべる。どこか、杏士朗のそれに似ていた。
 
「その度に愚痴に付き合わされる儂もなかなか面倒だったがな」
「良い友人を持って幸せもんだな、俺は」

 どこ吹く風と受け流した顕仁は、したり顔を浮かべ、杯に口をつける。天目一箇神も嘆息するばかりで怒った様子はない。このくらいの軽口の応酬はよくやっているのだろう。静かに酒を飲んでいた杏士朗が、哀れげに郷の長老を見やっている。その横で、巴がまた天目一箇神へ頭を下げていた。
 今の顕仁の言葉を、珠祢はどう受け取っただろうか。悟は恐る恐る、聡明であるはずの化日(あだしび)の長を伺う。

「美子、あなたの本音を聞かせて。これまでの話を聞いた上で、まだ、人の世に戻りたい?」
「私は……」

 美子の明るい茶色の瞳が、悟を捉えた。揺れているのは、彼が妖の世で生きたいと願っていると知っているからだろうか。もしかしたら、自分の選択によっては、悟まで妖の世を去らないといけないと思っているのかもしれない。実際、美子が人の世に戻るのなら、悟も伯母たちの家に戻ろうと思っていた。だがそれは仕方なくではなく、前に進むためにだ。ちゃんと変わるためにだ。
 だから、彼女の瞳に己の真っ黒な瞳を映す。

「美子、俺も、君と一緒なら、どこでも寂しくないと思う」

 紛れもない本音だった。もちろん悟自身が変わって、人の世でも居場所を見つけられるかもしれないと思えるようなったこともあるし、最悪、杏士朗のところに行けばいいと考えているのもある。
 ただ、もし、その自信が気のせいだったとしても、美子がいるなら大丈夫、それだけで十分だ。そんな風にも考えていた。

 一つ強い風が吹いた。美子の長い金髪を靡かせて、月明かりを散らせる。それは出風の郷の気まぐれだったのだろう。しかしその気まぐれが、彼女の背中を押す最後の一押しとなった。

「……私は、今まで通り、人の世で暮したい。お父さんとお母さんのいる家から学校に通って、友達と笑って、時折この郷に遊びに来る。そんな生活を続けたい」

 彼女の目には、眩しさが戻っていた。人を誑かす妖なのにまっすぐで、正直な光だ。それが珠祢を捉える。

「お友達と長く付き合うほどに、別れが辛くなるのよ?」

 珠祢の視線が杏士朗へ向けられた。愛理とのことを言っているのだろう。母の死を思い出した動揺を、悟は必死で隠す。
 どんなに長くても百年しか生きられない人間と、数百年、千年と生きる妖。半妖がどれほどの寿命を持つかは分からないが、少なくとも、百年で終わることはない。周囲が老いていく中、半妖である二人だけは変わらないままであるのだろう。
 人間の友人たちは、瞬く間に老いて、死んでいく。本当にそれが分かっているのかと、珠祢は問うているのだ。そして、おそらくそれは、悟に対する問いでもあった。

「ええ、分かってる。だから、よけいに大事にしたいの」

 彼女の輝きは褪せない。珠祢を正面から見据えたまま、声を震わすこともなく、悟がすぐには出せなかった答えを告げる。それはつまり、彼女が本気でそう願っているということだ。
 しばらく、じっと美子を見つめていた珠祢は少しばかり瞑目して、嘆息した。