光が、長い石の段を上ってくる。その中に、美子の姿が見えた。白い着物に緋袴のを着た彼女は、やはりどこか陰のある表情で先頭を歩いている。横にいるのは格式の高そうな着物を着た五尾の妖狐、珠祢だ。二人の後ろには、宙に浮き、水平を保ったままの不思議な牛車があって、従者らしい女性が侍っていた。
「来たな。悟、こっちだ」
杏士朗の横に立ち、一行が到着するのを待つ。最初に顔を出したのは珠祢で、訝しむように顔を歪めた。
続けて、美子が顔を出す。悟と目が合った瞬間に大きな目をめいっぱい見開いて、一瞬口角を上げかけ、すぐに視線を伏せる。相変わらず、分かりやすい妖狐だ。段を上りきってからも悟の方を見ようとしない。あからさまに視線を逸らしている。視界の端で天目一箇神が苦笑いをするのが見えたが、悟の意識からはすぐに追いやられた。
「珠祢、美子、ご苦労だった」
お辞儀を返す珠祢に美子も少し遅れて倣う。二人はそのまま、悟達たちの天目一箇神を挟んだ反対側に控えた。
顕仁の従者は、どうやら鬼の系譜らしい。細長い二本角を持った射干玉の髪の美しい女性で、黒の着物を纏っている。彼女は牛車のすだれに手をかけて、慣れた様子で持ち上げる。その奥に、彼はいた。
悟たちの見つめる先で彼は牛車から足を下ろす。真っ白な狩衣を着た五十代くらいの男性だ。真っ白な衣に描かれた紋は悟の目から見ても上品で、下に見える布地は紫色をしている。真っ黒な髪は長く、適当に切りそろえただけに見えた。眉は細めだがキリッとしていて力強い。武人然としている以外はどこからどうみても普通の日本人で、人の世に混じっていても分からないだろう。
天狗というから、鼻の長く顔の赤い修験者を想像していた悟は、少しばかり拍子抜けしてしまった。しかし彼があの恐ろしい威圧感の持ち主であることにも違いない。従者に礼を言ってこちらにやってくる顕仁に、悟は気を引き締め直す。
「よう、マヒトツ。久しぶりだな」
「顕仁、よう来た」
にやりと笑みを交わす二柱は、なるほど、気の置けない飲み友達というやつなのだろう。人間同士であれば肩を組み合う程度のことはしていそうだ。
「んで、杏士朗。お前も元気そうじゃねぇか」
「まあ、一応」
杏士朗にしては雑な返事だ。顕仁は満足げに鼻を鳴らしているから、これもいつもの調子なのだろう。寄ってきた顕仁から杏士朗が一歩後ずさったのは、何をされるか分かったからだ。バンッと大きな音を立てた自身の背を、杏士朗は少し顔を顰めながらさする。彼の従者が頭を下げているのが少し、印象的だった。
「んで、こっちのぼうずは……、なるほど、お前の子か。あの娘に目元がそっくりだ。覚の力もしっかり継いでるな」
悟をじろじろと見る視線は不躾で、顔も近い。悟のあまり会ったこと無いタイプであったから、どう接していいか分からない。当然心は読めないし、正直逃げたかった。しかし助けを求めて視線を巡らせても、杏士朗も天目一箇神も諦めろと言わんばかり。大事を前にして嵐に遭った気分だ。
「ぼうず、名前は? いくつだ?」
「悟、です。歳は、十六」
「てこたぁ、化日の娘と同じか。元服は済んでるな」
体を起こされると、それはそれで恐ろしい威圧感を感じる。妖力は抑えているはずだから、身長と悟の抱く印象の問題だ。この人が、父さんの師匠、という呟きは、杏士朗以外には聞こえない。
「今の世は二十歳で成人だ。酒は飲ませるなよ」
「お、そりゃマズいな。破らなくていいルールは守らなきゃならん。悟、今夜は無礼講だ。楽しんでけ」
頭に、大きくたくましい手が置かれた。杏士朗のものとも違う力強さと、温もりを感じる。うん、と一つ頷くと、顕仁はニっと顔を歪めて天目一箇神の隣にもうけられた自分の席に着く。それだけで少し、印象が変わった。苦手意識が薄れて、天目一箇神に感じているそれに近しいものが生まれる。心の内は読めないまでも、悟に向けられた感情を本能的に感じ取ったからなのだが、本人は気がついていない。
顕仁に倣い、控えていた面々も各々の席に移動する。悟の席もいつの間にか用意されており、誰の仕業なのかとつい、視線を巡らせてしまった。その途中、天目一箇神と顕仁が顔を合わせ、何やらやり取りをしているのが目に入った。顕仁が悟の方を見て意味ありげな笑みを浮かべていたから、悟の目論見を伝えていたのだろう。
酒宴は、特別な合図もなく、普段の食事のように始まった。催しがあるわけでもなく、本当にただ、夜桜を見ながら食事を楽しみ酒を呑むだけの場らしい。強いて言えば、この出風の郷の営みこそが彼ら神への供物だ。
席の並びはコの字に並んだ端から順に美子、珠祢、巴というらしい顕仁の従者、天目一箇神と続いて顕仁が座り、その隣に杏士朗が並ぶ。悟の席は美子とは反対側の端で、真っ直ぐ顔を上げると彼女の姿が見えた。
「今回は天ぷらと寿司か。なかなか豪勢じゃねぇか」
「そろそろノドグロの季節も終わるからな。最後にお前と楽しもうと思ってな」
「こっち側の魚は美味いからな。酒も進む」
神々が愉快げに話す傍ら、悟ばかりは戦前の腹ごしらえのつもりで料理へ箸をつける。日本海の幸や山の幸をふんだんに使ったこれらは、人の世であればいったいいくら出さねばならないのだろうか。まだ高校生の悟には想像できないが、確実に高いことは分かる。こんな食事を伯母たちに強請ったなら、本当に家を追い出されてしまいそうだ。
隣では神と妖の男三人が杯を傾けていて、酒精の匂いがほんのり漂ってくる。それぞれ違う酒を飲んでいるのか、まったく違ったラベルのついた一升瓶が各々の前に置かれていた。天目一箇神のものは顕仁の京都土産らしい。大人で呑んでいないのは珠祢と顕仁の従者、巴だ。巴も無口な方なようで、余り言葉は発しない。時折ちらちらと顕仁を見ているから、本当は彼の側の席の方が良かったのだろう。
酒を楽しむ者たちも、むやみに酔ってはおらず、宴というよりは食事会と言った方が悟の中でしっくりくる。それでも雰囲気ばかりは宴らしく浮かれたものだ。並ぶ酒瓶の数は少々常軌を逸してはいるが、龍神と大天狗の宴ならばこんなものなのだろう。顕仁の前に並ぶ中で一番数が多い、黒地に赤い三文字が書かれたお酒だけは、悟も知っていた。
そんな中にあって、美子の表情は、やはりぎこちない。笑みを作ろうとしているのは分かるが、上手く笑えておらず、珠祢もちらちら彼女を伺っている。その原因は、悟にもあるだろう。
気がつけば龍神と大天狗の前の皿は空になっていて、代わりに酒のツマミらしい小皿がいくつか増えていた。他の面々はまだ食べ終わっていないから、二柱が特別早かったのだろう。強いて言えば、杏士朗がもうすぐ食べ終わりそうだという程度だ。
相変わらず、用意をしてくれている妖の姿は見つけられていないが、それよりも今は大事なことがある。
「そろそろ良いんじゃないか?」
タイミングを図りかねていた悟に、杏士朗がそんな声をかけた。宴は酣のころに向かって盛り上がる最中で、これ以上待っていては、やりづらくなってしまいそうだ。悟は箸を置き、一つ頷いて、立ち上がる。
その彼を、天目一箇神が優しげに、顕仁は楽しげに、それぞれ見つめていた。
「美子のお祖母さん、お話があります」
「来たな。悟、こっちだ」
杏士朗の横に立ち、一行が到着するのを待つ。最初に顔を出したのは珠祢で、訝しむように顔を歪めた。
続けて、美子が顔を出す。悟と目が合った瞬間に大きな目をめいっぱい見開いて、一瞬口角を上げかけ、すぐに視線を伏せる。相変わらず、分かりやすい妖狐だ。段を上りきってからも悟の方を見ようとしない。あからさまに視線を逸らしている。視界の端で天目一箇神が苦笑いをするのが見えたが、悟の意識からはすぐに追いやられた。
「珠祢、美子、ご苦労だった」
お辞儀を返す珠祢に美子も少し遅れて倣う。二人はそのまま、悟達たちの天目一箇神を挟んだ反対側に控えた。
顕仁の従者は、どうやら鬼の系譜らしい。細長い二本角を持った射干玉の髪の美しい女性で、黒の着物を纏っている。彼女は牛車のすだれに手をかけて、慣れた様子で持ち上げる。その奥に、彼はいた。
悟たちの見つめる先で彼は牛車から足を下ろす。真っ白な狩衣を着た五十代くらいの男性だ。真っ白な衣に描かれた紋は悟の目から見ても上品で、下に見える布地は紫色をしている。真っ黒な髪は長く、適当に切りそろえただけに見えた。眉は細めだがキリッとしていて力強い。武人然としている以外はどこからどうみても普通の日本人で、人の世に混じっていても分からないだろう。
天狗というから、鼻の長く顔の赤い修験者を想像していた悟は、少しばかり拍子抜けしてしまった。しかし彼があの恐ろしい威圧感の持ち主であることにも違いない。従者に礼を言ってこちらにやってくる顕仁に、悟は気を引き締め直す。
「よう、マヒトツ。久しぶりだな」
「顕仁、よう来た」
にやりと笑みを交わす二柱は、なるほど、気の置けない飲み友達というやつなのだろう。人間同士であれば肩を組み合う程度のことはしていそうだ。
「んで、杏士朗。お前も元気そうじゃねぇか」
「まあ、一応」
杏士朗にしては雑な返事だ。顕仁は満足げに鼻を鳴らしているから、これもいつもの調子なのだろう。寄ってきた顕仁から杏士朗が一歩後ずさったのは、何をされるか分かったからだ。バンッと大きな音を立てた自身の背を、杏士朗は少し顔を顰めながらさする。彼の従者が頭を下げているのが少し、印象的だった。
「んで、こっちのぼうずは……、なるほど、お前の子か。あの娘に目元がそっくりだ。覚の力もしっかり継いでるな」
悟をじろじろと見る視線は不躾で、顔も近い。悟のあまり会ったこと無いタイプであったから、どう接していいか分からない。当然心は読めないし、正直逃げたかった。しかし助けを求めて視線を巡らせても、杏士朗も天目一箇神も諦めろと言わんばかり。大事を前にして嵐に遭った気分だ。
「ぼうず、名前は? いくつだ?」
「悟、です。歳は、十六」
「てこたぁ、化日の娘と同じか。元服は済んでるな」
体を起こされると、それはそれで恐ろしい威圧感を感じる。妖力は抑えているはずだから、身長と悟の抱く印象の問題だ。この人が、父さんの師匠、という呟きは、杏士朗以外には聞こえない。
「今の世は二十歳で成人だ。酒は飲ませるなよ」
「お、そりゃマズいな。破らなくていいルールは守らなきゃならん。悟、今夜は無礼講だ。楽しんでけ」
頭に、大きくたくましい手が置かれた。杏士朗のものとも違う力強さと、温もりを感じる。うん、と一つ頷くと、顕仁はニっと顔を歪めて天目一箇神の隣にもうけられた自分の席に着く。それだけで少し、印象が変わった。苦手意識が薄れて、天目一箇神に感じているそれに近しいものが生まれる。心の内は読めないまでも、悟に向けられた感情を本能的に感じ取ったからなのだが、本人は気がついていない。
顕仁に倣い、控えていた面々も各々の席に移動する。悟の席もいつの間にか用意されており、誰の仕業なのかとつい、視線を巡らせてしまった。その途中、天目一箇神と顕仁が顔を合わせ、何やらやり取りをしているのが目に入った。顕仁が悟の方を見て意味ありげな笑みを浮かべていたから、悟の目論見を伝えていたのだろう。
酒宴は、特別な合図もなく、普段の食事のように始まった。催しがあるわけでもなく、本当にただ、夜桜を見ながら食事を楽しみ酒を呑むだけの場らしい。強いて言えば、この出風の郷の営みこそが彼ら神への供物だ。
席の並びはコの字に並んだ端から順に美子、珠祢、巴というらしい顕仁の従者、天目一箇神と続いて顕仁が座り、その隣に杏士朗が並ぶ。悟の席は美子とは反対側の端で、真っ直ぐ顔を上げると彼女の姿が見えた。
「今回は天ぷらと寿司か。なかなか豪勢じゃねぇか」
「そろそろノドグロの季節も終わるからな。最後にお前と楽しもうと思ってな」
「こっち側の魚は美味いからな。酒も進む」
神々が愉快げに話す傍ら、悟ばかりは戦前の腹ごしらえのつもりで料理へ箸をつける。日本海の幸や山の幸をふんだんに使ったこれらは、人の世であればいったいいくら出さねばならないのだろうか。まだ高校生の悟には想像できないが、確実に高いことは分かる。こんな食事を伯母たちに強請ったなら、本当に家を追い出されてしまいそうだ。
隣では神と妖の男三人が杯を傾けていて、酒精の匂いがほんのり漂ってくる。それぞれ違う酒を飲んでいるのか、まったく違ったラベルのついた一升瓶が各々の前に置かれていた。天目一箇神のものは顕仁の京都土産らしい。大人で呑んでいないのは珠祢と顕仁の従者、巴だ。巴も無口な方なようで、余り言葉は発しない。時折ちらちらと顕仁を見ているから、本当は彼の側の席の方が良かったのだろう。
酒を楽しむ者たちも、むやみに酔ってはおらず、宴というよりは食事会と言った方が悟の中でしっくりくる。それでも雰囲気ばかりは宴らしく浮かれたものだ。並ぶ酒瓶の数は少々常軌を逸してはいるが、龍神と大天狗の宴ならばこんなものなのだろう。顕仁の前に並ぶ中で一番数が多い、黒地に赤い三文字が書かれたお酒だけは、悟も知っていた。
そんな中にあって、美子の表情は、やはりぎこちない。笑みを作ろうとしているのは分かるが、上手く笑えておらず、珠祢もちらちら彼女を伺っている。その原因は、悟にもあるだろう。
気がつけば龍神と大天狗の前の皿は空になっていて、代わりに酒のツマミらしい小皿がいくつか増えていた。他の面々はまだ食べ終わっていないから、二柱が特別早かったのだろう。強いて言えば、杏士朗がもうすぐ食べ終わりそうだという程度だ。
相変わらず、用意をしてくれている妖の姿は見つけられていないが、それよりも今は大事なことがある。
「そろそろ良いんじゃないか?」
タイミングを図りかねていた悟に、杏士朗がそんな声をかけた。宴は酣のころに向かって盛り上がる最中で、これ以上待っていては、やりづらくなってしまいそうだ。悟は箸を置き、一つ頷いて、立ち上がる。
その彼を、天目一箇神が優しげに、顕仁は楽しげに、それぞれ見つめていた。
「美子のお祖母さん、お話があります」



