美子の祖母、珠祢を説得して、美子が人の世で今まで通り暮らすことを許してもらう。皆の心を無視しないなら、これしかない。
翌朝になって、太陽が地平線から顔を出す。その光はいつものように高窓から差し込んで、静かに眠る悟の顔を照らした。遅れて飛び込んできた朝の風は、その彼を夢の中から連れ出す。杏士朗もちょうど起きたようで、隣からごそごそと音が聞こえた。今日は、誰かが訪ねてくるような予定は無い。
「おはよう」
「ああ」
土間に降りて、朝餉の用意を始める。その途中で一度、悟は玄関を開け放った。
いつものように吹き込んでくる風は、出風の郷の名にふさわしい、清らかで心地よいもの。その風に乗ってくるのは、もう半分ほど散ってしまった桜の花びらだ。その香りの混じった空気を、彼は肺一杯に吸い込んで、吐いた。
朝食は、いつもの汁にご飯、それから、ほうれん草入りの卵焼きだ。形はやはり少し不格好だが、焦しはしなかった。
「父さん、俺、決めたよ。美子を、助ける」
「そうか」
責めないと言った言葉通りなのか、杏士朗は良いとも悪いとも言わない。ただ、口角を静かに上げる。
「そのために人の世界に戻らないといけないけど、休みの日とかにまた遊びに来るから」
「ああ、待っている」
切れ長の目が細められた。その温もりがいつもは悟を気恥ずかしくさせるのだが、今日は、まっすぐと見返して頷けた。
「それでさ、お願いがあるんだ」
こればかりは拒否されるかもしれないと思っていた。しかし、意識の落ちるまでの間ずっと考えていたが、美子のいる場で、珠祢と会って話をするならその時が一番確実だとしか思えなかった。
「今夜の、顕仁様との宴に連れて行ってほしい。美子のお祖母さんを、直接説得したいんだ」
「分かっていると思うが、化日の長は郷の重鎮だ。機嫌を損ねれば、この郷には来づらくなるかもしれないぞ」
「うん、分かってる」
美子への妖達の態度でもなんとなく察していた。この郷で化日の家は、かなりの大家だ。もしかしたら妖の世界全体でも名のある家なのかもしれない。それでも、美子のために必要なことだ。
「もし失敗したら、父さんが会いに来て。今度は、起きてるときに」
「……そうだな。そうしよう」
くすりと笑う杏士朗に、悟も同じ笑みを返した。
予定の時間までは、極力普段通りに過ごした。妖術の練習をし、食事の時間になれば二人で煮炊きをする。その間に明るい妖狐の声が聞こえることは当然ない。
本当のところを言えば、天目一箇神や顕仁がそういう反応を示すかも不安ではあった。重鎮という意味では、そちらの方が一妖に過ぎない化日の家よりもずっと上だからだ。
しかし杏士朗はそちらに言及しなかった。つまりは、心配する必要が無いということだろう。
ならば、考えるべきは、美子の祖母である珠祢をどうやって説得するかだ。
悟はこの数日で会った妖たちのことを思い出す。
見かけが怖いだけで、実は子供好きだった鎧武者のような付喪神。雑貨屋を営む雪女。カフェを経営する西洋貴族然とした猫又男爵。美しい舞で人や妖をおびき寄せて喰らう月面蝶。人には恐ろしい性質だが、人となりは良いという読ませ鬼。妖すら化かして遊ぶ化け狸。どうしてか人や妖を転ばせ、切りつけては薬で治す鎌鼬。子供を危ないところに近づけさせないために恐ろしい化け物のフリをしていた山姥。
色んな妖がいた。その多くが、一見するだけでは分からない、別の一面を持っていた。表と内とで取り繕っているわけではなく、一つの事柄を別の角度から見ただけのものもあった。
――美子のお祖母さんも、そうな気がする……。
気がする、だけだ。
珠祢の思いとはなんだろうか。杏士朗は、どうしてわざわざ、悟たちのそれと一緒に並べて言ったのだろうか。
杏士朗の後悔を、もう一度思い出す。杏士朗は、自分の行いが悟のためだと思って、悟たちの思いをないがしろにしてしまった。彼の話に出てきた悟の思いと、愛理の思い。これが今回でいう、悟と美子の思いだとしたら、珠祢の思いにあたるのは、杏士朗の思いなのだろうか……。
「あ、そういうことか……」
分かった気がした。だとしたら、やはり、しっかり話し合わなければならない。
どんな筋道で伝えるべきかなんて悟には分からない。だから、言うべきことだけ考えて、あとは思いの丈をぶつけよう。そう決めた。
決めたは良いが、昼時が過ぎて、茶の時間を越えても、悟は落ち着けない。無理もない話だ。彼もこれから高校二年生になろうとしている年齢でしかない。その年で、神の前、千年生きるらしい妖の老獪を相手にしてその思いを押し通さなければならないのだ。
それでも時間は過ぎていって、そしてとうとう、出発の時となった。
太陽が西の空に沈む、いつもであれば美子との別れの時間。雁がブイの字になって跳び、カラスが寂しく鳴いて、春の虫たちが歌い始めるころ。これから、すれ違う相手の顔も見えない、茜色に染まった黄昏の郷を通って、美子に会いに行く。
「行くぞ」
「うん」
杏士朗が紋入りの狩衣に打ち刀を差し、玄関に立つ。悟も、同じように神主のような格好をして、履き慣れない草履に足を通した。ただし彼の腰には刀はなく、丸腰状態だ。
二人は揃って、天目一箇神のいる中央へ行くため、商店街の方へ出る。顕仁が来るというのはそれだけで祭りのようなものなのか、各店の軒先に灯籠飾りが増え、人気の意味でも悟の知っているよりずっと賑わっていた。
「大丈夫か」
「う、うん」
隠しきれない緊張は、覚である杏士朗でなくても見て取れただろう。実際にすれ違う妖の一部からねぎらいや励ましの声がかけられた程だ。その格好や杏士朗と連れ立っていることから、天目一箇神と顕仁の酒宴に参加するのだろうと察した上でのかけ声だが、緊張の理由が実は、神との同席ではないとは思うまい。
妖たちの間を縫いながら、天目一箇神のいる山の麓まできた。出風神社と同じ造りの石段を登り切れば、そこが目的地だ。
左右に並んだ灯籠は、今日はもう点いている。既にずいぶんと薄暗くなってはいるが、視界の悪さから足を踏む外す心配は少ない。ただ、心の問題による事故は十分にあり得た。
「もうそろそろ顕仁様が入り口から入ってくる。気圧されるなよ」
気圧される、とはどういう意味か。その問いを口にするよりも早く、身を以て答えを知った。
突然、凄まじい威圧感を伴った気配が現れた。出風神社に繋がる入り口の方だ。ここまでずいぶんと離れているはずなのに、抜き身の刀を喉に突きつけられているような心地がして身がすくんでしまう。まだ妖力を感じ取れるようになったばかりの悟がこれに気圧されるなという方が無理な話だ。
フラついた彼の背中を杏士朗がそっと支えてやる。
「まったく、あのクソ親父は……」
これが神の気配なのだろう。ではどうして、天目一箇神の気配の影響を受けないのか。初めて会ったときは妖力を感じられなかったから? ずっとその気配の傍にいて麻痺してしまっているから? そうではない。天目一箇神が、自らの気配を抑えているのだ。
この気配の中で、美子のお祖母さんを説得しなければいけないのか。自分の考えが浅はかだったように思えて、悟は少しばかりの後悔を覚える。しかしそれは杞憂だった。
どうにか慣れなければ、と藻掻いていると、不意に威圧感が消えた。どうしたことだろう、と杏士朗を見れば、彼は呆れたような溜め息を吐く。
「顕仁様は、毎回毎回自身の気配を抑え忘れるのだ」
少しばかり恨みがましい色が声に混ざっていたのは、悟の気のせいではないだろう。なるほど、クソ親父かもしれない、と父に内心で同意した。
石段を登り切り鳥居をくぐると、覚えのある石畳の広場に出る。周囲にいくらかの桜の木の植えられた、境内のようにも見えるそこは、しかし以前と違って赤い敷物で覆われていた。いくつか座椅子のようなものも置かれているから、酒宴の席として用意されたのだろう。
その奥に淡く光る、巨大な白龍神の姿があった、やや厳めしい龍の顔で、目は一つ、濡れ羽色の大きな龍眼がその額に収まっている。艶やかな鬣は青みがかった銀色で、純白の鱗とあわせて、やはりこの世のものとは思えないほど美しい。この郷の主、天目一箇神だ。
「おお、悟も来たか。顕仁のやつも喜ぶ」
「あまり喜ばれても困るのですが」
「はっはっは、そう言うてやるな。あやつからすれば、孫のようなものだからな」
杏士朗と親しげに話す天目一箇神以外にはまだ、妖の姿は見えない。他に出席するのは化日の二人と、顕仁の従者だけとは聞いていたが、美子たちの姿も見えないのはどういうことだろうかと首を傾げた。
「言っていなかったな。化日の長達は顕仁様の出迎えに行っている」
つまり、まだ心の準備をする時間があるということだ。悟は大きく深呼吸をして、天目一箇神に向き直る。彼に何も言わすに事を起こすわけにはいかない。
「長老様、今日は、突然来たのにありがとうございます」
「良い良い。杏士朗の子ならば儂も歓迎だ」
カッカと笑う姿は孫と話す好々爺のようだ。この神と話していると、どうしてか悟の緊張もいくらかマシになった。
だが問題はここからだ。珠祢を説得する方法ばかり考えていたせいで、この龍神にどう切り出すべきかは考えていなかった。ストレートに言うべきだろうか。そうやって思案していたのは、数秒もなかっただろう。彼の答えを出す前に、天目一箇神が口を開く。
「しかし、悟よ。なにやら企んでおるようだな」
「えっと、はい」
悟が一瞬杏士朗の方を見ると、首肯が返ってくる。怒られるわけではないのだろうと安心して、ほっと息を吐いた。
話してみよ、と言われたが、どこから話すべきか悟には分からない。だから、最初から話すことにした。
「……美子が、お祖母さんと喧嘩したらしいんです。もう人の世には関わるな、って言われたとかで」
「ふぅむ。たしかに珠祢のやつは時折そんな愚痴を零しておったな」
天目一箇神は五本指の手を顎の辺りに当て、中空に視線を向けて唸る。
「でも、美子は人の世で暮したいらしくて、泣いてて、俺も苦しくして……」
なかなか上手く説明できない悟の言葉に、天目一箇神は静かに耳を傾ける。深く落ち着いた瞳は、やはり悟を落ち着かせた。
「でも、美子のお祖母さんも、きっと美子のためだと思って言ってるんです。だから、直接会って、説得したい、です。美子の気持ちを、ちゃんと、知ってほしいんです」
美子が珠祢の内心に気がついているかは、悟には分からない。ただ、二人はもう一度、しっかり話し合わないと駄目だと思った。それも二人だけではない場所で。そうでないと、自分や母と父のように何年もすれ違って、重ねられたはずの時間を重ねられなくなってしまうかもしれない。溝が出来てしまうかもしれない。
それで苦しむ美子を、悟は見たくない。
「だから、お願いします。宴の時間を少しだけ、俺にください!」
天目一箇神は、深く頭を下げた悟をじっと見ていたかと思うと、不意に杏士朗へ視線を移した。駄目だろうかと不安になった悟の耳に届いたのは、静かで、優しげな声だった。
「良い子に育ったではないか。まっすぐで、心の優しい子だ。間違いなく、おぬしらの子だ」
「ええ、俺も、そう思います」
耳の赤くなってしまう会話が聞こえてくるが、悟は顔を上げていいのか分からない。ただ、じっと真っ赤な布地を見つめて、許しを貰えるのを待つ。
「悟よ、あい分かった。儂らの時間、おぬしにやろう」
「ありがとうございます!」
一度天目一箇神の顔を見て、いっそう深く頭を下げる悟。そんな彼を二人の優しげな光が見つめている。
またカッカと笑った天目一箇神は、たかだかひと瞬き程度の時間だと言って、悟に顔を上げさせた。
あたりはいっそう暗くなってきた。灯籠のオレンジ色の明かりに照らされる天目一箇神の住まいから商店街の方を見下ろすと、いくつもの同じ色の光が見えて、美しい。あのどれかが、この数日で美子と共に触れあった妖たちの光なのだろう。彼らが教えてくれた、たくさんの見え方を、悟は胸の内で思い出す。
その明かりの中に、ひときわ強くて、こちらに向かって動いているものがあった。おそらくはあれが顕仁一行の、美子の光なのだと気がついて、悟の喉が鳴る。もうすぐ、美子がここに来る。一度落ち着いてきていたはずの緊張が再燃して、鼓動の煩くなるのを感じた。
翌朝になって、太陽が地平線から顔を出す。その光はいつものように高窓から差し込んで、静かに眠る悟の顔を照らした。遅れて飛び込んできた朝の風は、その彼を夢の中から連れ出す。杏士朗もちょうど起きたようで、隣からごそごそと音が聞こえた。今日は、誰かが訪ねてくるような予定は無い。
「おはよう」
「ああ」
土間に降りて、朝餉の用意を始める。その途中で一度、悟は玄関を開け放った。
いつものように吹き込んでくる風は、出風の郷の名にふさわしい、清らかで心地よいもの。その風に乗ってくるのは、もう半分ほど散ってしまった桜の花びらだ。その香りの混じった空気を、彼は肺一杯に吸い込んで、吐いた。
朝食は、いつもの汁にご飯、それから、ほうれん草入りの卵焼きだ。形はやはり少し不格好だが、焦しはしなかった。
「父さん、俺、決めたよ。美子を、助ける」
「そうか」
責めないと言った言葉通りなのか、杏士朗は良いとも悪いとも言わない。ただ、口角を静かに上げる。
「そのために人の世界に戻らないといけないけど、休みの日とかにまた遊びに来るから」
「ああ、待っている」
切れ長の目が細められた。その温もりがいつもは悟を気恥ずかしくさせるのだが、今日は、まっすぐと見返して頷けた。
「それでさ、お願いがあるんだ」
こればかりは拒否されるかもしれないと思っていた。しかし、意識の落ちるまでの間ずっと考えていたが、美子のいる場で、珠祢と会って話をするならその時が一番確実だとしか思えなかった。
「今夜の、顕仁様との宴に連れて行ってほしい。美子のお祖母さんを、直接説得したいんだ」
「分かっていると思うが、化日の長は郷の重鎮だ。機嫌を損ねれば、この郷には来づらくなるかもしれないぞ」
「うん、分かってる」
美子への妖達の態度でもなんとなく察していた。この郷で化日の家は、かなりの大家だ。もしかしたら妖の世界全体でも名のある家なのかもしれない。それでも、美子のために必要なことだ。
「もし失敗したら、父さんが会いに来て。今度は、起きてるときに」
「……そうだな。そうしよう」
くすりと笑う杏士朗に、悟も同じ笑みを返した。
予定の時間までは、極力普段通りに過ごした。妖術の練習をし、食事の時間になれば二人で煮炊きをする。その間に明るい妖狐の声が聞こえることは当然ない。
本当のところを言えば、天目一箇神や顕仁がそういう反応を示すかも不安ではあった。重鎮という意味では、そちらの方が一妖に過ぎない化日の家よりもずっと上だからだ。
しかし杏士朗はそちらに言及しなかった。つまりは、心配する必要が無いということだろう。
ならば、考えるべきは、美子の祖母である珠祢をどうやって説得するかだ。
悟はこの数日で会った妖たちのことを思い出す。
見かけが怖いだけで、実は子供好きだった鎧武者のような付喪神。雑貨屋を営む雪女。カフェを経営する西洋貴族然とした猫又男爵。美しい舞で人や妖をおびき寄せて喰らう月面蝶。人には恐ろしい性質だが、人となりは良いという読ませ鬼。妖すら化かして遊ぶ化け狸。どうしてか人や妖を転ばせ、切りつけては薬で治す鎌鼬。子供を危ないところに近づけさせないために恐ろしい化け物のフリをしていた山姥。
色んな妖がいた。その多くが、一見するだけでは分からない、別の一面を持っていた。表と内とで取り繕っているわけではなく、一つの事柄を別の角度から見ただけのものもあった。
――美子のお祖母さんも、そうな気がする……。
気がする、だけだ。
珠祢の思いとはなんだろうか。杏士朗は、どうしてわざわざ、悟たちのそれと一緒に並べて言ったのだろうか。
杏士朗の後悔を、もう一度思い出す。杏士朗は、自分の行いが悟のためだと思って、悟たちの思いをないがしろにしてしまった。彼の話に出てきた悟の思いと、愛理の思い。これが今回でいう、悟と美子の思いだとしたら、珠祢の思いにあたるのは、杏士朗の思いなのだろうか……。
「あ、そういうことか……」
分かった気がした。だとしたら、やはり、しっかり話し合わなければならない。
どんな筋道で伝えるべきかなんて悟には分からない。だから、言うべきことだけ考えて、あとは思いの丈をぶつけよう。そう決めた。
決めたは良いが、昼時が過ぎて、茶の時間を越えても、悟は落ち着けない。無理もない話だ。彼もこれから高校二年生になろうとしている年齢でしかない。その年で、神の前、千年生きるらしい妖の老獪を相手にしてその思いを押し通さなければならないのだ。
それでも時間は過ぎていって、そしてとうとう、出発の時となった。
太陽が西の空に沈む、いつもであれば美子との別れの時間。雁がブイの字になって跳び、カラスが寂しく鳴いて、春の虫たちが歌い始めるころ。これから、すれ違う相手の顔も見えない、茜色に染まった黄昏の郷を通って、美子に会いに行く。
「行くぞ」
「うん」
杏士朗が紋入りの狩衣に打ち刀を差し、玄関に立つ。悟も、同じように神主のような格好をして、履き慣れない草履に足を通した。ただし彼の腰には刀はなく、丸腰状態だ。
二人は揃って、天目一箇神のいる中央へ行くため、商店街の方へ出る。顕仁が来るというのはそれだけで祭りのようなものなのか、各店の軒先に灯籠飾りが増え、人気の意味でも悟の知っているよりずっと賑わっていた。
「大丈夫か」
「う、うん」
隠しきれない緊張は、覚である杏士朗でなくても見て取れただろう。実際にすれ違う妖の一部からねぎらいや励ましの声がかけられた程だ。その格好や杏士朗と連れ立っていることから、天目一箇神と顕仁の酒宴に参加するのだろうと察した上でのかけ声だが、緊張の理由が実は、神との同席ではないとは思うまい。
妖たちの間を縫いながら、天目一箇神のいる山の麓まできた。出風神社と同じ造りの石段を登り切れば、そこが目的地だ。
左右に並んだ灯籠は、今日はもう点いている。既にずいぶんと薄暗くなってはいるが、視界の悪さから足を踏む外す心配は少ない。ただ、心の問題による事故は十分にあり得た。
「もうそろそろ顕仁様が入り口から入ってくる。気圧されるなよ」
気圧される、とはどういう意味か。その問いを口にするよりも早く、身を以て答えを知った。
突然、凄まじい威圧感を伴った気配が現れた。出風神社に繋がる入り口の方だ。ここまでずいぶんと離れているはずなのに、抜き身の刀を喉に突きつけられているような心地がして身がすくんでしまう。まだ妖力を感じ取れるようになったばかりの悟がこれに気圧されるなという方が無理な話だ。
フラついた彼の背中を杏士朗がそっと支えてやる。
「まったく、あのクソ親父は……」
これが神の気配なのだろう。ではどうして、天目一箇神の気配の影響を受けないのか。初めて会ったときは妖力を感じられなかったから? ずっとその気配の傍にいて麻痺してしまっているから? そうではない。天目一箇神が、自らの気配を抑えているのだ。
この気配の中で、美子のお祖母さんを説得しなければいけないのか。自分の考えが浅はかだったように思えて、悟は少しばかりの後悔を覚える。しかしそれは杞憂だった。
どうにか慣れなければ、と藻掻いていると、不意に威圧感が消えた。どうしたことだろう、と杏士朗を見れば、彼は呆れたような溜め息を吐く。
「顕仁様は、毎回毎回自身の気配を抑え忘れるのだ」
少しばかり恨みがましい色が声に混ざっていたのは、悟の気のせいではないだろう。なるほど、クソ親父かもしれない、と父に内心で同意した。
石段を登り切り鳥居をくぐると、覚えのある石畳の広場に出る。周囲にいくらかの桜の木の植えられた、境内のようにも見えるそこは、しかし以前と違って赤い敷物で覆われていた。いくつか座椅子のようなものも置かれているから、酒宴の席として用意されたのだろう。
その奥に淡く光る、巨大な白龍神の姿があった、やや厳めしい龍の顔で、目は一つ、濡れ羽色の大きな龍眼がその額に収まっている。艶やかな鬣は青みがかった銀色で、純白の鱗とあわせて、やはりこの世のものとは思えないほど美しい。この郷の主、天目一箇神だ。
「おお、悟も来たか。顕仁のやつも喜ぶ」
「あまり喜ばれても困るのですが」
「はっはっは、そう言うてやるな。あやつからすれば、孫のようなものだからな」
杏士朗と親しげに話す天目一箇神以外にはまだ、妖の姿は見えない。他に出席するのは化日の二人と、顕仁の従者だけとは聞いていたが、美子たちの姿も見えないのはどういうことだろうかと首を傾げた。
「言っていなかったな。化日の長達は顕仁様の出迎えに行っている」
つまり、まだ心の準備をする時間があるということだ。悟は大きく深呼吸をして、天目一箇神に向き直る。彼に何も言わすに事を起こすわけにはいかない。
「長老様、今日は、突然来たのにありがとうございます」
「良い良い。杏士朗の子ならば儂も歓迎だ」
カッカと笑う姿は孫と話す好々爺のようだ。この神と話していると、どうしてか悟の緊張もいくらかマシになった。
だが問題はここからだ。珠祢を説得する方法ばかり考えていたせいで、この龍神にどう切り出すべきかは考えていなかった。ストレートに言うべきだろうか。そうやって思案していたのは、数秒もなかっただろう。彼の答えを出す前に、天目一箇神が口を開く。
「しかし、悟よ。なにやら企んでおるようだな」
「えっと、はい」
悟が一瞬杏士朗の方を見ると、首肯が返ってくる。怒られるわけではないのだろうと安心して、ほっと息を吐いた。
話してみよ、と言われたが、どこから話すべきか悟には分からない。だから、最初から話すことにした。
「……美子が、お祖母さんと喧嘩したらしいんです。もう人の世には関わるな、って言われたとかで」
「ふぅむ。たしかに珠祢のやつは時折そんな愚痴を零しておったな」
天目一箇神は五本指の手を顎の辺りに当て、中空に視線を向けて唸る。
「でも、美子は人の世で暮したいらしくて、泣いてて、俺も苦しくして……」
なかなか上手く説明できない悟の言葉に、天目一箇神は静かに耳を傾ける。深く落ち着いた瞳は、やはり悟を落ち着かせた。
「でも、美子のお祖母さんも、きっと美子のためだと思って言ってるんです。だから、直接会って、説得したい、です。美子の気持ちを、ちゃんと、知ってほしいんです」
美子が珠祢の内心に気がついているかは、悟には分からない。ただ、二人はもう一度、しっかり話し合わないと駄目だと思った。それも二人だけではない場所で。そうでないと、自分や母と父のように何年もすれ違って、重ねられたはずの時間を重ねられなくなってしまうかもしれない。溝が出来てしまうかもしれない。
それで苦しむ美子を、悟は見たくない。
「だから、お願いします。宴の時間を少しだけ、俺にください!」
天目一箇神は、深く頭を下げた悟をじっと見ていたかと思うと、不意に杏士朗へ視線を移した。駄目だろうかと不安になった悟の耳に届いたのは、静かで、優しげな声だった。
「良い子に育ったではないか。まっすぐで、心の優しい子だ。間違いなく、おぬしらの子だ」
「ええ、俺も、そう思います」
耳の赤くなってしまう会話が聞こえてくるが、悟は顔を上げていいのか分からない。ただ、じっと真っ赤な布地を見つめて、許しを貰えるのを待つ。
「悟よ、あい分かった。儂らの時間、おぬしにやろう」
「ありがとうございます!」
一度天目一箇神の顔を見て、いっそう深く頭を下げる悟。そんな彼を二人の優しげな光が見つめている。
またカッカと笑った天目一箇神は、たかだかひと瞬き程度の時間だと言って、悟に顔を上げさせた。
あたりはいっそう暗くなってきた。灯籠のオレンジ色の明かりに照らされる天目一箇神の住まいから商店街の方を見下ろすと、いくつもの同じ色の光が見えて、美しい。あのどれかが、この数日で美子と共に触れあった妖たちの光なのだろう。彼らが教えてくれた、たくさんの見え方を、悟は胸の内で思い出す。
その明かりの中に、ひときわ強くて、こちらに向かって動いているものがあった。おそらくはあれが顕仁一行の、美子の光なのだと気がついて、悟の喉が鳴る。もうすぐ、美子がここに来る。一度落ち着いてきていたはずの緊張が再燃して、鼓動の煩くなるのを感じた。



