眉を八の字に曲げながら笑みを作る彼女は、まだ目尻に涙を溜めたままだ。
 その言葉がどれほどの思いで発せられたものなのか、悟には図れない。ただ、悟が人の世よりも妖の世の方が良いかもしれないと思っているのを知った上で言っているのだ。美子がそれほどに追い詰められているのは、手に取るように分かった。
 分かっていたのに、それが美子の、精一杯の弱音だと分かったのに、悟は返事ができない。音にならない声ばかりが喉から漏れて、うん、という二文字すら言の葉にできない。

 美子の顔がまた髪に隠れた。その先の瞳がどんな色を宿しているのか、悟は知りたくなかった。

「……さようなら」

 なんの感情も乗らない言葉と共に美子は立ち上がって、店を出る。その後を追いかけることも、悟にはできない。彼女の姿が扉の先に消えるのを、ただ黙って見ていることしかできなかった。

 悟が店を出たころには、すっかりすれ違う人の顔も分からないほどになっていた。入り口の扉を閉める直前、悟の分しかお題を受け取らなかった入道にお辞儀をして帰路に着く。しかしその足には罪人に付けられるような重り付きの枷を嵌められているようで、なかなか前に進んでくれない。道行く妖達もそんな彼へ大丈夫か、どうしたのかと声をかけてくれるが、返事をする余裕は無い。視界にかかった靄が邪魔をして、自分が今どこを歩いているのかも朧気だ。
 いったいどんな道を通って帰ったのか。星の瞬く頃になってようやく、悟は杏士朗の家に辿り着いた。

「遅かった――夕食はできてる。食べると良い」

 こういうとき、覚の能力を持った相手は楽だ。言葉にしたくないことを、形にしないまま留めておける。
 この家に来て初めて、ほとんど一切の音が無い夕餉だった。なんの味もしない、生ぬるい食事を、機械のように胃袋へ収める。共に食卓を囲む杏士朗も一言すら発せず、時折食器を机に置く音が響くのみだった。

 互いに無言のまま食器を片付け、入浴も済ませる。悟はその間ずっと、そば屋でのことを考えていた。

「ねえ、父さん」

 布団の上で膝を抱えたまま、壁にもたれて座る杏士朗にぼそりと呟く。

「俺さ、めちゃくちゃ酷いことしちゃったんだ」

 杏士朗は何も言わない。心を読んで、悟の言いたい内容をもう知っているだろうに、ただ黙ってその告白を聞く。

「心を読まなくてもどうしてほしいか分かったのに、そうしてあげられなかった。うん、って一言言えばいいだけだったのに、できなかったんだ」

 その懺悔を聞くのは、もう全てを知っている杏士朗と、静かな月ばかり。その静寂に、悟は甘える。

「でも俺、やっぱり妖の世界の方が良くて、人の世界に戻りたくなくて、それでも美子が泣いてるのは見たくなくて、笑っていてほしくて……」

 半ば支離滅裂になりつつあった。自分でそれは分かっていた。しかし上手く纏められない。滅茶苦茶に乱れた言葉を、思いのままに吐き出すことしかできない。
 悟は顔を膝に埋める。

「俺、どうしたら良かったんだろう。何が正解だったんだろう。……もう、分かんないよ」

 顔を埋めた膝が、濡れるのを感じた。どうして自分はこんなに情けないのか。父のように、強くないのか。考えれば考えるほどに深みにはまっていく感覚がして、でもやはり、どうしたら良いのか分からなくて。藻掻こうにも沈むのが怖くて藻掻けない。
 いっそ、自分以外の誰かが美子を助けてくれたなら。そう願ってしまう。美子が求めたのは、悟の手だと分かっているのに。

 いつの間にか月は雲に隠れてしまっていて、何も見えない。真っ暗で、恐ろしい。そのまま闇に溶けて消えてしまうのではないだろうか。あり得ない妄想が、悪夢が彼の感覚を支配する。

「正解なんてものがあるのかは知らないが――」

 それまでずっと黙っていた杏士朗が不意に口を開いた。

「俺には一つ、間違っていたんじゃないかと、後悔していることがある」
「え……?」

 意外だった。杏士朗は強くて、出風(いずかぜ)の郷の妖たちにも慕われていて、尊敬できて、何一つ間違うことのない完璧な妖に思えていた。それなのに、後悔していること。悟には見当も付かない。

「悟、お前のことだ」

 俺のこと……、という呟きは、暗闇に紛れて消える。

「お前が生まれたとき、妖と人、どちらとして育てるか迷った。どちらがお前にとって、良い道なのだろうか。考えても考えても分からず、けっきょく、人として育てたいと願った愛理に従った」

 それは以前、初めて会ったときに軽く聞いていたことだ。

「愛理は家族三人で暮したがっていたが、人として育てるなら妖の俺は側に居ない方がいい。そう思って俺は、一人、この郷に戻った」

 それが悟のため、愛理の願いのため。そう思っていたと、杏士朗は言う。

「だがそれは、俺の思い込みだった。(サトリ)という心を読む妖でありながら、お前たちの思いを、一切見ていなかった」

 いつの間にか雲は切れ間を作っており、月明かりが漏れる。その光は、高窓を見上げた杏士朗の顔を寂しげに照らした。

「もし、あの時、三人で暮すことを選んでいたなら。お前はこれほどに悩むことが無かったかもしれないし、愛理も、こんなに早く死んでしまわなかったかもしれない。たらればの話でしかないが、この二年、お前を遠くから見守るなかで、ずっと考えていた」

 思い出したのは、時折開けた覚えのないのに風を招き入れていた窓だ。出風の郷に来た日の前の晩も、たしかそうだった。その時部屋に残っていた桜の花びらはもしや、この家の前にある木のものだろうか。
 ずっと見守ってくれていた。それだけで少し、心が軽くなる。

 一瞬言葉が途切れた。青白い光の中、杏士朗はその白銀の頭をかいていて、言葉を選んでいるようだった。

「だから、その、なんだ。正解は分からないが、お前達の思いを無視してしまったことだけは、間違いだったかもしれない。そう思っている」

 以前杏士朗が言った、()()()()()()()()()()()()()()という言葉。これはもしかしたら、彼自身が、自分を戒めた言葉だったのかもしれない。

「悟、お前がどんな選択をしようと、俺は責めない。だが、自分の願いと、化日の娘の思い、そして、化日の長の思い。その全てと向き合うことを忘れるな」

 杏士朗はそれだけ言うと布団に入って目を閉じる。彼の伝えたいことは、伝え終わったらしい。
 悟も一度布団に入って、考える。自分の願いと美子の思い、そして美子のお祖母さんの思い。その全てと向き合えとは、どういうことだろうか。分かっているつもりだったが、何か見えなくなっていることがあったのだろうか。その何かに、覚である父は気がついたのだろうか。
 ――俺の願い、か……。

 悟の願いは、人の世を捨て、妖の世で生きたいというもの、のはずだ。
 ――……本当に?

 真っ暗な天井を見上げながら、もう一度整理してみる。
 妖の世で生きたいのはどうしてだ。人の世を捨てたいのは、どうしてだ。

 妖の世で生きたいのは、悟を疎ましく思っている人、伯母や伯父がいなくて、父杏士朗と、唯一で特別な友人、美子がいるからだ。人の心が読める故の疎外感も、彼らがいるならどこだろうと感じない。

 人の世を捨てたいのは、人間は嘘つきばかりだからだ。人の心を読めるのは異端で、排除されるからだ。居場所が無いからだ。
 本当にそうだろうか?

 思い返してみると、嘘つきだと思っていた心の声の数々は、違う見方がある気がしてくる。伯母や伯父は、本当に自分を疎ましく思っていたか、自信がなくなる。
 居場所が無いと思っていたのも、勘違いだったのではないだろうか。少なくとも、一緒に下校した同級生達は、悟のことを友人だと思っていたはずだ。良いところも悪いところも、知らない部分も含めて悟を認識して、受け入れていたはずだ。それは、居場所ではなかったのだろうか。
 考えれば考えるほどに悟は、自分が何か勘違いをしていたような気がしてくる。妖の世のことどころではない。人の世のことも、何も知らないままだったのかもしれない。

 あの時、そば屋で躊躇してしまった理由の全てが、虚像、悟の思い込みの産物でしかなかったなら、なんと間抜けで、愚かなことだろうか。

 認めたくない気もする。しかし、認めなければ前に進めない。自分は、どうしようもない馬鹿野郎だと。

 目を瞑り、思い出す。美子と出会ったときから、今日までを。月明かりの中、彼女が悟の手を取り、出風の郷に導いてからの日々を。

 鎧武者のおもちゃ屋で独楽を手に、子供のように笑う美子。雪菜の雑貨屋で悟の小物を選びながら、彼にかんざしを挿そうとする美子。チラチラと可愛らしいぬいぐるみや櫛に視線を向けながら、悟には気付かれていないと思っている美子。猫又男爵のカフェで妖について教えてくれたり、大きなパフェをペロリと平らげたりしていた美子。夕日を受けながら、楽しかったと眩しい笑みを浮かべる美子。
 まだまだ思い出せる。
 森で悪戯狸たちを叱る美子に、鎌鼬に転ばせられて怒る美子。山姥に怯える悟を笑う美子。可愛いと言われて照れる美子。自慢げに料理を披露して、褒められたらやはり照れる美子。次は行きつけの店に連れて行ってあげると、楽しそうな美子。

 出風の郷にいたのはたった三日と少しだったのに、いくつもの彼女の眩しい姿が瞼の裏に蘇る。それなのに、次に浮かんだのは、取り繕ったぎこちない笑みで迎えに来た彼女だ。眩しさの欠片も無い、見る影も無い沈んだ表情で悟を案内し、泣きそうな顔で弱音を吐いて、涙をぽろぽろと流す美子の姿に、悟の胸は、また締め付けられる。
 最後に向けられた弱々しい笑みは今でも眼に、記憶に、はっきりと焼き付いていて、消えてくれない。色の無い声で()()()()()と言った彼女は、忘れたくても忘れられない。

 悟の願いは、何かを変えること。嘘だらけの人間関係を変えること。それは、この郷に来た時点で、殆ど叶った。もしかしたら、人の世の関係も、今なら違って見えるかもしれない。そうでなくてもこの郷に逃げ込むことはできるし、あとは美子がいれば、十分だ。

 美子の願いは、人の世で今まで通り暮すこと。父が居て、母が居て、学校の友人がいて、時々郷へ祖母たちに会いに行けて。そこに同じ半妖の悟もいたら、なお良い。その二つのどこにぶつかる部分があるというのか。
 ならば残るは、化日の長、美子の祖母の思いだ。彼女とは話したことがないに等しい。そんな相手のことを考えろと言われても、難しい。どうして美子に妖として生きてほしいのか、分からない。
 ――でも、やることは決まった。