――ちょっと、高い……。
この後行く店の昼食代は残しておかなければならないが、そうすると、少しだけ予算オーバーだ。杏士朗に言えばまた貰えるのだろうが、それは、少し甘えすぎな気がした。
「もしかして、予算越えてた?」
よく分かるものだな、と思いながら頷く。櫛だけでも良いのだが、見ている時間で言えば、こちらのぬいぐるみの方が長かった。
うなり声を上げる悟へ、雪菜は少し待っていてと言ってどこかへ行く。戻ってきた彼女の手には、同じデザインの小さなぬいぐるみがあって、キーホルダーになっているようだった。手触りも、だいたい同じだ。
「これならそのぬいぐるみの半額なんだけど、どう?」
元のぬいぐるみとキーホルダーになっている方を見比べる。
「……それじゃあ、そのキーホルダーの方で」
「お買い上げ、ありがとうございまーす。それじゃあ、あっちで包んであげる」
思ったより時間がかかってしまったが、良い買い物をした。これを渡したら、美子は喜んでくれるだろうか。あの様子なら、きっと喜んでくれる。悟はその光景を思い浮かべながら、したり顔で店を出た。
帰宅したあとは、外行きに着替えた上で杏士朗に覚としての力の使い方も軽く教わった。そうしているうちに美子も迎えに来るだろうと思ってのことだ。しかし、一向にその気配がない。
何かあったのだろうか、と心配になりはしたが、ここで動いてすれ違っても大変だ。とりあえずと袂落としを首からかけて、すぐに出られるようにだけしておく。今日の悟は、杏士朗から藤の装飾の入った着流しを借りていた。
昼食時になって、さらにおやつ時を目前としても彼女は来ない。道ばたの木が作る影はどんどん長くなっており、このままでは夕餉の時間になってしまいそうだった。
やはり何かあったのではないか。まさか、約束を忘れている? 嫌われてしまうようなことをした? 悟の思考は、どんどん後ろ向きに進む。せっかく付いてきた自信が、時の経つほどに剥がれ落ちていくようだった。
ドンドンドン、と不意に玄関を叩く音があった。
「ごめん、悟、いる!?」
弾かれたように立ち上がって、悟は扉を開ける。そこには、赤色の華やかな着物を着た美子がいた。しかし息は上がっており、額には少しばかり汗も浮いていて明らかに様子がおかしい。
「遅くなっちゃった。ごめん」
「いや、大丈夫。……何かあったの?」
美子の視線が泳いだ。
「なんにもないよ。ちょっと準備に手間取っちゃっただけ」
本当に、嘘が下手だ。
しかし彼女はどうやっても本当のことを言うつもりがないらしい。仕方なく、悟は何も気がつかなかったフリをした。
移動中も美子はぎこちない。いつものように振る舞おうとしているのは分かったが、いかんせん、彼女は正直すぎた。ただ、その原因が自分にあるのだとしたらと考えてしまって、悟は踏み込めない。心を読めたならと、また思ってしまう。
けっきょく目的の店につくまで、悟もいつも通りを装うことしかできなかった。
美子が案内してくれたのは、座敷童と入道という坊主頭の妖がやっているらしいそば屋さんだった。意外に渋い行きつけで、悟は一瞬、美子の違和感を忘れてしまう。
「ここの天ぷらと抹茶プリンが美味しいの!」
また、歪んだ笑顔だ。
「へぇ、それは楽しみ」
それでも踏み込めない。彼女は、誤魔化せていると思っているのだろう。覚の力を隠すために、そう思わせられる程度には演技力を悟は身につけていた。
「ああ美子嬢、いらっしゃ、い……?」
「おじさん、奥の部屋、使っていい?」
「あ、ああ。大丈夫だぜ!」
店内は人の世のそば屋さんでもよくありそうな雰囲気で、落ち着いた色調の机や椅子が並んでいた。時間が中途半端だからか店内に妖の姿はなく、坊主頭の入道が一人、白い料理人服を着て、蕎麦を打っている。その彼から、美子についていく途中で手招きをされた。
「坊主、杏士朗さんとこの坊主だよな? 美子嬢のやつ、いったいどうしたんだ?」
「そ、それが、教えてくれなくて……」
「ふぅむ……。まあ、坊主に任せた方が良さそうだ。奥の部屋は自由に使ってかまわねぇからよ、元気づけてやってくんな」
そう言われても、悟にできるかは分からない。不安しかない。ただ、美子のようにぎこちなく頷くのが精一杯だった。
不審がられる前にと少し急いで、奥の半個室に入る。なにかの妖術がかけられているのが今の悟には分かった。おそらく防音だろう。
「何食べたい? 私はもう決まってるから、選んでいいよ」
「えっと、それじゃぁ……」
メニューと美子の顔をチラチラ見比べる。やはり無理をしているように見えて、これでは、せっかく準備してきた物も渡せそうにない。
ひとまず注文を済ませると、不意に美子が表情を曇らせた。
「悟はさ、こっちの方がいいんだよね」
こっち、というのが何を指すのか、一瞬分からなかった。
「妖の世のこと?」
「うん」
「それは、うん、一応……」
なんでそんなことを聞かれたのか、必死に頭を回転させて考える。しかし分からない。
「私はさ、向こうで部活にも入ってて、仲がいい友達も何人かいて、お父さんもいる。だから本当は、人間として暮したいの」
何が言いたいのか、分かった気がした。そのタイミングでちょうど料理が運ばれてきて、一瞬、会話が途切れる。
「どう? 美味しそうでしょう? 写真は撮らなくて大丈夫?」
「えっ、そう、だね。撮っておこうか」
今までこんな確認をされたことがあっただろうか。記憶を辿ってみるが、思い当たらない。不思議に思って彼女を見れば、珍しく、料理に向かってスマホを構えているのが目に入った。
「いただきます。ほら、悟も食べて。本当に美味しいから!」
美子は、先程の続きを言うつもりが無いらしい。悟は天ぷら蕎麦を口に運びながら、どうすべきか思案する。踏み込んで、悟から聞くべきか、否か。せっかく美味しいと美子が連れてきてくれたのに、味も分からない。
彼女は一見美味しそうに蕎麦を頬張っているように見えるが、やはり顔には影が差して見える。
少し視線を外すと、入道と目が合った。握りこぶしを作って小さく腕を振っているのは、悟を応援しているらしい。
――元気づけてやってくんな、か。
悟は残った蕎麦を一気にかきこんで、深呼吸をする。美子が呆気にとられているが、もう関係ない。
「ねえ、美子」
声が震えそうだった。机の下で拳を強く握る。
「お祖母さんに、何か言われた?」
ほんの少しつり上がった大きな目が、いっそう大きく見開かれた。明るい茶色の瞳が揺らめいて、それから悟の真っ黒な目を見つめかえす。
「どう、して……?」
「そりゃ、分かるよ。心が読めなくても、それくらいは」
美子の目は何を見て良いのか分からないとでも言うようにあちらこちらへ彷徨って、下へ逃げる。机の下で彼女が着物を握りしめたのが分かった。
しばらく、沈黙が続いた。やがて意を決したのか、下を向いたまま、美子はゆっくりと口を開く。
「もう、人の世には関わるなって。こっちでずっと、暮らしなさいって。そう、言われたの」
やっぱり、というのが悟の感想だった。
「学校にももう行ってはいけない。あっちでの生活は忘れろ。できないなら、お父さんに会うのも禁止だ、って……」
美子の声が震える。金の前髪の隙間で光るものも見えた。まだ零れてはいないが、ハンカチの一つも渡せない自分に、悟は情けなくなる。
「あの日、初めてこの郷に連れてきたときに、悟を見て決めたって言ってた。それで、喧嘩しちゃって……」
それはつまり、悟のせいだった。悟が人の世から逃げようとしていたから。悟が不安ばかり抱えて、おどおどとしてしまったから。そうと気がついて、愕然とした。
いや、珠祢は悟を否定しているわけではないだろう。悟に会うなと言われたわけではないのだから。むしろ、悟を哀れんだが故の結論なのだと、分かってしまった。
あまりに情けなくて、胸が苦しくなる。どうして自分は、心が読めないというだけで、これほど自信を持てなくなってしまうのか。
覚にとって心が読めないのは、人間が言葉を話さないままに互いの意図を理解しろと言われているに等しい状態だ。それがまだ、悟には分からない。自信を失って当然だと思うことはできない。
しかも今はそのせいで、美子が望まない道に進まされようとしているのだ。なおさら、自分を責めてしまう。
「お母さんは、たぶん、お父さんのところに残ると思う。だから、もしおばあ様の言うとおりにしたら、お母さんにもなかなか会えなくなっちゃう。学校の皆にはもう二度と会えない。そんなの、嫌……!」
美子の内からあふれ出したのは、心ばかりではない。髪の向こうに溜まっていた光が、涙が、その眼からに収まりきらなくなって零れ出す。それは真っ赤な着物を濃く、まるで血の滴りのように染めていった。
そんな姿を見ても、そんな姿を見たからこそ、悟は、何も言えない。なんと声をかければ良いか分からない。入道に言われたように、元気づけることができない。
口を開けはしても何も喋ろうとしない彼を見て、美子は、自嘲気味に笑った。
「おばあ様は、私に化日の長を継いでほしいの。私の気持ちなんて、なんにも考えてないのかもしれない。考えてても、家を存続させる方が大事なんでしょうねっ!」
そんなことはない、なんて無責任なことは、言えなかった。
再び沈黙が訪れた。気がつけば天ぷらも白い湯気を上げなくなっており、誤魔化すように口をつけた茶もすっかり冷めてしまっていた。
「ねえ、悟」
先に口を開いたのは、美子だった。つい先程の荒ぶった声とは正反対の、沈みきった、静かな声だ。弱々しい、今にも消え入りそうな声だ。
「私と一緒に、人の世に逃げてくれない……?」
この後行く店の昼食代は残しておかなければならないが、そうすると、少しだけ予算オーバーだ。杏士朗に言えばまた貰えるのだろうが、それは、少し甘えすぎな気がした。
「もしかして、予算越えてた?」
よく分かるものだな、と思いながら頷く。櫛だけでも良いのだが、見ている時間で言えば、こちらのぬいぐるみの方が長かった。
うなり声を上げる悟へ、雪菜は少し待っていてと言ってどこかへ行く。戻ってきた彼女の手には、同じデザインの小さなぬいぐるみがあって、キーホルダーになっているようだった。手触りも、だいたい同じだ。
「これならそのぬいぐるみの半額なんだけど、どう?」
元のぬいぐるみとキーホルダーになっている方を見比べる。
「……それじゃあ、そのキーホルダーの方で」
「お買い上げ、ありがとうございまーす。それじゃあ、あっちで包んであげる」
思ったより時間がかかってしまったが、良い買い物をした。これを渡したら、美子は喜んでくれるだろうか。あの様子なら、きっと喜んでくれる。悟はその光景を思い浮かべながら、したり顔で店を出た。
帰宅したあとは、外行きに着替えた上で杏士朗に覚としての力の使い方も軽く教わった。そうしているうちに美子も迎えに来るだろうと思ってのことだ。しかし、一向にその気配がない。
何かあったのだろうか、と心配になりはしたが、ここで動いてすれ違っても大変だ。とりあえずと袂落としを首からかけて、すぐに出られるようにだけしておく。今日の悟は、杏士朗から藤の装飾の入った着流しを借りていた。
昼食時になって、さらにおやつ時を目前としても彼女は来ない。道ばたの木が作る影はどんどん長くなっており、このままでは夕餉の時間になってしまいそうだった。
やはり何かあったのではないか。まさか、約束を忘れている? 嫌われてしまうようなことをした? 悟の思考は、どんどん後ろ向きに進む。せっかく付いてきた自信が、時の経つほどに剥がれ落ちていくようだった。
ドンドンドン、と不意に玄関を叩く音があった。
「ごめん、悟、いる!?」
弾かれたように立ち上がって、悟は扉を開ける。そこには、赤色の華やかな着物を着た美子がいた。しかし息は上がっており、額には少しばかり汗も浮いていて明らかに様子がおかしい。
「遅くなっちゃった。ごめん」
「いや、大丈夫。……何かあったの?」
美子の視線が泳いだ。
「なんにもないよ。ちょっと準備に手間取っちゃっただけ」
本当に、嘘が下手だ。
しかし彼女はどうやっても本当のことを言うつもりがないらしい。仕方なく、悟は何も気がつかなかったフリをした。
移動中も美子はぎこちない。いつものように振る舞おうとしているのは分かったが、いかんせん、彼女は正直すぎた。ただ、その原因が自分にあるのだとしたらと考えてしまって、悟は踏み込めない。心を読めたならと、また思ってしまう。
けっきょく目的の店につくまで、悟もいつも通りを装うことしかできなかった。
美子が案内してくれたのは、座敷童と入道という坊主頭の妖がやっているらしいそば屋さんだった。意外に渋い行きつけで、悟は一瞬、美子の違和感を忘れてしまう。
「ここの天ぷらと抹茶プリンが美味しいの!」
また、歪んだ笑顔だ。
「へぇ、それは楽しみ」
それでも踏み込めない。彼女は、誤魔化せていると思っているのだろう。覚の力を隠すために、そう思わせられる程度には演技力を悟は身につけていた。
「ああ美子嬢、いらっしゃ、い……?」
「おじさん、奥の部屋、使っていい?」
「あ、ああ。大丈夫だぜ!」
店内は人の世のそば屋さんでもよくありそうな雰囲気で、落ち着いた色調の机や椅子が並んでいた。時間が中途半端だからか店内に妖の姿はなく、坊主頭の入道が一人、白い料理人服を着て、蕎麦を打っている。その彼から、美子についていく途中で手招きをされた。
「坊主、杏士朗さんとこの坊主だよな? 美子嬢のやつ、いったいどうしたんだ?」
「そ、それが、教えてくれなくて……」
「ふぅむ……。まあ、坊主に任せた方が良さそうだ。奥の部屋は自由に使ってかまわねぇからよ、元気づけてやってくんな」
そう言われても、悟にできるかは分からない。不安しかない。ただ、美子のようにぎこちなく頷くのが精一杯だった。
不審がられる前にと少し急いで、奥の半個室に入る。なにかの妖術がかけられているのが今の悟には分かった。おそらく防音だろう。
「何食べたい? 私はもう決まってるから、選んでいいよ」
「えっと、それじゃぁ……」
メニューと美子の顔をチラチラ見比べる。やはり無理をしているように見えて、これでは、せっかく準備してきた物も渡せそうにない。
ひとまず注文を済ませると、不意に美子が表情を曇らせた。
「悟はさ、こっちの方がいいんだよね」
こっち、というのが何を指すのか、一瞬分からなかった。
「妖の世のこと?」
「うん」
「それは、うん、一応……」
なんでそんなことを聞かれたのか、必死に頭を回転させて考える。しかし分からない。
「私はさ、向こうで部活にも入ってて、仲がいい友達も何人かいて、お父さんもいる。だから本当は、人間として暮したいの」
何が言いたいのか、分かった気がした。そのタイミングでちょうど料理が運ばれてきて、一瞬、会話が途切れる。
「どう? 美味しそうでしょう? 写真は撮らなくて大丈夫?」
「えっ、そう、だね。撮っておこうか」
今までこんな確認をされたことがあっただろうか。記憶を辿ってみるが、思い当たらない。不思議に思って彼女を見れば、珍しく、料理に向かってスマホを構えているのが目に入った。
「いただきます。ほら、悟も食べて。本当に美味しいから!」
美子は、先程の続きを言うつもりが無いらしい。悟は天ぷら蕎麦を口に運びながら、どうすべきか思案する。踏み込んで、悟から聞くべきか、否か。せっかく美味しいと美子が連れてきてくれたのに、味も分からない。
彼女は一見美味しそうに蕎麦を頬張っているように見えるが、やはり顔には影が差して見える。
少し視線を外すと、入道と目が合った。握りこぶしを作って小さく腕を振っているのは、悟を応援しているらしい。
――元気づけてやってくんな、か。
悟は残った蕎麦を一気にかきこんで、深呼吸をする。美子が呆気にとられているが、もう関係ない。
「ねえ、美子」
声が震えそうだった。机の下で拳を強く握る。
「お祖母さんに、何か言われた?」
ほんの少しつり上がった大きな目が、いっそう大きく見開かれた。明るい茶色の瞳が揺らめいて、それから悟の真っ黒な目を見つめかえす。
「どう、して……?」
「そりゃ、分かるよ。心が読めなくても、それくらいは」
美子の目は何を見て良いのか分からないとでも言うようにあちらこちらへ彷徨って、下へ逃げる。机の下で彼女が着物を握りしめたのが分かった。
しばらく、沈黙が続いた。やがて意を決したのか、下を向いたまま、美子はゆっくりと口を開く。
「もう、人の世には関わるなって。こっちでずっと、暮らしなさいって。そう、言われたの」
やっぱり、というのが悟の感想だった。
「学校にももう行ってはいけない。あっちでの生活は忘れろ。できないなら、お父さんに会うのも禁止だ、って……」
美子の声が震える。金の前髪の隙間で光るものも見えた。まだ零れてはいないが、ハンカチの一つも渡せない自分に、悟は情けなくなる。
「あの日、初めてこの郷に連れてきたときに、悟を見て決めたって言ってた。それで、喧嘩しちゃって……」
それはつまり、悟のせいだった。悟が人の世から逃げようとしていたから。悟が不安ばかり抱えて、おどおどとしてしまったから。そうと気がついて、愕然とした。
いや、珠祢は悟を否定しているわけではないだろう。悟に会うなと言われたわけではないのだから。むしろ、悟を哀れんだが故の結論なのだと、分かってしまった。
あまりに情けなくて、胸が苦しくなる。どうして自分は、心が読めないというだけで、これほど自信を持てなくなってしまうのか。
覚にとって心が読めないのは、人間が言葉を話さないままに互いの意図を理解しろと言われているに等しい状態だ。それがまだ、悟には分からない。自信を失って当然だと思うことはできない。
しかも今はそのせいで、美子が望まない道に進まされようとしているのだ。なおさら、自分を責めてしまう。
「お母さんは、たぶん、お父さんのところに残ると思う。だから、もしおばあ様の言うとおりにしたら、お母さんにもなかなか会えなくなっちゃう。学校の皆にはもう二度と会えない。そんなの、嫌……!」
美子の内からあふれ出したのは、心ばかりではない。髪の向こうに溜まっていた光が、涙が、その眼からに収まりきらなくなって零れ出す。それは真っ赤な着物を濃く、まるで血の滴りのように染めていった。
そんな姿を見ても、そんな姿を見たからこそ、悟は、何も言えない。なんと声をかければ良いか分からない。入道に言われたように、元気づけることができない。
口を開けはしても何も喋ろうとしない彼を見て、美子は、自嘲気味に笑った。
「おばあ様は、私に化日の長を継いでほしいの。私の気持ちなんて、なんにも考えてないのかもしれない。考えてても、家を存続させる方が大事なんでしょうねっ!」
そんなことはない、なんて無責任なことは、言えなかった。
再び沈黙が訪れた。気がつけば天ぷらも白い湯気を上げなくなっており、誤魔化すように口をつけた茶もすっかり冷めてしまっていた。
「ねえ、悟」
先に口を開いたのは、美子だった。つい先程の荒ぶった声とは正反対の、沈みきった、静かな声だ。弱々しい、今にも消え入りそうな声だ。
「私と一緒に、人の世に逃げてくれない……?」



