悟が金築夫妻の家に引き取られたのは、彼がまだ中学二年生の時だった。母、愛理が事故死したことが切っ掛けだ。元々体の強い母ではなかったが、これほど早く命を落とすとは誰も想像していなかった。
 悟の能力を知っていてなお、嫌な顔一つせず、目いっぱいの愛を注いでくれた母親だ。彼女のそばだけは居心地が良かったし、反抗することはあっても、嫌うことなんて一度もなかった。それなのに、中二の秋に(とわ)の別れを迎えてしまった。彼が人目もはばからず泣きじゃくったのは、言うまでもない。

 それからすぐ金築夫妻に引き取られて、二年半。母を失った傷はほとんど癒えたものの、新しい家には馴染めていない。彼の能力についても、母の言いつけの通り、誰にも言っていなかった。

 悟は肌寒さを覚えて目を覚ます。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。寝ぼけ眼を擦って体を起こすと、桜の花びらが頭から落ちてきた。近くに桜の木はないはずだが、どこからか飛んできたのだろうか。ふと見れば、窓が開いていた。
 ――あれ、開けたっけ……?

 記憶は朧気で、はっきりしない。とりあえず閉めて鍵をかけ、学ランを羽織る。外を見ると、今日はよく晴れているのか、妙に月明かりが明るい。
 ――散歩でもしようかな。

 まだギリギリ補導はされないだろう。ついでにコンビニに行ってチョコレートでも買ってくるのも良いかもしれない。
 寝間着代わりのジャージの上に薄手の上着を羽織って外へ出る。空には青白く大きな月があって、その傍らでたくさんの星々が瞬いていた。

 悟の住む家は住宅街の奥まったところにある。コンビニも遠くはない辺りではあるが、それなりの田舎だからか、この時間でも人通りはまったくない。静寂に包まれたこの時間の散歩が悟は嫌いではなかった。
 少し遠回りをして近所の公園の前を通ってみる。誰もいないだろうが、むしろその方が良い。しかし今夜に限っては、彼の目論見通りにはいかない。
 ――あれ? 誰かいる。

 月明かりばかりに照らされた公園の中に、一つだけ人影があった。あまり大きくはない。少女、悟と同じ高校生くらいだろうか。肩の少し下あたりまである後ろ髪が月光を反射しており、体型は細身だ。ブランコに立っているから身長はよく分からないが、平均とあまり変わらないように思える。
 ――可愛い人だな……。
 
 歩いている内にチラと見えた横顔はとても整っているようだった。暗さもあってはっきりは見えないが、それこそ人ではないかのような不思議な雰囲気を纏っているように感じた。
 とはいえ関わりの無い相手だ。悟はナンパをするような性格ではないし、そのまま忘れて通り過ぎようとする。
 ――ん? あれ?

 ふと違和感を覚えた。何に引っかかったのかは分からない。もう一度彼女の方を見てみるが、やはり変わったところはない。相変わらず静かな住宅外で、周囲の家の内からさえ人の声は聞こえない。
 ――そうだ、聞こえない。心の声が。

 遠すぎるわけではない。この位の距離ならいつもは聞こえる。これだけの時間何も言語化して考えていない、なんてことはないだろう。なら、どうしてか。彼はつい、その少女のことを凝視してしまう。
 徐に少女が振り向いた。ややつり上がった大きな目が悟を見返す。二重でまつげの長い、綺麗な目だ。瞳は明るい茶色だろうか。月明かりでははっきり分からない。人形のように整った顔で、強いて言えば可愛い系の美少女。彼女はその顔に不審げな色を浮かべていた。

「何?」
「あ、いや……」

 まさか君の心が読めなくて凝視していた、なんて言えない。言っても頭のおかしいヤツだと思われて終わりだ。
 どう答えたものかと思案していると、少女が首を傾げて近づいてくる。表情は、影になってしまって見えない。ただ心の読めない存在が近づいてくることが怖くて、悟は一歩だけ、後ずさった。

「あんた、うちの学校の……」

 手の届く距離に少女がいる。やはり心の声は聞こえない。じろじろと見られているようだが、心の声が聞こえないせいでどうして良いか分からない。悟はただ視線を彷徨わせ、口をパクパクとさせることしかできずにいた。

 少女はそんな悟の様子を気にも留めていないようだ。何やら鼻を鳴らしているのは分かったが、匂いを嗅がれているのだろうか。そんなことをされる意味が分からない。悟の胸中でますます恐怖が募る。